2001年〜2004年

  • BLIND SHAFT (2004)
  • CAPTURING THE FRIEDMANS (2004)
  • THE COOLER (2004)
  • DUMPLINGS (2004)
  • HOREM PADEM (2004)
  • JAPANESE STORY (2004)
  • KEANE (2004)
  • LOVE OBJECT (2004)
  • THE MUDGE BOY (2004)
  • RED LIGHTS (2004)
  • TAKE OUT (2004)
  • VIRGIN (2004)
  • THE WOODSMAN (2004)
  • BOOKIES (2003)
  • THE HOUSEKEEPER (2003)
  • HOUSE OF FOOLS (2003)
  • THE STATION AGENT (2003)
  • ALIAS BETTY (2002)
  • ANGELS CREST (2002)
  • THE CHATEAU (2002)
  • VIRGIL BLISS (2002)
  • CHILDREN UNDERGROUND (2001)
  • LOVELY AND AMAZING (2001)
  • PLAIN DIRTY (2001)



  • Dumplings (2004)

    監督:Fruit Chan
    ある餃子を食べると若返りの効果があるという噂を聞いた、元女優のリーは夫が若い女と浮気するのを恐れ、その餃子を求めて香港のスラム街に住む謎の女メイを訪ねる。
    香港ホラー映画で『餃子』などというタイトルだと、直ぐに連想するのが『八仙飯店之人肉饅頭』でしょ。 いや〜な予感がしたわよ。 冒頭から、メイはアルミの弁当箱に何かを入れて税関を通り中国から香港に入る。 その弁当箱の中身はきっとアレでしょ。 
    薄汚れた公団住宅の台所で、弁当箱を開け、アレを出し、まずはひとつつまんで味見をし、それから野菜と一緒に細か〜く刻む。 餃子の皮も粉から丁寧に作り、その調理のプロセスはグルメの料理番組を見ているように艶やかだ。 リーが餃子スープを前にして、食べる様子も怖い。 コリッコリッて小指のような餃子を口に含んで噛む音。 食べ方がやけに上品で妙に生々しいのよ。
    スタイリッシュな映像で『八仙飯店之人肉饅頭』とは全く違った! 全然グロくない。 でも想像力を掻き立てる見せ方が物凄く上手くって怖いよ、この映画。 アレとははっきり言わないのだけど、やっぱりアレだよな、絶対そうだよ、って思って見てるでしょ。 そうすると、調理の場面も食事の場面も上品なんだけど、気分が落ち着かなくなる。
    またリーの夫も精力を付けるために、玉子を食べるシーンがあるんだけど、生卵かと思って見てたら、割ったら孵化した雛が茹でられて入ってて、それをスプーンですくって食べる口元のクローズアップとか、ちょっとやめて〜って感じの映像だった。
    メイは私の餃子を始めて食べてくれた時には、記念に歌って踊ってあげるの、なんて言って、ゆる〜い踊りを始めるけど、笑っていいのか何なのかわからない。 ブラックコメディと言うよりも風刺劇です、コレ。
    こんな映画を楽しむ人はやっぱり悪趣味と言えるかもしれないけど、道徳と言うものに絶対的な数値はあるのか、どこまで自分本位が許せるのか、など考えればテーマは深いです...と思う。(2011.8.13)

     


    Capturing the Friedmans (2004)

    監督:Andrew Jarecki
    アメリカのドキュメンタリーは『華氏911』とか『 スーパーサイズ・ミー』とか、テーマが大きいと日本でも公開されるけど、ある町で起きた小さな事件の真相を探るようなドキュメンタリーは野次馬的な興味の対象でしかないから、日本公開はまず無理だ。 でもこういう小さな事件だからこそ、自分だったらどうするだろう、自分の家族だったらどうするだろう、と考えて面白い。
    事の始まりは、1988年にロングアイランドの閑静な住宅地に住む中流家庭の一家の主が、児童ポルノの雑誌を海外から購入していることが摘発された。 アメリカでは子供の裸の写真の所有は違法です。 逮捕されたのはアーノルド・フリードマン。 彼はコンピューターの塾を経営し、地域の子供たちにコンピューターを教えていたから、さぁ大変。 親たちは塾に通う自分の子供達がいたずらされてないかと騒ぎ、警察が子供たちに質問をしたところ、多くの子供がレイプされたと証言する。
    何が面白くしているかというと、ドキュメンタリー映画は大概、作る側のスタンスが明確だけれども、それが本作品は見えないところだと思う。 映画は容疑者の無実を主張したりしない。 そもそも監督からして、アーノルドが子供たちをレイプしたかについては判らないという立ち位置なのだ。 だから観る者が自由に推理できるのだ。
    しかし、父アーノルドだけではなく、彼の塾を手伝っていた18歳の三男ジェフも共犯としてレイプ容疑を掛けられた。 そして、この一家の長男デビッド、次男セス、母イレーンがそれぞれの考えを持ってぶつかり合い、家族が崩壊していく。
    アーノルドの長男デビッドは昔から家族をビデオに撮るの趣味で、この事件が発覚してからの家庭の混乱ぶりをしっかり記録している。 家族が口論しあうその様子を、私たちはフィルターを通さずに観ることが出来るのだ。
    三男ジェフも含め息子たちは父が教室の子供にいたずらをしたことを絶対に信じない。 しかしアーノルドの妻は、罪を認めて刑を軽くしてもらうことを夫に勧める。 彼女はアーノルドは子供達にいたずらをしたかもしれないし、それは私は判らない、とはっきり宣言する。 そして肝心のアーノルド本人はそのことについてはノーコメントなのだ。
    塾の生徒達による、レイプをされたという証言はかなり怪しいと私は思った。 警察の誘導で嘘を言わせられたのではないか。 アーノルドのポルノ所有の発覚まで、レイプをされたのに親にそのことを言った子供が一人もいないなんて信じられないし、レイプされても次の年も塾に通っていたなんて、あり得ない事だ。 でもアーノルドは妻の勧める通り、罪を認め裁判を避けるのだ。 父親が罪を認めたなら、ジェフが裁判で無罪になる確率はゼロに近いので、ジェフも無期懲役を逃れるために罪を認め、懲役13年を宣告される。
    ジェフの弁護士によると、アーノルドは彼に子供にいたずらをしたことがあると告白したと言っているけど、このジェフの弁護士が私は一番胡散臭い感じがした。 だってジェフに、ジェフが子供の頃に父アーノルドにレイプされたと言えば、あなたの刑が軽くなる、などと嘘を言わせようとしてるんだもの。
    息子達は母が父の無実を信じないと責め、母は裏切られたと叫び、肝心の父は何も言わない。 ビデオを見ると真実が見えるかと思えば、ますます判らなくなる。
    誰が嘘を言ってるのか、嘘を言っていないとしても記憶違いをしてるとか、記憶が消されてしまっているとか、相手を信じたいあまりに記憶が無くなっているとか、それを推理するのはあくまでも視聴者の方。 ほんとうに頭がぐちゃぐちゃになるような映画でした。 上手く出来た推理小説よりも面白いよ。(2011.8.10)


