元寇長門襲来説

リアル肩書きで情報発信するなら特にきちんと調べるべきだと思う(2007/06/14 2007/11/28Last Update)

■ コラム ■

□ 武田邦彦「恩人・吉田松陰(1)萩と松蔭の頃」を批判する

どちらかというと、ツッコミ系書評に近い文章です。さして真面目に書いてはいないので、ふざけた部分もあります。そういうのが嫌いな方は、覚悟して以下をお読みください。

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◆はじめに

あらかじめお断りしておきます。当頁は、武田邦彦氏(2007年6月現在中部大学総合工学研究所教授・副所長)の個人サイト内におかれた執筆作品集「歴史・倫理・日本:恩人・吉田松陰(1)萩と松蔭の頃」(http://takedanet.com/2007/04/post_d320.html)の山口県ならびに海流の記述に対する批判です。「武田邦彦「蒙古襲来」(『常勝ニッポン其の三』)の長門襲来説を批判する」で取り上げた武田邦彦氏が、他にも問題があると思われるテキストを、同じサイト内で公開しているので、併せて取り上げることにしました。ただし、当項のテーマである「元寇長門襲来説」には直接関係しないので、こちらのコラムに入れています。

当頁の引用部は基本的に武田邦彦「恩人・吉田松陰(1)萩と松蔭の頃」です。「引用はご自由にどうぞ」とありますので、遠慮なく適宜引用します。このテキスト自体はもっとずっと長いものですが、当頁の趣旨を鑑み、私の当面の知識で扱える部分のみに限定して取り上げます。なお、当頁の引用部は全てコピー&ペーストしており、原文ママです。武田氏は、WEB公開テキストの修正とそれがもたらす問題をあまり意識しておられない(※A)ようなので先に明記しますが、今後当頁の引用文と該当頁の記述が異なる場合、その旨の表記がなくとも武田氏の修正による筈(※B)です。

最初に強調しておきますが、私は、武田邦彦氏の専門分野における主張や研究業績や活動について、批判したり異論をさしはさんだり反論したりしたいわけではありません。そんな知識も能力もありません。

ただ、仮にも「教授」の肩書きを持つ「研究者」が、畑は違えど同じく「研究」されている分野について、長年にわたって蓄積された研究方法やその成果を顧みることなく、思いつきを書き散らし、誤った情報を「教授」の肩書きで発信していることが、残念でなりません。それは氏の読者のみならず、対象となった分野にとっても、また「研究」をなりわいとする氏自身にとっても、マイナスであろうと思います。当頁の目的は、武田氏のテキストの問題点を挙げることにより、誤情報の伝播を少しでも防止するとともに、大学教授の権威が非専門分野において乱用される危険性を指摘することです。


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◆引用について

かくすればかくなるものと知りながら
已むに已まれぬ大和魂

冒頭は吉田松陰の詠んだ歌です。武田氏にとっては常識の範疇だから余計だと思ったのかもしれませんが、作者名を書く方が親切ではないかと思います。せめて引用符で囲むとか。レイアウトの問題なので本筋ではありませんが、全般に氏のサイトのテキストは、地の文と引用部がほとんど同じスタイルなので、見分けづらいです。

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◆駅名について

 萩市から西に山陰本線を下る。車窓に入り組んだ海岸線と澄んだ海、なだらかな山並みが浮かぶ。すでに萩市と下関市の間の山陰本線は完全にローカル線となり、高校生を乗せてコトコトと走っている。
 ………長門市、黄波戸(きわど)、長門古市、人丸、伊上、長門粟野、阿川、特牛(こっとい)、滝部………
 日本の鉄道のものとは思えないこれらは萩市から下関市に向かう山陰本線に現れる駅の名前は長州のおかれた歴史的、空間的意味をよく示している。日本地図を開いてみると、縦に長い日本の国土だが、大陸に極めて近い場所に山口県の日本海海岸線がある。
 その海岸線からは韓国の釜山とは目と鼻の先。先史時代から多くの渡来人が韓国の釜山から小さな船を操って渡って来た。そして、あるいはそこに住み、結婚し、子孫を残した渡来人が付けた地名が今でも山陰本線の駅名として残っているのである。

