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里浦周遊

こういうのです(2006/08/07)

北浦の虫送り

□ 小説に見る虫送り

◆和田はつ子『虫送り』(角川ホラー文庫/平成12年初版)

『虫送り』未読の方が以下のテキストを読むと、いざ読み始めた時の面白さが何割か減ることになるかもしれません。それでも良いという方、虫送りの表現が知りたいだけで小説を読む気はない方、すでに読了した方向けのテキストです。ほとんど虫送りオンリー。なお勝手ながら敬称略。

さて、しょっぱなからアレですが、ホラー作家和田はつ子は、私の中ではあまり評価が高くありません。扱っているテーマやネタは趣味に合うものが多いのですが、全体にアラが目に付きます。もう少し設定煮詰めて凝った話にしてくれると嬉しいなぁといつも思います。というか、角川ホラー文庫のくせしてあんまり怖くないんです。

最初に読んだのはたしか『多重人格殺人―サイコキラー―』で、日本食文化で民俗ネタで○○症で喫○と、非常に読者を狭めるシロモノでした。これは『虫送り』も含む通称「日下部&水野シリーズ」の一作目であり、和田はつ子作品の中では今でも一番好きです。このシリーズは、日本の前近代の食を切り口に民俗ネタを扱っていて、着眼点は非常に面白いのですが、いささか自家撞着というか、いくらなんでもそりゃ無茶だからと言いたくなることが多いです。

つまり民俗ネタを扱っていても、和田はつ子が作中で展開している説を信じてはいけないということです。『虫送り』に限れば、作中で行われている「虫送り」と、通常「虫送り」の語で想起される民俗行事とは、大きな隔たりがあります。