    Take Out (2004)

    監督:Sean Baker, Shih-Ching Tsou
    中華料理店に勤める不法移民の中国人の青年ミンがマンハッタンのアパートやマンションに出前を届けるだけ様子を手カメラでひたすら撮るという本作品は、ミンがギャングに叩き起こされる朝から始まる。 今夜9時までに借金を返せと脅され、金を掻き集めたがどうしても150ドル足りない。 一回の配達でせいぜい1、2ドルしかもらえないチップを稼ぐために、一日中土砂降りの雨の中、自転車でマンハッタンを走り回るのだ。
    ミンは全く英語が話せないので、無言のまま出前を渡し、受け取るアメリカ人も『サンキュー』ぐらいしか言わない。 そのやり取りが何十回も繰り返されるだけ。 こういったインディペンデント系の低予算の実験的映画は、映画学科専攻の学生ぐらいにしか興味を惹かない、退屈な作品になりがちだけれど、しろうとの私でも充分面白かった。
    だって映像や人物がもの凄くリアルで実際のレストランを中継しているみたいたもの。 場所がアッパーマンハッタンだけあって、忙しくて、ちょっと危険で、常に何かが起こりそうで、目が離せないのよ。 レジのおばちゃんが、ほんとうに中華料理店にいるいる、こういうおばちゃん、って感じで受けた。
    ニューヨークの通りをチャリンコを漕ぐ場面がまた、たくさんあって、土砂降りの中、ヤッケを着て出前のビニール袋をぶら下げ、イエローキャブにクラクションを鳴らされながらミンはひたすら走る。 ビルの谷間はに吹く風も半端じゃない。 向かい風と叩きつける雨に顔を引き攣らせながら走る様子は、カッコいいなんてモノからは程遠く、限りなく惨めだ。 そしてやっとのことで一日の終わりにはなんとかお金を工面したが...、やっぱりそう簡単には話は済まないのね。
    DVDのオマケのキャストや監督のインタビューで、『人々が普段気に留めることも無い中華の出前の配達人の現実をかなり忠実に描いてる。 これを観てから、今度あなたが出前を届けてもらった時には、少しチップを多めにあげて欲しい。』と言っていた。 不法移民の苦労は痛いほどわかる。 だって私もはじめ労働許可証が無かったから、酷い条件でジャパレスで働いたし、車無かったから、電車もバスも無いミシガンで通勤にチャリンコ漕いでた頃をしみじみ思い出してしまったわ。
    私はむしろミンが扉を叩くマンハッタンの住民の方に興味が行った。 アパートのドアから顔を覗かせるのは、ヤッピーだったり、ヤクザ風の黒人の兄ちゃんだったり、プエルトリコ人、インド人、ユダヤ系、一人暮らしのおばあちゃん、紳士風のおじいちゃん、ミュージシャン、アーチスト風の人、マンハッタンに住むあらゆるジャンルの人々を一気に垣間見せる。 ニューヨークを舞台にした映画は山ほどあるけど、素顔のニューヨーカーを映し出す映画なら、私は本作品を薦めます。

     


    The Mudge Boy (2004)

    監督:Michael Burke
    田舎の小道を、一人の女性が玉子を自転車のかごに乗せ走っている。 坂道がきつくなってきたので、自転車を降りて引っ張って歩くのだが、突然ばったりと藪の中に倒れこむ。 この女性の突然の死からこの映画は始まる。
    残された彼女の14歳のひとり息子ダンキンは友達もつくらず、母からひよこの時買ってもらったニワトリをどこに行くにも抱えて歩くので、当然周りからは変な子だと思われてる。 彼は母親の形見の自転車と麦藁帽子を被り、周りからは日に日に母親に似てくると言われ、更に夜な夜なこっそり母親のドレスをまとったりもする。 ここはニューヨークの都会ではなく、アメリカの片田舎の農村なので、当然ダンキンみたいな青年は、自分の居場所を失う。
    センチメンタルな青春モノはとっても苦手な分野なんだけど、ダンキンが苦悩するところまで達っしない天然っぽいキャラなので好感を持てた。 『ギルバート・グレイプ』に出てくる知的障害児デカプリオなんかとも似ている。 ぼんやりしているというか、常に夢見心地で、周囲と常にずれている。
    唯一友達になってくれたペリーが、『おまえ女を抱いた事あるか? 乳首とか摘んで揉んでやると、もう女はたまらなってオレに入れて欲しいって懇願するんだぜ。』 なんて話すと、ダンキンは女を抱く事を想像する代わりに、ペリーに抱かれる事を想像してしまう惚けぶり。 っていうかもともとゲイなのか、それとも死んだ母を恋しいあまりに一体感を感じてしまうのか、とにかく思春期の性の大混乱に落ちていくのだ。
    辛い辛いと嘆いて甘ったれている都会のガキどもと違い、農家を手伝いながら、一生懸命母親の思い出にしがみ付いてるダンキンは、なんとも意地らしく、まだまだ私も青春ものに感動できるんだって再確認させられた一作でした。


    keane (2004)

    監督:Lodge Kerrigan
    ニューヨークの長距離バスのターミナルの改札口で、必死に娘を捜す男がいる。 ウィリアム・キーンと名乗るこの男は、3ヶ月前にこのターミナルで娘を誘拐されたらしい。 『パーカーを着て、ジーンズをはいて、青いリュックを担いだ6歳の女の子を見なかったか』と係員や通行人に手当たり次第聞く。 『落ち着け、オレ、冷静になれば、絶対見つかる、頑張れ、思い出すんだ、見つかる、落ち着け、オレ、ソフィア、どこだ…』と、常に独り言を言いながら歩き回るウィリアム。 『気にするな、オレ、誰も見てない、視線を合わせるな、オレは正常だ』とぶつぶつ繰り返す。
    彼はおそらく精神分裂症だとわかってくる。 『気にするな、オレを観るな、観るな、観るなーっ』と独り言が叫びに変わる。  住所も不定で路上で寝たり、トイレで身体を洗ったりして、昼間はターミナルで娘を探すその様子を、手ぶれのカメラで延々と撮り続ける前半はかなり観ているのが辛い。
    しかし後半でウィリアムが6歳の娘を連れたシングルマザーのリンと出会ってから、様子が変わってくる。 リンやリンの娘と話している時は彼の心が落ち着くのだ。 もちろん彼女はウィリアムが精神異常者とは気づいていない。 ふたりは親しくなり、ついにリンはウィリアムに娘を一日預かってくれと頼んでしまう。
    自分の狂気を自覚してない人間に、いきなりマインドBが表に現れるという、ありがちな二重人格者の犯罪映画にはならず、自分の中の狂人がいつ現れるか常にびくびくしているから怖い。 本人がビクビクしているんだもの。 観てる方だってビクビクよ。 あっ、ウィリアムが冷や汗をかき始める、独り言がはじまる、どうしよう、気が気でない。 6歳の娘役が今や売れっ子の『リトルミスサンシャイン』のアビゲイルちゃん。 健気であどけなくってほんと可愛いいの。 まさか、こんないい子に怖い事起こらないよね、ね、ね? と自分に言い聞かせて気持ちを落ち着かせないと観てられない。 わたしも同年齢の娘がいるせいか、とにかく怖いの。
    実は話の展開はほとんどなく、ウィリアムの素性も病気も謎が多いまま終わる。 なんだこれ、と腹を立てる人もかなりいると思うけど、精神病の原因とか治療とかって未だに良くわかってないものだし、それをこういう事があったからこうなったって説明する映画は、そのほとんどがこじ付けっぽい。 不思議にこの映画は全編を通して誰も彼の正常異常を問うことはしない。 こういう風にわからないままにすると、精神病の怖さや苦しみが伝わってくる。  うまい作り方だなぁと思ったら、プロデューサーはソダーバーグだった。 『バブル』と同様に、こういう小作品が光るんだよね。


