日本公開の望みは失われてしまった作品達。 これらの監督達が新作でドーンと旋風を巻き起こして、過去の地味な作品が次々と公開に至る...なんてことが起きない限り無理です。
でもCITIZEN RUTHのアレキサンダー・ペインとかSLACKERのリンクレイターなんて、今では充分大物だと思うのだけど、ハリウッドのスケールで言うとまだまだなのかな。

1990年〜2000年
  • PARADISE LOST 2: Revelations (2000)
  • THE PRIME GIG (2000)
  • WENT TO CONEY ISLAND ON A MISSION FROM GOD... Be Back By Five(2000)
  • WAITING FOR GUFFMAN (1997)
  • CITIZEN RUTH (1996)
  • PARADISE LOST (1996)
  • WALKING AND TALKING (1996)
  • SISTER MY SISTER (1994)
  • AFRAID OF THE DARK (1991)
  • HIGHWAY 61 (1991)
  • SLACKER (1990)

  • The Prime Gig (2000)

    監督:Gregory Mosher
    ペニーはウソのパッケージ旅行をテレマーケティング商法で売って詐欺をする会社で働く。 滑らかな口調と粘り強い押しで、売り上げがトップの優秀社員である。 しかし会社にFBIの捜査が入り倒産し、ペニーは金鉱への投資を勧誘する会社に就職する。 この会社のパンフレットに載っている通り、本当に金が発掘できる鉱山なのかはペニーにはわからない。 でもとにかく売るしかないのである。
    ヴィンス・ヴォーンが扮するこのセールスマンは、詐欺行為は平気でできるのに、なぜか情が深く、同僚や友達思いのとてもいい奴なのだ。 普段はいい人なのに、仕事ならどんな不道徳なことも出来るっていう人間は私にはちょっと理解できない存在。 家族愛とか、隣人愛とかは重んじるのに、環境汚染とか、アフリカ難民とかには全然関心が無い人たち、アメリカなら、ブッシュや共和党を支持する保守派に多いと思う。 ペニーもそのひとりで、足に障害を持つ幼馴染の友達を本当に無償でサポートする。 そいつはペニーに感謝の意さえ見せないのに、家も職も無い友達をほっておけない性格なのだ。 それなのに、赤の他人であれば、一人暮らしのお婆ちゃんでも、全財産を騙し取るなんてことを平気で出来る。 電話ではまるで自分のお婆ちゃんのようにやさしく語りかけ、契約さえ取れば後は野となれ山となれだ。 彼の思いやれる範囲は半径50mぐらいの世界なのよね。 私が銀河系のことまで想像できないと同じで、認識不可能ってことね。
    半径50メートル以内の善人ばかりだったら世の中はどうなるかというと、やはりそうなるのよ。 最後は私はハハって笑ったわ。 『摩天楼を夢見て』もそうだけど、セールスマンが孤独な戦士のように描かれても少しも同情が沸いてこないよ。 でもヴォーンがペニーを魅力的に演じているので、それに惑わされたら笑えないかも。

    Paradise Lost 2: Revelations (2000)