■ 引用
「残念ながら他では熊を送る風習はありません。虫を送るのであれば、ほぼ日本全国の農作地帯に残っているはずです。ただし虫送りの意味は熊送りとは少しちがうんです。害虫駆除が目的。虫祈祷という風習もあることから駆除した虫への供養だという人もいます」(125頁)
「アイヌの送りの儀式は調理と関係している。だから熊なんかの陸獣の他に鳥や海獣、魚類、つまりシカやフクロウやアザラシ、鮭なども送っていたわけよ。あともの送りというのがあって、使われなくなった日用品も送って神にして崇めた」
「それなら内地にもあるつくも神信仰と共通する。多神の自然神を崇める原始宗教はとにかく手厚いのが特徴」
「ところがここで一つ抜けているのが虫なのよ。一寸の虫にも五分の魂という言葉があるわね。仏教の殺生禁止と関係があるんでしょうけど、アイヌのユーカラにも虫を神と見做す話がある。にもかかわらず虫を送ったという話は聞かない。私の知る限りでは資料にもない」
「そうだとしたら災害と関係するかもしれません」
日下部は札幌にある、おびただしいバッタの死骸を埋めたという塚を思い出していた。開拓民の死活に関わった想像を絶する虫害。ヒエを耕作していたアイヌたちにとって虫が送りの対象にならなかったのは、彼らの存在が脅威的すぎたからだと考えられる。
日下部はそのことを指摘し、
「虫は疫病や洪水、旱魃などと並んで悪神の代表格であった可能性が高い。もしかしたらアイヌの居住地だったどこかに虫塚ならあるかもしれませんよ。凶事の主役を供養してなだめ、自分たちの守護に当たらせようという生活の知恵は、太古の昔から万人共通のものでしたからね」(174頁)
「ええ。井戸無村、アイヌ語のイトンナプが当てられたんじゃないかと思うんです。イトンナプはアリという意味です。アイヌが儀式に使用したと思われる洞窟には祭壇がありました」
そこで日下部はその洞窟でかつてアイヌが祀ったのはアリの神ではないかということ、万物に神を見いだすアイヌは、熊送りに匹敵する虫送りの行事を行っていた可能性があると主張した。そしてその行事はアイヌに限らず、昆虫食があった全国の縄文人に共通していたものではなかったかという推理を展開した。
「なるほどそれだとなぜ日本の一部の地方で、虫害を”源平盛衰記”に出てくる斎藤別当の祟りだといってきたのかわかる。ぴんときたよ。農業生産の発展は一時食物として崇められていた虫たちを、農耕の敵として抹殺し続けてきたわけだから。その申しわけなさを悲運に死んだ武将の恨みに重ねて謝罪してきた。それが全国的に行われてきた虫送りの真髄だったんだな」(298頁)
まず洞窟へと続く小道に焚かれた松明が固定される。さらに大人たちは列になって一人置きに松明を掲げ、洞窟の周辺を鍋や釜の底を叩きながら徘徊していく。これが繰り返された。誰が提案したのか、定期的に声がかけられる。
「田の虫は岡さ、畑の虫は山さ」
またあるいは、
「稲の虫送った、どこまで送った、空の果てまで送ったい」
洞窟をめぐって歩く集団は異様な熱気に包まれはじめた。誰もが一心不乱にこの呪文を唱え続けている。ついに呪文は金属の奏でる音とともに切れ間なく聞こえ続けるようになった。
松明にステノの画が照らし出されている。画に異変が起きた。アイヌの酒宴が描かれていた画面が変わった。
それは見知らぬ時代の光景だった。背景には山と谷、そしてうっそうと茂る林が見える。月は三日月で風が吹いている。土と稲の匂いがたちこめていた。
土埃をたてながら歩く人の列があった。屈強の男たちで上半身は裸、ふんどしをしめて頭には手拭いを被っている。「空也上人、なむあみだぶつ」と書いた紙の旗を持っている。鐘を鳴らし法螺を吹いている。あるいは二人がかりで棒に吊るした太鼓をかついで移動させながら叩いている。
松明が高く高く掲げられている。斎藤別当実盛と名札がつけられた、等身大の藁人形がねり歩く。
さらに画面は変化していく。畦道の子供たち。体育着を来た二人の少年がわらでできた籠をかついでいる。籠にはぺたぺたと「悪虫送り」、「実盛様送り」と書かれた紙が貼られている。素朴な少年たちの笑顔がまぶしい。
そしてそれに呪文が重なる。繰り返される。
「田の虫は岡さ、畑の虫は山さ」
「稲の虫送った、どこまで送った、空の果てまで送ったい」
やがて空が白みはじめた。甲斐はなかったと日下部がうなだれかけるのと、縁寒川についながる洞窟の突き当たりの出口から黒い煙が昇りたったのとは、ほとんど同時だった。
それはまたたく間に空を覆い尽くした。また夜が来たと誰もが思ったほどだった。(300頁)

■ コメント

この作品の中では、アイヌの神事である「熊送り」と日本全国の農業地帯に残る害虫駆除の「虫送り」、及び作中での人体に入り込んで影響を与える「人工昆虫」を作り出した人間のもとへと送り返す「虫送り」が、おそらく意図的にですが混同されています。「日下部&水野シリーズ」における通しテーマ「前近代日本の食文化」に昆虫食を、北海道を舞台にしたアイヌの文化として「熊送り」を、というところまでは良いのですが、昆虫食に関わる民俗行事に「虫送り」、現代の事件のために生物農薬としての「人工昆虫」「食虫昆虫」ではイメージを重ね合わせることが難しく、さらに社会的なテーマに寄生虫による奇行化として若年層のSTD問題を持ち込んだのは、的を絞りきれなかったように思えます。つーか空気感染するなら性衝動の活発化は必要ないでしょうに。

