本  編  目  次 & 要 約

まぼろしの邪馬台国論争に終止符を打つ! ここから真実の古代史が始まる!

ホ ー ム




第1章 魏志倭人伝から邪馬壹国九州説を展開する

1.魏志倭人伝の倭人の国とは

魏志倭人伝の方位と里程を考察したところ、壱岐から対馬の方角を南と規定していることが解った。 この「方位標準」を使うと倭人の国の位置は「帯方の東南」「大海の中」「会稽東治の東」「洲島に絶在す」であるから九州となる。
何故か?
本州はこの時代「大海の中、洲島に絶在」していなかったからである。
何故解るか?
古事記・日本書紀に表れる日本の範囲は東は佐渡洲までであり、それより東の記述はない、よって津軽海峡があることは知られていなかった。
よって魏志倭人伝の使者が最初に上陸した「絶在する洲」=九州が倭国である。

奴婢1000人を擁する卑弥呼の宮城は大奥500人の 江戸城よりも大きかったと推定される。

2.魏志倭人伝に登場する国名
魏志倭人伝一行が末廬国に到着してから不弥国まで700里、そこから南へ1300里、その700里×1300里の方千里を「畿内」「葦原中つ国」と定義する。
女王国とは邪馬壹国内の南端である。
女王国以北とは道里・戸数を記述された9カ国のことである。
葦原中つ国の西にある某国21カ国と倭国の南にある狗奴国はひとつの洲の中にあり、その洲とは九州である。

「葦原中つ国」の概念はまったくの新説である!

3.遺物からも倭国の位置は九州

倭国特有の遺物とはなにか?
それは「金印」「龍」「鉄」「三種の神器」「絹」「大宰府などの府の名称の残る場所」である。
ではそれが発見される場所とはどこか?
九州のみである。
では倭国とはどこにあったか?
九州以外に考えられない。

4.魏志倭人伝の里程 1里とは何kmか?

帯方郡郡都の平壌から狗邪韓國の釜山まで7000里と記述される。その実測値は500kmである。1里に換算すると約70mである。
一方、釜山・対馬間および対馬・壱岐間は千里と記述される。1里を70mとして70kmである。一方その実測値は両者約70kmである。計算値と実測値がぴったり一致する、これらをみると距離は正確に測定されていることが解る。
ならば壱岐と末廬國の間の距離は千里と記述されるが何kmか?
千里=70kmである。
では末廬国とは唐津は正しいか?
正しくない!
何故か?
壱岐から約40kmしかないからである!
では真実の末廬国とはどこか?
それは本文を!
新説!!!!!

5.里程から導き出される邪馬壹国の位置とは? 

邪馬壹国とは九州にあって、不弥国から1300里(約90km)南にありかつ九州東海岸にある。
会稽東治の東であるから九州島より南ではありえない。
ではどこか?
99%九州である!!!

6.倭人伝の方位とは?

魏志倭人伝一行は羅針盤を使用して航行したと考えられる。
何故解るか?
「南して東」すと記述されているからである!
どういう意味か?
郡都から末廬國まで10日間の航行である、その間ずっと晴れていたと断言できるか?
いや、できない。
ならば10日間ずっと雨の可能性はあるか?
ある!
雨または曇りで方位を計測し「南して東」すと記述するためには羅針盤がなくてできるか?
できない!
ならば羅針盤があった。よって記述される方位は正確である!!異義はあるか。

新説!!!

713年風土記編纂命令の詔が元明天皇から出された。 「郡・郷の地名は好字であらわすこと」という令が含まれる。
では地名とはそれ以前とそれ以降では同じか?
いやまったく異なっている可能性がある。
では古代史を調べる場合どうすればよいか?
713年以前の地名で古代史を研究すべきである。
古い地名を配列した場合に一定の法則性が見られる。法則性とはなにか?
倭人の宇宙観に基づく法則性である。
新説!!

8.狗奴国とは?

狗奴国は某国の南にあると記述される。某国とはどこか?
九州であることは99%間違いない。
では狗奴国とはどこか?
九州以外ではありえない!

仮説
8-1
日本書紀の景行天皇紀に表れる「970丈のクヌギ」とは狗奴国を表す暗号である。


第2章 葦原中つ国と出雲の関係考察

 

定義
9-1
末廬國に上陸して伊都国へ到着し、奴国、不弥国まで合計700里あると書いてある、そしてその南1300里以内に投馬国、邪馬壹国があると書いてある。700里×1300里とは2辺で2千里つまり方千里の形をしている。この空間を古代史における「葦原中つ国」と定義する。

古来、畿内を制さずに天下に号令をかけた例はあるか?
いやない。
ならば「葦原中つ国」とは「畿内」である。
スサノオ尊が制した葦原中つ国の出雲も「畿内」である。神武天皇が制した大和も「畿内」である。
新説!!!

9-1.葦原中つ国と北九州

仮説9-1
「葦原中つ国」とは吾勝命の「アカツ国」であり、大国主の出雲の「イツ国」であり、古名「吾勝野」の北九州に存在した。

第3章 天孫降臨の意味と最終到着地を考察

10.真実の天孫降臨とは?

仮説
10-1
「天孫降臨の前段として天子降臨があった。」

天子降臨とはなにか?
ニニギ尊の天孫降臨の前にその父オシホミミ命の天子降臨があったということである。
内容は?
大国主に補佐されたオシホミミ命が葦原中つ国を先に治めていたのである。それがいわゆる「天子降臨」である。
それで?
大国主の失脚と出雲の国譲りにより、次に事代主に補佐されてニニギ命が代わって下ってきたのである。
どこの場所での話しか?
英彦山には天子降臨伝説が残り、麓の筑豊平野にはオシホミミ命=「吾勝命」の名にちなんだ「吾勝野」という古名が残る。
さらに具体的にどこか?
筑豊平野の葦原中つ国である。
新説!!!
11.天孫降臨の道

仮説11-1
天孫降臨の出発地点は福岡県の京都郡である。
途中、竺紫日向の高千穂の久士布流多気(鞍手の六ヶ岳)に天下った。

仮説11-2
天孫降臨の到着地点は空国(宗像)と韓国を結ぶ三崎(田島、大島、沖ノ島の三島を結ぶ線)である。
そこはまた、刺国(福間津屋崎)、照国(古賀)がある。
空国とは魏志倭人伝の末廬國でもある。

この結果はあらゆる記述に整合する。
さらに、この結論が正しいことが次項で証明される。
新説!!!

11項の仮説が記述に整合するならば日本書紀の天孫降臨の到着地の記述「膂宍(そしし)の空国(むなくに)を頓丘(ひたお)から国まぎ」とおって吾田の長屋の笠狭碕(かささのみさき)に至ります」とも整合するはずである、整合するか?
もちろんである!
ではどういう意味か?
「そしし」とは蘇刺である、蘇の刺国とは宗像~津屋崎のことである。笠狭碕とは11項でも考察した宗像の三崎=草崎の事である。
よって11項の結論が
検証できた。
また、結局天孫降臨に登場する舞台はすべて葦原中つ国の中である。


証明
仮説11-1
証明
仮説11-2

新説!!!

第4章 神武東征の真実を探る  


仮説
131-1
本ホームページ13-1項が神武東征の真実の物語である。

仮説131-2
地名の解釈に「実」の「第1解釈」と「虚」の「第2解釈」がある。
・「第1解釈」とは九州葦原中つ国を中心とする古代史解釈である。
・「第2解釈」とは近畿大和を中心とする古代史解釈である。

新説!!!

13-2.元祖大和とは?
  
仮説132-1
神武天皇の東征前後の行動範囲を調べると、13-2項の図2の範囲内である。
すなわち、北九州の一定の範囲内である。一定の範囲とは葦原中つ国である。


仮説132-2
神武天皇の造った橿原(香春)の宮は13-2項の図3の中にある。つまり葦原中つ国の筑豊平野の中である。

13-3.倭国大乱と神武東征の関係とは?
  
仮説133-1
倭国大乱(170~200年)の最終決戦が神武天皇東征であった。

仮説133-2
出雲の国譲り~神武天皇東征は葦原中つ国の争奪戦であった。出雲とは伊都国であり、大和とは投馬国であった。祖先のニニギ尊が出雲を制し、次に大和を制し葦原中つ国全土を制した神武天皇は「天下を取った」のである。

13-4.三つの大和とは?

仮説134-1
「盆地と平野がワンセットになった地形」を「大和地形」と名づける。
「京都、奈良、香春(橿原)、大阪、河内、葛城、難波、泉」といった、大和に関係する、同じ地名群を「大和地名群」と名づける。


仮説
134-2
古代史上の「大和」は3ヶ所あった。
九州筑豊平野の大元の大和を「元祖大和」、ニギハヤヒ命(大国主)が国替えになった朝倉の大和を「西の大和」、近畿の大和を「東の大和」と名づける。

新説!!!

13-5.卑弥呼の城

江戸城をしのぐ規模と記述されている卑弥呼の城を「卑弥呼素城」と名付ける。

仮説
135-1
13-5項図1の中に卑弥呼の国東の宮「卑弥呼素城」があった。

第5章 神功皇后について考察する

提唱:仮説ストーリー

仮説15-1
後漢書東夷伝の大倭王とは「大倭国」の王である。
魏志倭人伝の「邪馬壹国」の「倭王」が、後漢書東夷伝では「邪馬臺国」の「大倭王」へ昇格したと記述されている。

仮説15-2
「倭国」とは「日本帝国」のことである。
日本帝国が大陸から切り離された時に、海表面の国「日本国」「面上国」となった。

第6章 参考(参考にならない参考)


第7章 神話から宮や御陵の場所を推定する


仮説18-1
ニニギ尊の父オシホミミ命の「吾勝」の国およびスサノオ尊の「正勝吾勝」の国とは北九州筑豊平野にあった。

新説!!!


