その他の国の映画
その他の国の映画

A SEPARATION (2011) : 別離 <イラン>
監督:アスガー・ファルハディ

イラン革命、イランイラク戦争と波乱の多いイランだけれど、本作品は政治色は一切ない。 日常のふとしたことが事件を生んでしまう。 裁判所で離婚届けを申請するところから始まるので、クレイマー・クレイマーのイラン版みたいな話かなって思ったんだけど、話はあらぬ方向へどんどん転がっていく。 
テヘランに住むミドルクラスの家庭。 妻のシミンは娘の教育のため海外に移住を望み、せっかくビザを手に入れたというのに、夫のナデルはアルツハイマーの実父を残して移住なんかは出来ないという。 それなら別れるしかないと夫婦は判断し、離婚が成立するまでシミンはしばらく実家に帰ることにした。 二人にはテルメーという11歳の娘がいる。
シミンが出て行った翌日から、ナデルは父を介護する家政婦ラジエーを雇う。 ラジエーはシミンの家庭に比べ、かなり貧しく夫は失業中らしい。 
ある日ナデルが家に戻るとラジエーは居ない。 父の部屋に行くと、父はベッドに片手を縛られていて、床に転げ落ち意識不明の状態だった。 戻ってきたラジエーが言うには、用事をたす為にちょっと外出しただけで、ナデルの父が勝手にうろうろしないように縛ったと言い訳をするが、怒ったナデルはラジエーを玄関から外に追い出す。 その拍子にナデルは転んでしまい、結果としてお腹の赤ん坊を流産してしまう。
ラジエーの夫は怒り狂い、ナデルを殺人罪で訴える。 ナデルはラジエーが妊娠してるとは知らなかったと言い、逆にラジエーを父の介護を怠って瀕死の目に合わせたと訴え返す。 離婚裁判の映画かと思ったら、ラジエーとナデルの訴訟合戦の方がメインです。
ナデルはラジエーの妊娠を知らなかったと嘘をついてるのか?
ラジエーはナデルから慰謝料を取るために流産をナデルのせいにしてるのか?
シミンは、自分と一緒に海外移住に同意すればこんなことにはならなかったというし、ナデルは、シミンが出て行かなかったらこんなことにはならなかったと責め返す。 本作品が面白いのは、登場人物は全員が一理あるんだけど、どこか間違ってるということ。 みんな、今より少しでも良い生活をしようと頑張っているのに、それが足を引っ張り合う羽目になっている。
アメリカってイスラム諸国は別世界と考えている人が多いけど、これってアメリカでもよくありそうな出来事よ。 アメリカも貧富の差が激しいし、貧しい人ほど信仰深い人が多いし、離婚問題、介護問題、失業問題、全てアメリカに溢れている。 おまけに訴訟好きだし、これがアメリカで受けが良かったのは納得がいく。 アメリカでリメイクされたとしてもなんの違和感もないよ。 で、結局シミンとナデルは別れてしまうのか、テルメーはどちらに付いて行くの? すっかり忘れていたその問題に最後に戻っていくところが、実に良くできていると思いました。(2013.2.20) 

 

SOUND OF NOISE (2010) : サウンド・オブ・ノイズ<未> <スウェーデン/フランス>
監督:オーラ・シモンソン/ヨハンネス・シューネ・ニルソン

6人のパーカッショニストが、音でスウェーデンの町を暴走する話。 警察は彼らをテロリストとみなし、警部アマデウスが彼らを追う。
打楽器奏者というのは、何でも叩いて音を出してみたくなるものなのでしょうか。 この映画の主役は音のテロリスト達。 彼らの音に人間が脅えさせられるというよりも、どんなものでも自分達の楽器にしてしまうところが犯罪なのね。 平和な北欧らしいわ。 例えば、病院に侵入して、モニター、酸素タンク、酸素ボンベ、吸入器など医療機器はなんでも、果ては患者までも楽器にして、音楽を奏でる。 彼らにとっては音の出るものはみんな楽器なの。銀行を乗っ取れば、小銭を数える音、お札をシュレッダーに入れる音、印鑑を押す音、みんな音楽です。
この斬新な数々のセッションがこの映画の見せ場になっているんだけど、警部アマデウスの家族のエピソードも平行して、また面白いのよ。 アマデウスという名前からもわかるように、この警部は代々の有名な音楽家を出す一家に生まれたんだが、なぜか自分だけ音痴で、已む無く両親はこの息子に音楽の道を進ませるのを断念した。 家族が有名なおかげで、いつも他人に「それであなたは何を演奏なさるの?」と聞かれることに辟易していて、音楽に対しては半ばアレルギー気味だ。
しかし奇跡が起こったのだ。 この音のテロリストによって、いったん楽器にされてしまったモノはその後叩いても、なぜかアマデウスだけには音が聞こえなくなるのだ。 何でそうなるかは一切説明が無いんだけど、まぁ、気にすんなって感じで進んでいって、最後のオチに繋がる。
短編映画がもとだったということもあって、一発ギャグ的なオチだけど、全部で5回あるパフォーマンスだけでも観る価値あります。 音楽が嫌いじゃなければね。(2013.5.21) 

ESSENTIAL KILLING (2010) : エッセンシャル・キリング <ポーランド/ノルウェー/アイルランド/ハンガリー>
監督:イエジー・スコリモフスキ

中近東で地雷の探知をしている米軍が洞穴に待ち伏せしていたアラブ兵(もしくはテロリスト)に襲撃される。 即座に上空の米軍のヘリコプターからの弾丸がそのアラブ男を追い、撃たれて気を失ったところを捕らえられる。 
監獄で拷問されても何も言わないその男は、どこか別の監獄へ輸送される。 その輸送の途中に車が事故に遭い、男は逃亡のチャンスを得、 そこから壮絶な逃走劇が始まる。 そのアラブのランボーを演じるヴィンセント・ギャロ。 そして暴れまわるのはなぜか東ヨーロッパ。
ギャロはアラブ系は入ってないんだけど、長い顎鬚とターバンで、十分アラブ人に見える。 でもアラブ語は話せないでしょ、って思うけど、大丈夫。 劇中彼は一度も言葉を話しません!
言葉が無い変わりに、音の使い方と風景を物凄く配慮して作られている。 東欧の雪に覆われた森の中に、現れては消える動物たちや、木の実の鮮明な赤、雪どけ水が流れる小川などのショットはかなり詩的で綺麗。 そして人は飢えるとあんなものまで食べちゃう、とかあんなことまでしちゃう、とかの究極のサバイバルが面白い。 飢え過ぎて、授乳する母親の乳まで吸い付くギャロは、エロとサバイバルの融合で凄いシーンだったわ。
政治的メッセージはそれほど強くは無いけれど、アメリカ兵は任務の途中でもマリファナ吸ったり、デスメタルをカーステでガンガン聞いてたりで、アラブ兵の真剣さと対照的だし、悪名高いウォーターボーディングの拷問シーンも出てくるので、姿勢は反米的だ。 私には、中近東まで戦争に出かけていって、捕まえたテロリストを東欧とか、世界の果てみたいなところに連れて行って拷問するアメリカ軍は、地球上に置けるとっても迷惑な存在に感じられたわ。
でも本作品は戦争云々と言うよりも、強者軍団に追われるひとりの弱者の姿をとことんまで描きたかったんだと思う。 ラストがとても象徴的で印象に残ります。(2012.1.30) 

       

DREAM HOME (2010) : ドリーム・ホーム <香港>
監督:パン・ホーチョン

冒頭から凄い。 結束バンドを居眠りしているガードのおじさんの首にそぉーっとかけて、一気に引っ張ってロック。 おじさん、もがきながらもカッターナイフを探し、バンドを切ろうとするけど、首にしっかり食い込んでるから切れない。 思い切って首にカッターナイフを刺し、バンドの内側から切ろうとするけど、頚動脈まで切っちゃって、首から血が吹き出る。 窒息と出血のダブルパンチで、足掻き苦しむおじさんは見るに痛ましいったらない。
それから、妊婦を突き倒して流産させ、股間から血を流しているのに、そこをまた結束バンドで手足を縛り、頭にビニール袋を被せしっかり閉じて、それでもういいのに、そこにまた掃除機を使ってビニール袋を真空状態にする。 こんなことをするのは、なんと若いOL。
なんでOLをそこまで残酷にさせるのか。 それは子供の頃からもう貧乏はイヤ。 海が眺められる高級マンションに住みたいって一身に願ってきたから。 3つも仕事を掛け持ちし、一心不乱に働いて貯金をしてやっと買おうと思ったマンションがバブルでどんどん高くなり、頑張っても頑張っても手が届かないから。 そんな涙ぐましい回想シーンが、グログロの惨殺シーンの間に組み込まれて語られる。
しかし、個人的に恨みのない人々を、ただ自分の住みたかったマンションに住んでいるという理由だけで、片っ端から殺していくなんて腹いせとか逆恨みを通り越して、このOLは狂ってる。 スクリュードライバーを後頭部から突き刺して目ん玉飛び出すわ、腸を掻き出すわ、あの香港悪趣味スプラッター『八仙飯店之人肉饅頭』に匹敵するグロさかも。 
でも不思議なことに、いつの間にかこのキチガイOLを応援している自分がいる。 女一人で、工具袋だけ引っさげて、踏み込んでいく姿がカッコいいし、反撃されてボコられたりすると、負けるなって思っちゃう。 殺人鬼なんだけど、なんかひたむきで、それが魅力です。
香港に住む人たちの貧富の差を訴えるようなテロップが始めに出てきて、おっ、社会派か、なんて思ったら間違い。 楽しい香港スプラッター・ムービーです。(2011.8.17) 

