野口雨情年譜(詳細)
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万延元年(1860)3月3日、桜田門外の変、水戸浪士ら井伊大老の首をとる。
     8月、雨情の祖父西丸帯刀が主となって、水戸藩と長州藩の密約成破の盟を桂小五郎らと結ぶ。
文久 2年(1862)2月15日、水戸浪士ら西丸帯刀の指令により、坂下門外において老中安藤信正を襲撃する。
明治 2年(1869)3月、北海道の旧幕府軍を討つため西丸帯刀品川沖を出航。
明治 3年(1870)1月、西丸帯刀北海道天塩(てしお)国支配地民政主宰となる。西丸は明治5年6月一切の
     公職を辞す。
明治10年(1877)2月26日、画家飛田周山、北中郷村大塚に生まれる。
明治15年(1882)0歳 5月29日多賀郡北中郷村大字磯原103番地(現北茨城市)
     磯原町に父量平、母てるの長男として雨情生まれる。本名は英吉(えいきち)。
     3歳下に妹ひさ、9歳下に妹ちゑが生まれている。野口家は楠木氏の流れをくんだ家柄で明治維新
     当時は倒幕のため奔走した志士を出していて、佐幕派によって一命を失った人がいたことも知られて
     いる。水戸藩より下賜された広大な山林があり、量平はその管理にあたるとともに、明治30年初頭に
     常磐線が開通になるまで、手広く回漕業を営んでいた。隠厚篤実、人望が厚かった。
     9月柴田政次生まれる。北中郷村木皿(現北茨城市)
明治22年(1889)7歳、磯原字臼場の豊田尋常小学校磯原分校に入学。学歴に関する資料は現存しない。
     《このころより蓄音機が各地で公開される》
明治25年(1892)10歳 雨情の家の近くの天妃山の岩の一部に潮の侵食によってできた穴と、傍らに木橋が
     あって、そこに寄せる波、浪の高さ、低さによってリズムがさまざまにひびいていた。
     「波の音はいつもおなじようにきこえヤンスが、みんなちがいヤンス。太鼓尻は面白い音のするところで
     ヤンした。」少年のころ毎日のように謙吉とここで泳いだ思いでがある。《西条八十生まれる》
     2月、第2回総選挙で伯父野口勝一が衆議院議員選挙で当選。
明治26年(1893)11歳、豊田高等小学校に入学する。回覧雑誌『荒磯』に民謡体の詩「働け働け」を書く。
明治30年(1897)15歳 2月常磐線磯原駅開通。この頃、雑誌『文庫』に俳句を投稿。
     4月上京し、衆議院議員の伯父野口勝一(北厳)宅(小石川区掃除町33番地)に住む。
     神田区猿楽町(現千代田区)に住む。
     神田区猿楽町の東京数学院尋常中学校(順天中学校)に入学。伯父野口勝一の家より通学。
     《日本鉄道磐城線水戸―平間開通、磯原駅設置》
明治32年(1899)17歳 4月順天求合舎中学第3学年に編入される、同校を卒業したという記録は見当たらず、
     卒業した中学を特定することはできない。
     父量平北中郷村長となる。この頃より民謡体の詩を創作する。
明治33年(1900)18歳、1月 故郷の知人、渡辺源四郎宛葉書に初めて短歌を記す。
     (石盤で思わず涙ふきにけり今日故郷の元日ときき)
明治34年(1901)19歳、4月東京専門学校高等予科文学科(早稲田大学の前身)に入学する。同級に
     鈴木善太郎が同席し、親交を結ぶ。また、小川芋銭も知人となる。在学中に小川未明と一時下宿を
     共にするが、9日後に哲学課に転じた。
明治35年(1902)20歳 3月「流々吟」(「涙の痕」「隣の花嫁」の二篇から成る)を雑誌『小柴舟』に発表、
     詩壇に出る。4月、「沖の島根」を『小天地』に発表。