    Horem pádem (2004)

    監督:Jan Hrebejk
    チェコといえば、『アリス』や『ファウスト』などのシュールな人形アニメをつくヤン・シュワンクマイエルと作家のカフカしか知らなかった。 だからチェコは東ヨーロッパの摩訶不思議な世界が繰り広げられているのだろうと勝手に妄想してた。
    しかし、今年初めてプラハに旅行してみたが、なんてことはない、城や聖堂がそびえる観光地を除く残りのプラハは、ロンドンのイーストエンドに近かった。 サッカーフーリガンや、アル中、疲れた顔のおばちゃん達、メイクの剥げかけた女の子などが通りを歩く。 つまり私が馴染んでしまう風景だ。
    そんなチェコの現代を語るこの映画は、人生の浮き沈み、階級の上下などをユーモアを交えて語り描く。 なるほど、英語のタイトルは『Up and Dawn』だ。
    物語の中心になるのは2つの家庭。 ひとつは不妊症のブルーカラーの夫婦で、妻は子供が欲しくて欲しくてたまらないにもかかわらず、夫はサッカー狂のフーリガンで前科もあり養子すら出来ない。 とうとう闇屋から赤ん坊を買うことになる。
    もうひとつの家庭は中産階級の大学教授の家庭で、その教授は実は前妻と正式に離婚をしておらず、心臓発作を起こして、危うく命を失いそうになったのを機に、人生を整理しようとする。 それは、20年間会っていない息子と再会することと、愛人と正式に籍を入れることだった。
    それぞれが抱える問題は深刻なのだが、これが東欧のユーモアというか、クストリッツァ的というか、怒りがあっても悲しみがあってもどこか間が抜けていて、酒とポルカで笑い飛ばす。
    他にもこそ泥のジプシー達や、東南アジアからの移民集団と様々な登場人物がいるのだが、個々の話はそれぞれ独立していて、ところどころ微かに噛み合う。 ひとりの人物を中心におかず、いろんな人の人生のひとコマを並べるようにして見せる映画は、善人とか悪人とか決めることもなく、何が一番大切かなどと、教訓を垂れることも無く、ただこういう人がいてこういう事があったと述べるだけだ。
    何も解決はしてないのだけど、人生はまだまだ続いていくのだし、ここに出て来る人たちひとりひとりの気持ちに少しでも同情することが出来たらそれでいいのだと思う。
    この監督の前作『この素晴らしき世界』が日本で公開されてるので、この作品も後悔されるといいな。


    The Woodsman (2004)

    監督:Nicole Kassell
    12年間服役し仮釈放されたウォルターは、材木工場に働き口を見つけ、新たな生活を始める。 彼が過去にどんな罪を犯したのかははっきりとは明かされないが、どうやら未成年の少女達に性的いたずらをしたらしい。 社会に復帰してみたものの、果たして自分は正常になったのか自分自身でもよくわからないままの彼は、カウンセリングを続けながらも、自分の内側に潜む危険性に苦しむ。
    世間では、性犯罪者はほとんど更生が不可能というのが一般論だ。 性癖は持って生まれたものだから死ぬまで治らないらしい。 同じ2004年のアルモドバル映画、『バッド・エデュケーション』を観てもそれを感じた。 『バッド・エデュケーション』はあまりにもスタイリッシュで、性癖異常者の葛藤が霧に埋もれてしまったような気がするけど、こちらは感傷さえ抜きにした簡素なつくりで、それだけに焦点を絞る。
    現在は、マゾでもサドでもホモでもレズでもいっこう構わない世の中だけど、相手が子どもで無いとダメ、って言うのは絶対許されない。 双方同意の上での行為はありえないからだ。 相手の同意が無ければ、セックスは犯罪だ。 しかし、本人にとっては、それでしか快楽を得られないので、常に性欲の抑制を強いられる。 甘いものを食べるなといわれても食べてしまう、酒を止めろと言われてもやめられない中毒患者と同じだと思う。 しかし、そんな少女中毒をどれだけ世間は理解してくれるだろうか?
    タイトルの『Woodsman』とは赤頭巾ちゃんを助ける木こりの意。 人間には狼と木こりの二つの要素が備わっている。 それはジキルとハイドみたいに突然に入れ替わったりするのじゃなくて、どちらも常に意識内にあるのだ。 その微妙なバランスを見事に演じるのが、『フットルース』のケビンベーコンだ。 (私の中ではベーコンは永遠に『フットルース』という形容詞がつきます。) 彼の精魂を込めた演技で、ロリコンという世の中から忌み嫌われる人たちを、少しは世間に理解してもらえる足場を作ったような気がする。

     


    Red Lights (2004)

    監督:Cedric Kahn
    映画はアントワンが職場から妻へメールを送るところから始まる。 『君に始めてあったときのような気分だ、愛してる、5時にカフェで待つ』。 そんな熱いメッセージを残したにもかかわらず、妻エレンは遅れてくるし、疲れたなどと愚痴をこぼし、携帯電話で顧客と話したりしている。
    これから南フランスでキャンプに参加している娘と息子を迎えに行く予定の二人だが、妻のそっけない態度で気を損ねたアントワンは車中で始終ふさぎ込み、トイレを借りるなどとウソを言って酒場やレストランで車を止め、ダブルショットでウィスキーを飲む。 酒が入ったアントワンの運転は乱暴になり、とうとうエレンは電車を使うと言って車から出て行ってしまう。 ここまでが結構長いのだけど、そこからサスペンスが展開する。
    アントワンは妻を追うが途中であきらめ、またバーに行って酒を飲む。 そこでヒッチハイカーを拾うのだが、それは実は刑務所から脱走した囚人だった。 ヤバイ奴を乗せて、普通はアントワンの行く末が心配になるのだろう。 しかしこれが逆で、囚人の方がヤバイ奴の車に乗ってしまったって感じ。 とにかくアントワンの飲酒運転が怖い。  カメラは常に進行方向に向けられてるので、まさに自分も酔っ払いの助手席に座っている気分でスリル満点だ。 アントワンはデロデロなのに、またガソリンスタンドでウィスキーのボトルを買う。 この主人公の自暴自棄な態度がちょっとフィルム・ノア的。 囚人にやられるのが先か事故に合うのが先か、ハラハラドキドキのフレンチスリラーだ。
    アクションはほとんど無く、登場人物や背景も最小限に抑えてるが、話の展開だけで充分にスリルが味わえる。 最後までどうなるか予想が付かず、別れたあとに妻に何が起こったかもちょっとしたミステリーだ。 そのうえ夫婦間の温度差という問題を鋭く提議していて、個人的にかなり勉強にもなった。