仮説19-1
スサノオ尊がヤマタオロチを退治し造った八重垣を巡らした城とは、鹿毛馬神護石城である。鹿毛馬神護石遺跡には今も石塁の跡が残る。
新説!!!

20.大国主命の杵築宮


仮説
20-1
大国主の宮は葦原中つ国の鞍手の木月にあった。古事記の「大国主は片
を馬のにかけ」は「鞍手」を暗示していた。
新説!!!

第8章 卑弥呼の「日本教」とはなにか

第9章 ヤマトタケル実在の証拠を挙げる


24.ヤマトヒメとヤマトタケル

仮説24-1
ヤマトヒメとは倭女王である

仮説24-2
ヤマトヒメと壹與と神功皇后は同一人物であり、倭女王である

25.ヤマトタケルの宮と陵

タケルが亡くなる時の最後の言葉 「高羽」の意味が解った!


仮説
25-1
本項資料1、資料2、資料3の舞台は筑豊平野の田川(タカハ)である。

新説!!!

26.ヤマトタケルと草薙の剣

仮説
26-1
草薙剣は鞍手の剣山に奉納され、八支刀の形である。

仮説26-2
日本武尊は鞍手の植木の神埼から出発し、そこで植えた「一つ松」が、無事に帰還した時に待っていてくれた「一つ松」である。

日本武尊は鞍手の植木の神埼から出発し、また神埼に戻って来た。
何故解るか?
出発する時に植えた「一つ松=人待つ」が待っていてくれたからである。90%の確率で日本武尊は鞍手に実在した。

大発見である!!!!!!

予言
26-1
日本武尊の遺体と草薙剣の真剣は剣山に眠る。

第10章 欠番

第11章 卑弥呼の金印の場所


28.親魏倭王の金印はどこに?


第12章 スサノオの鎮座する場所を探る


29.師升等とスサノオ尊


仮説
29-1
師升等とはスサノオ尊であった。
師升等とは大倭国皇帝であった。


漢の皇帝に見(まみ)えた師升等とはスサノオ尊であり、大倭国皇帝であった。
すべて160カ国を平らげた王である。
何故解るか?
師升等の献上した生口160人の160とは国数を表すからである。
ならば卑弥呼の倭国の国数は?
10(30)カ国である
臺與の臺倭国の国数は?
30カ国である!

新説!!!


29-1.スサノオの降り立った地 


仮説
291-1
スサノオ尊のヤマタオロチ退治の舞台は29-1項図1の中、すなわち北九州筑豊平野にあった。


30.スサノオの眠る場所 


仮説
30-1
スサノオ尊は鳥髪山に、大己貴は三輪山に祀られた。

31.三輪の「三」とは 

仮説31-1
久留米の「御井」とは、大国主と八坂姫の子供「御井神」に由来する。
また久留米の耳納山の「ミノ」とは、アチスキタカヒコネの美濃国に由来する。
高良山の高良とは「高坐」、久留米とは「坐闇」に由来する。
筑後平野を中心とする一帯に「八」や「三」のつく地名が多く存するのは「三井」の「三」や「八坂」の「八」に由来する。

32.奈良桜井と福岡朝倉の三輪山の比較

仮説32-1
近畿の奈良桜井の三輪山と福岡県朝倉の三輪山は地勢地名ともにソックリであり、国名地名移動法則に則っている。


第13章 神功皇后の足跡を辿る


33.神功皇后と穴門豊浦宮


仮説
33-1
穴門に古代、造船所があった。そこに住吉三神が祀られた。

仮説33-2
神功皇后は多くの事実から穴門周辺に実在したことが証明される。
逆に、神功皇后は近畿大和には実在しなかったことも証明される。

34.如意の珠と龍宮城

仮説
34-1
神功皇后は卑弥呼の鬼道を継承し、仏教を国家の基礎に据え「鬼道に事え、能く衆を惑わす」した。


仮説34-2
神功皇后は実際に「如意の珠」を関門海峡で引き上げられた。

仮説
34-3
新羅本紀、三国遺事の龍城国とは穴門豊浦宮のことである。
新羅王脱解は穴門豊浦宮で生まれた。


仮説34-4
「武ミナカタ神」VS「武ミカヅチ神」の決戦は関門海峡で行われた。

仮説34-5
応神天皇は早鞆の瀬戸=関門海峡にゆかりのある天皇である。

すべて新説である!!!

35.竜神の娘豊玉姫と関門海峡

仮説
35-1
龍城国の龍宮城が関門海峡にあった
仮説35-2
第四代新羅王脱解は豊玉姫から生まれた。


すべて新説である!!!
36.神功皇后は九州に実在した

証明
36-1
神功皇后は実在した
仮説36-1
神功皇后は北九州に実在した。逆に近畿には実在しなかった。

第14章 アマテラスの神京「京都」が九州東海岸に存在した証明

37.景行天皇とは九州の大王 

景行天皇紀に記述される場所全てが九州である。
仮説37-1
景行天皇は九州の天皇である。
新説!!!
仮説37-2
福岡県の京都郡の「長峡宮」とは「京都」にあった。

794年(鳴くよウグイス平安京)に、現在の京都が「京都」と命名された。
ではそれ以前に日本書紀に「京都」と記述される場所とは?
福岡県の京都である。

新説!!!

37-1.景行天皇と帝踏石

仮説
371-1
日本書紀の景行天皇の土蜘蛛退治に登場する場所はすべて北九州、しかも小倉~行橋が大部分である。したがって景行天皇は九州の天皇である可能性が高い。

仮説371-2
帝踏石は景行天皇の古墳の石棺である。これが発掘調査された場合には仮説371-1が証明される。
景行天皇の后の古墳も近くに現実に存在する。

仮説371-3
日本書紀景行天皇紀の中に、投馬国が記述されている。
そして、景行天皇の御製歌の中で「古」を偲んで「愛しけやし・・・」の歌を歌われた。歌の内容はニニギ尊も登った高千穂の峰(六ヶ岳)から大和(投馬国)を望んで我家が見えるというものである。
後に日本武尊が亡くなるときに同じ大和の場所で同じ歌を歌われた。
景行天皇が蹴った「帝踏石」が見つかった!
予言371-1
「帝踏石」とは天皇の古墳の石棺である。

38.「京都」の都とはどこにあった? 

仮説38-1
794年以前の古代史上の「京都」とは景行天皇が治世12年に「京都」と名付けた福岡県京都郡の「京都」である。

39.「日出ずる国」の天子の都:京都

仮説39-1
景行天皇が治世12年に「京都」と名付けた福岡県京都郡の「京都」と、日出る国の天子の「京都」の都は、同じ場所である。

第15章 宗像三女神の名前と神功皇后の名前が同じという不思議の解明

40.「神功皇后」の名前と宗像三女神の共通点

仮説40-1
香春神社由緒にある辛国息長大姫大目命の一人は卑弥呼である。

仮説40-2
香春神社由緒にある辛国息長大姫大目命の一人は宗像三女神である。

仮説40-3
神功皇后の名前は「イキタケタリ姫」である。
宗像三女神の名前は「イキタキタリ姫」 である。
宗像三女神と神功皇后は名前が同じである。
よって「イキタケタリ姫」の名前は世襲された。

41.「宗像三女神」とは実は一人
仮説41-1
1.宗像三女神は三社三神に分散して居る様に見えるが、名前は結局「いき・たけ・たれ姫」=「息長垂姫」である。三神で一神である。
2.邪馬臺国女王の名前「息長垂姫」の名を倭女王が代々襲名していったものと解釈される。
何故なら息長垂姫を襲名したとはっきり解った二人、卑弥呼と神功皇后から類推すると、①韓国の経営に携わった②邪馬臺国女王である。ということになるからである。
3.三社に分散しているが三社で1社である。何故なら宗像大社三社の所在地・田島、大島、沖ノ島の「三島」でひとつの意味を持つからである。
「三島」とはなにか?
三島を直線で結ぶと「笠沙岬を通って空国から韓国に真北通る」である。

新説!!!
42.ツヌガアラシトの角鹿の志賀の島

仮説
42-1
「ツヌガ」とは「
志賀島」の形を表す「角鹿」。 ツヌガアラシト(アメノヒホコ)は博多香椎(こし)に上陸した。
新説!!!
証明42-1
ツヌガとは博多である。

これまでの古代史はすべてリセットしなければならない。
漢委奴国王の金印」が埋められた場所は記紀に書かれていた。

42-1.アカルヒメ

仮説
421-1
アカルヒメとは卑弥呼のことである。
アカルヒメ=卑弥呼は国東で邪馬壹国女王となった。
卑弥呼の城は難波と国東にあった。
第16章 古代史の「国」の「国名」は後に大移動したという証明

43.「邪馬壹国」は北九州東海岸にあった

仮説43-1
魏志倭人伝の末廬国とは宗像であった

仮説43-2
魏志倭人伝の末廬国から伊都国へ陸行した理由は、どうしても距離を測定する必要があったからである!
何故どうしても距離が必要であったか?
距離が求まれば、九州内での末廬国と伊都国の位置関係が一意的に定まるからである。