     5月17日付東京専門学校高等予科を中退。(在学中は内村鑑三や幸徳秋水らの思想にふれる)
     6月、「密漁船」を『小国民』に、「言はず語らず春の日を」を『婦人と子ども』に発表。さらに
     おとぎ話「白露物語」を『学報』に、短編小説「可憐死」を『女子の友』に発表。
     『婦人と子ども』にもおとぎ話「小蝶物語」等の連作の発表を開始する。
     『文庫』には烏城の俳号で俳句3句が掲載される。北海道に遊ぶ。(長島和太郎著)
     7月「村の平和」「砂金採」等発表。
明治36年(1903)21歳 春、『いはらき新聞』に詩を投稿、異色ある作風が認められ大家並に優遇発表される。
     6月父量平村長に再任する。9月〜11月「自由の指名者」「惰民を祝ふ」「惰眠の国の貧民よ」
     (この詩にのみ野口北洞の筆名を用いている)「神のめぐみ」を雑誌『社会主義』に発表。
明治37年(1904)22歳 1月父量平村長在職中に死亡する。1月29日から野口家の故郷磯原に帰り、
     父の借金整理に苦しむ。家督を継承するとともに、6月結婚の儀起こる。菊松断髪して決別を宣す。
     少年時代からの知友久木東海男主宰の『あけぼの』に詩作品を発表。
     2月栃木県塩谷郡喜連川町(現さくら市)の高塩家の娘ヒロ(15年5月15日生)と婚約。
     志賀文太の仲立ちによるといわれる。 
     《日露戦争勃発》(日本とロシアが満州、朝鮮の制覇を争った戦争)
明治38年(1905)23歳 詩人としての活動は休止することなく続けた。1月「鬼のお主」を常陽新聞に発表。
     2月「それはお無理と申もの」「金の逆鉾」を新聞『いはらき』に発表。
     3月詩集『枯草』を高木知新堂より自費出版、新体詩14篇と口語定型詩4篇を収める。
     同月栃木県の那須、喜連川を訪れる。同月「高砂の爺姐」、「幸なきお杉」喜連川漣光院を訪れた際に
     作った「梅のお寺」を『いはらき』に発表。
     5月「此日記」を『いはらき』に発表。同月高塩ヒロと結婚。婚姻届を提出。
     同月「野の誓」を月刊『スケッチ』に、「曇る瞳」を『毎日新聞』に発表。
     6月「鳩の夢」を『読売新聞』に、「蛇の夢」「雲雀の子」「瑠璃なす密」を『毎日新聞』に発表。
     7月「月の輪」を月刊『スイッチ』に、「誰が可愛」を『読売新聞』に発表。
     8月ヒロ(秋星)が、「天使の歌」を『いはらき』に発表。同月『いはらき』の
     「荊城文壇百人斬り(抄」)に茨城文学を担う人物として、小川芋銭らとともに雨情とヒロ「秋星」が
     紹介される。同月「毒蛇の子」を月刊『スイッチ』、「二つ島」「天妃山」を『葉書文学』、
     「浜辺の疑問」を『月刊時事絵葉書』に発表。
     9月ヒロ(秋星)が 『いはらき』の「いはらき文士風聞録」に紹介される。
     10月〜11月ヒロ(秋星)が俳句を『いはらき』に発表、11月東京小石川にて伯父野口勝一死亡。
     10月菊松二ツ島の海へ身を投ず。
     《ポーツマス条約》
明治39年(1906)24歳 1月エッセイ「二六字詩」を『しらぎく』に発表。「七七七五音」の俚謡の詩形を絶賛して
     いる。
     2月「戀の薬」を『ハガキ文学』に発表。従弟茂吉アメリカへ渡る。5月に財産競売され、一応蹴りが
     つくが細かい借金に追われ苦しむ。
     3月9日、長男雅夫出生。同月「ささのめ」「あはたたしげ」「まよはしもの」を『新小説』に発表。
     4月「われ故山を去る」の一文を残して生家を出る、栃木県の知人宅に仮住まいする。