    Virgin (2004)

    監督:Deborah Kampmeier
    南部のキリスト原理主義者が多く住む小さな町。 そこに住む17歳のジェシーは、友達もいない、好きな男の子にはふられる、家族からも愛されない孤独な少女。
    孤独に耐えられず、愛に飢える彼女は、飲酒、喫煙、万引きに走る毎日だ。 ある日パーティで、ドラッグをやり意識不明になったところを、同級生にレイプされる。 そのレイプでジェシーは妊娠してしまうのだけど、自分がレイプされた記憶が無いことから、お腹の子は神から授かった第二のキリストだと信じて疑わない。
    ジェシーは混乱しまくっているけど、キリスト原理主義者は未だに進化論は信じず、神は七日間でこの世界を作ったと信じている人たちだから、セックス無しでも子供が出来ると信じても不思議じゃない。 彼女は周りほど信仰深くは無かったけど、不条理な現実につじつまを合わせようとする唯一の結論だったのではないかと思う。
    しかし、もともとジェシーは非行の目立つ少女だったから、こんな罪深い子が聖母マリアのわけがない、男と遊んで妊娠したのに、キリストの子などと嘘を言ってるに決まってると、町中から非難や中傷をあびるのだ。 教会はジェシーに懺悔しろと言う。
    カメラもドクマスタイル(=手カメラ?)を使っていることから、トリアーの『奇跡の海』を思い出す。『奇跡の海』にも言えることだけど、キリスト教って純真で弱い人間を非常に混乱させる大変迷惑なモノだ。 弱きを混乱させ、強きに富をもたらす、それが宗教だと思う。 こういう映画を観るたびにますますキリスト教に腹が立ってくる。
    でも私が好きなのは、ジェシーは次のキリストは女だと信じているところ。 なぜ、神は男でなくちゃいけないの? 私のキリストは女よ、って疑わないところ。 人間の罪を裁く神が男なら、彼女の信じるのは愛の女神。 それは自然を愛するペイガニズムに近いかもしれない。 
    ジェシーはキリスト原理主義の環境にいながら、自分なりに神を解釈し、精神を開放する。 弱い人間は精神的支えが必要かもしれない。 しかし、既成の宗教に走る必要など無い。 自分だけの宗教をだって持つことができる。 そしてそれによって救われることもあるのだ。


    Blind Shaft (2004)

    監督:Li Yang
    二人のならず者、タンとソンは地方からの出稼ぎ労働者に、自分の身内と名乗るなら炭坑の働き口があると誘い、鉱山のトンネルの中で殺害し、事故に見せかけ炭鉱主に賠償を請求する、という詐欺を繰り返す冷血な悪党だ。 そして次のカモは、宛も無く田舎から出てきた16歳の少年だった。 この純真で素直な少年ワンは罠だとは知らず、ソンとタンを本当の肉親のように慕うようになる。 夜は学校に戻るために勉強し、給料は田舎の妹を助けるために送金する、そんなワンに、自分も田舎に息子を残しているソンは心が揺らぐ。
    アメリカでは数年前の『グリーン・ディストニー』の大ヒットで中国映画が注目を浴び、今年の秋に公開された『HERO』が見事ボックス・オフィス第一位の座を数週間獲得し続けるという、字幕の大嫌いなアメリカ人にしては異例な現象を起こした。
    美男美女の恋愛、スペクタクルな背景、格闘のカッコ良さ、この三つが揃ってるのだもの。 中国映画とはいえ、アメリカ人に受けるのは納得がいく。
    それに比べこの映画『盲井』は地味すぎる役者の顔ぶれ(ワンはえなりかずきにそっくり)、恋愛なし、アクションなし、ロケ地は炭坑、場末の食堂、安売春宿とまさにルーザーの行動範囲をなぞったような場所。 それが何故か、去年のベルリン映画祭では『HERO』を負かして銀熊賞を受賞した。
    社会の底辺に生き延びる人間の心の葛藤や、現在の中国の社会の退廃ぶりの露骨な描写はもちろん賞賛に値するけど、この映画はそれだけじゃない。 なにかフィルム・ノア的雰囲気が漂う。
    非道な悪党達も少年がセックスも知らないまま殺されるのは哀れに思い、嫌がるワンを無理やり売春宿に引きずり込むとか、情けとは、そういうことじゃないだろう?ってなブラックな笑いを誘う。  トンカチでコツンとやる殺しとか、トイレや安モーテルでのセックスとか冷めていてちょっと滑稽で、ヌーベルバーグ映画すら思わせる。
    暗いけど、決して湿っぽくならず、淡々としているけど、どこか間抜けさが見える、新しい感覚の中国映画。 もちろんワイヤーは使ってません。


    Love Object (2004)

    監督:Robert Parigi
    孤独な独身男ケニスはがインターネットで等身大のセックス・ドールを購入する。自分で容姿を選択できることから、自分の職場ちょっと綺麗な女の子リサに似た人形『ニッキー』を選ぶ。
    お人形が届いたその日から、セックスはもちろん、ご飯も一緒に食べ、テレビも一緒に観るし、ダンスをおどったり、お話したり、楽しい日々が始まる。お人形遊びで自信が付いたのか、リサに自然に接近できるようになるが、同時に家に残したニッキーに後ろめたさを感じるようになる。 リサとの関係が深まるにつれ、ケニスの心の中では、リサかニッキーかの選択に苦しむ。
    なんで迷う、ケニス? ニッキーはシリコン・ドールだぜ、と言いたいけど、実際、人形って怖い。 アパートに帰ると等身大の人形が辛抱強く自分の帰りを待っている。 無表情でじっと見つめられると、『そんな顔で見るなよ、わかったよ、リサと別れるよ』って、降参してしまいそうだ。 人形の存在感って、こちらの心の持ちようによって、どんどん大きくなってしまうのだ。 小さい子供がお人形を離せないと同じように。
    お人形とセックスしたりすると、生身の人間とは付き合えなくなるぞっていう警告か?でも、生身の人間とは付き合えないタイプだったから、お人形とセックスするのかも知れないぞ。 だって一般人はお人形とセックスなんかしないもの。
    まぁ、サイコ男の話としてはよくある展開で、事態はどんどん悪化していくのだけど、私はラストがけっこう気に入った。 あのラストでこの映画は平均以上のものになった思う。 と言うと観たくなるでしょ。「メイ」も日本公開されたことだし、「メイ」の男バージョンのこの映画もせめてビデオスルーぐらいになるといいな。
    ただ一つ難点は、このケニス役の人が、モテない君にしては容姿が普通過ぎること。 エイドリアン・ブロディとか、ポール・ベタニーみたいな、ちょっと病んでるタイプを使って欲しかった。 そしたらももっと萌えたのに...。 