    監督:Joe Berlinger,Bruce Sinofsky
    ドキュメンタリー映画『Paradise Lost』の上映から4年たったけど、いまだに3人の青年の無実は証明されない。 死刑の日は迫る。 続編は、あの一作目を観て酷く心を動かされた人たちの、被告をサポートする運動と、真犯人と思われる養父マーク・バイヤーズに焦点が当てられている。
    混乱したキリスト教信者って恐ろしい。 偽善を通り越して悪、極悪。 キリストを信じている自分に酔いしれ、善悪の判断が不可能になる。 この続編は、キリスト教原理主義である、被害者の養父マーク・バイヤーズが出過ぎだ。 こいつの映画といってもいいくらい。 最後にはそいつの下手な賛美歌まで聞かされて、たまらないのだけれど、そいつのキチガイぶりを伝えることがこの映画の目的なら十分果たされた。 ここまで狂っていれば、ウソ発見器にも引っかかるわけがない。 
    『三人の悪魔が私の愛しい息子を殺した。 しかし正義は勝つのだ。 あいつらは地獄の火に焼かれるのだ。 息子は天国から、地獄の三人を見下ろして、一滴の水さえ与えない。 悪魔め、永遠に苦しむがよい。』などと舞台役者のように仰々しくカメラに向かって叫び、自分の言葉に酔って涙を流す。 この養父、実は継子を殴ったりしていたくせにこの台詞だ。 この大馬鹿野郎がキチガイを理由に免罪されてもかまわない。 とにかく三人の無実の若者を釈放してくれ、と私は叫びたい。
    私が死刑制度に反対する理由は、死を死で仕返しすることに疑問を感じるからではない。 どんな判決でも間違っている可能性があるから、取り戻すことが出来ない絶対的な死という罰則は、人間という完璧でない存在が下せる判決ではないと信じているから。 おまけにアーカンソーの法廷は中世の魔女裁判並みだ。 そんなもんで死刑を決められたらたまったもんじゃない。
    アーカンソーの陪審員達は、3人の少年達を殺したのは誰かなんて興味は無い。 ただ、『ほらね、キリスト教を信じていないと、ああいう風に裁判にかけられて死刑にされるよ、だからみんな敬虔な信者でいましょうね。』って言いたいだけだ。 クリスチャンであるマーク・バイヤーズが犯人だとしたら、この町全体が不安に陥ることになる。 だから、彼は犯人であってはいけないのだ。 ああ怖い。
    三人のうちの一人、デミアン・エコルズは未だに死刑の日を待っている。 もし彼の刑が執行されるのがアメリカの法廷制度なら、こんな国はもう恐ろしくて私は住めない。 だって、次は自分かもしれないもの。 この三人を助けたい人はこちらから。


    Went to coney Island on a mission from God
    Be Back By Five (2000)

    監督:Richard Schenkman
    学生時代、親友だったリッチーが、コニーアイランドでホームレスとなっているのを見たと聞く。 それで、ダニエルとスタンは、真冬のコニーアイランドに彼を探しに行く。寂れた遊園地、しかも季節はずれで誰も歩いていない。 二人はコートに片をすぼめ歩いていく。 出会うのは浮浪者か、奇癖のあるはみ出し者ばかり。 そんな連中と会話を交しながら、リッチーの行方を捜す。
    コニーアイランドと言えばニューヨークの「はなやしき」と言われている(かどうかはわからない)が、 19世紀の末から、いまだに生きのびている海岸沿いにある遊園地です。
    そしてそのコニーアイランドがとにかくいいっ!! 空っぽの遊園地は、カラーなのに白黒映画に近いぐらい色があせている。BGMも無く、ただひゅうひゅう風の音がするだけ。 私が訪ねてもこんなに切ないコニーアイランドを見せてくれるのか? それとも全てシネマトグラファーの技によるものなのか? 行ってみたことないからわからないけど、この映像には胸が締め付けられます!!
    でもでも、ぜんぜん暗い映画じゃ無いんですよ。 この映画も一連の私好みの映画の例に漏れず、人生の軌道に乗れない連中の世界 (テキヤのような見世物小屋、クソ意地の悪いゲームセンターの管理人、愛想のないウェイトレス、)をクローズアップして笑わしてくれます。
    「なんでコニーアイランドに住むのか? 」と聞く友人達に
    「だって夜景がとっても奇麗なんだよ。 冬でも乗り物のライトは全部つくんだよ。」 と答えるリッチー。
    この台詞の通り、最後のシーンは遣り切れないぐらい奇麗です。

    Waiting for Guffman (1997)