仮説43-3
魏志倭人伝の邪馬壹国は福岡県から大分県にかけての九州東海岸である。

44.和気清麻呂と宇佐

仮説
44-1
和気清麻呂の流された大隅とは、北九州企救である。
和気清麻呂が御神託をいただきに行った宇佐神宮とは、北九州企救にあった。

45.「神風の伊勢国」とはなにか

仮説45-1
古代史上の伊勢の国とは北九州東海岸にあった。

46.「常世国」とはなにか

仮説46-1
侏儒国とは「四国」である
仮説46-2
「常世国」=魏志倭人伝中の「名前のない国」である。
場所は中国地方である。

47.「高志(香椎)国」とは「博多」の証明

証明
42-1
ツヌガとは博多である
仮説47-1
越国とは博多である
証明47-1
越国(香椎国、高志国)とは博多である


47-1.ホツマツタエの天の橋立とは志賀島の証明

証明471-1
ホツマツタエの天橋立とは志賀の島である

48.国名・地名移動の法則とは

仮説
48-1
国名地名をコピーまたは移動させるに当たっては一定の法則があった。これを「国名地名移動法則」と名付ける

第17章 「斉明天皇」の謎を解く


49.斉明・皇極天皇の謎を追う

斉明天皇の謎

50.遣唐使の謎を追う
遣唐使の本当の目的はなにか?
51.旧唐書の謎を追う

証明
51-1
旧唐書に記述される倭国および日本国は九州にあった。

第18章 古代史における地名は大幅に移動したということの証明


52.「原・出雲」を発見した

仮説
52-1
「原・出雲」と「新・出雲」の間には「国名地名移動法則」が適用される。
「原・出雲」とは52項の図2の場所である。
さらに「原・出雲」の場所は魏志倭人伝の「伊都国」とも重なる。

53.「伊都国」と「出雲」の関係を探る

仮説
53-1
穴門は関門海峡~彦島~洞海湾入り口までの範囲の、海峡部分のことを指す。 したがって豊浦宮および周芳の沙麼浦および彦島は穴門周辺にあった。
仮説53-2
岡田宮は洞海湾の入り口(東門)と遠賀川の入り口(西門)から入った交点の位置にあった。伊都国の都であった。
仮説53-3
豊浦宮は図3のピンクの線で囲まれた範囲内の位置にあった。

54.下照姫=和歌姫の石川を探る

仮説
54-1
福岡県津屋崎周辺は古代「石川」と呼ばれていた。
仮説54-2
福岡県津屋崎周辺は古代「刺国」と呼ばれていた。

55.スサノオ尊の蘇我宮

証明
55-1
スサノオ尊がヤマタオロチを退治した場所は筑豊平野の飯塚(イフヤサカ)の立岩である。

仮説55-1
スサノオ尊の蘇我宮は飯塚の立岩にあった。

56.伊豆・武蔵のルーツ

仮説
56-1
伊豆、武蔵という地名も「国名地名移動法則」に則っていた。

57.鴨の大神

鴨の大神とはだれのことか?
熊襲とヤマトは兄弟国か?

58.日本各地の旧国名の起源

法則58-1
古代北九州の北海岸に存在したと思われる国名と、中世本州の日本海側につけられていた国名例えば、出雲、但馬、越、若狭などといった国名が同じで、しかも配列までもが、似ている。
これを「国名地名移動配列法則」と命名する。

58-1.稲葉の素兎

仮説 581-1
稲葉の素兎の「稲葉」とは北九州の小倉付近の河の河口である。
仮説 581-2
宇佐神宮がご神託の神となった起源は、「稲葉の素兎」にある。

59.アカルヒメと兎の宇佐神

仮説 59-1
アカルヒメ=兎神=宇佐神=宇佐神宮神=アマテラス大神である。
証明 59-1
アカルヒメ=兎神=宇佐神=宇佐神宮神=卑弥呼である。
アカルヒメが着いた北九州の「アカル宮」とは神武天皇の「葦一騰宮」であり、応神天皇の「豊明宮」であった。
法則59-2
日韓の間の「国名地名移動法則」を特に「日韓国名地名対応法則」と名づける。

第19章 古代史の 「大和」とは何かを追求

60.大和とはなにか

仮説
60-1
舒明天皇の詠まれた歌の大和は近畿大和でない。よって神武天皇の攻められた大和も近畿大和ではない。

仮説60-2
舒明天皇の詠まれた歌の中の大和、神武天皇の攻められた大和とは、60項図1の投馬国の「香春、カシハラ」である。

61.大和三山とはなにか
仮説61-1
大和三山とは香春岳一、二、三岳か?

62.天の香具山(香春岳)からの眺望を求める
仮説62-1
天の香具山とは香春岳第一岳か?

第20章「天孫降臨」の地点が北九州の証明

63.大和と日向と筑紫の位置関係

仮説63-1
筑紫とは筑後平野よりも北の範囲の北九州である。

仮説63-2
筑紫の日向とは北九州の中にある。

仮説63-3
豊国は筑紫の範囲内にあり、宇佐はさらに豊国の中にあった。よって、豊国および宇佐は北九州の中にあった。

仮説63-4
日向の高千穂の峰とは六ヶ岳のことである。六ヶ岳には宗像三女神とニニギ尊が降臨した。

新説!!!


63-1.六ヶ岳からの眺望

仮説631-1
宗像三女神とニニギ尊が降臨した日向の高千穂の峰すなわち六ヶ岳から寝釈迦が見えた。東の朝日に向かって寝釈迦を拝むことからその国を「日向」と呼んだ。
新説!!!

64.ニニギ命と神武天皇の共通点

仮説64-1
同じ六ヶ岳の表現は幾通りもある。
「筑紫の日向の可愛の山」「筑紫の日向の高千穂のクジフル岳」「日向の高千穂の峰」や一書に「日向の蘇の高千穂の峰」とあるがすべて同一の山の異なった表現である。
仮説64-2
ニニギ命が宮を建てた国は「刺国」である。
「刺国」とは「朝日が直刺し」と「夕日が火照る」の中に暗示されていた。
新説!!!

65.ニニギ尊の到着した「刺国

仮説
65-1
ニニギ尊の天孫降臨した「そししの空国」の「そしし」とは「蘇刺の国」である。
「蘇刺の国」とは神功皇后が「杖刺し」と言われた津屋崎近辺の「刺国」である。
「蘇刺の国」とは ニニギ尊が到着した時に「朝日がただ刺し」と言われた「刺国」である
「刺国」とは「空国」と併せて「胸刺国」=「武蔵国」の「刺国」である。
「刺国」とはニニギ尊を出迎えた刺国大神=事勝国勝長狭の「刺国」である。
仮説65-2
「笠沙の岬に真来通」とは本ホームページ65項の図2である。


65-1.「韓国に向かいて笠沙の岬に真来通」とは?

証明
65-2
「笠沙の岬に真来通」とは本ホームページ65項の図2である。
「この地は韓国に向かい、笠沙の岬に真来通て、朝日のまっすぐ射す国、夕日の日が照る国である」とは次のような意味である。
すなわち「この空刺国は空国と刺国であり、下照姫の照国でもあり、宗像大社のある田島、大島、沖ノ島の三島を直線で結ぶと笠沙岬を通って、空国から韓国へ真北通る」

仮説651-1
日韓で国名地名が対応していることを「日韓国名地名対応法則」と名付ける

仮説651-2
宗像の田熊遺跡の高床倉庫群とは魏志倭人伝の「大倭」が租税を徴収した倉庫である。

66.神武天皇東征ルートを再考察する

仮説66-1
ニニギ尊と神武天皇は次の点で共通点がある。
1.居住地の名前
2.后の名前
3.宮のあった国の名前
4.宮の名前
これらのことから同一人物に設定されている可能性がある。
仮説66-2
日本書紀はニニギ尊と神武天皇が同一人物の設定をしている 。

66-1.天孫降臨地点を再考する

仮説
661-1
天孫降臨の到着地点は66-1項の図1の空国~刺国である。

第21章「魏志倭人伝」を完璧に読み解く


67.朝廷と官、幕府

仮説
67-1
倭国の政治体系は朝廷、官、幕府であった。天を兄とし、日を弟とする関係である。

仮説67-2
カスヤに幕府が存在した。

仮説67-3
伊都国には倭王を補佐する男弟(男帝)として、一大率=征夷大将軍=日本国王が「特に」おかれ、、軍権を持って女王国以外の諸国を統率した。
一大率とは律令制度にはない令外の官であった。

68.邪馬壹国とはなにか?

仮説
68-1
邪馬壹国は北九州東海岸にある。女王国以北とは狗邪韓國、対馬国、一大国、末廬国、伊都国、奴国、不弥国、投馬国の8カ国である。邪馬壹国が翰苑では「邪馬嘉国」=山香国となっている。

69.魏志倭人伝から邪馬壹国地図を作成する

仮説
69-1
魏志倭人伝は陳寿の筆法に基づいて極めて論理的に記述されている。

仮説69-1
魏志倭人伝の倭国の地理は69項図1のようである。

70.魏志倭人伝完全注解

仮説
70-1
中国の歴史記述の態度は有史以来「述べて作らず」=「正確に記述し、作為的なことはしない」という態度であった。故に魏志倭人伝の内容は正確である。

仮説70-2
魏志倭人伝の倭国の中の国同志の地理的な関係は70項表1の考察結果によって一意的に定まる。

本項以外の解釈は虚である!!!