なぜ萩からスタートか、といえば、このテキストのタイトルが「恩人・吉田松陰(1)萩と松蔭の頃」だからでしょう。にも関わらず、ここに挙げられたJR(旧国鉄)山陰本線の駅名は、「萩」やその西隣の「玉江」ではなく、なぜか「長門市」からはじまっています。この点について、私が想像する理由は後述します。

ここに列挙した山口県西部にある山陰本線の駅名を、武田氏は「日本の鉄道のものとは思えない」と言います。しかしながら、どこが「日本の鉄道」らしくないのか、説明がないのでわかりません。氏のテキストにおいて、この説明がない部分を埋めるものが、武田氏の持つ「大学教授」という肩書きです。読者に「大学教授が言うならこの駅名は『日本の鉄道』らしくないのだろう」「大学教授くらい知識と教養があれば駅名を見て『日本の鉄道のもの』かどうかわかるのだろう」と、思わせてしまうのです。

例えば「逢妻、大府、共和、大高、笠寺、熱田、金山…この駅名は日本のものとは思えない。近くの熱田神宮には、かつて楊貴妃が渡来したという伝説もあった」などと大学教授が語れば、そんな気がしてしまうのではないかということです。ちなみに列挙したのは、JR東海道本線の駅名です。あくまで例であって、私は別に違和感を感じてはいません。

まあ、駅名に「日本の鉄道」らしさを感じるか否かは、個人の知識と感覚によるものですから、武田氏が山陰本線の駅名にそれを感じなかったとしても、止むを得ません。けれど、反論はあります。その理由を以下に述べます。

まず9例の駅名のうち、3例についている「長門(ながと)は古代以来の旧国名であり、「長門市(ながとし)は別としても「長門古市(ながとふるいち)「長門粟野(ながとあわの)の2例のように、旧国名がわざわざ冠せられてるのは、他所にある「古市」「粟野」の駅名と区別するためです。山陰本線は他の路線に比べて敷設が遅かったので、駅名に使いたい地名はすでに他所で使用されてしまっていることが多く、同名による混乱を避けるために「長門(の)古市」「長門(の)粟野」としたのです。萩〜下関間には他に「長門三隅(ながとみすみ)」「長門二見(ながとふたみ)、萩より東に「長門大井(ながとおおい)があります。

武田氏は、自身がこれらの駅名に対して感じた違和感を「渡来人が付けた地名」ゆえだとしていますが、「古市」「粟野」あるいは「三隅」「二見」「大井」は、駅名自体が示す他所の地名との共通点を、どう解釈するのでしょうか。これら駅名が渡来人の痕跡なら、日本全国あちこちにあるわけで、山口県の駅名に限って取り上げる理由がありません。

もしかしたら武田氏は、3例についている旧国名「長門」をもって「日本の鉄道のものとは思えな」かった可能性もありますが、私はこれは当らないと考えます。理由は、独断と偏見で恐縮ですが、旧国名「長門」「日本の」「ものとは思えない」のなら、大日本帝国海軍の主力艦、八八艦隊計画第一号艦にして艦級にもその名を冠され、連合艦隊司令長官山本五十六大将も乗艦した連合艦隊旗艦「長門」も、武田氏にとっては日本のものとは思えないことになってしまうからです。由来がどうこうではなく感覚的なものですが、いくらなんでもそりゃないでしょう。あぁ長門の修飾語探しに疲れた。

長門市の次の「黄波戸(きわど)にしても、地元には神社のご神体もしくは仏像を海から引き上げた際に黄色い波が立ったことからつけられた地名だという伝説(http://www6.ocn.ne.jp/~kiwado/jimoto2html.html)があります。また、長門古市の次の「人丸」は万葉の歌人柿本人麿を祭った人丸神社からとった名前であり、「人丸(ひとまる)は「人麿(ひとまろ)」が転訛したものです。

難読駅名として知られる「特牛(こっとい)は、日本書紀に「阿閉臣国見〈更名磯特牛。〉」(巻14雄略紀3年4月条)という人名があり、たいていの場合「磯特牛」に「シコトヒ」とよみがながついています。また『和名類聚抄』にも「特牛」項がありますし、平安末期に編纂された『梁塵秘抄』には「淡路の門渡る特牛こそ角を並べて渡るなれしりなる女牛の産む特牛背斑小女牛は今ぞ行く」(390番)という今様が載っています。