DOGTOOTH (2009) : 籠の中の乙女 <ギリシャ>
監督: ヨルゴス・ランティモス

ある家族のお話。 この父、母、兄と妹二人の五人家族は高い塀に囲まれた広い敷地とプールがある大きな家に住んでいるけれど、父以外は塀の外には一歩も出ることは無い。 子供たちは塀の外は恐ろしい世界だ両親から教えられていてる。 子供といっても20前後の大人で、おそらく生まれてから一度も外に出たことは無いようだ。
で、家で何をしてるかと言うと、兄弟でプール遊び、鬼ごっこ、玩具の取り合い、我慢大会など、小学生がするような遊びを延々と続けている。 本もないし、テレビはホームビデオしか映さない。 しかし大人となれば性欲が出てくる。 そこで父が自分の経営する工場の従業員クリスティーナにお金を払って息子とセックスすることを頼む。  また兄弟どうし身体を触りあったり、塀の中では性にはかなり開放的だ。
なぜ、こんな子育てをしているのかは、全然説明されない。 でもアメリカでもキリスト教原理主義の人たちとかは、公立の学校では進化論とか避妊とかを教えるので、学校には行かせないで、ホームスクールを試みている家庭もかなりある。 子供を自分の思う通りに育てたいと言う願いが極端に激しいとこんな風になるよ、っていう例がこの一家だと思う。
たとえば長男が外部者であるクリスティーナから「ゾンビ」と言う言葉を耳にする。  後で「お母さん、ゾンビってなあに?」 って聞くと、母は「ゾンビって黄色いお花のことよ」と答える。 それから長男は庭で黄色い花を見つけると、「ゾンビが咲いてるよ」って言うし、塩を「電話」って呼んでいるし、外から侵入してきた猫は人間を食べる恐ろしい動物と信じてる。 演出はかなりゆるいコントなんだけど、教育って恐ろしいって十分感じさせる。 原題の意味は犬歯のこと。 父は子供に「犬歯が抜ければ大人になった証なので、車に乗って外に出れる」と教えている。 もちろん犬歯は相当老いなければ抜けることは無い。
監督はギリシャ人だけど、これミッシェル・ハネケだよ〜っ。 無味乾燥した暴力描写といい、屈折したユーモアといい、そして子供たちの全身白い服は絶対『ファニーゲーム』の影響受けてる。 必要以上に裸とセックスが出てくるのは多分お国柄? それも全然エロくなく、ただ生殖作業をしてます、っていうだけ。  あまり人に薦められる作品じゃないんだけど、ハネケやトッド・ソロンズが面白いって思う捻じ曲がった映画ファンは一度観てみると良いと思います。(2011.3.16)
     

REYKJAVIK WHALE WATCHING MASSACRE (2009) : レイキャヴィク・ホエール・ウォッチング・マサカー <アイスランド>
監督:ユリウス・ケンプ

最近はノルウェーホラーが勢力をつけてるけど、それに負けじとアイスランドからのホラーです。 アイスランドと言えばみんなは、ビョーク以外何もないと思ってるけど、この映画を観ると、ほんとうにビョーク以外何にも無いって感じ…。
アイスランドは日本と並んで数少ない捕鯨大国のひとつだったけど、捕鯨が禁止されてから漁港は寂れ、猟師達は漁船を鯨ウォッチングの観光船に変え、鯨のマスコットなどのみやげ物を作って細々と生計を立てている。 しかし、その中に自分たちの仕事を奪う原因となったグリーンピースだの、環境保護だのに恨みを持つ猟師一家がいた。 そして彼らは鯨ウォッチングの外人観光客を狙って惨殺していたのだ。
本作品は『テキサス・チェーンソー・マサカー』のオマージュとして作られ、なんとオリジナルのレザーフェイスもカメオ出演しているのだけれど、どちらかと言うと『ホステル』みたいで、外国は怖いところというメッセージを放ってますね。 でも『ホステル』は舞台は東欧でも作り手はアメリカでしょ。 本作品の製作国はアイスランドで、自ら観光客を怖がらせてどうするの?って思うけど、やっぱり捕鯨禁止に対して怒りを感じてるのね。 『ザ・コーヴ』でバッシングされた和歌山県太地市のみなさんの怒りをアイスランド人が代わって映画にしてくれたという気がしないでもない。
その象徴として、鯨ウォッチングに来た外国人が超意地悪く描かれている。 そこが私はめっちゃ面白かった。 観光客だもの。もちろん日本人も3人いますよ。 金があるからエバってて、妻のことを愚妻などと平気で他人に紹介するのが日本人男代表です。 ドイツのおばさん団体はドイツ語で黒人男を囲いたいなんて平気でおしゃべりしてるし、フランス人はただのアホ、アメリカ女は超自分勝手。 全員危険にさらされているというのに、誰一人として助け合おうなんて考えず、自分さえ生き残ればいいって考えてる自己中集団。 あ、アメリカ黒人の男の人ひとりだけ、ヒーロー的行為をするけど、その行為が裏目に出て酷い事になっちゃうしさ。 お決まりの展開のようでいて全然先が読めない。 生き残る人間が全く予想できないところがまた面白い。
舞台が海上でも、救命ボートやタグボートなんかであちこち逃げ回るので、船内の限られた空間だけの追いかけっこではありません。 低予算で荒削りな作りだけど、かなりの秀作です。(2011.7.1) 

 

THE HUMAN CENTIPEDE (First Sequence) (2009) : ムカデ人間 <オランダ>
監督:トム・シックス

アメリカ人のリンジーとジェニーはヨーロッパを旅行中に、ドイツの森の中でレンタカーがパンクする。 森の中をさまよった後に辿り着いた一軒家は、キチガイ医者が住んでいた。 そいつに監禁され、そこに日本人の旅行者らしき男も捕らえられて連れ込まれ、3人はなんとムカデ人間に改造される運命となる!!
それぞれのお尻の穴と口を繋いで3人の人間を一匹のムカデに改造しペットとして飼い馴らそうとする、実に馬鹿馬鹿しい発想を基に作られたにも拘らず、怖いのよ、これが。 オランダのホラー映画は初めて観たけど、ヨーロッパのホラーって心理的にキツいわ。 このタイトルからバカホラーで笑っちゃおうと期待して観ると、見事に裏切られる。
なぜ怖いって、他者と肉体的に繋がることで自由が拘束されてしまうことでしょう。 人間、腕がもげようが足が切られようが、不自由ではあるが自分の一人の意思が自分の身体を支配できる。 しかし他人と繋げられてしまうと、自分の意思だけでは動けない。 私達がシャム双生児に感じる恐怖よね。 おまけに変なところでくっ付いているから、前の人の排出物が自動的に次の人の口に入ってくる。 先頭がなぜか関西弁しか話さない日本人男で「あ、うんこ出る、ごめん、許してくれ…、」って笑うに笑えないよ…。
この医者役のクリストファー・ウォーケンかウド・キアか、という顔をした俳優が凄い。 キチガイ医者ってよく「ワハハハ」とか笑いながら人を解体したりするけど、こいつは笑うことは皆無。 常に真剣でよく逆ギレする。 インパクトあり過ぎでこの先どこで見ても、あ、ムカデ人間の医者ねって言われること確実。 でも日本人の男がそいつに向かって「ドイツの変態野郎」、「ソーセージばっかり食いやがって」とか好き勝手なことを叫んでるのに、日本語だから完全にスルーされてるところはちょっと笑った。
  DVDの付録で監督がインタビューで観れるのだけど、ハリウッドでリメイクするとしたら、先頭はトム・クルーズで、真ん中がジェニファ・ロペス、最後はパリス・ヒルトンを使いたいな、でも無理だろうな、だって。 あったりまえでしょ。 続編の製作も進行中で今度は12人繋げるとかのたまってました。(2010.10.14) 

 

LA NANA (2009) : 家政婦ラケルの反乱 <チリ>
監督:セバスチャン・シルバ

ラケルはチリのある裕福な一家の住み込み家政婦として20年以上も働いている。 朝早く目覚ましで起き、5人の子供を起こして着替えさせ、ご飯を食べさせお弁当を持たせ、学校に送る。 夫婦の朝食までも用意してベッドに運ぶ。 そのあと掃除洗濯、すべてラケルがやる。
一生懸命働なんだけど、辛抱強く奉公してるという風でなく、自分が居なきゃこの一家はダメだ、みたいな堂々とした態度で家事を切盛りしている。 しかし40歳を超え、ひとりで全てやるのが肉体的に大変になってくる。 そこで一家はもうひとり家政婦を雇うのだが、新しく来たメイドさんは若くて可愛らしいタイプでラケルのプライドが許さない。 いびりまくって追い出しちゃうのだ。
家政婦なのに、やたら態度がでかいラケルが可笑しい。 子供の中でも三男、四男、五男をひいきして可愛がり、大学生の長女は生意気だから、朝から彼女の部屋をデカイ音をたてて掃除機かけて嫌がらせしたり、スナックを隠したりいじわるばあさん的な事もする。 雇用主家族の方が彼女に気を使ってるのも笑える。
でも考えてみれば、ラケルは若い娘の時に雇われ、人生の全てをこの家族に捧げて来たのだ。 異性との交際のチャンスも無く、友達すら出来ずに、ひたすら他人の世話をし続けて早20年。 自分の世界は此処しかないのだから、新しいメイドにその世界を侵されたくない。 あげく自分のポジションを奪われたらという強迫観念もあるだろう。 だから、もうフラフラになるまで働いちゃって、とうとう倒れてしまう。 ここまでは、笑っていいのやら哀れんでいいのやら、とにかくラケルのキャラに圧倒される。
次に来た家政婦ルーシーがラケルのボロボロの心を徐々に癒していくと言う展開が素晴らしい。 存在そのものがセラピーになるような人格を持った人っているんだよな。  邪心など全く無く、自然体で全てを包み込んでくれるような人。 それがルーシーだ。
ストーリー自体は他愛無い出来事で、家政婦を雇うような家庭ではけっこう日常的なエピソードなのかなとも思うけど、同時にラケルに起きたことは奇跡と言えるのではないか。 こういう日常的な奇跡を描くってとっても難しい。 言葉からして矛盾してるしね。 それをさらりと映画で語れるのは、この監督自身の体験がかなり脚本に影響しているからだと思う。 ロケも自分の生まれ育った家を使用し、ラケルとルーシーと言う名のメイドも監督のの子供時代に実際に居たらしい。 