    Japanese Story (2004)

    監督:Sue Brooks
    地質学者のサンディは自分が所属する会社の株主の息子ヒロミツに、オーストラリアのアウトバックを案内する役を任じられる。 日本からやって来たヒロミツはサンディを自分のお抱え運転手のように無礼に扱い、サンディはたびたびキレそうになるのだが、ぐっとこらえて付き合ってあげる。 このへんは「ドライビング・ミス・デイジー」の雰囲気に良く似てる。
    金の出所である日本人はエバってるんだ。 オーストリア人なんて女であれ男であれただの野蛮人さ、ってな態度。 イヤ〜な奴。 ところがそのバカ日本人男ヒロミツのワガママのせいで二人は砂漠の真ん中に遭難しそうになり、そこで助け合って愛が芽生えるっていう話。でも、芽生えたものは本当に愛なのかしら? なんか違うような気がする...。
    サンディはサバサバした男っぽいキャラ、そして、潔癖症でちょっとフェミ男っぽいヒロミツ。 セックスもサンディがドカンと上に乗っちゃうの。 ヒロミツの寝顔をサンディは愛でたりするの。 ヒロミツは荒地の中ではまるでバカで、サンディがいろいろ教えてあげるの。 サンディは母性をくすぐられているだけじゃないかしらとも思う。 そしてヒロミツはオーストラリアの広大な自然に圧倒され、母なる大地に身も心も任せてしまったのだと思う。
    そんな行きずりの愛の行方は、後半にとんでもない展開をします。 私はてっきり異国での恋愛物語で空港で別れてオシマイっていう話かと思ってたら、最近ヒットした『ロスト・イン・トランスレーション』とはちょっと違うのよ。 外国人から観た日本人のバカさかげんの描写はちょっと似てるかもしれないけど、それを理解しようという努力も感じられるし、文化や習慣の違いの壁がアウトバックに入るとすっと消え、戻ってくるとまたメキメキとそびえ立ってしまうことも実感出来た。『ロスト・イン...』は最初から最後まで、壁は消えなかったものね。


    The Cooler (2004)

    監督:Wayne Kramer
    ダメ人間の中にも、いかにも運の悪そうな顔をしていて、そばに寄られるだけで自分の運まで逃げていってしまいそうなタイプがいる。 泣きそうな顔で、貧乏臭くって、見ているだけで胸くそが悪くなるような、まさにいじめの対象になるような人。
    しかし、そういう人にも天職というものがあるのです。 それがこの映画のタイトル「クーラー」という職業。 この映画によると、カジノで調子良く勝っているギャンブラーに触れるだけて、その人のツキを奪ってしまうのが「クーラー」の仕事らしい。
    この役に匹敵するのは映画界にたった二人しかいないと思う。 うーん、誰でしょう?
    ウィリアム・H・メイシーと、スティーヴ・ブシェミです、もちろん。 キャスティングにブシェミの名前が上がったかどうかは知りませんが、メイシーがこの役を掴みました。
    そのメイシーが演じるダメ男バーニーは妻子に逃げられ、猫にまで去られ、コーヒーにミルクを入れようとするとピッチャーが空、観葉植物を買えば次の日すぐに枯れる、根っからの運の悪い男。 しかしある日突然、女に惚れられ、(しかもブロンドで美人)ラブラブになってしまい、それと同時に「クーラー」としてのマジックパワーを失ってしまう。  それでは商売上がったりなのでカジノオーナーは慌ててバーニーと女を引き離そうと必死になる。 お前は食っていくためには一生惨めのままでいろっていうわけです。
    占いとか迷信とか信じない私は、「クーラー」なんて職業が実在するのかという疑問がまず沸いてくる。 でも、詩人とかパンクロッカーとかに当て嵌めてみると同じことが言える。 悲しみや怒りのどん底にいないと仕事にならないのだ。 幸せになってはいけないのだ。
    10分以上も続く全裸のメイシーのベッド・シーンを凝視するのはちょっと辛いものがあったけど、その後に来るメイシーの満面の笑顔がとってもいいの。 あの泣きそうな負け犬顔が、にまぁーっと笑い顔になる。 やっぱり愛は大切、セックスしなきゃだね、って思いました。


    The Station Agent (2003)

    監督: Thomas McCarthy
    小人症の青年フィンは、友人から田舎の閉鎖された駅を相続する。
    周りから好奇の目で見られることにうんざりしていた彼は、ひとり街から離れてそこで隠居生活を送ろうと決心する。
    しかし、いざ引っ越してみたら、駅の前で屋台を経営する青年ジョーと、フィンを2度も車でひきそうになったバツイチの女性オリビアが、フィンの住み家に頻繁にやって来るようになる。 はじめは二人を鬱陶しいと思っていたフィンだが、やがて三人の間に友情が生まれてくる。
    『エレファントマン』とか『ケニー』とか『フリークス』とか身体障害者を主人公にした映画はたくさんあるけど、どれもこれも見世物小屋的雰囲気を脱出できない、というかそれが売り物だったりする。
    この映画も、小人とその周り人達の反応が映画の主なプロットだけれでも、どこか違う。 何が違うのかと考えてみると、いつの間にか、自分がフリークショーの見物人じゃなく、主人公フィンの視点で社会を見ているからだ。
    自分はただの退屈な男でしかないのに、世の中が自分を特別なものに観るのが不思議だと言うフィンは、鉄道オタクではあるがそれを除けば、本当に普通の男。  でも人は彼と会えば、外見のインパクトで、小人だ、コビト、コビト、コビト、コビト、とその三文字が頭の中をグルグルまわり、その事実を忘れてコミュニケートするなんてことはちょっと無理だ。 生存本能の働きで、自分と異なるものを見ると防御的な構えになるのが人間で、差別する感情は避けようがない運命なのだ。 だからこそ、フィンのやり場のない怒りが凄く伝わってくる。でもそれは、エレファントマンを観るときの、哀れみによる痛々しさじゃない。誰もが持つ普遍的な孤独感だ。
    そしてその壁を取り除いてくれるのが真の友達。 そういう友達に巡り合うのって非常に難しい。 そういう友達を持つ幸せをこの映画は素晴らしい脚本で描いている。
    とっても深い問題を定義して、それでいてお涙頂戴にならず、変な教訓も垂れず、しみじみといいものを観たなぁ〜、って気分にさせてくれる、そういう脚本を書くのってとっても難しい。 パトリシア・クラークソンも出ていることから『エイプリルの七面鳥』を思い出した。 こういう映画がもっともっと作られることを期待する。 そして日本で公開されることも!!