とはいえ武田氏は「先史時代から」と言われるので、「人麿」も「磯特牛」も渡来系の名前だという立場を取られるのかもしれません。しかしそこまでいくと、私としては「御間城入彦五十瓊殖」「天渟中原瀛真人」もじゅうぶん渡来系に見えると言いたくなります。ちなみに前者が崇神天皇、後者が天武天皇です。

私は基本的に、地名起源説話を事実だとは考えませんが、だからと言って、「長門市」から「滝部」までの山陰本線の駅名を並べて、根拠も示さず「渡来人が付けた地名が今でも山陰本線の駅名として残っている」と断言するのは無茶です。上記のように、これら駅名の多くは日本の歴史と地名の中に見ることができるからです。それを言うなら日本のあちこちに、また歴史の上でも、全体に渡来人の影響が顕著であると言わねばなりません。

しかし、氏がこのテキストで言いたいことは、萩を含めた山口県西部が渡来人の強い影響下にあるということであり、周辺の地名は日本固有のものとは思えない、ということです。山陰本線の駅名を挙げるに際し、「長門市」にはじまり「滝部」で終わったのは、難読駅名が多く含まれるという印象を持たせ、読者のイメージを誘導するための仕掛けです。

氏が駅名の列挙を滝部で止めたのも、滝部の次は「長門二見」であり、長門を冠している上にある意味非常に日本的な、伊勢の二見ヶ浦と共通する駅名だからではないでしょうか。そして、話題が萩にも関わらず駅名の列挙を長門市から始めたのは、ひとつには長門市の前が「長門三隅」であって、これまた長門を冠していることがあるでしょう。

そして、これからは私の邪推になりますが。

これら駅名が武田氏にとって「日本の鉄道のものとは思えない」理由は、武田氏自身がこれら駅名を読めなかったか、読み方に迷ったか、読んでも意味がわからなかったからではないでしょうか。おそらくは、ふりがながふられた「黄波戸」「特牛」、そして「人丸」あたりではないかと。読み方がわからず、意味もわからなければ、己の属する集団とは異なるところからの影響ではないかと勘繰っても、不思議はありません。

前述のように、タイトルが「萩と吉田松蔭」なのですから、比較的関係のうすい「長門市」〜「滝部」の駅名を取り上げるのは妙なのです。しかし「萩」以西は「玉江(たまえ)」「三見(さんみ)」「飯井(いい)」「長門三隅」に至るまでは、それほど難しい読みはありません。また、「長門二見」からさらに下っても「宇賀本郷(うかほんごう)」「湯玉(ゆたま)」「小串(こぐし)」「川棚温泉(かわたなおんせん)」と、わりと素直に読めます。まあそれを言うなら、「伊上」「阿川」「滝部」も見当はつくでしょう。少なくとも、なぜそう読むのかわからない、ということはなさそうです。もっとも地名なんて、知識になきゃ読めなくて当然なんですけどね。

「渡来人が付けた地名」と言うなら、それらしい箇所を抜粋して「黄波戸」はX語で…を意味する、「特牛」はY語で…を意味する、くらいの説明があってもよさそうなものです。武田氏の他のテキストを見る限り、そういった知識を出し惜しみするようには見えません。しかし、ここで氏は「日本の鉄道のものとは思えない」と違和感を表明し、それをすぐさま「渡来人が付けた地名が今でも山陰本線の駅名として残っている」からだ、と結論付けています。

「日本人である自分が読めないし意味もわからない」→「日本のものとは思えない」→「渡来人がつけた」というのは、あまりにも安直ではないでしょうか。まあもちろん、前提は私の邪推なのですが。ですからもし今後、武田氏が「渡来人が付けた地名」と判断した理由を「難読」以外で説明してくだされば、謹んで失礼をお詫びする所存です。