 

LAT DEN RATTE KOMMA IN (2008) : ぼくのエリ 200歳の少女 <スウェーデン>
監督:トマス・アルフレッドソン

12歳の少年オスカーは両親が離婚し、母一人子一人の家庭で暮らす。 学校では虐められ、家ではいつも一人ぼっちだ。 彼のアパートの隣に女の子が引っ越してくる。 そのちょっと風変わりな女の子エリも同じく12歳。 でも永遠に12歳のままであるヴァンパイアだったのだ。 それを知らずにオスカーはエリに惹かれ、仲良くなるのだが、近所で奇怪な殺人事件が起こり始める。
『僕のガールフレンドになってくれる?』
『ガールフレンドと友達ってどう違うの?』
『多分…おんなじ。』
『だったらガールフレンドになってもいいわ』
なんてかっわい〜!  しかし相手はヴァンパイアだから、悲しませると涙の代わりに全身から血を噴出して泣くのよ。 初恋の相手が怪物だなんて、運が悪過ぎ? でもエリはオスカー君の寂しさを癒し勇気をくれる、無くてはならない存在なの。 そしてエリにもオスカー君が唯一の友達で、たとえ何百年生きていたとしても、やっぱり寂しい女の子なのよ。
ヴァンパイアものはホラー兼ラブロマンスのジャンルが多く、最近アメリカで大流行の『トワイライト〜初恋〜』なんかはこの手の極みで、ティーンエイジャー向けの恋愛映画になっていて絶対に観に行きませんが、このスウェーデン発のヴァンパイア・ロマンスは、昔見た『小さな恋のメロディ』のように胸にキュンと来るのよ。 人体を逆さづりにして首を切り血がドバァーとかなんだけどね。  隣に引っ越してきた力の強い女の子ってことでスウェーデンだし、「長靴下のピッピ」なんかも思い出しました。
ホラー描写はかなりB級で、失笑してしまうシーンもあったけど、それはそれで別物として楽しみ、スウェーデンのきれいな雪景色を背景に、少年と少女の淡い恋に感動しましょう。(3/16/2009)

TRANSSIBERIAN (2008) : 暴走特急 シベリアン・エクスプレス<未> <イギリス/ドイツ/スペイン/リトアニア>
監督:ブラッド・アンダーソン

アメリカ人夫婦、ロイとジェシーは北京でボランティア活動をした後、シベリア横断鉄道に乗って帰る途中だった。 そこで同じ寝台車に乗る若いカップル、カルロスとアビーと知り合いになるが、それがもとでドラッグ密輸犯罪に巻き込まれる。 『セッション9』、『マシニスト』など、ダークなスリラーを送り出してきたブラッド・アンダーソン監督の新作だ。 
本作品は前二作のようなじっとりした暗さはなく、アメリカ人カップル役のウッディ・ハレルソンとエミリー・モーティマーが、善良でナイーヴな夫婦を演じ、フツーの市民がわけが解らないまま怖いことに巻き込まれる、ヒッチコック風のサスペンスに仕上がっている。
旅行者がメインキャラのスリラーは大好き。(『ホステル』とか…。) だって、異国の地の景色や風土を十分に楽しめて且つ、スリル満点でしょ。 見所がいっぱいで得した気分よ。 旅行者の視点で撮るからおのぼりさんが観たがるようなものをピンポイントで撮ってくれる。 ピロシキ、ヴォッカ、マドリョーシカ人形など、日本で言うならフジヤマ、スキヤキ、ゲイシャガールのように、解り易いアイテムが登場する。 そして、雪原を走るシペリア鉄道は絶景よ。 乗り込んでくるロシア人乗客の顔も好いわ。 この列車は観光客というより、地方の貧しいロシア人で溢れてるのよね。 これぞ、真のロシアと言う感じ。
そんなこんなで、主人公と一緒にたっぷりシベリア鉄道を楽しんだ後に災難がやってくる。 夫のロイが突然消えてしまうし、ジェシーは自分のスーツケースを開けたら、ヘロインがびっしり詰まっている…! そして血も涙も無いロシア警察との対決よ。 なぜかロシア警察のボスがベン・キングズレー。 彼はインド人、アラブ人、ロシア人と何でも任せろっていう無国籍俳優ね。 まったり旅行していた夫婦が、最後にアクションヒーローになっちゃうところがハリウッド的で少し引いてしまったけれど、最後の最後の捻りとか渋いなぁと思わせ、満足のいくサスペンススリラーでした。(11/9/2008)

MUTLULUK (2007) : 至上の掟 <トルコ/ギリシャ>
監督:アブドッラー・オウズ

あるトルコの貧しい村で、17歳の少女メリエムはレイプされる。 メリエムは犯人の名前を言わない。 しかし、レイプであれなんであれ、この村では女性は結婚前にセックスをしたら一族の恥だということで、死を選ばなければいけない酷い因習がある。 メリエムは首吊り縄を投げつけられるが自殺できない。 そこで兵役から村に戻ってきた青年セマルが、メリエムをイスタンブールに連れて行き暗殺してこいと命じられる。 イスタンブールに行ったものの、セマルはメリエムを殺すことが出来ない。 殺さないと村には帰れない。 そこでセマルはメリエムを連れてさまようことになる。
主人公の少女の純粋さに心が洗われるようだった。 少女も苦しんでいるけど、それ以上に命令を執行できない青年の方が苦しみは大きくて、そんなふたりが、目を見張るような美しいエーゲ海を航海するのはロマンチックであるのと同時に残酷で、近代社会と昔からの因習に囚われる古い世界が混ざり合う、不思議な映画だった。
とにかく健気なメリエムがとても愛らしいの。 でもただ純粋なだけはなくて、気丈なところもある。 継母に、あんたは自殺しな、って首吊り縄を投げつけられた時、言いつけ通りに首を釣ろうとするんだけど、窓越に継母が様子を覗いているのを観て、自殺なんてしてたまるかって考え直すのね。 セマルにイスタンブールで拳銃を向けられたときは、「わかった、私は死ぬわ、でも父に、私は何も悪いことをしてないって伝えて、それから怖いから目隠しをさせて。」なんて目をウルウルさせて言われたら、セマルは殺せるわけ無いよな。
最後に村の衆がメリエムを殺しに追ってくるところはスリル満点。 『闇の列車、光の旅』と雰囲気が似ていて、あの映画みたいに、この逃避行も悲劇に終わりそうなんだもの。 お願いメリエム死なないで〜、って心から叫んだわ。 さてこのふたりの最後は!?
日本では映画祭で公開されただけのようだけど、是非DVDを出して欲しい作品です。(2012.2.25)

IRINA PALM (2007) : やわらかい手 <ベルギー/ルクセンブルク/イギリス/ドイツ/フランス>
監督:サム・ガルバルスキ

本作品、マリアンヌ・フェイスフル主演で目が留まる人もけっこういると思う。 60年代にキュートなフォークシンガーとしてデビューしたのに、ミック・ジャガーの刃にかかり、酒とドラッグに溺れボロボロになり、小鳥のような声が老婆のようなしわがれ声に一変してしまったあのマリアンヌ・フェイスフルだ。 そして彼女の役が、孫の医療費を稼ぐために風俗嬢として働くお婆ちゃん役と聞いて、ますます興味が湧く。
さて、主人公マギーの可愛い孫は難病に冒され、オーストラリアに最新の治療を受けに行くのに大金が必要だ。 ずっと専業主婦を続けてきたマギーは、夫は既に他界しており、大金をどう稼いでいいかわからない。 『無経験可、高給保証』という求人広告を観て、あたってみたらキャバレーのホステスだった。 当然年齢からして無理なんだけど、クラブのオーナーがマギーの手が異常にやわらかいことを発見! この手なら男をイカせることができる!! ペニスを穴に挿入してサービスを受けるので壁の反対側には老婆がいるなんてこと客にはわからない。 たちまち行列の出来る手となる。
マギーの仕事の行き帰りにかかる音楽がとても暗くって、あれがかかるとドヨ〜ンとした重い空気が漂い、マギーの小さな後姿がとても寂しく見えのだけど、それ以外はかなり笑えるかも。 職場の個室にお弁当と紅茶の入ったポットを持ってペニスが穴から出てくるのを待っているマギーは可愛い。 自分の仕事場だから、花とか写真とか飾ったりしてるし、壁のこっち側はちゃんとお婆ちゃんの小部屋になっている。
風俗嬢をやっていることがバレて、息子はマギーをなじって金は要らんと怒り、一方嫁は始めはマギーを嫌っていたのに、まぁまぁいいじゃない、好意に受け取りましょうよ、という辺りがリアルだなぁ。 息子にとっては母が商売女っていうのは、いちばん受け止め難い事実なんでしょうね。
最後の茶飲み友達のバァさん連中に告白する場面も笑った。 お上品なイギリスのアフタヌーンティーみたいな場で、『では秘密を明かすわ。 私の仕事は手コキなのよ、詰んないでしょ。』とあっさり流す。 バァさんたちは口がポッカーン。 『手コキってマスターベーションのことでございますの?』『コックっていいますと、勃起したペニスのことですか。』『大きさは大体どれくらいの程?』 マギーは『私のこの手はロンドンで一番と評判なんですよ、オホホホホ、このスコーンは美味しいですわね、あなたがお焼きになったの?』、と評判のその手でスコーンをつまむマギー。 爆笑です。
悲惨な状況をさらっと笑いで返すってほんと素晴らしい。 こういう人生のテクニックを絶対自分も身につけたいと思う。(2010.8.2)