    監督: Christopher Guest(クリストファーゲスト)
    ハリウッド映画で一番面白くない分野はコメディです。 万民のための笑いっていうのはちっともおかしくありません。 笑いのツボってものすごく個人差があると思います。  予算をかければかけるほどコメディは詰まらなくなります。 日本でアメリカのコメディが受けないのは、そのせいでしょう。
    さてさてこの映画、もちろんほとんどお金をかけてないインディ映画です。間抜けな人たちをパロった、ただただおかしいだけの何の意味も無い映画です。 意味が無いというと、シュールで冷笑的な映画と勘違いされそうですがそうじゃなく、ほんとに単純に笑える映画です。
    この主演、監督をするクリストファーゲストは、あの偽ドキュメンタリー映画、「スパイナルタップ」を作ったヒトで、あのおまぬけさんナイジェルをやったヒトです。
    この映画もドキュメンタリー風に作られて、題材は何かというと、 アメリカの小さな田舎町ブレインの150年式典で、町人達でオリジナルのミュージカルを作って披露するまでの成り行きです。「スパイナルタップ」は 70年代のハードロックにはまっていた連中にしかわからないギャグが盛りだくさんでしたが、「ガフマン...」は、ただ素朴な連中をネタにしているだけなので、誰でも笑えます。
    このゲスト監督の脚本は常に、他の人にはどうでもいい事を真剣になってこだわって、世の中の動きが全ぜん見えなくなっている人たちを(私も実はそうだったりして!?)、愛を持って笑い者に変えてくれます。だからただ嘲笑してしまうのではなくて、世の中にこういう人たちがまだいるって事はすばらしい、生きていてよかったぁ、という気分にさせてくれるのです。
    それにしても日本でビデオ出てるのかなぁ...。

    Citizen Ruth(1996)

    監督:Alexander Payne(アレクサンダーペイン)
    ルースはシンナー中毒。 夫からも縁を切られ、子供も取あげられる。 そんなルースがまた妊娠。
    信仰の熱いクリスチャンの家族が、子供を出産するまで面倒を見てあげるとルースを保護するが、フェミニスト団体が、ルースには子供を産むか産まないかの選択する権利があると抗議し、堕胎反対のクリスチャンと、堕胎もやむ得ないと考えるフェミニスト団体が、ルースをはさんで大紛争を始めます。 この紛争はどんどん大きくなり、メディアなども注目し始め、各界の知識人まで関わってきます。どちらの団体も自分等のプロパガンダを広めるのに必死で、誰一人としてルース本人や生まれてくる子供の事を考える余裕もありません。ようするに本末転倒なのです。
    ルース自身は子供を産んで里子にだそうが、堕ろそうが、どちらでもいいもです。 元々、どん底階級で生きてきたルースにとって、思想など振りかざしている余裕などないのです。 だから、その時その時で、条件のいい方にくっつきます。最後にやっと頭の悪いルースでさえ、この紛争のばかばかしさに気づきます。
    たとえば、何かのために募金する時、本当にそのお金で助けられる人、または生物の事を考えるでしょうか?自分は環境保護者だからグリーンピースに寄付する、とか、自分はリベラルだから、難民に寄付する、だとか、自分のポリシーにそった行動をしているだけで、慈悲というものが欠けている場合が多いのでは?それをデフォルメすると、こういう映画ができるのです。
    アメリカでは堕胎は善しか悪しかは、常に論争の的です。 日本はあまりこういう事に触れないから、この映画日本で公開されなかったのかしら?重〜い問題を、からっと面白おかしく映画にしてるのは、見事としか言えないのですよ。

    Paradise Lost(1996)

    監督:Joe Berlinger,Bruce Sinofsky
    3人の8歳の少年が全裸の惨殺死体で森の中で見つかった事件を追ったドキュメンタリー映画。
    場所はアメリカの『ディープ・サウス』と呼ばれる地域、アーカンソーのウェスト・メンフィスという田舎町。『南部バイブル地帯』とも呼ばれ献身的なキリスト教信者が多いところでもあります。おまけに、事件に関わってる全員が、トレイラー・トラックに住んでいるという、極度の低位所得者居住地。
    『信仰深い』、『教養がない』、『貧困』、この三つが揃うともはや21世紀ではなく、魔女狩りの盛んな中世に逆戻りします。想像を絶するような惨事が起きると、悪魔のせいに違いない、子供たちは悪魔との密会の儀式のいけにえにされたのだと考えるわけです。
    そして、現代の悪魔とは誰か?黒い服を着て、メタリカやメガデスの音楽を聴き、スティーブン・キングを愛読する。 スポーツなどには全く興味を示さない。そういうタイプの青年はクラスにひとり、ふたりは居るものだが、ここではそういう人物が悪魔に取り付かれた人間だとみなされ容疑が掛かり、裁判となる。そして死刑が目の前に迫っている。
    アメリカの陪審員制度は、まさに魔女裁判に最適です。 その地域からくじで選ばれた12人の一般人が、無罪かどうか判定するのですから。この映画を見る機会を得たアメリカ全国のゴシック好き青少年達は、恐ろしさに震え上がるのではないかと思います。アーカンソーのウェスト・メンフィスには近寄れないって思うことでしょう。 ホラー映画好きでスポーツ嫌いの私も絶対に行かないぞ。
    しかしこのドキュメンタリーが飛び抜けて優れているのは、あくまでも被告と被害者の家族が公平に見えるように撮られていながらも、(そうしないと、どちら側からも、リリースをする承諾が取れない)、少年達に掛けられた容疑のうさん臭さをあちこちに象徴的にあらわしてるところです。たとえば、町の人々の胸に光る十字架をクローズ・アップしたり、被害者の養父の無教養さがわかるような映像を容疑者の青年の知的な発言の前後に入れたり、見事な編集です。
    冷静な目を持てば警察の取り調べや、ローカルニュースでの取り扱いかた、裁判のシステムなど、全く被告にフェアじゃないってことがひとわかりです。その結果として、被告側の青年達にたくさんの同情と基金が集まっているのだからドキュメンタリー映画の力ってスゴイです。