邪推の根拠は、萩からはじまらないところと、抜粋ではなくわざわざ列挙しているところと、長門が重なるにも関わらず「黄波戸」「特牛」の前と後ろに、それぞれひとつずつ駅名が挙げられているところです。氏が違和感を感じたところだけ抜粋したのでは単なる「難読駅名」になってしまうので周辺を列挙したものの、ふりがなをふる駅名が端では目立ちすぎる、という感じがします。ええもちろん、私の邪推ですけども。

そもそも、無数にある地名の中で、近代になって選択されたごくわずかな駅名の中のいくつかの例をもとに、先史以来の渡来人の影響を云々すること自体、無茶だという気がします。私は山口県西部域を含めた沿岸地域、あるいは日本の歴史における渡来人の影響を認めるにやぶさかではありませんが、その出発地を「韓国の釜山から小さな船」でと限定したり、影響を受けた地域を限定したり、それを駅名から見つけることが出来ると考えることには、反対です。

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◆萩沖の海流について

※以下の引用文には大きな誤りがあります。間違い探しをしてみるのも一興かと。

 地理的に大陸に近い山口県は大陸との歴史の接点になるべき地理的、地形的環境にある。山口県の日本海側の萩市は、一般的には裏日本に位置するが、温暖な気候で風光明媚な素晴らしいところである。
その恵みのいくらかは萩市の沖を流れる親潮と呼ばれる千島海流の影響である。赤道からわき上がる海流が台湾沖で二つに分かれ、その一つが黒潮となって日本の太平洋岸を洗い、もう一つが東シナ海を通って、山陰沖に達する。赤道から発したこの海流は栄養に富んで「親潮」と呼ばれ沿岸に当たる地方に多くの恵みを与えてきた。
その千島海流の流線は真っ直ぐに萩に衝突する。萩は大陸情報の「直撃点」であった。
大陸から日本国大和朝廷に向かう船頭にとっては二つの経路の選択が迫られる。その一つは南に回って黒潮に乗り、薩摩沖を通って紀州から畿内に入るルートで、この南回りの航路は単純ではあるが、時として激しい黒潮の洗礼を受けるし、第一少し遠回りである。

答えはこちら等を参照→★地球を廻る巨大な流れ:海流―黒潮と親潮(独立行政法人海洋開発研究機構)

世の中には、例え「大学教授」の肩書きを持っていても、非専門分野には極めて弱く、中学レベルの知識もない場合がある、という典型例です。このテキストひとつをもって「大学教授」の言うことを全て鵜呑みにしてはならない、ということは明白です。私は、非専門分野への言及を悪いことだとは思いませんし、場合によっては必要だと考えますが、己がこれまで築いた権威を背負って発言するなら、できるだけ慎重に、かつ先学に敬意をはらって行うべきだと思います。

武田氏は「萩市の沖を流れる親潮と呼ばれる千島海流」と書いておられ、たしかに「千島海流」「親潮」と呼ばれますが、その名の通り北海道の東にのびる千島列島から三陸沖を通って日本列島の東を南下してくる海流であって、「萩市の沖を流れ」てはいません。「萩市の沖を流れ」ているのは「対馬海流」です。

次の「赤道からわき上がる海流が台湾沖で二つに分かれ、その一つが黒潮となって日本の太平洋岸を洗い、もう一つが東シナ海を通って、山陰沖に達する。赤道から発したこの海流は栄養に富んで」まではほぼ正しいですが、それを「親潮」とは呼びません。「対馬海流」です。「親潮」北から南下してきて東日本の太平洋岸を洗う海流です。

そして「千島海流の流線は真っ直ぐに萩に衝突する。萩は大陸情報の「直撃点」であった」というわけですが、氏の言う「萩」の中心が見島ででもあればともかく、対馬「海流の流線は真っ直ぐに萩に衝突」は誇大表現です。それを言うなら、沖縄にも鹿児島にも長崎にも、松江にも能登にも新潟にも津軽半島にも宗谷岬にも、まっすぐ衝突しているはずではありませんか。ことさら萩のみを「直撃点」として取り上げる必要はありません。