PVC-1 (2007) : PVC-1 余命85分 <コロンビア>
監督:スピロス・スタソロプロス

ある一家に突然強盗の一味がやって来て、家族全員を縛り上げ5百万出せと言う。 そんな大金は無いと言うと母親に時限爆弾を設置した首輪をはめて、金を用意しないと爆発するぞと脅し去っていく。 そんな大金を持っていない一家は警察に連絡するが、警察はどこそこに来てくれと場所を指定する。 それで母親は爆弾を首につけたまま家族と共にその場所に向かう。
映画が始まってから15分ぐらいで、本作品はカットが入らないことに気づく。 始めは悪党一味、そして襲われる家族、悪党退場、警察のもとへ移動する家族と、カメラは流れるように映し出す。 最後までワンカットで撮るつもりだ。 もしNG出したら最初からやり直したのかしら。 そのワンカットの効果は凄い。 リアルタイムで事件を追う臨場感はもちろんだけど、その一瞬一瞬に一番見せたいものをカメラがズームアップ、またはズームアップするのに間があり、その『間』がとても新鮮に感じる。
たとえば、家族が全員玄関から去っていくのにカメラは玄関に残って戸口に掛けてあるロザリオを映して止まってしまう。 すると母親が玄関に慌てて戻って来て、そのロザリオを掴んで持っていく。 そこでやっとカメラも母親を追っていく、と言った、あれっと思わせるような瞬間を作れるのだ。
コロンビアは誘拐や身代金要求事件は日常茶飯事と聞くが、爆弾を取り外す専門家があまりにもお粗末なのは、こちらの常識から言うとちょっと考えられない。 同じく爆弾を取り外しがテーマの話題作『ハートロッカー』の宇宙服のような米兵の装備とは雲泥の差よ。 爆弾を仕掛けられた被害者に出頭してくれとか言うのは論外だし、おまけにこの一家は車も無いのよ。 で徒歩とトロッコで目的地を目指し、着いたら着いたでポリバケツを逆さまにした椅子に座らせられ、爆弾を外す道具はポケットナイフと蝋燭よ。 ギブスを取るとき使うような電動ノコとか、もうちょっとハイテクなモノはないの? 警察側はやる気無さ過ぎだ。 でもこれは実話が基になっていると言うし、私の近所のベネズエラ出身の奥さんの父親も誘拐されて行方不明になったままだから、南米ではありえることなのよ。
しかし、この邦題に『余命85分』を付けては絶対ダメ。 首輪がホームセンターなどに売っているPVC−1と言う種類の配管パイプで作られていて、原題はそこから来ているのだけれど、映画の中では誰も85分で爆発するなんて言ってないのよ。 いつ爆発するか判らない、また、もしかするとただの脅しで爆弾では無いかもしれない、そういう予想の付かないところで緊張感が増すのに、作品中でも明かされてもいないことを観客だけに明かしちゃうなんて大反則だ。 今すぐこの邦題を変更して欲しい。
アメリカでほとんど評判にならなかったのは、やっぱり不条理感が受け入れられないのでしょう。 娯楽として観ることが出来ない内容だけれども、カメラワークと演技の凄さは見逃すには惜しい作品です。(2010.2.13)

13 BELOVED (2006) : レベル・サーティーン <タイ>
監督:マシュー・チューキアット・サックヴィーラクル

リストラされた青年プチットの携帯電話が鳴る。 電話の相手は、プチットがあるコンテストの候補者に選ばれたと言う。 候補者はレベル1から13までの課題が与えられ、クリアするごとに口座に入金され、レベル13をクリアすれば1億バーツの賞金がもらえると電話の相手は説明する。
ウンコ食べたり、老人の腐乱死体を背中に担いだり、町の名物おじさんを陛下とあがめたり、へんてこな事ばかりさせられる主人公。 それもこれも賞金をもらうため。 やっぱり観ながら、自分だったらやるかなって考えてしまうけど、タイの貨幣換算がわからないので、賞金が課題に見合っているか判断できないのが残念。 でもウンコを食べる方が名物おじさんとお話しするより賞金少ないのはおかしいよ。 やっぱりウンコは最後に来なくっちゃ。
課題を与えられるのは『ソウ』と似ているけど、別に果たさなくとも殺されるわけじゃなく、途中で止めたらお金はあげないよってだけなので、緊迫感が無いんだけど、それでも結構スリルがあるのよ。 やらなきゃいけないっていうよりも、プチット自身がだんだん、ゲームにのめりこんで人格も変わっていく過程が面白いのね。  課題がジャッカスみたいにくだらないところが私のツボだったりするんだけれど、プロットはきちんとしていて、だんだんこの謎のゲームの正体、プチットの生い立ちなどが明かされてくるところも面白いし、ラストもちょっと驚かされる。
同じタイの『心霊写真』よりもずっと出来がいいと思う。 これもアメリカでリメイクされるみたいね。 ウンコ食べるのかな。(そればっかり。)

 

Ang Pagdadalaga ni Maximo Oliveros (2005): マキシモは花ざかり <フィリピン>
監督:アウレウス・ソリト

マニラのスラム街に住む12歳のマキシモは母を病気で亡くし、兄二人と父親と一緒に暮らしている。 マキシモは学校には行かず家事を一切こなし、父と兄達はヤクザで盗品を売って金を得ている。
このマキシモ君、髪にお花のピン留めをつけ、キュートなTシャツとホットパンツをはき、お化粧してミスユニバースごっこをして遊んだり、まだ子供なのにゲイボーイ全開だ。 
ある日、街角でレイプされそうになったところを警官に助けられ、そこからマキシモ君の初恋が始まる。 その若くてハンサムな警官ビクトルに付きまとい、お弁当を差し入れしたり、「好みの女の子ってどんな感じ?」とかさりげなく聞いたり健気でほんとカワイイの。 「素朴な感じの子が好きかな」ってビクトルが言ったら、次の日からヘアピンとか化粧とか止めちゃうマキシモはいじらしいのよ。
本作品、ほのぼのとしたマキシモくんの初恋物語かなと思ったら、中盤からシリアスな犯罪ドラマと展開してびっくり。 兄のひとりが殺人容疑で捕らえられ、マキシモは警官であるビクトルと、自分の家族との間に板ばさみになってしまう。 ビクトルには盗みをするような人間にはなるなと言われるし、家族にはビクトルと会うなと言われる。 家族もビクトルのどちらも大好きなマキシモはどうしていいかわからなく、ぽろぽろ涙を流して泣くだけ。
マニラのスラム街の撮りかたがもの凄く良い。 『
シティ・オブ・ゴッド』(リオデジャネイロ)でも『スラムドッグ・ミリオネア』(ムンバイ)でもみられる、スラム街の生命力溢れる撮り方はワクワクする。 ゴミ溜めのような場所でも、人は仕事をし、物を食べ、遊ぶ。 哀れみを持った傍観者ではなく、当事者の位置から撮っているから生き生きするのね。
そして、ゲイであるということに、ちっとも劣等感を持っていないマキシモの姿がまたいい。 アメリカだったら、絶対シシー(ナヨナヨ男)ってからかわれイジメられると思うけど、フィリピンってオカマに寛容な国なの? マキシモくんが何の躊躇いもなしにお洒落をして、堂々と街を歩く姿は見ていて気持ちがいい。 マッチョな父親や兄たちも、マキシモの料理好き掃除好きに感謝して可愛がり、けっして男らしくしろなんて言わない。 だからこそマキシモは素直な性格に育ち、みんなを愛しちゃって、窮地に立たされてしまうのね。
音楽とか色彩とかとてもセンスが良くって、舞台はアジアでもヨーロッパの監督が撮ったのかななんても思った。(でも監督はフィリピンの人です。) ラストは『第三の男』のオマージュだって。 気づきませんでした。(3.8.2011)