     5月「さえずり」を『ハガキ文学』に、「その夜」を『天籟』を発表。
     6月「浮巣」を『女子文芸』に発表。
     7月「闇の戸」を『女子文芸』発表。
     ☆39年6月日露戦争の勝利により樺太の南半分が日本領になった。
     7月報知新聞樺太通信員として樺太に赴いた。しかし、漂白の思いを強く残し10月には、上京する。
     このような波乱の連続に、雨情は人間の心には純粋な感性や情感、すなわち童心のこころの
     大切さを強く意識したことであろう。(家運再興のため樺太へ渡ったという説もあるが、6月に戦争が
     終結したのに7月に商売が出来る状況にあるのだろうか、ましてや素人に近い野口雨情を考えると
     無理があるのではないだろうか。)夏には大泊、敦香、秋には安別に滞在する。
     8月「風は西吹く」を『ハガキ文学』に発表。
     9月「馬が嘶く」を『ホノホ』、「潮来乙鳥」を『女性文芸』に発表。
     10月「五十里」を『新古文林』に発表。11月「木瓜の花」を『ハガキ文学』に発表。
     詩人の夢捨て切れず同月樺太を離れ、上京して西大久保に住む。
明治40年(1907)25歳 1月〜3月月刊詩集『朝花夜花』第1編、第2編を自費出版、口語定型詩を収める。
     3月牛込の小川未明の家に住む。小川未明の紹介によって「早稲田詩社」の結成に加わり詩作品を
     『早稲田文学』に掲載。
     4月「山越唄」を『早稲田文学』、「流泊」を『健全』に発表。
     5月「村童小唄」を『早稲田文学』に、「大豆畑」「夢にて」を『太陽』、「山雀」を『女子文壇』、
     「一五夜」を『新声』、「野鼠」を『趣味』、「凋落」を『ホノホ』に発表。
     6月「田甫小唄」「野菊」を『文章世界』、「棉打唄」を『早稲田文学』、
     「田園詩」を『文庫』、「野鶉」を『新婦人』、「童謡」を『野の花』に発表。
     7月「甘露日」を『新声』、「豆畑唄」を『ハガキ文学』、「地唐臼唄」を
     『中央公論』、「夏日」を『愛国婦人』に発表。同月坪内避遥の紹介で、小石川鼠坂上の梅沢和軒を
     訪ね、更に上京中の北海道の新聞社長伊東山華氏と会い北海道函館の北嶋新報社に入社するため
     北海道に再び渡る。結果、新聞記者として2年余流転することになる。妻ヒロも身重な体の上に、
     生まれたばかりの長男雅夫を背にし、夫雨情に付いて行く。
     函館を焼け出され、札幌に居を移し、北門新報社に入社する。
     そこで、9月、小国善平(露堂)の紹介で雨情は石川啄木を知り、13日札幌より小樽に移転。
     10月1日、石川啄木と共に小樽日報社の創業に加わり三面記事を担当する。
     「東海の小島の磯の」の歌は、雨情の助言があったという。しかし、両者は主筆と対立し、
     雨情は30日小樽日報社を去る。
     《小学校令改正、義務教育、年限6ヶ年に延長、日本で初めて蓄音機会社が設立》
明治41年(1908)26歳 1月「独唱」を『自然』に発表。3月長女みどり出生。(8日後に死去)
     同月北海道新聞社、室蘭新聞社、胆振新報社、北海旭新聞社等、北海道の新聞社勤務を転々と
     する。小樽にて長女みどり死去
     4月「機屋」を『文章世界』に発表。5月「聟取唄」を『早稲田文学』に発表。
     「北海タイムス」にエッセイ「噫独歩氏逝く」を発表。
     6月〜7月小説「窓の戸」を『新婦人』に発表。☆6月樺太にて鮭の商いをせる岩野泡鳴の来訪を
     受ける。9月19日、読売新聞に野口雨情客死の報載る。
     10月「船中」を『新天地』に発表。北海旭新聞社勤務を最後に新聞社を退く。