    Bookies (2003)

    監督: Mark Illsley
    昔、不気味な人をブッキーなどと影で呼んでたが、このタイトルのBookie とはブックメイカー、つまり賭博の賭け元のこと。 
    大学の仲良し三人組が、スポーツ観戦の賭博で賭け元にお金を払うのにうんざりして、自ら賭け元になろうと野望を抱く。
    もちろんスポーツの勝敗にお金を賭けるのは、麻薬と同じで違法だ。 だから賭博業界はほとんどマフィアによって取り仕切られている。 しかし、キャンパス内のギャンブラーを狙って、自分たちが学生であることを有効に使い、ビジネスとして成功していく。 しかし、マフィアに感づかれ、危機に到る。
    私に一番無関係なものはスポーツ(ドン臭いので)、その次がギャンブル(運が無いので)。 そんな私でも楽しめた映画だから、スポーツやギャンブル好きのアッパーな人が見ればもっと面白いかも。
    私にとっての見所はもちろん男の子たちのボンクラぶり。 儲けたお金で、ホームシアターや凄いコンピュータシステムや高級車をそろえていくのだけど、所詮大学の寮から出られないし、期末試験もあるし、論文も提出しなきゃいけない。 そんな不均衡さが笑えるの。 一応、頭脳のケイシー、行動力のジュード、判断力のトビーとそれぞれ光っているのだけど、やっぱり世間知らずで浅はか。 まぁ、それが青春なんだろうけど。
    トビーが映画の語り役だが、映画の主人公は断然ジュードだ。 コカイン吸って、どんどん突っ走る。 やられたらやり返す。 ヤクザや警察もF**K YOUって態度。
    ボンクラどものキャンパス映画ってのは、女の子とのセックスとパーティーとアルコールで終わることが多いけど、この映画はその程度の野心では終わらない。 パーティーやオッパイが目的な人は期待が外れますけど。


    House of Fools (2003)

    監督: Andrei Konchalovsky
    ロシアや東欧の映画って、テーマが暗いながらもどこかとぼけたところがある。 ヨーロッパ特有のシニカルなユーモアをどんな状況に陥っても忘れない。 この映画も例に漏れず、クストリッツァ的なシューリアリズムが展開される。 精神病院がチェチェン紛争に巻き込まれ、医者や看護婦はどこかに避難してしまい、患者だけ戦地に残されるという悲惨な状況にもかかわらず、登場人物達はアコーディオンでポルカを弾きながら踊っているのだもの。
    鑑賞前にクレジットを読んだら、なんとかスキーとかなんとかロフとかのロシア名の中に、ブライアン・アダムスという名前を見つけた。 あばたのハンサムロック歌手、プライアン・アダムス? なんでこんなところに? てんで観てみたら、主人公の精神患者ジェナは自分はブライアン・アダムスのフィアンセだと信じていて、いつかブライアンが自分をここロシアの精神病院からから連れ出してくれることを夢見ているのだ。
    彼女の空想の部分で、ブライアン・アダムスが出まくる。 スーツを着てギターを持って彼女に愛の歌を歌う。 目の前に惨劇が繰り広げられると、ジェナはすぐブライアン・アダムスのことを思う。 するとそこはもう、ロシアじゃない。 ブライアンとジェナの結婚式場と変わるのだ。
    英語で精神病院のことを『asylum』と言う。 これは聖域とか避難所とかの意味も持つ。 戦地の中での精神病院はまさに安全な避難所だ。 設備的な面ではなく、精神的な面で、狂気の中に逃げ込むことは、恐ろしい現実からの逃避だ。
    ジェナは戦火の中でも愛に生きている。 チェチェンの兵士に冗談に『結婚しよう』と言われると、ジェナの中でブライアン・アダムスとチェチェン兵士のどちらを取るか煩悶する。 どちらも結婚しないってのに..。
    そういえば、私もクイーンのロジャー・テイラーと結婚するんだ、などと発病していた時期が10代の初めにありました。 病気が治ってよかったのかどうかはわからない。 現実が見えない方がずっと幸せだったような気がする。


    THE HOUSEKEEPER (2003)

    監督:Claude Berri
    離婚をしたばかりの中年男、ジャクーのアパートは散らかり放題。 汚れた食器や衣類は溜まるし、長年妻がやっていた事を、いざ独りになってみるとこなせない。 そこで家政婦を雇う事を決める。
    カフェの掲示板の広告で見つけた家政婦がまだ20そこそこの若い女の子。 べつに下心をあって雇ったわけではないのだけれど、だんだん二人の関係が出来ていく。
    フランス映画だから当然フツーの恋愛じゃないこと期待していたのですが、これが全くフツーなんですよね。 ジャクーは中年の男なら誰でも共感出来るようなキャラ。 自ら若い女の子をゲットしようなんて思ってないけど、押し掛け女房みたいにやってきて、セクシーなランジェリー姿でまわりをウロウロされたらセックスのひとつやふたつはやってみたくなる。
    家政婦のローラも、金のある寂しい中年男を誘惑してやろうなんていう悪女じゃない。恋人からアパートをおん出されて、行くところも無く、たまたま優しくしてくれたジャクーに惚れてしまったというだけ。
    「俺は一体なんでこんな事をしているんだろう?」 こんな若いキャピキャピなギャルは決して自分が望んでいた相手ではないはず...という常に冷静なジャクーのマインドBの声が聞えてきそうで面白い。
    ローラが涙をためて「愛してるの」って言われると拒めない彼のだらしなさ。 恋愛をする上でのの駆け引きとか嫉妬とかそんなものが全く抜けていて、ただそこにあるのは孤独な二人の慰め合い。 そんな二人の優しさが観ていて心地良い。
    あぁ、でもこんなふたり、上手く行くわけがない。 セックス以外は何の共通点も無し。 でもラストもさらっとこなしていて、そのまま気持を乱される事も無く終ってくれる。
    この無邪気なローラ役の人、映画「ロゼッタ」の主人公だったんですね。 あの映画は始終ブスっとしていたので、全然気づきませんでした。 こんな愛らしい役も出来るんですね。


    ANGELS CREST (2003)