またもや邪推になりますが。なぜこんな初歩的なミスが発生したのかを考えると、武田氏のテキストの書き方が予想できて、なかなか興味深いです。

武田氏は、この海流に関する部分を記憶に頼って書いたのではないでしょうか。武田氏自身が海流の書かれた地図(のようなもの)を参照して、萩が「大陸情報の「直撃点」」だと気づいたのなら、萩沖に北上してくる海流を指して「親潮と呼ばれる千島海流」などと書くはずがありません。査読・編集を経たまともな出版物であれば、およそあり得ない間違いだからです。これが「対馬」「千島」の単なる誤植でないことは、千島海流の異名「親潮」まで紹介していることからあきらかです。

武田氏が書いている海流の説明は、名称をのぞけば、ほぼ正しいと言って良いでしょう。名前だけを間違って記憶しており、また「千島(ちしま)」「対馬(つしま)」の音の近さからして、文字情報のない状態で誰かに詳しい説明を受け、その際名前を聞き間違えたのではないかと思われます。

氏の経歴はほぼ東日本に限られており、「対馬海流」よりも「千島海流」「親潮」の方が耳にする機会が多かったと推測され、従って「対馬海流」は忘れても「千島海流」「親潮」の単語は記憶に残っていた可能性は、きわめて高いです。「千島海流=親潮」という知識だけで詳しいことを知らなかったため、「萩市の沖を流れる」ツシマ海流と聞いて、「対馬」「千島」と勘違いし、萩沖には「赤道から」「親潮」が流れ込んでいると思い込み、他の資料と照合して確認することなく、このテキストを書いたのではないでしょうか。

もちろん「恩人・吉田松陰(3)私たちが引き継ぐもの」(http://takedanet.com/2007/04/post_9ce9.html)で挙げられた「主な引用資料」その他の中に間違った説明をしたものがあり、武田氏はそれを信じてしまっただけという可能性もあります。しかしこのテキスト単独で見ればその記載はないし、そもそも完全に地の文であって、海流の存在を吉田松陰の故地萩を情報の要地として扱う理由に挙げている以上、研究者として間違った情報を発信した責任は逃れられません。私も邪推ばかりではいけないので、機会を見て確認してみようと思います。

なお、「大陸から日本国大和朝廷に向かう船頭」と言いますが、萩が現在のように発展したのは江戸時代、関が原の合戦後に毛利氏がやってきて城下町を作って以後のことです。「大和朝廷」云々は、時代が違います。また、個人的には、情報云々というなら北前船の寄港地としての意味合いも重要なのではないかと思いますが、武田氏は指摘しておられません。

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◆関門海峡について

勢い、大陸からの多くの船は東シナ海をわたり、下関で狭い海峡を潜って瀬戸内海に出るルートをとる。九州と本州の間にあるこの狭い関門海峡は昔から異国の船で賑わい、あるいは壇ノ浦で平家が滅亡したように、日本の外からは玄関、畿内から逃げてくるときは行く手を阻む関門でもあった。
そこに情報が集中する。

「大陸からの多くの船」「下関で狭い海峡を潜って瀬戸内海に出るルートをとる」のは、大和朝廷に代表される畿内勢力への中継点として、博多・大宰府があったからです。「大陸情報の「直撃点」」をひとつ挙げろというなら、江戸時代以前なら私は博多を挙げます。だからこそ、刀伊もモンゴル帝国も博多を襲ったし、遠朝廷として大宰府が置かれたり鎮西探題が置かれたりしたのです。

また、大陸との関係を言うなら、出雲・松江周辺や若狭湾、あるいは能登、新潟、もちろん東北の日本海沿岸も忘れてはなりません。カラフトから北海道のルートももちろんです。いわゆる「記紀神話」において、大国主命やツヌガアラシト、神功皇后や継体天皇や日子坐をはじめとする四道将軍の存在感は、瀬戸内航路以外の大陸との関係を示唆していると思います。ていうか、釜山と近い萩の話はどこへ行ったんでしょうか。

なお、私見によれば「壇ノ浦で平家が滅亡した」時、「行く手を阻」んだのは関門海峡ではなく、四国・九州勢力の離反です。都落ちしたあと、平家は一旦九州に上陸して勢力を蓄え、一度は兵庫県あたりまで失地回復しており、「畿内から逃げて」来たところを関門海峡に「行く手を阻」まれ、追い詰められてそこで滅亡したわけではありません。