Paradise Now (2005): パラダイス・ナウ <フランス/ドイツ/オランダ/パレスチナ>
監督:ハニ・アブ・アサド

毎日のように、イラクで、またはイスラエルで、爆破事件のニュースが流れるが、自爆テロ犯っていったいどういう人たちなのか、何を考えているのか、この映画はその疑問に少し答えてくれる...、かもしれない。 と少し弱気なのも、この映画はとってもスタンスが微妙なの。 
これは社会風刺なの? それとも真実をそのまま描いたの? 笑っていいの? 同情していいの? いったいどういう反応をすればいいのよ? 観賞後は『ノーマンズランド』のように、やるせなさと不安が残るだけ。
パレスチナ人の監督が撮ったこの映画は、自爆テロを使命を課された親友の二人、サアドとカーレドの2日間を辿る。 自爆テロを決心する人って、もっとコテコテの原理主義者で暇さえあればアラーの神に拝んでいるような人たちかと思ったら、そうでもない。 この映画のテロリストは普通の若者。 車の修理工で、休み時間には音楽を聴きながら水パイプを吸っているような、どちらかといえばボンクラな若者。 それなのに、『明日、自爆して欲しいんだが』って仲間から頼まれると、『うん、いいよ』って簡単に引き受けるのだ。 別に断れば処刑されるわけでも罰せられるわけでもない。 あくまでも本人の選択に任されているのよ。 実際テロを引き受ける人ってこんなもんなの? これじゃあ、アメリカの下層階級の若者が、大学も行けないし仕事も無いので軍隊に入るのと全く一緒だ!
テロを実行する前に、声明を発表するビデオを撮る。 カーレドは『私は神のため、国民のために殉死する...』などと、仰々しいスピーチを国旗の前でするのだけれど、途中でカメラの後ろの同志達がお弁当を食べ始める。 それもカーレドの母が朝詰めてくれたお弁当だ。 彼はそれを見てスピーチを中断する。 少し間をおいてから何を言うかと思えば、『お母さん、飲料水の濾過フィルターはどこそこのメーカーを使った方がいいよ。』ってカメラに向かって言うのだ。 同志はビデオを止めて、それって、ここで言うべきことかと聞くのだが、『そうでもないけど、母に言い忘れたことだから。』って答える。 これってオフビートのコメディですか!? オマケに最初の爆破の試みは失敗し、爆破装置を身体に貼り付けたガムテープをとる時、さっきまで『僕は死ぬことは全然恐れない。』なんていってたくせに、イテテ、もっと痛くないように剥がせ、と文句を言うダメっぷり。
彼らを勧誘した同志は『この役目を果たしたら、君達は英雄だ。 国民から称えられる。 天国は君達のものだ。』と言う。 結局、自爆するテロリストも、戦死するアメリカ兵士も、自分の冴えない人生を変える道はそれしかなかったのだ。 人はやはり役立たずのダメ人間でいることは辛い。 その弱点を上の奴らは旨く利用して人間を使い捨て兵器にしてしまう。 ダメでいいじゃん、って諦めることが、平和に繋がるような、そんな気がしました。

L' ENFANT (2005): ある子供  <ベルギー/仏>
監督:ジャン=ピエール・ダルデンヌ/リュック・ダルデンヌ

ダルデンヌ兄弟監督の『ロゼッタ』も『息子のまなざし』も、我慢できないくらい退屈だったので、この新作も早送りしながらの観賞だな、っと覚悟していたら、意外に傑作で驚いた。 BGMを一切使わない、変にドラマっぽくしない、ただただカメラは主人公を追う、これらは前作と同じ作法、しかしその主人公が今回は凄く興味をそそるキャラクターだったから、最後まで引き込まれた。
その主人公ブリュノ青年はどんな奴かというと、十分以上先のことまでは予想出来ないアホ。 お腹が空いたな、あ、自分の子供を売ってお金を作ろう、って子供を売っちゃう。 子供の母親がそれを知って怒れば、やべっ、買い戻してこよ、って買い戻してきちゃう。 買い戻すのに、売った倍の金額を要求され、金が無いや、盗んでこよ、って引ったくりをする、ってな調子で、行動の前に考えるという作業を全くしない。 5歳以下の子供に観られる行動形式だ。 でも、彼は20歳の青年だから、子供をつくったりヤクザと闇取引が出来たりするわけ。
このブリュノ青年が、計算ずくで悪事を働く冷酷な奴だったら許せないのだけれど、なーんにも考えてないってところが憎めない。 過去に学ぶとか、将来を考えるとかしないウルトラ刹那主義、ていうか主義なんてもの持って無い、ただ生きているという下等動物みたいなブリュノは、ダメ人間を崇拝する私にとっては、ダメの教祖格である。 でも世の中にとってはもちろん彼はゴミである。 ゴミはやっぱりゴミ箱行きだけれども、ゴミ人間を撮ってもゴミ映画にはならず、それどころかカンヌでグランプリを取るのだから映画というメディアは素晴らしい。
最後はブリュノ青年も反省したような映像だけれど、実は何にも変わってないと思う。 この映画は、間違いを犯して更生する成長の物語ではなく、善悪の感覚も、原因と結果のつながる感覚もわからない人たちがいるという事実は伝え、そういう人たちに向けるまなざしを変えようと試みていると思う。 変わるのはブリュノ青年ではなく、私たちなのだ。

LE GRAND VOYAGE (2004): 長い旅  <トルコ/仏>
監督:イスマエル・フェルーキ

フランスに住むモロッコ移民の両親を持つ青年レダは、父がメッカに巡礼に行くというので、車の運転を強いられる。 レダはフランス生まれでイスラム教も信じてないし、フランス人のガールフレンドもいて、期末テストも近いし、こんな時に親父の付き添いでメッカ行きなんてヤダナァーって思うのだが、父の命令は絶対だ。 しぶしぶオンボロの車に親父を乗っけて聖地へと出発する。
頑固親父と現代っ子のレダの凸凹コンビがゆる〜い笑いを誘う。 せっかくイタリアを通るのだから、ミラノに一泊しようよ、ヴェニスも観たいな、って言うレダに、巡礼と観光を間違えるな、のひと言の親父。 途中でお金が底を突いてきて、食事が玉子サンドだけになり、「肉食いてぇよ」とレダが駄々をこねると、この親父はどこからかヤギを1頭買ってくるのには笑った。 後部座席でベェベェとひっきりなしに鳴くヤギはたまったもんじゃない。 結局肉をさばく前に逃げられてしまう。 
途中で車ごと雪に埋もれて親父が死にそうになったり、正体不明の老婆が車に乗り込んできたりすったもんだあったけど、でもメッカに近づいてくるにつれ神聖なムードになってくる。  モスリムにとってはメッカへの巡礼は天国に行くための最終使命で、父にとっては精神の旅、レダにとっては成長の旅なのだ。
ロードムービーってやっぱり良いわ。 おうちでソファに沈んで映画みてるだけで旅行ができちゃうんだもの。 特にフランスからイタリア、東欧、トルコ、アラブ諸国、メッカ(サウジ・アラビア)なんて、風土も気候もどんどん変わるし、全く飽きることがない。
最終目的地のメッカのモスクの風景は壮大だ。 メッカの撮影が許されたのはこの映画が初ということ。 世界中のイスラム教徒がここを目指して集まるに十分値する場所だと感じる。 無宗教な私が巡礼の旅に出たくなってしまいました。(2011.4.10)

DARWIN'S NIGHTMARE(2004): ダーウィンの悪夢 <オーストリア/ベルギー/フランス>
監督:フーベルト・ザウパー

アフリカ大陸にあるビクトリア湖は世界で二番目に大きな湖で、以前はダーウィンの箱庭と言われるほど様々な生物が生息していた。 しかし1960年代に誰かが、たったひとつのバケツをその湖に空けたために、外来種のナイルパーチという魚が繁殖して湖の生態系を破壊し、在来種を絶滅させた。 しかし本作品は環境破壊の話ではなく、ナイルパーチ漁とその輸出に目を付けた先進国によるアフリカ搾取がドキュメンタリーの焦点だ。
ビクトリア湖岸の国タンザニアで大量に獲れるナイルパーチは、全てジェット機でヨーロッパや日本に持って行かれ、地元タンザニアは干ばつが続き国民は餓死寸前の状態。 さばいた後捨てられて蛆の湧いた魚の頭や尻尾を地元民は漁っている有様だ。 女は運輸業のヨーロッパ人相手に売春をし、通りには浮浪児で溢れて、中には片足を無くし杖を付いて歩いている子供もたくさんにる。 エイズもはびこっていて、町には病院ひとつ無い。 着てるものもボロボロで穴だらけ、住み家も木材にトタンを立てかけたような代物で、とても家と言えるものではない。 住民のほとんどが、我々の基準で言うホームレス状態の生活を強いられている。
デカプーの映画『ブラッド・ダイアモンド』を観て、私は宝石類は一切持たないのでアフリカ人を搾取してないよねって思ったけど、魚だって同じようにアフリカ人の社会や環境を破壊しているのね。 アフリカに限らず、私の持っているもの食べるものの多くが後進国から輸入されている。 彼らの労働力、資源、環境を搾取している。 そもそも後進国があるから先進国がある。 どこかで苦しい思いをしている人がいるから私達は楽が出来る。 その事実を思いっきり感じさせる映画でした。
普段周囲100キロ内で行動していると、周りもみんなそうだから、あえて自分の幸せなんて噛みしめない。 あぁ、うちのテレビは小さいなぁ、車も小さくてボロいし、お隣はホームシアター作って、新車も買ったなぁ.. 羨ましいなぁ、なんて思ってしまう。 でも、毎日お腹いっぱい食べて、暖かい布団の中で寝て、それだけで私の幸運度はかなり高い。 さらに車も家も持っている。 ここまでくると、私なんて、世界規模で考えれば、貧しい人から年貢を取り立ててるお殿様なのよ。 昔は荘園の周りで取り立てていたけど、現代はそれを遠く遠く離れたところで行い、私達は罪の意識を感じずに済む。
だから私達は何が出来るのって言ってはおしまいだけど、こういった映画は個人の消費主義戒めにはもの良く効くと思う。 贅沢する気力がゼロになるもの。 今晩は納豆とご飯です。