71.魏志倭人伝と古事記の対比
非参考

第22章 日本書紀とバーチャルリアリティの世界

72.日本書紀とバーチャルリアリティの世界

仮説72-1
日本書紀を解釈する方法に2通りある。
・「現実世界=実」を理解する解釈方法を「第1解釈」とする。
・「仮想現実世界=虚」を理解する解釈方法を「第2解釈」とする。

仮説72-2
旧唐書に記されている「實を以って對えず」とは魏志倭人伝および日本書紀の「第2解釈」を主張したのである。

73.「難波」とは九州の証明

証明
73-1
「難波」とは近畿ではない、玄界灘、響灘、周防灘など、「灘」のつく九州東北海岸である


74.「日向」についての考察

証明
74-1
・竺紫とは筑紫(北九州)の中にある。
・日向は竺紫の中にある。
・よって日向は北九州にある。

74-1.「日枝の山」の寝釈迦の形
日向の中心の六ヶ岳(高野山)から比叡山の寝釈迦が見える。
仮説741-1
日枝の山とは人工の山であり、大山喰の神によって寝釈迦の形に造られた。

75.難波の「大隅宮」についての考察

証明
75-1
「大隅」とは「難波の大隅」であり、「北九州企救」のことである。
応神天皇の亡くなった大隅宮は別名豊明宮である、豊明宮は豊浦宮と対になっておりどちらも関門海峡周辺である。
同様に、安閑天皇が牛を放った難波の大隅島、和気清麻呂が遠島になった大隅も関門海峡周辺である。

76.豊国についての考察

証明
76-1
豊国とは、北九州の「穴門から行橋、田川までの限定された地域」である。

77.藤山とはなにか

藤山とはホツマツタエの富士山になぞえられる秀麗な峰、では具体的にどの山か?
景行天皇は八女の藤山に登って、南の方に宮崎の海を見られた?

78.竺紫の日向のおとたちばなの阿波岐原とはなにか

仮説78-1
「竺紫の日向の立花の小戸の憶原」とは78項図1に示される位置である
証明78-2
「竺紫の日向の立花の小戸の憶原」とは78項図2に示される阿波岐宮(別名香椎宮)である

第23章 ニニギ尊の赴任先が北九州である証明

79.ニニギ命の八洲めぐり

仮説
79-1
ニニギ尊の八洲巡りのルートは79項図1のようである。すなわち一筆書きのように九州内を巡狩した。

80.和歌の国とは何か

仮説
80-1
伊邪那岐命伊邪那美命の最初の子「昼子姫」とは和歌姫、下照姫という別名をもち、和歌の元祖である。和歌姫の居住地は津屋崎・石川である。

81.ニニキネと海幸、山幸

仮説
81-1
ニニギ尊の八洲巡りの巡狩のルートは81項図1~図4に表される。

第24章 洞海湾から遠賀川は古代湖になっており都があった証明

82. 古代の洞海湾と遠賀川

仮説
82-1
古代の洞海湾~遠賀川下流域は82項図7のようであった。すなわち、遠賀川の川水と海水の混ざる淡海になっていた。また洞海湾と遠賀川は繋がっていた。

仮説82-2
古代の海岸線を割り出すには「古代海岸線あぶり出し手法」が有効である。
この手法は「浦」や「津」や「岬」、「崎」「江」などのつく地名が着く場所は古代、海岸線であったと推定する方法である。

83.遠賀川中流域を想像する

証明83-1
「古代、遠賀川は湖であった」

新発見である!!!
しかも琵琶湖の形の淡海であった。

84.遠賀川上流域を想像する

仮説
84-1
遠賀川上流田川盆地に元祖大和=魏志倭人伝の投馬国があった。

84-1.倭国の制度と日本国の制度

仮説
841-1
倭国の制度として、三都三府があった。

仮説841-2
701年大宝律令制度発布をもって倭国が解体し、正式に日本国が成立した。

第25章 狗奴国とは筑紫~筑後に存在した証明

85.倭国対狗奴国攻防戦の謎

仮説
85-1
970丈の歴木(クヌぎ)とは狗奴国の事である。その領域は85項図1のようである。
仮説85-2
狗奴国の都は福岡県高田町にあった。
三王家時代を想定する

86.狗奴国の都の謎

仮説
86-1
高田の都は条里制の敷かれた東西南北の街並みであった
仮説86-2
狗奴国王が倭国王の時代があった
仮説86-3
狗奴国王 :水沼の君、狗奴国女王: 八女津姫

87.倭国対狗奴国最後の決戦

仮説
87-1
邪馬壹国倭国対狗奴国の決戦の場所は筑後平野の吉野ケ里城と平塚川添城の間の夜須野である。

仮説
87-2
魏志倭人伝の「国中遂に定まる」とは倭国が宿敵の狗奴国を倒して日本を統一したことを指す

仮説87-3
卑弥呼の宗女「壹與」とは神功皇后のことである

第26章 邪馬臺国女王臺輿とは神功皇后の証明

88.卑弥呼と臺輿の宗家の謎

仮説
88-1
神功皇后の祖先は「五十猛」もしくは「アメノヒホコ」である。
祖先の地は越の前の「つぬが=角鹿」すなわち博多である。


89.神功皇后の名前の不思議の謎

仮説
89-1
神功皇后の名前「息長垂姫」とは3種類の意味を持つ。

1.宗像三女神の「市寸多岐都多紀理姫」と同名である。神功皇后の母の出身は宗像三女神と同じ宗像の田島である。
2.博多の「壱岐」「長垂」という地名を含む。神功皇后の神殿は博多にあった。
3.「息長」は風の意を持つ、神功皇后は穴門豊浦宮の壇の浦で壇を焚き風を操った。

90.五十猛と壹與の宗家の謎

仮説
90-1
臺與の宗家とは五十猛でありさらに遡ってスサノオである。

91.「根国=宇美」と「産みの国」の謎

仮説
91-1
記紀に登場する「根の国」と「黄泉国」は同一の国で、91項図1の位置にあった。
仮説91-2
伊邪那美命の黄泉の国の熊野三宮は「宇美」「志免」「須恵」にあった。

91-1.清酒の起源の地とはどこか

仮説
911-1
91-1項図1の場所が酒の発祥の地である。

仮説911-2
資料2の少御神とはスクナヒコナであり、資料1のスクナミ神であり、酒の神である。スクナミ神の神名から「ササナミ道」「ササケ山」が由来した。


92.伊蘇国と伊都国の関係とは

仮説92-1
五十迹手とは本国が伊蘇国で、糸島郡にあり、祖先が天日矛である

仮説92-2
五十迹手の祖先「アメノヒホコ」とは五十猛である

92-1.伊蘇国の都は何処に

仮説
921-1
伊蘇国の都は92-1項の図1の場所である。

仮説921-1
古代都市の条件
1.東西南北に区画された条里制の都市
2.神護石城の麓にある
3.神田を持っている(田のつく地名に囲まれている)
4.船便(海または河または湖に面している)を持っており、交通の要衝にある。

93.龍の国土とは何か?
龍の半島とは?龍の国とは?龍の国とは?龍の理論とは?
94.古事記の伊勢大神宮とは何処にあったか

仮説
94-0
伊勢大神宮は北九州東海岸にあった。
ただし、外宮は京都に、内宮は大和にあった。

仮説94-1
ヤマトタケルの国は図1の「アシハラナカ国」である

第28章 ヤマトタケルは鞍手に実在した証明

95.ヤマトタケルの国は何処にあったか

仮説
95-1
ヤマトタケルの居館は図1のアシハラナカ国、鞍手の淡海(近江)の尾張小牧にあった 。
新説!!!
古代史に激震が走る!

96.ヤマトタケルの尾張を探る

仮説
96-1
日本武尊は鞍手近辺に実在した人物である

仮説
96-2
本物の草薙剣は元々、鞍手の剣山に奉納されていた

仮説96-3
草薙剣は「剣菱の紋章=ヒイラギの八尋矛」の形をしている。
予言96-1
名古屋の熱田神宮にある「草薙剣」が「剣菱の紋章=ヒイラギの八尋矛」の形をしていた場合には、仮説96-2が証明されたことになる。同時に本説も正しいことが証明される。


97.ヤマトタケルの紋章とはなにか

仮説97-1
景行天皇がヤマトタケルに授けた「ヒヒラギの八尋矛」とはなにか?
それは征夷将軍家の紋章である。
どんな形をしていたのか?
剣菱の形である。
証拠は?
飯塚の王塚古墳で発見された剣菱の形の紋章である!!!
新説である!!!


97-1.ヤマトタケル存在の証明

証明
971-1
本項の考察の結果、日本武尊の実在は証明された。
実在の場所は鞍手周辺である。

大発見!!!これで日本武尊の非実在論はまったく根拠がなくなった!!!