明治42年(1909)27歳 6月胆振新報に入社。
     11月、北海道を離れ、帰郷後、上京して牛込区若松町61番地(現新宿区)に住む。
明治43年(1910)28歳 司法当局の全道新聞業界粛清に遭い、北海道室蘭にて拘置される。
     胆振新報社長検挙の余波は編集部にも及び、雨情ら編集部員が、札幌拘置所に未決監送りとなる。
     3ヶ月の後、無罪放免。出所後、直ちに迎えられて北海道旭新聞の編集長となる。
     詩を雑誌『明星』、小説「暖炉の前」を『ハガキ文学』にエッセイ「樺太東海岸の土人」を『新小説』に
     発表。
     6月妹ちゑが栃木県喜連川町(現さくら市)の高橋義則と結婚。
明治44年(1911)29歳 1月「武士道」を自費出版するが、堅過ぎて売れず、返品され唖然となる。
     4月上京本郷区千駄木町27(現文京区)の佐藤方に住む。
     東京有楽社に入社、『グラフィック』(写真時報)の編集に携わる。同社にて森田恒友、坂本繁次郎、
     石井柏亭と知る。宿所を、高田豊川町、大久保、戸崎町と転々。この頃大杉栄を知る。
     6月郷里より妻子を呼び、つづいて母てるを引き取る。
     8月皇太子殿下(後の大正天皇)が北海道に巡啓された際、グラフィックの報道記者として一団に
     加わり北海道へ渡る。9月母てる死去。危篤の報に接し、急遽帰京したが臨終に間にあわず。
     10月郷里に引き揚げ、郷家を守り、植林事業に携わる。
明治45年大正元年(1912)30歳 1月、「東北地方の俚謡」を読売新聞に発表。
     3月、『グラフィック』休刊のため帰郷する。
     6月、「文芸に現れたる好きな女と嫌ひな女」読売新聞に発表、有楽社が解散したため、
     詩壇からも離れて、生まれ故郷磯原に帰る。高塩家の山林管理の手伝いや農業に従事する。
大正 2年(1913)31歳 4月二女美晴子出生。12月31日西丸帯刀死亡。
大正 3年(1914)32歳 この頃郷里にて渡辺年之介らと磯原万弁社を結成して住民運動を興し、『巨人』を発行     啓蒙と弱者救済に努める。消防団長、磯原漁業組合長等就任。その後、入山採炭株式会社の事務員
     となり湯本の入山鉱業所へ通う。その頃痔の治療で湯本の柏屋の女将明村まちに世話になる。
大正 4年(1915)33歳 この頃横川(高萩市)の山へ植林をする。
     5月10日妻協議離婚届出。
     ヒロ夫人は実家(栃木県喜連川)へ二人の子を置いて帰る。
     6月二児を連れ、湯本の芸妓置屋柏屋、明村まち方に同棲。
     12月から翌5年3月まで、福島県富岡町の旅館中屋に滞在。開拓事業に携わったとみられる。
     このあと、北海道に赴いたという説〔村上辰太郎による〕がある。一方、少女時代に北海道新聞社社長
     宅に住み込み雨情や生前の石川啄木を知っていた斉藤キワが北海道で偶然雨情と再会しているが、
     それは大正6年のことだった。(と聞いていると斉藤勝雄氏が証言している)
大正 5年(1916)1月ヒロ除籍
大正 6年(1917)35歳 北海道に就き、帰郷後10月「長子雅夫に告ぐ」1巻を手渡して家出、湯本(福島県いわ
     き市)の芸妓置屋柏屋の女将明村(あけむら)まちと同棲する。
     福島県の入山炭鉱事務所に勤務。錦村に起居のち湯本町の芸妓置屋に移る。
     6月立木売却事件で松浦警察署に償還される。
     7月水戸検事局の尋問を受ける。同月ヒロが喜連川の実家に帰る。事実上の離婚。
     10月立木売却が示談となる。同月暴風によって家が被害を受ける。
     詩話会結成され、その会員となる。