    Walking and talking(1996)

    監督:Nicole Holofcener
    親友であるのに、一人が婚約をしてしまうと、たちまち絆にひびが入ってしまうという、よくある話。
    幼い時からの親友、アメリアとローラ。 毎日電話をし合い、どんな事でも打ち明ける仲。 アメリアは、ローラが婚約を発表してから、まるでライナスが毛布を取り上げられた状態のように不安になる。
    親友はフィアンセとラブラブで、孤独なアメリアは、B級ホラー映画好きの、ビデオレンタル屋のオタッキーな兄ちゃんとまで、デートをしてしまう。この兄ちゃん、アメリアがローラに、「醜男なんだけどさ。」って話しているのを耳にして偉く傷付けられるはめになるが、彼が着ているTシャツが、『マイ・ブラッディ・バレンタイン』であるところにチェックしましょう。(なぜか、アメリカでは、スミスとか、キュアとか、マイブラが好きなのはおたくキャラに多い。)
    この兄ちゃんにもフラれ、アメリアは昔のボーイフレンドとよりを戻し始める。そのEX-BFは、今はアダルトビデオと、テレフォン・セックスにはまっていて、アメリアは、電話代を貸してあげたり、AVを返しに行ってあげたりするのである。挙げ句の果てに愛猫が死ぬ。 たった親友が結婚するというだけで、アメリアの人生はボロボロ。
    この映画の見せ場は登場人物のキャラと会話とでしょう。 まるで人気ドラマ「フレンズ」なんだけど、主人公のアメリアが、「フレンズ」のキャラほど奇麗じゃないんで、演技がもっと自然に見えていい。
    女同士の友情を描いても、フェミニズムを押し出していない軽〜いタッチ。 (むしろこの映画では女の方が鈍感で男を傷つけている)。
    私は、こんなにいつもべったりの親友は、高校を卒業して以来、いないので羨ましいというか、厄介というか。

    Sister My Sister (1994)