WHISKY (2004): ウィスキー  <ウルグアイ/アルゼンチン/ドイツ/スペイン >
監督:フアン・パブロ・レベージャ/パブロ・ストール

ウルグアイで靴下工場を経営する初老のハコボ。 工場といっても車庫の中にあり、従業員は3人という零細企業である。 ある日、疎遠だった弟のエルマンが、母の一周忌のためブラジルから訪ねてくることになる。 そこで従業員のひとりの年配の女性マルタに、弟が滞在している3日間だけ妻を偽って欲しいと頼む。 その3日間の話。
途上国の映画って、貧困や戦争下で生きる子供とか村人とかを描いて、その中に人間愛をみつけ感動する、ってのが定番だけどコレはいきなり、ジム・ジャームッシュ風のオフビート映画が展開される。 というか、まさにジャームッシュの『ストレンジャー・ザン・パラダイス』だ。 老けた『ストレンジャー...』のキャラ達なのだ。 ジョン・ルーリーが演じたウィリーがハコボ、ウィリーの親友エディーがエルマン、いとこのエヴァがマルタ。 この2本を観たという人(いるのか不安)は、比べてみよう。 どう? キャラの設定、海に休暇に行くところ、3人の関係や会話、大金を手にするところ、空港のシーンなど、全て酷似している。
面白いのが、ウルグアイでは豪華リゾートホテルなんだけれど、それがまさに、ジャームッシュの世界になってしまっているところ。 寂れ方や、それでもカジノっていうカッコ悪さ、ひとりしか遊んでいないスケートリンク、UFOキャッチャー、カラオケ、エアホッケー、売店のロゴ入りTシャツなどなど、貧乏臭いアイテムが心地よく、ウルグアイという良く解らない国をますます煙に巻いている。
パクリなんだけど、『ストレンジャー...』は私がインディ映画に嵌るキッカケとなった生涯のベスト10に入る映画で、それをウルグアイなんていう、地図上どこにあるかも解らない小国の映画監督が真似しているなんて嬉しくなる。 途上国だからって、それらしい不幸話を語る義務など全く無いのだ。 そこには普通に生きている人だってたくさんいるのだし、大した話じゃなくとも語ったっていいのだ。 先進国からの期待を全く無視して、こういう極端にインディ志向の映画を作ったその無謀さだけでも賞賛に値するのに、更に、冴えない国での冴えないキャラの他愛のない話をこんなに魅力的に撮るなんて目からウロコの体験だった。 

TURTLES CAN FLY (2004): 亀も空を飛ぶ  <イラン、イラク>
監督:バフマン・ゴバディ

イラク北部の難民キャンプ。 そこには戦火に追われたアラブ少数派民族クルド人が暮らしている。
テントに住んでいるのは主に親を亡くした子供達。 この難民キャンプは支援があるとは思えない。 サテライトというニックネームの少年をリーダーとして、子供達は自分等で組織を作って生活しているのだ。 彼らの仕事は村の周りに散布されている地雷を集めてやみ市に売ることだ。 中には地雷で手足を失った子供もたくさんいる。
ある日サテライトは美しい少女に恋をする。 その少女の弟と思われる少年と幼児と一緒にキャンプにやって来たのだ。 ひとりの弟は両手が無い。 もう1人のまだよちよち歩きで盲目である。 サテライトはその姉弟を助けようと思うのだが、姉はガードが固くて絶対にサテライトに心を開かない。
彼女の両手の無い弟は地雷を集めるのに、口で地雷のピンを外して採集するするのだが、それがまるで普通の出来事のように淡々と描かれているところがなんとも恐ろしい。 背中にかごをしょって地雷をいっぱい集めて市場に持っていくシーンもえらく日常的。
『おじさん、これ朝とって採ってきたばかりの地雷だよ。 高く買ってよ。』ってな具合で、まるで新鮮な野菜を売るみたいに取引きをする。
こんなことが地球のどこかで起こっているのに、アメリカに住む私は『サウスパーク』なんかをバカ笑いしながら観て、今日は面倒だからピザを出前してもらおっ、なんて電話を入れたり、冷蔵庫の自動氷製機が壊れたので一日中不機嫌になったりしているわけだ。 そういう自分がほんとうに嫌になる。 恥ずかしくなる。 自分なんて豆腐の角に頭をぶつけて死んでしまえ、その方が世の中のためになる、なんて思ってしまう。
私の周りには、お金を払ってまで不幸を観たいとは思わない、という人間がたくさんいる。 映画を観るなら豪華絢爛なエンターテイメントでなきゃ、って言う人だ。 こういう悲惨な現実を映し出すような映画が多くのアメリカ人に受けないのは、彼らは自分たちの幸運さを自覚したくないからだ。 自覚してしまったら、もっと大きな家を買うために頑張って働くこともできなくなるし、イラク戦争を支援することもできなくなるからだ。
実はこの映画は政治的には遥かに親米派だ。 もともとクルド人はイラク国家で虐待を受けていて反フイセン主義の民族だ。 アメリカ軍の救援を待っているのだ。 でも彼らの幸せへの道はかなり遠い。

THE MOTORCYCLE DIARIES (2003): モーターサイクル・ダイアリーズ  <アルゼンチン、イギリス、アメリカ、ドイツ>
監督:ウォルター・サレス

キューバの革命の大役を務めたチェ・ゲバラが23歳のとき南米を友人と一緒にバイクで周った旅行記を元にしたロード・ムービー。
私はチェ・ゲバラと言われても、スペインやメキシコのお土産屋さんで売っているTシャツに描かれてるベレーをかぶった革命家、ぐらいの知識しかない。 だから、もちろんチェ・ゲバラの映画だから観るなんて動機は持たない。
もうバレバレだと思うけど、ゲバラ役のガエル君が観たかっただけなのよ。 壮大な風景の中にバイクで走るガエル君、想像しただけでドキドキする。
と思いきや、バイクで走るのは始めだけで、このぼろバイクはすぐにつぶれてしまう。 モーターサイクルダイアリーじゃなくって、あとは歩くヒッチハイカーダイアリーだ。 バイクどころかお金も食べ物もすぐに底をつく。 何ヶ月もかかる旅を予定していたはずなのに、いったい何を考えてるのでしょう、このふたり。
若いゲバラは旅を進めていくにつれて、土地を取られた農民とか、日雇い炭鉱夫とか 貧しい病人とかを目にしてだんだん共産主義に目覚めていく。 その様子は、若いお釈迦様が宮殿の門の外で、老、病、死を見て出家に目覚めたエピソードみたいにとっても分かりやすいので小学校の授業に使えそう。
そう、はっきり行ってこの映画の脚本は全然好きじゃないの、私。 ここに描かれるチェ・ゲバラは単純すぎ。 ただ弱者に同情するだけじゃなくって、中産階級に生まれた自分の内面との葛藤とかもあっても良いはず。 でも革命家としてのラディカルなゲバラを知っている人はこの映画を観て意外性に驚いたりするんだろうな。 でも私は全然そういうこと知らないしね。
それではこの映画どこが良かったかと言うと、二人の乗ったバイクが何度も派手にぶっ倒れるところと、ガエル君が喘息が襲われるところ。 肉体的に苦しめられるガエル君を観るのが好きなんて、人格を疑われそうだけど、きっと後ろで観ていた男同士のカップルや同列でひとりで観てた私と同じ年ぐらいの女性とかもおんなじ事を考えてたのでは?

  

VOZVRASHCHENIYE (2003): 父、帰る  <ロシア>
監督:アンドレイ・ズビャギンツェフ 

ソビエトが崩壊した後のロシアの片田舎、二人の兄弟イワンとアンドレイは、母親と祖母と一緒に暮らしていた。 12年前に家を出て行った父の姿は当時小さかった二人は覚えていない。 そこへ突然、父親だと言う人物が帰ってくる。
言葉も少なく、厳しい顔つきをした父親。 この12年間何処で何をしていたのか語ることも無い。 はたして彼は本当に自分達の父親なのか少年たちは疑う。 翌日すぐに、父親と名乗るその男は二人をキャンプに連れて行く。 移動中にいきなり予定を変えたり、行き先を変えたり、盛んに電話で誰かと連絡を取ったりする父親に、二人は不安を覚える。 特に、もともと頑固な性格の弟イワンは、反抗的な態度をとり父親を頻繁に怒らせる。
果たして彼は何者なのか、何を企んでいるのか、判らないまま父子の旅は続く。
ぼくは怖くない』とか『フレイルティー』とか、厳しい父親とそれに嫌でも従わなくてはいけない健気な少年達の話は常に重くって、観てて辛いのだけど、子供達がキラキラして可愛くってついつい手にとってしまう。 子供達が純真で可愛いだけに、絶対的な存在の父親の手中に置かれると緊張感が増す。
この映画も例に漏れず重くって怖い。 こんな怪しい親父と朽ちたようなボートに乗って大丈夫なのか? 無人島に行っちゃだめだよ、林の奥に入っていくなよ、と警戒しっぱなし。 おまけに、ひょうひょうとしたロシアの海辺の風景と、重く漂う冷たい空気が、ますますこれから起こりうる悲劇を暗示する。
私はハリウッド的な良くも悪くも全てがはっきりする結末ってのも嫌いだし、逆に何も分からないまま終わる後味の悪い意地悪な映画も嫌だ。 でもこの映画の明かされる部分と明かされない部分のバランスが完璧だ。 シンプルなストーリーのに、細かいプロットがいろんなものを象徴するのも刺激的だ。