大正 7年(1918)36歳 1月水戸市常盤公園好文亭で「いはらき新聞」の『木星会』に出席し山村暮鳥、
     横瀬夜雨らと会う。10月湯本を去って単身水戸に出て、茨城県真壁郡下妻町(現下妻市)の
     中里家の長女つる(明治35年12月12日生まれ)と結婚する。文学生活を始める。
     水戸市銀杏町99番地(現水戸市宮町)に住む。「枯すすき」はこの頃の作。
     4月9日栃木県喜連川町(現さくら市)を訪れる。
     《シベリア出兵》
大正 8年(1919)37歳 3月長久保紅堂主宰の「茨城少年」の主幹として参加詩歌を担当する。童謡作品を
     発表すると共に自らも選者となり、童謡復興運動に尽力。7月上京。
     詩集「二人」「かなかな蝉」「おかよ」「儚き日」
     『都会と田園』を銀座書房より出版、詩壇に復帰する。
     8月、「おとぎの世界」に作品発表。
     このころ、『枯れすすき』作詞、中山晋平に作曲を依頼する。(のち、船頭小唄と改題される)
     9月4日三女香穂子出生。同月『こども雑誌』に童謡の発表を開始。
     11月『金の船』に童謡の発表を開始。
     12月「下総のお吉」「お新と繁三」「留吉とお富」「渡り鳥」を『文章世界』に発表。
     《雑誌『金の船』創刊》
大正 9年(1920)38歳 3月『金の船』の童謡欄の選者なる。「雨情の東京復帰歓迎会」を小川未明、
     人見東明、西条八十、窪田空穂などが開催。「萄黍畑」発表。
     6月キンノツノ社に入社するため、上京する。『金の船』編集部のある田端に、床屋の二階を間借りして
     住む。同月同僚の山本作次と『金の船』編集部に住む。同月西巣鴨町折戸(現豊島区)に転居。
     9月雨情を中心として東京童謡会を結成される。『少年倶楽部』に童謡発表開始。
     ヒロが子供を養育するため磯原の野口家に戻り雅夫の母として入籍する。
     同月下旬西巣鴨折戸に転居する。「人買い船」「十五夜お月さん」を『金の船』に発表。
大正10年(1921)39歳 2月民謡集『別後』を交蘭社より出版。3月◇「船頭小唄」
     中山晋平の『新作小唄』に発表。
     6月童謡集『十五夜お月さん』を尚文堂より出版。
     7月「七つの子」を『金の船』に発表。
     11月四女恒子生まれる。宮中に参内。澄宮さまに童謡について進講。
     12月「青い目の人形」を『金の船』に、「赤い靴」を『小学女性』に発表。同月、評論『童謡作法問答』を
     尚文社より、長編童話『愛の歌』を創文社より出版。この年、詩話会に加わる。民謡、童謡普及の
     講演旅行が多くなる。西巣鴨町宮仲2142番地に転居した。
     《総理大臣原敬暗殺》
大正11年(1922)40歳 1月、「コドモノクニ」に童謡作品の発表開始。若柳小学校(現茨城県下妻市立騰波ノ江
     小学校)童謡選集「蝙蝠の唄」が雨情の序文を収めて米本書店より刊行さる。
     3月評論『童謡の作りやう』を交蘭社より出版。
     同月『かなりや』の民謡欄、『婦人界』の童謡欄の選者となる。「童謡作法問答」発表。
     6月小石川の貧民街で路傍童話童謡会を開く。
     7月「黄金虫」を『金の塔』に発表。
     11月「シャボン玉」を『金の塔』に発表。
     12月小川芋銭、横瀬夜雨、山村暮烏とともに、『郷土』(郷土芸術社刊)の監修者となる。
     民謡、童謡の普及を目的として、藤井清水、権藤円立らで結成した「楽浪園」に加わる。
     《船頭小唄が流行》
大正12年(1923)41歳 1月「捨てた葱」、『少女倶楽部』に童謡の発表を開始。