つっこみだすとキリがなさそうなので話を「虫送り」に限定すると、まずこの作品では「日下部&水野シリーズ」の中でも一番と言っていいくらい、呪術が有効です。同じシリーズでも呪術の無用を語る作品もあり、たとえば『多重人格殺人―サイコキラー―』はそうです。なぜこの呪術が有効か説明がなく、また非常に恣意的なので、私などには物足りないのですが。そしてここで行われる呪術は、一般的な「虫送り」の背景としてのそれとは大きく異なります。一般的な、というのも説明が難しいので、具体的には当項のテーマである豊北町域の虫送り「サバー送り」と照らし合わせてみます。

「サバー送り」で送られる対象となるのは、稲につく害虫であり、これは田畑に近いところに置かれるというかたちで、場所を田畑に限定することで物理的に限定されます。作品中の「虫送り」の対象は寄生虫と化した人工昆虫ですが、呪文は「田の虫は岡さ、畑の虫は山さ」「稲の虫送った、どこまで送った、空の果てまで送ったい」であり、場所もかつてアイヌが虫を祭っていたと思われる洞窟であって、特定の虫を対象としているわけではありません。あえて言えば「田の虫」「畑の虫」「稲の虫」もしくは「食用虫」であるにも関わらず、対象となるのが問題の寄生虫のみであるあたり、個人的には納得がいきません。

「サバー送り」では「村から村へ」という表現が使用されるように、村の中の害虫を村の外へ追い出すことが目的です。現在でははっきりわからなくなっていますが、基本的には「自分(たち)の土地=ムラ」から「自分(たち)のものではない土地(ムラの外)」でしょう。自覚されているのは虫を追い出すべき「ムラ」であって、送り出す場所は「ムラの外」ならとりあえずどこでも良いのです。作品中の「虫送り」は、「サバー送り」の持つこのエゴイストな性格に、まったく頓着していません。人間に影響を与える寄生虫を「ムラの外」へ追い払うということは、本来被害を無限に拡大することに直結するはずです。たまたま燃える速見宅に向かったから何事もなく済んだものの、ご都合主義ではないでしょうか。

「サバー送り」では「カラヘイケ」つまり「唐へ行け」と唱えていたようですが、作品中の「虫送り」では「空の果てまで送ったい」となっています。「サバー送り」の呪文は、海を隔てた異国を意識する当地域の感覚を反映していると考えられます。作品中の「空の果て」はかなり抽象的な表現ですので、比較的新しい時代のものか、あるいは作者の創作かもしれません。この作品で日下部が滞在する喜多川家は仙台藩の流れということですが、井戸無村の住民が同郷の入植者か否かは不明です。住民の出身地が同一であれば、民俗行事には元の地域の影響が残っていても不思議はないのですが、作品中にはその点についての言及はありません。

「サバー送り」とは、ムラの中の害虫を払い、ムラの外へと追い出すものです。作品中の「虫送り」はその意味では「サバー送り」のような一般的な虫送りと同じですが、詳しく見るとかなり性格が異なります。ここで描かれているのは「虫送り」ではなく、むしろ「呪詛返し」あるいは「式神返し」のようです。災厄は悪意によって発信され、それに対し行われた虫送りは、まっすぐ悪意の発信者のもとに向かうからです。速見のようにマッドサイエンティストなキャラクターを出してしまうと、事件が個人の犯罪に収斂してしまうので、「サバー送り」のような追い払うだけでよしとする送りの対象とはしづらいでしょう。だからこそ「熊送り」のイメージを持ち込んだはずですが、神なる熊と寄生虫ではこれまた異なります。ここで選ぶ呪術はいわゆる「虫送り」ではなく別のものの方が良かったような気がします。

私にとって、この作品は残念ながら物足りない内容でした。悪意の被害対象が拡散していること、「虫送り」というには本来の性格からかけ離れていること、問題の人工昆虫の開発や生態に説得力がないこと、呪術を含めて決着のつけ方に論理性が欠けていることなどからです。特に「虫送り」については、タイトルにも関わらず、かなり実際と違うものになってしまっているので、人にすすめる際には注意が必要だと思います。自分で選んで誤解するぶんには、まあ、自分で何とかしてもらうしかないですが。

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