97-2.ヤマトタケルの一本松の謎が解けた

仮説972-1
ヤマトタケルは東征から帰還した時に何故「実直に迎える一つ松 あわれ人待つ 人にありせば衣着きせましを」と歌われたのか?
出発する時に植えた「一つ松」が帰還した時に人の高さに成長して「人待つ」してくれたのである。
よって出発した場所と帰還した場所が同一である。
その出発した場所とは?
鞍手の「植木」の神埼であることが解っている。「植木」とは「一つ松」を植えたことに由来する。
証拠はあるのか?
後に、菅原道真がわざわざここ神埼へ来られて「懐かしい一つ松が大きくなった」と歌われた歌が残っている、それが証拠である。
仮説972-2
ヤマトタケルは亡くなるときに何故、「大和の我家の方ゆ雲居たちくも」と歌われたのか?
我家が見えていたからである。
伊勢から見えたのか?
その通り!
では伊勢は大和にあったのか?
その通り!伊勢大神宮内宮があった

98.ヤマトタケルの出生の謎を追う

仮説
98-1
日本武尊は小碓命一人ではない!少なくとも二人以上居る。
小碓命を第二世日本武尊と命名する。

仮説98-2
日本武尊は征夷将軍の位、実質日本国王を表した。

仮説98-3
第一世日本武尊は狗奴国王・猿大海である。

第29章 狗奴国と、卑弥狗呼を追う

99.猿大海と狗奴国王の謎

仮説99-1
猿大海は卑弥呼と素より和せずの狗奴国王だった
仮説99-2
狗奴国は八女にあった
仮説99-3
七支刀とは、景行天皇治世13年以前に呉皇帝「孫権」から狗奴国王「猿大海」に献上されたものである

100.年表を作成する
子が80人とはなにか?亡くなられた歳が137歳とはなにか?

101.景行天皇の謎

仮説
101-1
景行天皇は九州の天皇である。帝踏石の下には景行天皇が隠れている。

102.浮羽とは「西の大和」

仮説
102-1
「東の大和」(奈良盆地)の元祖は「西の大和」(朝倉・浮羽)である。

103.仲哀天皇と男王の謎

仮説
103-1
魏志倭人伝の「名前のない国」の「名前のない男王」とは仲哀天皇である。

104.仲哀天皇と卑弥弓呼の謎

仮説
104-1
仲哀天皇の父日本武尊とは第一世日本武尊(狗奴国王卑弥弓呼、猿大海)である 。


30章 卑弥呼とは倭迹迹日百襲姫命の証明

105.卑弥狗呼と卑弥呼の謎

仮説
105-1
卑弥呼と卑弥弓呼はどちらもアメノヒホコを宗家とする 。


106.魏志倭人伝の登場人物

仮説
106-1
崇神天皇および仲哀天皇および卑弥呼は同時代人である。

107.卑弥呼とモモソ姫の謎

仮説
107-1
卑弥呼は倭迹迹日百襲姫命(モモソ姫)である。
予言107-2
107項図2の大岩の下には卑弥呼が隠れている。

証明107-1
卑弥呼は倭迹迹日百襲姫命(モモソ姫)である。

108.卑弥呼の箸塚解明

仮説108-1
卑弥呼の隠れた「ハシ塚」の上の大岩は神が運ぶのを手伝った。
何故神が手伝ったのか?
人間だけで運ぶには大きすぎたからである。
???????

109.卑弥呼の死と日食の謎

仮説109-1
卑弥呼の亡くなった日付は248年9月5日の直前と考えられる。
自害した理由は、狗奴国との戦争に敗れたためである。卑弥呼の死の直後に皆既日食が起こり人々は卑弥呼の怒りと考えた。
また、卑弥呼の遺体は107項のハシヅカに埋葬されている。

110.ハシ塚の形を調べる

仮説
110-1
卑弥呼の塚「ハシ塚」の形は史上初の前方後円墳である。
大きさは円墳の部分が直径100m前後である。
「ハシ塚」のある太市は参詣者が多く訪れる街中にあった。
倭国では前方後円墳の作られた時期が崇神天皇~垂仁天皇の代限りであり、すぐに禁止になった。


111.ハシ塚の場所を調べる

仮説
111-1
卑弥呼の祀られた大市のハシ塚は111項図1の中にある。

112.卑弥呼の宮ヒメコソ宮を調べる

仮説
 112-1
卑弥呼=アカルヒメ=モモソ姫=兎神=宇佐神宮比売大神

仮説112-2
西暦246年12月8日が「日本国建国」の日付である

仮説112-3
アカル姫の難波の「ヒメコソ社」とは魏志倭人伝の卑弥呼の「卑弥呼素城」であり、豊国の宇佐神宮である。

113.ヒメコソ宮を調べるⅡ

仮説
113-1
魏志倭人伝の「名前のない国」とは仲哀天皇の国「トコヨ国」である。
場所は新羅本紀に記述される「女王國の東、海を渡る千余里(約80km)」である。

仮説113-2
「ヒメコソ宮・ハシ塚同一場所説」を提唱する。

国東に卑弥呼の宮「ヒメコソ宮」が存在し、卑弥呼の墓「ハシ塚」が存在した

証明111-1
卑弥呼の祀られた大市のハシ塚は本項(111項)図1の中にある。

第31章 続 魏志倭人伝

114~124 欠番

第32章 海北95カ国を平らげた王とはスサノオの証明

125.翰苑の面上国とは海表面に浮かんだ国か


仮説
125-1
倭面上国とは海表面の国
仮説125-2
大倭王・師升等とはスサノオ尊である。

126.海北95ヶ国を平らげた王スサノオを追う

証明125-2
「大倭王・師升等とはスサノオ尊である」!
大発見である!!!

仮説126-1
大倭王とは倭国以外に海北九十五国(韓)をも平定した王である。よって倭王に「大」が冠されると「韓」が含まれる。

126-1 生口160人の謎

仮説1261-1
「生口とは国数を表す」
故に生口数は戸籍数に比例する。
新説である!!!

127.ハイテクノロジーの神 五十猛を追う

仮説127-1
ハイテク国家の基礎はスサノオ尊、五十猛が築いた。国家の基礎を築いた神であった。

128.三韓とはなにか

仮説128-1
魏志倭人伝の倭国旧百余国(資料3文中)とは、三韓50余国、狗邪韓國40カ国余、倭国30カ国計120余国を指す。

129.ソシモリ、ソフルとはなにか

仮説129-1
大和の香春(橿原)とは葦原中国の中心にあり、かつ倭国の中心にも位置する。

仮説129-2
「ソフル」とは韓の中心を指す。
「ヤマト」とは日本の中心を指す。
故に、スサノオ尊がソシモリに降り立ったとは韓の首都に降り立ったという意味である。


第33章 豊玉姫とは龍女国女王の証明

130.住吉大神=塩土老翁=事勝国勝長狭=事代主か


仮説
130-1
タケミナカタとタケミカヅチが力比べをした場所「周防」は豊浦宮沖である。
豊浦宮とは豊玉姫の宮であり、龍宮であり、関門海峡にあった。関門海峡は「龍宮城への関門の海」である


仮説130-2
豊玉姫とは龍城国の王女であり、龍の姿で卵を3個産み、そして育った一人がウカヤフキアヘズ命であり、一人が新羅脱解王であり、一人が安曇磯良であった。卵を3個産んだとは3つ児を産んだということであった。

仮説130-3
綿津見神=豊玉彦=海龍王=海神であった

仮説130-4
住吉大神とは塩土老翁、勝国勝長狭、安曇磯良、事代主の別名をもつ同一人物である

すべて新説!!!

131.塩土老翁と豊玉姫とは誰

仮説
131-1
住吉大神とは表筒男、中筒男、底筒男であり、大己貴、大国主、事代主の親子三代に相当する。三代でオシホミミ命、ニニギ命、ホホデミ命、神武天皇を補佐した。

132.龍宮への関門の海

仮説
132-1
豊玉姫は関門海峡に宮(豊浦宮)を持ち、宮は龍宮とも呼ばれた

133.和布刈神社

仮説
133-1
関門海峡の満珠島、干珠島に眠る潮涸珠・潮満珠はアメノヒホコの持って来た八種の宝の中の珠二貫である。

134.住吉神社、龍女とは何か?

仮説134-1
豊玉姫が龍女ならば、豊玉彦は龍神=海神である

135.龍神、天神、天照大神とは

仮説
135-1
天照大神=龍神、天照大神の国=天神の国

136.天照大神の国を発見・証明した!!!

証明
136-1
天照大神の神殿の場所は「狭長田」と呼ばれ、京都にあった。京都の場所とは景行天皇が土蜘蛛退治に上陸した場所であるから、北九州である。

証明136-2
天照大神の神殿は京都にあった。京都の場所とは魏志倭人伝の邪馬壹国である。邪馬壹国とは天の国であった。

予言136-1
京都の「狭長田」に天照大神の神殿の痕が発見される。

大発見である!!!!!!!



第34章 古代史地動説の提唱

137.天動説と地動説を比較検討する

新古代史の提唱

天動説の近畿一元史観では古代史の矛盾を説明できない。ここにその矛盾を一挙に解決できる古代史の地動説を提唱する。

138.天動説の矛盾点と地動説によるその解決策
近畿一元史観は矛盾だらけである。九州多元史観で矛盾なく説明できる。


第35章 ヤマト姫=神功皇后の検証

139.ヤマト姫とは誰?
仮説139-1
ヤマト姫とは壹與であり、神功皇后である。

140.ヤマト姫と神功皇后の関係
5つの条件をすべて満足させなければ仮説139-1は成り立たない。1項目でも満たさない場合は上の仮説139-1は成り立たない。

141.景行天皇とヤマト姫の母の謎
ヤマト姫は景行天皇の同母の妹

142.ヤマト姫と神功皇后の宗家の謎
神功皇后とヤマト姫は同じ祖先日子坐王を持つ。

143.ヤマトトモモソ姫の宗家とは?
倭迹迹日百襲姫命と崇神天皇とヤマト姫は開化天皇を祖とし、祖先を同じくする。


気長宿禰王=丹波道主であることが倭迹迹日百襲姫命=卑弥呼、ヤマト姫=神功皇后である条件である。

第36章 倭国最後の帝とは薩邪馬の証明

145.倭国最後の帝とは薩邪馬か?