     3月評論『童謡十講』を金の星社より出版。
     4月民謡集『沙上の夢』を新潮社より出版。
     7月評論『童謡教育論』を米本書店より出版。
     9月佐渡を講演旅行中に関東大震災の報を聞き、東京へ戻る。
     10月評論『童謡と児童の教育』をイデア書院より出版。
     《「船頭小唄」を主題歌にした映画が大ヒット》
大正13年(1924)42歳 この年北多摩郡武蔵野村吉祥寺787番地に転居した。
     1月童謡「あの町この町」を雑誌『コドモノクニ』に発表。
     同月民謡集『極楽とんぼ』を黒潮社より、評論『童謡作法講話』を米本書店より出版。
     4月朝鮮各地へ講演旅行に行く。
     5月「兎のダンス」を雑誌『コドモノクニ』に発表。同月評論『民謡と童謡の作りやう』を黒潮社より出版。
     6月民謡「波浮の港」を雑誌『婦人世界』に発表。同月『青い眼の人形』を金の星社より出版。
     7月『雨情民謡百篇』を新潮社より発行。9月恒子死去。
     12月「証城寺の狸噺子」を雑誌『金の星』に発表。
大正14年(1925)43歳 1月1日、北中郷村を磯原町と改称。「雨降りお月さん」を 『コドモノクニ』に発表。
     2月五女千穂子生まれる。同月民謡集『のきばすすずめ』を東華書院より出版。
     3月「紅屋の娘」(原題「春の月」)を『令女界』に発表。
     5月小林愛雄、葛原繭、松原至大らと日本作歌者協会を設立する。童謡詩人会の設立にも加わる。
     6月北原白秋、川路柳虹、三木露風、白鳥省吾、西条八十、竹久夢二とともに編さんした
     『日本童謡集』が新潮社より出版される。
     7月評論『童謡と童心藝術』を同文館より出版。
     9月カルピス製造株式会社が全国の児童から募集し、北原白秋、西条八十、葛原繭とともに
     選にあたった童謡が『日本童謡選集』として実業の日本社より出版される。
     12月「俵はごろごろ」を『金の星』に発表。
大正15年昭和元年(1926)44歳 1月『幼年倶楽部』に童謡の発表を開始。
     5月和歌山牧水編集『詩歌時代』の童謡欄の選者になる。
     6月民謡集『おさんだいしょさま』を紅玉堂より、童謡集『蛍の燈臺』を新潮社より出版。
     8月栃木県の塩原温泉を訪れる。
     9月佐々木信綱、北原白秋らと日本作歌協会を設立。
     11月「野口廣子」の名で野口量平夫妻の墓碑建立。刻字は雨情。満州各地に講演旅行する。
昭和 2年(1927)45歳 1月「童謡いろはかるた」(寺内万治郎画)を『金の星』
     3月斎藤佐次郎を訪問し今月以後、給与の辞退を申し出る。
     4月台湾各地を講演旅行する。
     7月『童謡教本』を啓文社書店より 出版。北海道へ旅行。
     8月六女美穂子生まれる。
     10月『民謡詩人』に詩作の発表を開始する。満州へ旅行。
     《日米友好の親善大使として「青い目の人形」が横浜へ来る、金融恐慌》
昭和 3年(1928)46歳 1月、文部省仏教音楽協会評議員に推薦される。
     8月民謡集『野口雨情民謡叢書』を民謡詩人社より出版。
     9月評論『児童文芸の使命』を児童文化協会より出版。
     『舌切雀』をコドモニホンブンコに収める。
昭和 4年(1929)47歳 2月「上州小唄」を発表。9月満州・朝鮮半島へ講演旅行に行く。
     10月民謡集『波浮の港』をビクター出版社より出版。
     11月『全国民謡かるた』(川端龍子画)を普及社より出版。
     12月雑誌『民謡音楽』(藤田健次編集・民謡音楽発行所刊)の主幹となる。