CIDADE DE DEUS (2002):シティ・オブ・ゴッド <ブラジル>
監督:フェルナンド・メイレレス

リオデジャネイロの『シティ・オブ・ゴッド』と呼ばれる貧民窟で、ギャング闘争がどのように始まってどのように終わるかを、見事な映像と語りで伝えてくれる。 
貧困者が生きていくためにビジネスを始める。 とは言え、スラムで簡単に稼げるのはドラッグ流通ビジネスだけだ。商売が軌道に乗ると同業者の中で欲が出始めて縄張り争いになる。 各組の戦力を強めるために兵士をリクルートする。 それはスラムの浮浪児達。 暴力のカッコよさだけを見せ、あこがれと他に将来の道が無いことで、いとも簡単に集まる。5、6歳ぐらいからぱしりとして働き、頑張れば銃をもらえる。 ギャング達は警察にワイロを払えば逮捕もされないし、警察から銃を買うことも出来る。 死んでいくのはスラムの子供達だけ。
ロケットと言うあだ名の主人公はスラムで生まれ、兄はギャングだったにもかかわらず決してギャングには入らなかった。 なぜかと言うと、拳銃で撃たれるのが怖かったからだ。ロケットの友達はみんなギャングになった。 なぜなら、拳銃がカッコいいと思ったからだ。 ロケットは拳銃を持つ代わりにカメラを持った。
とにかく凄い映画だった。2時間以上もあるのに、息を吐く暇も無く終わってしまった。 そして私が受け取ったメッセージはただひとつ。 世界規模でやくざ同士の戦いをやっているのが戦争だということ。
リオデジャネイロのギャング闘争を縮図として世界を説明している。 スラムのギャングの徒党は中東または南米諸国、それを取り締まる警察はアメリカを象徴のように考えてしまうのは私だけではないと思う。 そして警察がスラムから守ってくれるので何も言わないリオデジャネイロに住む金持ち達は、日本国ではなかろうか。
ロケットは警察のあくどさに気づいていた。 そのあくどさを暴くチャンスもあった。 でもしなかった。 だって、スラム出身者があがけばつぶされてしまうことを知っているから。 今アメリカがイラクにしていることのように。

MAX (2002): アドルフの画集 <ハンガリー/カナダ/英>
監督:メノ・メイエス

ヒットラーの若い時の一時期を描いた映画です。
ご存知の人もいると思いますが、ヒットラーは画家志望の美術学校の学生でした。 兵役を終えて帰ってきた後、画家になろうか、軍隊でキャリアをつもうか、随分迷います。 そして、ユダヤ人のアート・ディーラー、マックス・ロスマンと出会い、画家の道を強く勧められます。 しかし最終的にどちらを選んだかは世界中が知ってますよね。
初めてです! ヒットラーは実はそんなに悪いやつじゃなかったのでは? と推測する映画は。 これは賛否両論を呼ぶでしょう...。と思ったけどミニシアター系の地味な作りなので、そこまで至りませんでした。
メル・ギブソン監督のイエス・キリストの生涯を描いた新作が、ものすごい論争を呼んでるのに、やはりジョン・キューザック(マックス役)と「シャイン」に出てきた元子役の人(ヒットラー役)では注目を浴びないのね。 主人公が血まみれになってのた打ち回らなきゃ大衆は目を向けないのね、っとちょっと卑屈に脱線してみましたが、やはり「Max」は凄い映画です。 純真、貧乏、冴えない風采、金持や才能に対する劣等感、こういった要素に私はとっても弱い。 だからいつのまにか若いヒットラーに同情している自分がいるのだもの。
制作側は単に、 「もしヒットラーが政治家の道よりも、画家の道を選択していたら何百万人も殺されたホロコーストを避けられたのではないか...」っという、歴史の面白さを描くのが意図だったと思うけど、ある意味ですごく危険な映画です。 ネオナチが観ない事を願うのだが、、、観ない、観ない、連中は「ターミネーター3」なんかを観に行くんだよね。

THE PIANIST (2002): 戦場のピアニスト <仏/独/ポーランド/英>
監督:ロマン・ポランスキー

ポランスキー映画はいつも、神経を逆撫でするような怖さが伴なうのだけど、えっ、これがポランスキー? って驚くほど、静かに映画は流れていきます。ナチが題材ですから怖くする可能性は無限にあったはずなのに、そういう面ではあてがはずれました。
主人公のウワディスワフは普通に恋愛をし、普通に家族を愛し、普通に生きたいと願う、ごくごく普通のピアニストです。しかし、ナチ支配下という普通でない状況にユダヤ人として生まれ、普通でない運命を辿らなければならず、しかし普通以上にピアノが上手いので、普通のユダヤ人とは同じ運命を辿りませんでした。(普通という言葉をすでに8回使いました。)
そんなわけで、運命に逆らわず、彼の取る全ての行動に納得がいくこの主人公に、何もカリスマ的魅力は感じられません。 しかし、死と隣り合わせの日常で、常に冷静さを保って理性を失わない事こそこの主人公の普通でないところ。
ナチなど世界の一時的な狂気のとして受け取りその発作が鎮まるまで、とにかく傍観しながら生きてのびて行く、その姿勢に感動します。
たくさんショパンが聴けるかなぁと期待したけど、ピアノを弾く場面もほとんど無いし、BGMにもいっさい使われていません。 しかしあえてピアノ曲を挿入しなかったことで、戦火の中での芸術が置かれる位置を明確にする効果を上げていてます。 だから最後のショパンの一曲はより感動的に聴けました。

WAR PHOTOGRAPHER (2001):戦場のフォトグラファー ジェームズ・ナクトウェイの世界 <スイス>
監督:クリスチャン・フレイ

アメリカの報道写真家ジェームズ・ナクトウェイを追ったドキュメンタリー。 タイトルは『戦場の写真家』ということだが、戦場だけでなく飢餓や、過酷な状況で働く労働者達や、極貧の状態で生きるホームレス一家なども彼の被写体となる。 とにかく世界中の不幸な人々を写真に収める人なのだ。
別のジャーナリストが言のだが、ショック度が高いほど写真は売れる。 暴動の場面に立ち会ったとする。 今ここで死人が何人か出れば、売れる写真にが取れるのになどと思ったりする。 結局報道写真家なんて汚い仕事なんだと。
でもナクトウェイは、世界の不幸を人に観て感じてもらうことが、自分の使命であると信じる。 被写体に精一杯の同情の心を持って取ることによって写真を撮る事を許されると言う。 彼の写真は真から哀れむ心が写真に現れているから人の心を打つ。 インドネシアで2本の鉄道の間にござを敷いて暮らす家族の写真を観た一人のアメリカ人が、『月400ドル程の年金生活をしている自分だけれど、自分が生きている限り毎月あの家族に20ドルずつ送る決心をしました』、と言う手紙をナクトウェイは受け取る。 そういう事の為に、彼は写真を撮るのだ。
写真ではないが、私は不幸な人々を撮った映画をよく借りてしまう。 イラクの難民キャンプ『亀も空を飛ぶ』とか、ブラジルの貧民屈『シティ・オブ・ゴッド』とか、ボリビアの炭鉱少年『The Devil's Miner』とか、ルーマニアの浮浪児達『Children Underground』とか、 見た後にどぉーっと落ち込むのだけど、同時に浄化された気分になるのね。 心が洗われて慈悲の心が芽生えるなんて、偽善的なことは言いたくない。
でもひとつだけ言えることがある。 ナクトウェイの言葉だが、不幸な写真は雑誌に好まれないという。 というのは同時に掲載される高級車や装飾品や香水なのど広告に、人々の消費力が掻き立たなくなるからだ。 その通り。 不幸な映像を観たあとは、ファッションとかセレブが何を持っているとか言う情報はバカバカしくなる。 デカい家も便利な機械も要らない。 資本主義に乗らなくなるのだ。 その効果だけでも私は、数々の不幸映像を観てよかったと思っている。

NO MAN'S LAND (2001): ノー・マンズ・ランド <フランス/イタリア/ベルギー/イギリス/スロヴェニア>
監督:ダニス・タノヴィッチ

ボスニアとセルビアの紛争真っ只中。ボスニア兵チキとセルビア兵ニノが、何の因果か、ひとつの塹壕嵌まってしまう。 そこには、身体を持ち上げると大爆発する地雷を仕掛けられた、もう一人のボスニア兵が寝かされている。
塹壕から出れば、両側から構えているボスニア陣とセルビア陣に攻撃されてしまう。降参の白旗を出しても、両陣は、敵か味方か不明な二人を助けようともしない。
地雷はいつ爆発するか判らない、言わば八方ふさがりの状況だが、実はコメディ。
敵同士ニノとチキは塹壕の中で、始終小競合いをしてる。
『戦争を始めたのはオマエが先だ』
『いや、オマエが先だ』、
『嘘だ』
『オマエの方が嘘つきだ』
民族大虐殺にまで至ったボスニア紛争も、一人のボスニア人と、一人のセルビア人に縮小したら、叩いたから叩きかえしたという小学生レベルの喧嘩になってしまうというわけだ。
戦争がかなり日常化してるところもおかしい。 兵士達は、まるでオフィス勤めの会社員のように、要塞で銃を構えていても新聞を読んだり、音楽を聴いたり、飯のことを考えたりしている。 新聞を読みながら、『ロワンダ紛争は酷いぜ』なんてセリフも出る。生死が関わる戦火の真っ只中なのに、トイレに行きたいとか、夕食のおかずは何かな? なんていうことをついつい考えてしまうのが人間の持つ不条理性というわけだ。
ニノとチキは最後の最後まで、叩いたら叩きかえすの喧嘩をしてる。 国連軍すらそれを止められない。それを観ると、『報復』の無意味さを痛切に感じられずにはいられない。
戦地には緑と青空が広がり、小鳥もさえずってる。 バルカン半島の美しい丘陵地帯だ。 地雷の上に仰向けに置かれた兵士は身体の下に死の危険を感じながらも、彼の視界は美しい青空だ。 それは日常と非日常が交差する様を象徴している。
戦争の悲惨さを伝える映画はもう作られ尽くされたので、 むしろ空しさや不条理さに焦点を置いて一歩越えた作品です
 