    監督:Nancy Meckler
    1930年代のフランスで実際に起きた事件をもとにしたお話。 冒頭のシーンは殺人が起きた後の修羅場。 ビクトリア朝の高級アパートの床に血のり、壁、階段の手すりに血しぶきが飛び散り、2人の女性の惨殺死体が転がる。 さて、なぜこのような悲劇が起こったのかということで、話は前に戻る。
    上流階級の未亡人と一人娘の家に、家政婦として、若い2人の姉妹が雇われた。 彼女らは修道院(兼孤児院)から紹介されてやって来たらしい。 贅沢なビクトリア朝の階下とうって変わって、宛がわれたのは屋根裏の狭くて質素な部屋。 給料も2人でひとり分という契約なのだが、姉妹は一緒に雇ってもらったことだけで歓喜する。  おそらく、この時代は普通だったのかもしれないが、使用人と雇用主は同じ空間に暮らしながらも、一切会話が無い。 この家のマダムとお嬢様は、同じ部屋で一生懸命床を磨いている女中など、存在しないかのように自分達の生活を普通に楽しむ。 現代で言えば、洗濯機や食器洗浄器がまわってても、ごくろうさまと感じないと同様に、機械が無かった時代は女中は道具と同じ存在だったのだ。
    一つ屋根の下で、パラレルワールドのように二組の女による二つの生活が並存している。 それがなんとも奇妙で、そして怖い。 なせ怖いかと言うと、家政婦姉妹の方としては、なにかそそうをすればマダムの目に入る、パラレルワールドが崩れる、姉妹が離れ離れになる、その恐怖が強迫観念のように彼女らを常に圧迫しているからだ。
    ふたりの姉妹はとっても美しいけど、生い立ちが暗く、生活も暗いし、よってもちろん性格も暗い。 しかし映画がドヨ〜ンと暗くなるのを救うのが、マダムとお嬢様のキャラ。 もちろん親子そろってブスで、下手なピアノに合わせて歌ったり踊ったり、躍起になってトランプ遊びをしたり、かなりこっけいでコミカル。 この対照的な女二人組の描き方がとっても面白い。
    そして、殿方にはとっても魅力あるこの映画のもうひとつの重要なプロットがある。 この美人姉妹は実は、屋根裏部屋の自室でレズビアン・セックスをするのだ。 やり過ぎで目にクマが出来るぐらい毎夜毎夜繰り広げる!! 
    こんな面白い映画がなぜ日本で未公開なままなのでしょう? 私は既に3回観てカルト化している一本です。

    Afraid of the Dark(1991)

    監督:Mark Peploe (マーク・ぺプロー)
    少年の母は盲目である。 彼は盲目の母の手を引いてあげたり、母の所属する盲人のための編み物サークルのメンバーのヘルパーになったりする優しい子供だ。 ある日その周辺で盲人だけを狙う切り裂き魔事件が発生する。 そして少年は犯行現場を目撃してしまう。
    サスペンス・ホラーとしては、かなり地味な作品だけれど、クオリティはかなり高いと思う。 ヒッチコックの『裏窓』や『フレンジー』、ヘプバーンの『暗くなるまで待って』などを想わせ、古風だが実に丁寧に撮られているスリラーだ。
    舞台はロンドン郊外の閑静な住宅地で、少年の一家の住むフラットを中心に一キロメートル四方ぐらいの中で全てが起きていると思うのだけど、場所から場所へと静かに追うカメラは少年の視線とシンクロし、彼が何を見て何を思っているのかが言葉もないのによくわかる。 おまけに次に何が起こるのかという、ドキドキ感も増す。 杖がコツコツ響く音、編み棒のカチャカチャいう音が怖さを増す効果音の役を果たしているところも見事だ。
    ところが、ところが、少年と一緒になって私達もいろんな物を目撃したはずが、映画のちょうど真ん中で、事態が180度回転するのだ。 え、今まで観てきたものは一体なんだったの? って思う。 そして後半は、それが徐々に解き明かされる。 この後半の展開は、障害を持つ人の複雑な心情や子供の心の問題を問うので、かなり重く後味も十分に悪い。 しかし、前半の正統派サスペンスの盛り上がらさせて、そして途中で見事にそれをぶち壊ちこわすその意地悪さがちょっと病的で、妙に私のツボだった。 

    Highway 61(1991)