仮説145-1
豊国鏡山に葬られた河内王とは、白村江で敗れた筑紫の君薩邪馬であり、倭国最後の王である。

146.河内王とは薩邪馬、手持女王とは稗田阿礼か?

仮説146-1
稗田阿礼とは手持女王のことである。
手持女王の歌った歌は薩邪馬の復活を「天岩戸神話」になぞらえたものである。
「天岩戸神話」の発案者は稗田阿礼すなわち手持女王である。

仮説146-2
鏡山とは天照大神の岩戸神話の本当の舞台である可能性がある。
諸神が集まって協議した「安の河原」とは「河原=香春=カワラ」であり、「河原」の中で「河内」なのではないか。

仮説146-3
神功皇后が奉納した鏡は鏡山に眠っており、それは卑弥呼の鏡である

147.豊国の鏡山とは天の香具山か?

仮説147-1
丕基の豊国とは卑弥呼の国であり、景行天皇、日本武尊の国であり、その国の名は「邪馬壹国」である

仮説147-2
神武天皇も神功皇后も豊国の鏡山に登って国見をされた


147-1.続・豊国の鏡山とはなにか?

仮説1471ー1
万葉集に歌われる「豊国」を歌った10首の全てが北九州を歌ったものであり、特に「天の香具山=豊国の木綿山=豊国の鏡山」である。

仮説1471ー2
日本武尊の「我が家」は「田川市金田町神崎」にあった。東征へ出発する時に「ひとつ松」を植え無事に帰還できた時に「人待つ」と歌われた。後に菅原道真がそこを訪れ「懐かしい」と歌われた。


148.日本武尊と鏡山の関係とは?

証明148-1
日本武尊の「我が家」は「田川市金田町神崎」にあった。

新説である!!!

第37章 熊鰐とは事代主の証明

149.熊鰐一族を追う

仮説149-01
仲哀天皇が治世二年から治世八年といえば間が中5年であり、「仲哀天皇は5年余りの歳月を掛けて関門海峡を自軍の舟が通過できるように開鑿(かいさく)工事を行った」という伝説が地元にあるがそれとピッタリ年数が合っている。故に伝説は真実である。

仮説149-02
北九州・小倉の日明かり=周芳の娑麼浦である。

仮説149-03
熊鰐の本拠地は北九州市八幡東区枝光であった

仮説149-1
卑弥呼が韓から帰って来て到着した場所が「葦一騰宮」のアカル宮、
神武天皇が宇佐でウサツヒコに接待された場所が「葦一騰宮」、仲哀天皇・神功皇后が熊鰐から接待を受けた場所が周芳の娑麼浦の「葦一騰宮」の豊浦宮=卑弥呼素城である。

仮説149-2
枝光の岡田宮に本拠を構える熊鰐が葦一騰宮=アカル宮=豊浦宮=卑弥呼素城で、仲哀天皇・神功皇后を御出迎えした

すべて新説である!!!!

149-1熊鰐と神武天皇

仮説149-3
神武天皇は兄達とここ北九州市八幡東区枝光の岡田宮で合流した

すべて新説である!!!!

150.アメノヒホコと熊鰐の関係とは?

仮説150-1
・難波とは海峡=穴門=関門海峡、
・ヒメコ(卑弥呼)の到着した国は豊国=日本国=卑弥呼の祖先の国、
・日本国王=先帝の御間城入彦五十瓊殖天皇=崇神天皇、
・比売語曽社の神=アカル姫=ヒメコ=卑弥呼
・比売語曽社は難波の穴門(日本国)と、豊国の国東の2箇所ある。
・伊都彦=伊都国の王であるが王ではない=穴門在住の将軍=一大率

仮説150-2
卑弥呼の分身が存在する。
分身とはアカル姫、神夏磯媛、稲葉の素兎(宇佐神)、ヤマトトモモソ姫である。アカル姫、神夏磯媛、稲葉の素兎(宇佐神)、ヤマトトモモソ姫の4人を「卑弥呼の分身」または「卑弥呼の影武者」と名付ける。

仮説150-3
アメノヒホコは宗像の三島の田島に定住し、その子孫が熊鰐であり、熊鰐一族の三島溝橛耳神の娘の玉櫛媛と事代主の間に生まれた姫蹈鞴五十鈴媛命は熊鰐の一族である。

仮説150-4
宗像に在住していた熊鰐一族すなわち事代主一族の娘は天皇の后を出す家柄であった。後世の藤原氏と同じ立場にあった。

151.伊都国と日本のルーツを探る


仮説151-1
魏志倭人伝の伊都国は五十迹手が仲哀天皇・神功皇后を出迎えた遠賀川河口の岡の津にあった

仮説151-2
アメノヒホコの元祖伊都国(伊蘇国)は糸島の前原~博多にあった。
新説!!!

第38章 一大率とは大将軍の証明

152.一大率の伊都国とはどこか?

仮説152-1
崇神天皇=伊都彦=征夷大将軍=一大率である。
新説!!!


153.奴国、不弥国が伊都国から見えた?

仮説153-1
卑弥呼の居城は古名:豊山(現在名:八幡皿倉山)から見えた。
新説!!!



154.伊都国から卑弥呼の居城が見えた?

仮説
154-1
卑弥呼の居城「卑弥呼素城」とは関門海峡~洞海湾にあった。
さらに具体的には神功皇后を熊鰐が出迎えた八幡枝光の熊本山もしくは神功皇后の豊浦宮である。
新説!!!


155.卑弥呼の居場所は不弥国

証明155-1
日本書紀の文章の一部は、魏志倭人伝の伊都国、奴国、不弥国の説明を補足説明した文章である。
魏志倭人伝の文章と、日本書紀の文章が細部に渡って一致することを確認した。故に次のことが言える。
①如意の珠を拾い豊浦宮があった関門海峡が「不弥国」
②周芳の沙麼浦から逆見の海までが「奴国」
③眼下に見える山鹿岬、岡浦一帯が「伊都国」
④そして、仲哀天皇、神功皇后が住まわれた穴門豊浦宮が卑弥呼の居城「卑弥呼素城」

新説!!!

156.一大率とは征夷大将軍?

仮説
156-1
一大率とは征夷大将軍である。官制=律令制度にはない特別に置いた官である。
「特に置く」であるから、よってこの時代に既に律令制があったことが明白である。


第39章 伊都国王とは世々の王の証明

157.魏志倭人伝の伊都国の位置の証明

仮説
157-1
157項図2の赤線が魏志倭人伝一行が訪れたルートである。

仮説157-2
157項図3の青線が魏志倭人伝一行が訪れたルートである。

証明157-1
157項図2の赤線が魏志倭人伝一行が訪れたルートである。
つまり、伊都国は洞海湾~遠賀川河口にあった。

新説!!!


158.倭国へのふたつの航路、海北航路・海南航路とは

魏志倭人伝一行は釜山からまっすぐ南へ行き末廬国の宗像に着いた。隋書一行は壱岐の南側を通り博多へ着いた。
仮説158-1
魏志倭人伝一行が通った航路を「海北航路」、隋書一行が通った航路を「海南航路」と名付ける。

159.世々の王、元祖伊都国と魏志倭人伝の伊都国の関係は?

仮説
159-1
卑弥呼の倭国女王の出現までは、男王が「世々の王」として「統を伝う」していた。
卑弥呼の時代、「世々の王」は一大率=征夷大将軍=日本国王として伊都国に治した。

160.元祖伊都国とアメノヒホコの関係は?

仮説160-1
筑紫風土記逸文に表れる言葉『高麗国の意呂山に天より降り来らし日矛の末裔、五十迹手是なり』の高麗とは「皇来」「高雷」であり、意呂山とは「王丸山」もしくは「飯盛山」のことである。筑紫風土記逸文を解説すると、「伊蘇国の皇祖山、雷山の麓に韓国からスサノオ(皇国の本主)と共に帰国した五十猛(皇国の祖)すなわちアメノヒホコが建国した伊蘇国の末裔熊鰐一族の五十迹手とは私である」である。新説!!!

第40章 アメノヒホコとは五十猛の証明

161.五十猛と飯盛山の関係は?

仮説
161-1
筑紫風土記逸文に表れる言葉「アメノヒホコの降り来立った高麗国の意呂山」とは、 福岡市西区にある高祖山、雷山山系にある飯盛山である。
よって「高麗国の意呂山」とは「高雷国の飯盛山」である。

162.神功皇后の神殿は何処にあったか?

仮説
162-1
神功皇后の神殿が博多にあった。
応神天皇を出産した宇美とは「産み家」があったと推定される。
仮説
162-2
古大宰府は粕屋にあった。

新説である。

163.証明「アメノヒホコとは五十猛」

証明
163-1
アメノヒホコ=五十猛である。
神功皇后、卑弥呼、五十迹手、熊鰐は皆アメノヒホコの子孫であることから証明がされた。


第41章 大己貴とは五十猛の証明

164.大己貴、大国主とは誰か?