    監督:J. Michael Couto
    二人の会社員がちょっと仕事をサボって森をブラブラ歩く。
    のんきに世間話をしながら、普段は目にも止めない自然の美しさを発見したりする。 ところが...、次にとっても怖い事が起こるのです。
    よくあるプロットのように、殺人鬼とか、モンスターとか、猛獣とか、そんなんじゃないんです。 普通だったら、森でそういうトラブルにあうのは、いたずら好きなティーン・エイジャーとか、キャンプに来た家族とかそういう人々たちでしょう? しかしこの二人は、よくあるプロットには似つかわしく無い、ワイシャツにネクタイ姿のサラリーマンなんですから、そんな安易な展開しないのです。 それどころか、ほとんど展開らしいものもないのです。
    それなのに最後には、自然の力には逆らえないのか? 人の運命というものは最初から決まっているものなのか? それとも、人間の行動で運命が決められて行くのか? という運命論vs自由意志の問題を投げ掛けるまで至るのです。 そういう哲学的な事を深く考えてみたい人にはお薦め。 偶然が重なってるように見えても、もしかしてあれは実は全部計算ずくだったのではなどと、鑑賞後にあれこれ考えてしまう。 でも答えは教えてくれないんです。 だから、白黒ハッキリさせたい人には向きません。それからただのスリラー映画やパニック映画を期待してる人もガッカリすることを保証します。 日本で公開されないだろう事も、ほぼ保証します。
    私もただのハラハラドキドキの連続で終る映画は好きだけど、最近はCGばかりで鼻につく。 そんな時、こういうシンプル、且つ、奥深い会話を持つ映画に強い印象を受けるのです。


    THE CHATEAU (2002)

    監督:Jesse Peretz
    フランスの田舎のシャトーを、生前会った事もなかった叔父から相続したアメリカ人の兄弟、グラハムとアレックス。 なぜかグラハムは白人でアレックスは黒人。 これはアメリカではよくある養子制度のためだが、白人家庭で黒人の養子をもらうのは珍しい。 まぁ、そんなことは余談にだけど、とにかく二人は一緒に育てられた正真正銘の兄弟である。
    アメリカ人が国外に出ると大きく二つに別れると思う。 自国に無い物を必要以上に崇めるタイプと、どこに行ってもアメリカを要求するタイプ。 グレアムは文系の学生で前者、アレックスはロスでビジネスをする青年実業家で後者だ。
    シャトーにの着いてみると、その城は実は借金だらけで、修理費も馬鹿にならない事実を知る。 もちろんアレックスは売却しようとする。 グラハムは歴史のある城を自ら保存していきたいと願う。 フランス人とアメリカ人の文化の違いというよりも、この性格の違う二人の衝突の方に焦点が置かれている。
    ハリウッド系のコメディだったらこういうテーマだときっと、フランスvsアメリカのネタで、ドタバタ喜劇を繰り広げるんだろうな。 性の開放度の違いとか、食文化の違いとかのネタを使ってさ。 そういう笑いも分かり易くっていいけど、この映画は少し違う。 自分の世界に凝り固まりがちな理想主義の文系の青年と、ビジネス思考の合理主義の青年の考え方の違いをギャグにして笑わす、もう少し深いところを突くコメディです。
    設定はメチャクチャだけと、中身はしっかりした映画です。 ラッシュアワーのようなジャケを見て、そのような内容を期待すると外れるけど、見た後はコメディ以上の満足感が得る事が出来る。
    ひとつ気になるのは、インディ映画界で大流行の、デジタルビデオカメラを使って撮ってる事。 「28日後」とか「テープ」とか荒んだ映像はDVは効果があると思うんだけど、ここではせっかくの奇麗なフランスの田舎の風景が台無しになってる気がする...。


    ALIAS BETTY (2002)

    監督:Claude Miller
    ポルフィリアと呼ばれる精神異常に病む母親をに育てられたベティは、子供時代に虐待を経験する。 トラウマを持ちながらも、ベティは売れっ子の小説家となった。
    ある日突然、ベティは5歳の息子を事故で失う。悲しみに暮れていると彼女の母親、マーゴが道端を歩いていたジョゼという名の同じく5歳の男の子をさらって来て、この子を変わりに育てれば、とベティに手渡す。
    常識をかけ離れた母親の行為に怒るのだが、やがてこの男の子に情が湧いて手放せなくなってしまう。 一方警察は行方不明の少年の捜査を進めるし、さてベティと少年の運命はどうなるか? というフレンチ・スリラー。
    マーゴは拍手を送りたいほど自分勝手な女。 自分の孫が危篤状態でそれを病院で見守る娘ベティに、「せっかく私がパリに来たのに、私よりも子供の方が大切なのね」と愚痴る。 「ピアニスト」、「リード・マイ・リップス」、「八人の女たち」と極度に自分勝手で、病んでるフランス女性ってのが 最近観たフランス映画に続く。 開放的な環境が逆にストレスを生むのか? 良くわからない...。 でも彼女等の無法な行為を頭っから憎めないのがこれらの映画の魅力のひとつです。
    ここには三人の母が出てくる。 病気の性で極度に自分勝手なベティの母親なマーゴ。 ジョゼの本当の母親のキャロル。 彼女はジョゼの父親が誰だかわからないほどだらしなく、仕方無しにジョゼの面倒を見ていた。 そして愛情深いベティ。
    子供を持つべきじゃない女が子供を生んでしまい、子供を溺愛する母親が子を失う。 そんな不条理を整理するためには、少し頭のおかしな人物が、途方も無い行為を仕出かして、世の中のしがらみを解き放す役をする事も必要なんじゃないか、と思いました。


    VIRGIL BLISS (2002)

    監督:Joe Maggio
    ヴァージル・ブリスは若い時から刑務所を出たりは入ったりしてたため、すでに40近いのに女性体験がほとんど無い。
    12年ぶりにムショから出てまず最初に何をするかと思えば、ニューヨークの路上でナンパを試みる。「かのじょー、イカシテルじゃん、俺とどう?」みたいな、時代遅れな言葉を、通り過ぎる女性に全て投げかけ、もちろんことごとく無視される。
    それがだめなら売春婦しかないと友人に言われ、生まれて初めてブロウ・ジョブをしてもらった売春婦ルビーに人目惚れをする。 見かけはタフなのに、なんともまぁ、純真な男、ヴァージル。
    ルビーがお腹が空いているだろうと思って買ってきた、サンドッチとコーヒーを持って、路上で待つヴァージル。 その姿もなんともいじらしい。 ルビーは、一仕事終えて路上に戻り、「あんた、何してんの? 仕事の邪魔なんだけど」の一言。
    そして、ルビーと初めてのデートが、しょぼいコニー・アイランドの遊園地。 いいなぁっ。コニー・アイランドが舞台になるだけで、ホワイト・トラッシュの臭いがプンプンしてきて、私の心は高ぶってしまう。
    これはよくある前科者と薄幸な女の恋の物語かもしれない。 でもこのストーリーは何一つ美化されてない。 現実をそのままフレームに入れたような演出だ。 ヴァージルのピュアで直向きな思いと、ルビーの無神経さとダメっぷりの演技もものすごく自然。 それもそのはず。 監督のジョー・マジオはこの彼の初映画で、役者に台詞を即興で言わせたらしい。 アメリカのマイク・リーとなるかなぁ。 次の作品にも期待が湧く
    セクシーさもキュートさも何にもないロマンスだけれども、それでも胸が締めつけられるようなラブ・ストーリーだ。