    監督:Bruce McDonald
    去年の夏、テネシーのメンフィスからハイウェイ61号線を走って、ミシシッピ下るという旅行をした。 ハイウェイ61号線と言えばブルース街道として有名で、南はニューオーリンズから北はシカゴまで、南部のブルースメンが大都会シカゴで名を上げようと辿って行った道だ。 テネシーとの境に近い、ブルースの発祥地と言われるミシシッピのクラークスデ−ル周辺が堪らなく良かった。 どろどろの南部で、まさにボロ家のポーチにゆり椅子出して、黒人のおっさんがブルースを弾いている雰囲気。 ほんとうにこんなところがあったのねと感激した。
    で、十数年前に観たカナダ映画『ハイウェイ61』をまた観たくなったのよ。 そしたらDVDで再発なんて、やはりこの映画名作だったのだわ。 もう一度観たら、私が観たあの風景をそのまま閉じ込めたような映像がどんどん現れる。 自分の故郷でもないのに、なぜか懐かしさでいっぱいになる。
    実は61号線って、カナダまで走っているらしい。 その61号線の北端の小さな村で床屋を営む青年が、ふとしたことに見ず知らずの女性と、彼女の兄の遺体をニューオーリンズまで車で運ぶのを手伝う羽目になる。 車の屋根に棺おけ乗せて61号線の旅が始まる。 しかしその遺体の男は生前悪魔に魂を売っていたので、その遺体を手に入れようと、悪魔が彼らの車を追っかける。 ブルース街道を走るロードムービーで、ボブディランの生家エルヴィスの家などしっかり踏んでいくので勉強にもなる。 途中で会う人はみんなオフ・キーでユルユルのキャラ。
    悪魔に魂を売るのは南部に良くある逸話で、伝説のブルースメン、ロバート・ジョンソンも、61号線のクロスロードで名声と引き換えに魂を売ったと言われている。 でもね、ここにでて来る悪魔は、一番最初に観たときも、随分惚けた悪魔だなって思ったけど、2回目に観たら、こいつは自分が悪魔だと信じ込んでいるただのキチガイにも取れることに気づいた。
    コッテコテの南部に超似合わない、天パでひょろいカナダ白人が妙に可笑しい。 そのへんは、ジム・ジャームッシュの南部モノ、ダウン・バイ・ロウとか、ミステリー・トレインに雰囲気は近いかも。 と言っても、私だってミシシッピデルタの町をうろうろていた時は、変な東洋人のオバサンがなぜここに、って感じだったのね、きっと。 風景の中に自分は見えないって良い事だわ。

    Slacker(1990)

    監督:Richard Linklater (リチャード・リンクレイター)
    「スラッカー(Slacker)」、という言葉、耳にしたことはなかったのですが辞書で引くと、「なまけもの」、「責任回避する人」などという説明がついてます。一般的に俗語として使われ、大学を中退、または卒業して、職に就かずぶらぶらしている人、または大きいことばかりいうけれど、実際には何にもしようとしない人、チャンスが来るのではないかとただ待って、自分からは何も行動をとろうとしない人などの事を言います。
    しかしここで、はっきりさせなければいけないのは、スラッカーは決してアホでは無いんです。 ビーバス&バドヘッドはスラッカーでは無いんです。 スラッカーは何かについて語らせればすごく頭が回転して、興味深い発言をするんです。 しかし、身体の方がちっとも動かないんです。
    頭でっかちのなまけもの、それがスラッカーです。日本で言う「おたく」に近いんだけど、とにかく実行力が無いんで、極端に何かを集めたり、追求したりしません。
    前置きが長くなりましたが、この映画は、次から次へと、いろんなタイプのスラッカーを見せてくれます。 スラッカーのほとんどは、無職ですが、学生、大学教授、ウェイトレスなんかもいます。
    この映画の一番斬新なところは、ストーリーもメインキャラクターも存在せず、カメラが、ひとつのキャラから次のキャラへ、お互いが出会うところで移動していくテクニックです。 人が会って、ちょっと会話を交して別れていく、そこで、メインキャラが、交代するのです。 人と人とが、通りですれ違う場合でも、カメラは次のキャラに移動します。そんな感じで、ひとつのキャラクターの平均時間5分足らずで流れていきます。
    とにかく、スラッカーは話すことがおかしい。 青いスマーフ(アメリカのアニメキャラ)は、実はクリシュナ神だ、と説く男やら、マドンナの子宮癌検査の時に使った器具(マドンナの陰毛付き!!)を通りで売ろうとしている人やら、自分の生理の周期のアート・オブジェを造って道端に展示している女性やら、観るに飽きません。
    ドキュメンタリーでは無いのですが、ほんとにみんな実際にいそうな人たちばかりです。 もしかして、自分のようなキャラも見つかるかも。 そしたら、あなたもスラッカーです。
    スラッカー映画というジャンルもあるみたいなのですよ。 スラッカーを主人公にした映画です。
    リストを見たら、あるわあるわ。私の大好きな映画。 私はスラッカー映画ファンだったんだって改めて確認。「ストレンジャー・ザン・パラダイス」なんて、まさにスラッカー映画の王道ですね。

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