SATREE-LEX (2000):アタック・ナンバーハーフ <タイ>
監督:ヨンユット・トンコントーン

選手がゲイだけのバレーボールチームが国体まで進んで優勝するという、信じられないけど実話に基づいた話。 しかし「オカマは体力的には男と変わらない。 精神力は男よりも上」という監督の言葉に彼らの優勝は納得できる。
スポ根、タイ国、オカマの三つの形容詞を持つこの映画。  スポ根映画は絶対私は避けるカテゴリーだし、タイの映画は見ないというわけではないが、今まで見るチャンスがなかった。  しかし、オカマ映画だけはかなりの数を見こなしてると私は自負できます。
自国では製作、上映するのに、かなりトラブルがあったらしい。 仏の教えに反するからで、あぁ、どこも同じ。キリスト教に反するとかイスラムの教えに反するとか、ゲイバッシングに宗教の違いはない。 それどころか、オカマの姿にも国境はないって思いました。 彼らには人種を超越する共通するモノがある。 だからタイの映画でも違和感なくすっと入れるのだと思う。
しかしアメリカではこの映画は未公開みたいです。 アジアのゲイボーイってアメリカではモテるはずなのにどうしてかな? ゲイセックスのシーンがないから物足りないのかな…。 でもジュンちゃんとノンちゃん、とってもカワイイです。 彼らのおバカっぷりも見物です。



  

CENTRAL DO BRASIL (1998): セントラル・ステーション <ブラジル>
監督:ヴァルテル・サレス

見ず知らずのおとなが、ふとしたことから、孤児の親探しを手伝うことになるという、ロードムービー。
途中でお金もスッカラカンになって、ヒッチハイクをしながら...あれ、何処かで似たようなプロットが、、、。 そう、これはたけしの『菊次郎の夏』ブラジル編だ!!しかしここはのんきな日本でなく、ブラジルのリオ。 キオスクから万引きしただけで、店主から銃で打たれ公然と殺される。 孤児は殺されその臓器が売買される、そういう恐い所なのです。
真似した真似しないはともかく、映画小国が国際的に注目を浴びる映画の作り方は、けなげな子供を主人公にするのが一番です。おまけに、可愛い顔した子供が親探しなんて、まさに泣けるではありませんか。
インドの「サラーム・ボンベイ!」、トルコが舞台の「ジャーニー・オブ・ホープ」、イランの「運動靴と赤い金魚」、みんな号泣しました。これらの映画で泣かない奴は人非人と呼ばれても不当ではないでしょう。
しかし、この映画に、同情を独り占めするのは男の子のジョゼだけでありません。お助け役の中年女ドラもかなり哀れです。 冴えない風袋と、世擦れした心。 そのうえ、途中で恋に落ちたりして、涙モノです。
こういう映画を見て、自分達のぐうたらさとか、浪費僻とかを、イヤというほど感じて、逆トリップしましょう。『時計仕掛けのオレンジ』みたいに、自分の性格が一転できればいいのですが。

MA VIE EN ROSE (1997):ぼくのバラ色の人生 <ベルギー/仏>
監督:アラン・ベルリネール

リュドックは自分は本当は女の子だと信じている7歳の男の子。
郊外に引っ越してきた彼の一家は挨拶をかねてガーデンパーティを開きご近所さんを呼ぶ。 そこにリュドヴィックは姉のピンクのお姫様ドレスとハイヒールを履いて現れ、みんなを驚かす。
母親は慌ててリュドウィックを着替えさせその場をごまかすが、それだけでは終わらない。 父親の上司の息子と結婚したいと言い出すし、誕生パーティにスカートを履いていくといって訊かないし、髪は絶対切らせない。
だんだん近所の目も厳しくなり、精神科に連れて行かれたり、挙句学校も退学させられ、父親の職場の地位すら危なくなる。
まず思ったのは、舞台となるベルギーは案外保守的だってこと。 アメリカだったら、そんな理由で退学させるものなら差別だとして訴訟するでしょう。 『神様が男の子の性を与えてくださったのだから、男の子として生きるべき』なんていう理屈も、アメリカじゃキリスト教原理主義を信奉している人ぐらいしか言わないでしょうね。
本当にここは現代のヨーロッパか? と疑いたくなるほど、そこではリュドウィックを、まるで伝染病でも持っているかのように、みんなが恐れ拒否する。 ただの純真な7歳の子供でしかないのに。 
しかし純真だからこそ、融通がきかない。 何でスカートを履くのが悪いことなの? 好きな子と結婚したいって思うのが悪いことなの? お目目キラキラで、少女のような愛らしい顔のリュドウィック少年は、どう考えても納得できないのだ。
それでも、自分だけでなく彼の家族まで辛い目にあってくると、なんとなく自分のしていることが悪いことなんだと気づき始めてくる。  それがまた可哀想なの。 髪の毛を切る決心をするところなど、涙無しでは観てられません。
この映画のテーマとも言える、自己否定に至る過程は、ゲイとかドラァグとかそういう問題にとどまらず、、何にでも当てはまると思う。 極度にシャイな子とか、太った子とか、ブスな子とか、小さい時はそれが悪いなんて全然気づかないのに、世間に露出する機会が多くなるにつれ、それは劣性なのだという観念が植え付けられる。 問題があるのは自分ではなく、それを認めない社会だと言うのに。
リュドウィック君にはこれからもっと辛い人生が待っているのだろうな。 せめて少しでも長く、彼のピンク色のバービー人形の世界を保ってあげたいと、切実に感じた。 

THE WHITE BALLOON (1995): 白い風船  <イラン>
監督:ジャファール・バナヒ

主人公の子供たちは、お腹を空かせているとか、親がいないとか、サード・ワールドの映画にありがちな大掛かりな苦労を背負っているわけじゃなく、ただ金魚が欲しい、それだけの話。
7歳の少女ラジェがお母さんからお金を貰って欲しかった金魚を買いに行くだけなのだけと、次々と起こるアキシデントで、なかなか目的の金魚が手に入らない。 目的地は見えるのになかなかたどり着けない、カフカの小説『城』のお子様版みたいな話。 家に帰りたいんだけどなかなか帰れないスコセッシの傑作『アフター・アワーズ』の焦燥感にも近いかも。
しかし 『城』や『アフター・アワーズ』のような、シュールレアリズムとは無縁で、逆に、極度のリアリズムに徹しています。そのせいか、観客は少女と気持が一体化してしまい、まるで、インディアナ・ジョーンズを見てるみたいに、次から次と少女に降りかかる難関に手に汗を握るのです。難関と言っても、途中でヘビ使いが通りでパフォーマンスをやってるのに、ふと見入ってしまって、危うくお金を騙し取られそうになるとか、お金を下水の溝に落とすとか、それを取ろうと棒の先にガムをくっ付けて釣ろうとするとかその程度のことなんですがね。
極悪集団は出てきませんが、ラジェちゃんの大敵は、子供などは人間とも思ってないようなおやじ達。ヘビ使いのおやじは、お金を巻き上げようとするし、金魚屋のおやじや仕立て屋のおやじは、おとなの客にはぺこぺこしてるくせに、ラジェちゃんをてんで相手にしない。おとなって、汚いっ。
ラジェちゃんの白と赤のフリフリの服とヘジャフ、靴、困った顔、もう可愛いったらありゃしない。 ガンバレ、ラジェちゃん、金魚はもうすぐ手に入るよって、始終祈りながら、見てました。
先進国に住む私たちには想像のつかないほど苦労している人々をクローズアップする映画はたくさんあるけど、こういう子供の何気無い一日を描いて、深く感動させる映画もあるのです。

BEFORE THE RAIN(1994):ビフォア・ザ・レイン <イギリス/フランス/マケドニア>
監督:ミルチョ・マンチェフスキー 

マケドニアの民族闘争を舞台にした、『ロミオとジュリエット』のお話。 予想通りかなり悲惨。 しかし筋に一ひねりも二ひねりも加えて、独自の不思議な物語を生み出している。
映画は三部に別れていて、『言葉』と題される一部は、沈黙を守るキリスト教の修道僧と、彼の部屋に逃げ込んだモスラムの少女のお話。二人の間に愛が芽生える。
第二部『顔』は、舞台はロンドン。 マケドニア人である報道写真家が、本国に戻ることを、イギリス人の恋人に告げて別れる一日の様子が語られる。 彼女は別れた後、ロンドンのレストランで、マセドニア移民が拳銃を乱発し、大惨事をみる。
第三部『写真』はその写真家が16年ぶりに故郷に帰り、彼の村の民族争いの様子をまのあたりにする。 村は荒れ果て、昔の彼の恋人は今は敵になっている。更に、その恋人の娘が彼のいとこを殺し、彼の親族はその娘を捕らえようと捜している。 そして、その娘こそ、修道院に逃げ込んだモスラムの少女で、話は最初に戻るわけだ。
時間的には『2』→『3』→ 『1』 の順だが、『2』のエピソードに既にこれから起りうる『1』の場面の写真があったり、マセドニアにいるはずの人物が、ロンドンのレストランで働いていたり、イギリスにいるはずの女性が、マセドニアの丘陵に立っていたりして、観る側は少し混乱させられる。
同じ地球上で、同じ時間を共用しているにもかかわらず、戦地で生活している人と、平和な先進国で文明のある生活をしている人とは、ものの考え方感じ方に否が応でもギャップができる。
平和な国の人々にどうやって、そうでない人々のことを理解してもらえるか? 頭では理解できるけど、彼らの悲惨さを、身をもって感じることは無理だ。 バルカン半島での憎しみと仕返しは既に、先祖代々から続いているのだ。 その循環を破る事は出来ない。
この映画は時間の流れを無視した作り方で、その無情さをうまく現している。 その中で生まれる愛すらも、憎しみの輪を壊す事ができない。 愛こそ全てなんてウソ。 そんな言葉、この映画を観ると平和な国のヒッピー達の戯言にしか感じられない。そんな現実を叩き付けられる。
なんで、戦争するの? なんで仲良くできないの?
そんな質問をは馬鹿げてる。 解決法なんて存在しないのだ。

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