さて、すなおに読めば「そこに情報が集中する」「そこ」は関門海峡に面した下関になるのですが、「大陸情報の「直撃点」」萩はどうしたのでしょう。まあ私も、海外との関係を言うなら、萩よりも下関の方が重要だと思います。だからこそ朝鮮通信使は下関に上陸したし、四ヶ国連合艦隊は下関を攻撃したし、高杉晋作は下関で奇兵隊を結成したし、下関条約は下関で結ばれたのでしょう。でもですね、萩の話じゃなかったんでしょうか。

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◆吉田松陰について

 吉田松陰が萩に塾を開き、そこで日本の将来を論じることになった歴史の源流を探るとヨーロッパ中世の終焉にぶつかる。

吉田松陰の在世当時、日本の将来が論じられていたのは、萩だけではありません。松陰自身が長崎へ遊学したり、江戸で学んだり、脱藩扱いされてまで東北へ行ったりしていることは、安穏と萩ですごしていては時代に乗り遅れると判断したからではないでしょうか。ヨーロッパの近代化が海外進出を促進し、結果として日本にまで影響したことに異論はありませんが、それはすでに16世紀、いわゆる大航海時代にには起こっていたことで、幕末になって初めて発生したことではありません。

上記引用以後のテキストからまとめると、萩については吉田松陰の生地だということと、反射炉の所在地としてしか出てきません。なぜ「渡来人が付けた地名」だの「大陸情報」だのと大上段な前フリをしたのか、よくわかりませんでした。

単純に考えれば、武田氏は吉田松陰が好きで、それは維新の先駆者として松下村塾で志士を導いて格好良く散ったからで、その舞台が萩だったのには何か理由があるはずだと思って見回したら、大陸に近いからいろんな影響があったんじゃないかと思った、ので思いつくところを書いてみた…ということなのではないかと。まあ、例によって根拠のない邪推ですけれども。ところで、武田氏にとっては「松陰」「松蔭」の書き分けに意味があるんでしょうか。資料的な制約からあえて書き分ける場合もなくはないですが、同じテキスト内であれば統一したほうが混乱しなくてすむと思います。

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◆おわりに

以上のように、武田邦彦氏の書いたこのテキストを邪推とともに批判してみました。なぜ邪推しなければならないかといえば、それは武田氏がきちんとした根拠を示さず、筋道立てた説明もせず、飛躍した結論に達しているからです。

もし当頁における私の邪推が、武田氏への偏見でしかなく、武田氏には上記引用文にみられるような主張を行うだけの根拠があると示されれば、当頁の内容は書き換えるつもりです。まあ、示されてすぐとは言えませんが。

失礼ながら、いくらなんでもこの論調で教授になれるとは思えないので、本業ではきちんとした研究を、データを集めて仮説をたてて何度も実験して実証して筋道立てた論文を書いておられるはずです。プロフィールを拝見すれば、実用に役立っていることも察せられます。なのになぜ、歴史や地理の分野にその手法を持ち込んでくれないのか、残念でなりません。いえ、理由はわかります。本業でもないのにそんな手間のかかることはしていられないのでしょう。

でもその、時間をかけず検証の手間を省いて思いつきを並べたテキストであっても、「大学教授」の肩書きがあれば、ある種の権威を帯びてしまいます。知らない人にとっては、同じ「Professor」なのです。その行為が、氏と同じく本業に何年何十年と費やしてきた氏とご同業の人々、あるいはその成果を享受できるはずの人々(私を含めて)にとって、本来無用なはずの雑音になりかねないことは、容易に想像できるはずです。

以前書いたことの繰り返しになりますが、私としては、当頁の主眼は、大学教授の肩書きで根拠を示さず書いた非専門分野のテキストを世界に向けて発信するのは、専門研究者と分野愛好者にとっては迷惑なので止めて欲しい、というものです。もちろん、ちゃんと手順を踏まえた研究成果のテキストなら、どんどん公開してよいと思うことにかわりはありませんし、他分野ならではの新たな着眼点が示されるなら、双方にとって有益であろうと思います。

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◆2007/11/28 「松蔭」→「松陰」誤字訂正、「幕末の先駆者」→「維新の先駆者」に修正。

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