     同月「啄木と小奴」を『週間朝日』に発表。
昭和 5年(1930)48歳 長男雅夫上遠野アキと結婚。3月二男九万男生まれる。同月『現代詩人全集』第11巻
     (新潮社刊)に「野口雨情伝」を執筆、「香住魚集」他185篇を収める。
     10月『全国郷土民謡集』(誠文堂刊)に「奥多摩音頭」他14篇を収める。
     『明治大正文学全集』などに作品掲載。
昭和 6年(1931)49歳 1月北陸タイムス社の募集作品審査員なる。
     3月浜田廣介、藤井清水、藤沢衛彦らと日本歌謡協会を設立。
     6月緑川一郎ら吉祥寺へ雨情を訪れ、磯原小唄の作詩依頼する。
     8月九万男8月1日午後5時30分死亡。8月27日三男存禰生まれる。
昭和 7年(1932)50歳 6月映画「旅は青空」の主題歌を作詞。
              8月「磯原小唄」をつくる。磯原にて書画会を催し、売る。
昭和 8年(1933)51歳 3月七女陽代生まれる。
昭和 9年(1934)52歳 7月満州各地へ旅行に行く。
昭和10年(1935)53歳 1月栃木県氏家町(現さくら市)を訪れる。
     10月八女喜代子生まれる。
     12月21日、雨情、つる夫人婚姻届を提出入籍。同月日本民謡協会を再興、理事長なる。
昭和11年(1936)54歳 2月泉漾太郎の招きで栃木県矢板町(現矢板市)を訪れる。
     8月民謡集『草の花』を新潮社より出版。
     《日中戦争》
昭和12年(1937)55歳 5月〜7月朝鮮各地へ講演演奏旅行に行く。
     《国家総動員法》7月 日支事変開始。故郷の磯原を訪れる。
昭和13年(1938)56歳 6月九女恵代生まれる。10月、「札幌時代の石川啄木」を「現代」に発表。
昭和14年(1939)57歳 6月〜7月朝鮮各地へ講演演奏旅行に行く。雅夫再婚。
     11月〜12月台湾各地へ講演旅行に行く。故郷の磯原を来訪。
昭和15年(1940)58歳 5月25日分家、雨情除籍される。7月から翌月に懸けて、北海道各地を順訪し
     地方小唄を作詞。
     9月満州へ講演旅行に行く。
昭和16年(1640)59歳 熊本各地を順訪し、地方小唄を作詞。
     《大東亜戦争開始》
昭和17年(1641)60歳 長崎、鹿児島各地を順訪し地方小唄を作詞。雨情磯原へ最後の告別訪問。
昭和18年(1943)61歳 2月童謡集『朝おき雀』を鶴書房より出版。同月発病。
     4月、山陰地方を順訪し地方小唄を作詞。
     7月ヒロが野口家に復籍。
     《米軍による日本本土空襲激化》
昭和19年(1944)62歳 空襲が激しくなった為、再婚したつるの実家中里家の紹介で
     1月栃木県河内郡姿川村鶴田1444番地(現宇都宮市鶴田町)に転居、療養生活に入る。
昭和20年(1945)享年63歳 1月27日、永眠。朝日新聞は1月31日付けで短く報じた。
     〔野口雨情氏(水戸出身)27日疎開先の栃木県河内郡姿川村鶴田の自宅で死去、
     30日午後1時から自宅で神式により告別式を執行した〕
     3月、生まれ故郷磯原の野口家墓地に分骨埋葬される。
     《第二次世界大戦終結》
     なお、つる婦人は昭和55年(1980)2月2日、77歳で死去。小平霊園に埋葬。雨情とともに眠る。

※本年譜を作成するにあたり、『定本 野口雨情第八巻』、『野口雨情伝』
 「金の船ものがたり」「野口雨情の生涯」「さくら市ゆかりの詩人 野口雨情」他
 参考文献で補いました。新たな文献情報により訂正、補足致します。
                    野口雨情研究家  作成者 粟 野 英 武