大己貴、大国主について史書を丹念に調べた。その結果、次の仮説を立てた。
仮説164-1
大己貴、大国主、大物主、ヤシマシノミは皆、五十猛の分身である。


165.仮説「大己貴=大国主とは五十猛」

仮説
 165-2
出雲とは葦原中国である。葦原中国の中に豊国、空国、刺国、伊都国が含まれる。葦原中国とは日高見国(不弥国)と月隅国(筑紫)の間の一定の領域である、鞍手、六ヶ岳、魚鳥池のある洞海湾、周芳の沙麼浦、穴門の丕基島、氷川などの地名も含まれる。

仮説 165-3
出雲とは伊都国を想定している。


仮説 165-4
出雲とは北九州から筑豊平野に渡る地域である。


新説!!!

166.検証「大己貴=五十猛=大屋彦=八洲シノミ」 

証明
 165-1

「仮説165-2」と「仮説165-3」と「仮説165-4」はすべて証明された。

167.証明「大己貴とは五十猛」完了

証明
 167-1 
大己貴とはスサノオと奇稲田姫の子・五十猛である。大国主は五十猛の別名でもあり、その子の事代主にも大国主の名前が受け継がれた。


仮説 167-2
大己貴とは八嶋士奴美、大屋彦、五十猛、大国主の別名を持ち、神名として葦原色許男神、八千矛神、宇都志國玉神、韓神曽保利神、有効(いさおし)神の神名を持つ。
いさおし神から「いそし」=五十猛となった。


仮説167-3
大己貴→大国主→事代主と親子三代にわたって代々神名を受け継いだことから「2度死んで2度生き返る」となった 。

168.大己貴の定義

仮説
168-1 
大己貴の定義

大己貴とは、大三輪の貴の神=五十猛=倭国最高の神=倭国男王のことである。

新説!!!

第42章 天津日継の儀式が行われた場所は北九州奴国の証明

169.天の御饗とは天津日継の儀式のひとつか

仮説
169-1
天の御饗とは天津日継の儀式の式次第のひとつである。
天津日継とは皇統を受け継ぐ儀式である。
169項の天の御饗の5例の場所がすべて同じ場所である。

170.天津日継の場所は北九州の天の国に決まっていた


天津日継または天の御饗をしたと記紀に記述される場所5箇所を調べたところ、5箇所ともに北九州であった。故に仮説169-1は証明された。

証明170-1
天津日継を行う天の国とは豊国であり、菊の国である。

これは新発見である!!!

第43章 「大三輪」とは「朝倉郡三輪町弥永」の証明

171.仮説「大三輪とは、『朝倉郡三輪町弥永』である」

仮説
171-1
大三輪とは、場所は「朝倉郡三輪町弥永」である。
ただし700年前後以降の話であってそれ以前の倭国の時代は大己貴と呼ばれていた。

これは新説である。

172.証明「大国主が隠れた場所は『朝倉郡三輪町弥永』である」完了

証明
 172-1
大三輪とは、場所は「朝倉郡三輪町弥永」である。大己貴神は大三輪(朝倉郡三輪町弥永)に鎮座した。


仮説 172-1
「朝倉郡三輪町弥永」に鎮座する大己貴神は出雲の国譲りの大国主である。


仮説 172-2
出雲の国譲りの大国主の隠れた場所は「朝倉郡三輪町弥永」である。


大発見である。

173.卑弥呼と大三輪の関係は?

仮説
 173-1
卑弥呼の塚(ハシ塚)は西の三輪山と大阪山を結んだ延長線上、御所が岳の東端にある。


証明 172-1
大己貴神は大三輪に鎮座した。


証明 172-2
「朝倉郡三輪町弥永」に鎮座する大己貴神は出雲の国譲りの大国主である。


証明 172-3
出雲の国譲りの大国主の隠れた場所は「朝倉郡三輪町弥永」である。


予言 173-1
卑弥呼の塚(ハシ塚)は、京都の御所ヶ岳の東の端にある。

第44章 アチスキタカヒコネ神の名前とその証明

174、仮説「アチスキタカヒコネの父=大歳神=正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命」=鴨大神

仮説
174-1
アチスキタカヒコネ神の父=大歳神=正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命である

アチスキタカヒコネの名前を明かしたと、シタテルヒメの歌に詠まれている。しかし、まだそれを読み取った人が居ない。本説を元にして、その名前を読み取ることができた。

新発見である。

175.証明完了

証明
174-1
アチスキタカヒコネ神の父=大歳神=正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命である

日本書紀に「神功皇后が吉備臣の祖の鴨別に命じて熊襲に向かわせた。結果いくらも経たないうちに自然に服従した」とある。これを分析することによって仮説が証明された。


第45章 ニギハヤヒ命が大国主である証明

176.ニギハヤヒ命を調査する
仮説176-1
ニギハヤヒ命は大和を中心とした王朝の政治の実権を握り皇統を守ってきた神である。


仮説176-2
ニギハヤヒ命とは大国主である

177.仮説「ニギハヤヒ命=大国主」
仮説ストーリー177-1
スサノオの天下統一による横暴から天照大神が天岩戸隠れをした。スサノオの子・大国主の五十猛は天子オシホミミ命を擁し、大八島を支配し出雲で、『私一人でこの倭国を支配している』と言った。八十神は危険を感じ天照大神の岩戸開きをし、その権威の下に大国主に出雲を国譲りさせ、天の国の領土とした。そして出雲にオシホミミ命の子供で幼児のニニギ尊を天孫降臨させた。ニニギ尊が大きくなってから大国主(=ニギハヤヒ命)の大和を攻めこれを制圧した。ここに卑弥呼と神武天皇(崇神天皇)により葦原中国の騒乱が平定され、倭国統一がなされた


178.証明「ニギハヤヒ命=大国主」完了
仮説178-1
出雲の国譲りと神武東征とは若干時間差のある同時代である


仮説178-2
ニニギ尊と神武天皇は限りなく同一人物に設定されている。
出雲も大和も葦原中つ国の中の一国である。


証明176-2
ニギハヤヒ命とは大国主である



第46章 出雲の国譲りの真相

179-0.仮説ストーリー「出雲の国譲り」

出雲の国譲りの仮説ストーリーをさらに検討して、次のことが解った。
ニニギ尊の皇孫降臨~出雲の国譲り~神武天皇の大和平定の期間は100年以内である。

仮説 1790-1
ニニギ尊≒神武天皇=崇神天皇と考えられる。新説である。

179.出雲の国譲りの登場人物
出雲の国譲りの登場人物を整理した。

180.出雲の国譲りの舞台=中原

仮説
180-1
「出雲の国譲り」と「大和平定」の舞台を考察したところ、本項で「葦原中つ国」と名付けた場所の内側に集中した。
葦原中つ国=中原という概念は全く新しい説である。

181.出雲の国譲りとは中原争奪戦

仮説
 181-1
出雲とは葦原中国=中原、出雲の国譲りとは中原争奪戦であった。



第47章 奴国とは「天の国」の証明

182.ふたつの奴国の謎

仮説
182-1
二つの「奴国」とは、どちらも「アメ氏の国」である

仮説182-2
北九州の「奴国」とは、豊国であり、天津日継のおこなわれるアメ氏の「天の国」であり、「日ノ本」である。

仮説182-3
古筑波山の麓に兎神の古宇佐神宮があり、「天津日継」「天の御饗」を受ける場所であった

183.もうひとつの筑紫の奴国
仮説183-1
もうひとつの「天の国」が筑後の水沼、御井、浮羽にかけて存在した

仮説183-2
魏志倭人伝のもうひとつの「奴国」は浮羽にあった

184.筑紫の奴国とは浮羽の証明
仮説184-1
北九州奴国が「京都」であり、筑後奴国が「奈良」であり、両京があった。

仮説184-2
歌に歌われる「京師=奈之都」とは、筑後奴国の「奈良の都」のことであり、両京があった。

仮説184-3
景行天皇は九州巡狩の最後に浮羽に立ち寄られ、アメの国で「天の御饗」を受けられた。

185.筑紫奴国での斉明天皇と卑弥呼と神功皇后の接点
仮説185-1
卑弥呼と神功皇后と斉明天皇が筑紫奴国の朝倉浮羽で接点を持つ。

証明185-1
卑弥呼と神功皇后と斉明天皇が筑紫奴国の朝倉浮羽で接点を持つ。


186.奴国とは京、奈良の都
仮説186-1
二つの奴国とは二つともアメ氏の国であり、京、奈良の都であった。

仮説186-2
天子のいます京の都が政治的中心地ではなく、天皇、将軍の居ます大和、伊都が政治的中心であった。

第48章 魏志倭人伝詳考

187.「渡る」と「度る」
「度る」とは両方の接点を持って距離測定を行いながら航行したこと。「渡る」とは接点を持たず、航行したこと。
以上のように使い分けをしている。
このことから、魏志倭人伝一行の航行のルートが解った。

証明187-1
魏志倭人伝一行の実際の航路は187項図1である。

証明187-2
魏志倭人伝の末廬國とは宗像である。

新説である。

188.「到る」と「至る」
「到る」とは実際に到ったこと。「至る」とはもし行けばであり実際に行っていない。したがって伊都国より東と南には行っていない。それは距離、方角、国名の記述順序からも解る。それではどうやって卑弥呼の城が記述できたのか?それは伊都国の山から克明に見えたからである。