    LOVELY AND AMAZING (2002)

    監督:Nicole Holofcener
    ここに出てくる4人の女性(ひとりは女の子)はみんな自尊心にかなり問題があり、それで失敗している人達。 離婚して50を過ぎてから美容整形を試みる母ジェーン。 自分の整形医に恋の思いを寄せたりもしている。
    彼女の成長した娘がミッシエルとエリザベス。 エリザベスは女優の卵。 才能はあるのに、自分の容姿に全く自信が無く批判にも弱い。
    一番好きなキャラはダメダメ主婦のミッシェル。( だってこれ、現在の私だもの。)学歴もあり、人の成功も羨ましいと思うけど、身を粉にして働く気がしない。唯一誇りに出来るのは、娘を自然分娩したこと。自分の趣味(手芸)を仕事にしたいのだけど上手く行かず、認められないと自分の才能の無さを棚に上げて罵詈を吐いて怒る。
    ジェーンにはもうひとり養女として引き取った8歳の黒人の女の子アニーがいる。 彼女の実母は麻薬中毒で実父も不明。 肥満児で食べてばかりいるけど、白人家庭に溶け込みたいと一生懸命努力している。
    女性ばかり4人ということで、フェミニスト映画たど片づけてしまう人もいるけど、これは母親の持つ無条件の愛がテーマだと思う。 (でもハリウッドのインチキ臭い家庭第一主義のノリでは決してありません!!)
    タイトルの『ラブリー&アメイジング』は、母ジェーンから出る言葉からの引用だ。 他人がどう思おうが 『あなたは可愛くて(ラブリー)素晴らしい(アメイジング)わよ。』と自身を失った娘に言う。
    また、ジェーンは人に『アニーは養子にもらわれてラッキーですよね』って言われると、『ラッキーなんかじゃない。 どの子供にも母親がいるのは当然のこと。』って返す。
    失敗だらけの人生でもかろうじて生き続けていられるのは、誰かからの条件無しの愛情と思いやりだ。 そして誰もがそれを授かる権利がある。 そんな当たり前のことをこの映画は新たに確認させてくれる。


    PLAIN DIRTY (2001)

    監督:Zev Berman
    アメリカにホワイトトラッシュという言葉がある。 白人でありながら、社会の底辺に位置する人々のこと。 都市部の貧民層に住むのは有色人種だけれども、白人の貧困層は、南部の農村や炭鉱の村に、住んでいる。 ホワイトトラッシュのステレオタイプは、男は上半身はいつも裸で、彼らの家の前には廃車やガラクタが詰まれていたりする。 貧乏、無学、低い道徳観で、家庭内暴力、近親相姦、十代で母親など悲惨な空気が付きまとう。
    主役となるイーニズはこのホワイトトラッシュだ。 彼女はやはり同じホワイトトラッシュの前科者のろくでなし、エドガーと結婚し、暴力を振るわれる毎日だ。(エドガー役はなんとETのエリオット君。)  ある日イーニズの浮気がばれて、エドガーに監禁され、エドガーの相棒の薄気味悪い男フラワーズに監視されることになる。
    社会の底辺にいる黒人たちは人種差別という名の戦う動機がある。 キング牧師とかマルコムXとか尊敬できる人物像も存在する。 でもホワイトトラッシュには何もない。 あるのはどうにもならない日常だけ。
    でもイーニズは愛を信じていた。 浮気の相手は村一番の金持ちの息子で、彼が自分を救ってくれると信じていた。 唯一それが泥沼から抜け出せる道だと思っていた。 金持ちの愛人によってイーニズは救出される? いや、ホワイトトラッシュの世界はそんなに甘くない。 同じ白人だからこそ、上流と下層の間にある壁は余計見えにくくて超えがたいものになっているのだ。
    この映画はアメリカでもビデオスルーだったので、日本では絶対に紹介されないと思うけど、ラストのひとコマで、あぁ、そういうことだったのかと全てを理解した印象に残る映画だった。 貧乏=悪、金持ち=善っていう単純な方式は当てはまらないし、悲劇とか、ハッピーエンドとかそんな単純な言葉でも語れない。   もしかして奇跡が起きて日本でも放映されるかもしれないから詳しく言わないけど、魂の奥の奥を見るようなラストだった。


    CHILDREN UNDERGROUND (2001)

    監督:Edet Belzberg
    ルーマニアの政府は1966年に避妊と中絶を国民に禁じた。 その結果、経済の成長も乏しいのに子供だけ増え、親は子育てを放棄し、孤児院は定員オーバーになり、子供たちはホームレスとなって都心のストリートにあふれ出た。
    これは地下鉄の駅の中で暮らす5人の子供の生活を記録したドキュメンタリー映画。タイトルだけですでに悲しくて泣けてくる。
    この映画はまるでカメラが存在しないみたいに、そのままの姿を映し出す。 まだ、10代になるかならないかの子供たちが輪になってシンナーを吸ってラリラリになってるのに、カメラは回ってる。 路上で10歳の女の子がぼこぼこに殴られてるのに、カメラは回ってる。
    この場所で子供たちの上に毎日起きる出来事をそのままそっくり観てもらいたいのだ。 撮影側による介入やコメントはほとんど無しだ。 ドキュメンタリーでも、ドラマチックな展開を見せるような編集の仕方をしてるのが多いが、これは編集らしい編集も施されてるようにみえない。
    この子らは物乞いをして、シンナーを買って、ラリって、喧嘩して、ダンボールの上に横になって寝るだけ。 毎日がその繰り返し。 親元を訪ねるシーンもあるけど何らかの発展があるわけでもない。 なんでシンナーを買うのか、と質問すると、缶が一本あれば一日中飢えを感じないでいられる、と答える少女。 食べ物を買うより飢えしのぎに効果的だというわけだ。 これって、死んでしまえばもうお腹が空かなくてもすむって考えと同じ。 自殺を試みるには幼すぎるから、ゆっくりゆっくりと死に向かってるのだ。 辛すぎる。
    どうして私はこういう映画を手にとって観てしまうのか? 自分は慈悲深いからなんかじゃぜんぜん無くって、 私は不幸がどのように作用しあって、もっと大きな不幸を生んで行くのかという悪のしくみのようなモノを確かめたいのだと思う。 そして自分がそんなしくみに加担してないかどうか確認したいからだと思う。 辛いから観ないと言う人ほど、知らないうちに他人に不幸をもたらしてるかもしれない。 だから観るのです。

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