証明188-1
「到る」とは「実際にその場所に行った」ということであり、「至る」とは「行かないがもし行けば」という意味である

新説である。

189.「戸」と「家」
「戸」とは税を徴収する基礎となる戸籍の元になる「戸」である。「家」とはさらに細分化された税の徴収基礎である。
何故一大國と不弥国のみが「家」なのか?それは国際貿易都市だったからである。戸数から行けば倭国内の8カ国で300万人の人口があり、驚くべき数字である。


仮説189-1
一大國、不弥国は国際貿易都市であった。



190.周旋五千里とは?
周旋とは倭国の九州内の27カ国の一周の距離であった。葦原中つ国と某国21か国の併せた周囲1200里×1300里のことであった。

仮説190-1
魏志倭人伝の末廬國、伊都国、奴国、不弥国、投馬国、邪馬壹国6カ国を方千里(周旋四千里)の「葦原中国」と言う。
「葦原中国」と「某国21カ国」を合わせた範囲が魏志倭人伝の「周施五千余里ばかりなり」である。

これは新説である。

191.末廬國Ⅰ

仮説
191-1
魏志倭人伝の末廬國は宗像である。


仮説191-2
「大倭」は「末廬國と狗邪韓國」に居た


仮説191-3
「大倭」とは「日本府」の帥であった


仮説191-4
宗像の田熊石畑遺跡の倉庫群とは大倭の租税倉庫であった。


192.末廬國Ⅱ
「山海に沿いておる」とは、例えば神戸のように山と海が迫って長々と伸びているイメージである。本ホームページで末廬国に想定する、宗像から津屋崎海岸はイメージにピッタリである。

193.神功皇后と末廬國Ⅲ
仮説193-1
神功皇后は末廬國の宗像に行き、釣川で鮎占いをした


愚考:東郷元帥が日本海海戦でバルティック艦隊を破ったのは神功皇后と同じく「瀚海」の潮流を利用したからである。

194.末廬國Ⅳ
仮説194-1
「草木茂盛して、行くに前人を見ず」の道を行く時は行軍速度は1日5kmである


証明194-1
魏志倭人伝の末廬国とは宗像である。



195.投馬国Ⅰ

仮説
195-1
魏志倭人伝一行は遠賀川の淡海を遡って水行した。
投馬国は遠賀川上流にあった。


196.投馬国とは元祖大和の証明

仮説
196-1
投馬国の官の「彌彌」とはオシホミミ命の「彌彌」である。
「彌彌」のつく神は投馬国の官である。


証明 196-1
魏志倭人伝の投馬国とは元祖大和であり、その場所は葦原中つ国=筑豊平野である。
大発見である!!!

197.投馬国は筑豊平野にあった証明

仮説197-1
投馬国の戸数5万戸の根源の穀物とは稗、粟、黍、高粱、小豆の他に新たに開拓された千五百反の水田の米であった。

198.投馬国の遠賀川稲作遺跡
遠賀川の川床には日本最古の稲作遺跡や、日本武尊の立屋敷遺跡などがある。
予言
今後遠賀川の川床から続々と重要な遺跡が発掘されるであろう。

199.投馬国の真実
投馬国とは御祖の国であり、伊邪那岐命の国であり、スサノオ尊の出雲であり、ニニギ尊の日向であり、神武天皇の大和である。新説である。

200.空見つ大和とは
投馬国=元祖大和について神々の言葉が残っている。
195~199項の考察が正しいかどうかをこの言葉と整合しているかどうかで検証した。
すべて矛盾なく整合している、故に検証されたと考える。

仮説
投馬国とは元祖大和であり、「空見つ大和」である。「虚見つ大和」とは「西の大和」「東の大和」である。

201.伊都国Ⅰ

証明
201-1
魏志倭人伝の伊都国は洞海湾にあった。
魏志倭人伝に記述される末廬国と伊都国の関係を元に、候補地を3箇所選定し、比較検討した結果、記述に適合するのは、伊都国が洞海湾の場合のみであった。

202.伊都国Ⅱ
証明201-1の検証
魏志倭人伝一行が郡都から狗邪韓國、末廬國へ行った航路と、隋書の一行が壱岐の南側を通り、博多へ行った航路を比較検討した結果、実際の地理と記述に整合性がみられた。
故に、証明201-1は検証された。

第49章 邪馬臺国近畿説の虚構

203.景行天皇陵の虚構

仮説203-1
崇神天皇陵は九州にあるべきである。よって奈良の山之辺にある崇神天皇陵は疑わしい。同様にその傍にある景行天皇陵は比定が疑わしい。同様に傍にある卑弥呼の箸墓古墳も疑わしい。

204.天皇陵の虚構

仮説
204-1
倭国での大きい陵の築造は卑弥呼が亡くなった248年から垂仁天皇の殉死禁止令までの期間約18~50年間である。したがって倭国には大きい陵が数少ないと考えられる。
よって大きい前方後円墳が多数存在する国、例えば近畿地方は倭国ではない国である。

205.近畿説の虚構


仮説
205-1
倭国の王城の地は地形まで変えて徹底的に破壊された、卑弥呼の名前まで含めて。

206.大仏の虚構


予言
206-1
香春で大仏鋳造の鋳型が発見された時、大仏が香春に鎮座していたことが証明される。
同時に本説が正しいことが証明される。

仮説206-1
日本書紀の編者は九州出身者である。



206-1.周芳の沙麼浦の虚構


山口県の周防の佐波からは九州に煙を見ることができない。



206-2.神が出現した日


「神」とは元は「人」であった。


第50章 古田説批判

207.翰苑との矛盾

古田氏の倭国の都博多説に異議を唱える。

208.里程の矛盾

古田氏の里程論に異議を唱える。

209.韓国内陸行の矛盾

古田氏の韓国内陸行論に異議を唱える。


209-1.島巡り理論の矛盾

古田氏の対馬・壱岐島巡り理論に異議を唱える。

210.南斉書との矛盾

古田氏の南斉書批判論に異議を唱える。


211.一大率の矛盾

古田氏の一大率批判論に異議を唱える。

212.一大率の矛盾Ⅱ

古田氏のニニギ尊降臨地論に異議を唱える。



第51章 鳥越憲三郎説批判

213.南と東の矛盾

214.里程の矛盾

215.国家の矛盾

216.古の倭奴国の矛盾

217.倭国大乱の矛盾

218.里程の矛盾Ⅱ



第52章 記紀の作者


219.記紀の作者は九州人

220.記紀に封印された暗号

221.古事記の作者は、手持王女

222.古事記の作者は、下照姫

223.日本書紀の作者は、柿本人麻呂

224.日本書紀の作者は、大伴坂上郎女


第53章 新京都学


225.遷都前の京都とは

226.古代史上の京都とは、豊前の国の「京都」

227.京都と天の国の関係

228.ニニギ尊を案内した、猿田彦の道案内ルート

229.ニニギ尊が見られた、「日向」から見る天の国」

230.景行天皇が見られた都の空

231.アメタリシヒコの京都とは、豊前の国の「京都」



第54章 九州王朝の暦


232.九州王朝の暦発見


233.九州王朝の暦を用いた年表

234.大予言 記紀とは、九州王朝の暦を使用して、記述されている

235.真実のストーリー

236.九州王朝暦発見の経緯

237.九州王朝の暦と神武天皇

238.九州王朝の暦と崇神天皇

239.九州王朝の暦と景行天皇

240.辛酉革命

241.命名「九州王朝の暦を使用した、景行天皇の治世元年を基準年とする、減算紀年法



第55章 九州王朝の暦を用いた年表考察


242.干支の不正確さを魏志倭人伝で補う

243. 日本書紀は年代決定の基準に魏志倭人伝を使った

244.
日本書紀の年代決定の起点は、神功皇后摂政元年(西暦249年)である

245.神功皇后摂政元年起点の年表

246.年表の矛盾点考察

247.縦糸・横糸

248.年表の矛盾点はすべて解決



第56章 暦の考察

249.周の暦

250.九州王朝の暦の紀元

251.神武天皇の暦

252.「17,192,470年余り」の「余り」とは


発見!
第57章 国名地名移動法則Ⅱ

253.国名地名移動法則詳考

254.日本国土を舞台にした壮大なバーチャルリアリティのメカニズム

255.国名地名移動法則の細部考察

256.壮大な仕掛け


第58章 壮大な仕掛け編


257.日本の国土を「整える」とは

258.日本の国土を「整える」Ⅱ

259.日本の国土を「整える」Ⅲ

大発見!!!
第59章 古代史地動説


260.盗まれた地名と神話

261.日本書紀が暗号で記述される理由

262.景行天皇は九州の大王であった

263.卑弥呼の金印を予言する

264.日食と卑弥呼の関係から卑弥呼は九州東海岸に居た

265.神功皇后は九州から一歩もでていない


大発見!!!
第60章 魏志倭人伝の暗号編


266.魏志倭人伝の暗号Ⅰ

267.魏志倭人伝の暗号Ⅱ

268.魏志倭人伝の暗号Ⅲ

269.魏志倭人伝の暗号Ⅳ

270.魏志倭人伝の暗号Ⅴ

271.魏志倭人伝の暗号Ⅵ

272.魏志倭人伝の暗号Ⅶ

273.魏志倭人伝の暗号Ⅷ

274.魏志倭人伝の暗号Ⅸ

275.魏志倭人伝の暗号Ⅹ

276.魏志倭人伝の暗号XⅠ

277.魏志倭人伝の暗号XⅡ





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