『哲学入門以前』 川原栄峰 南窓社 1967

 この本の構成は通常の哲学書とは変っていて、特に人物ごとに焦点を当てるわけではなく、

 自由についての議論からはじめて、近代科学主義にいたるまでの思想的変遷を追う。

 その議論の仕方はすごく柔軟で、非常に読みやすい上にかえって体系的である。

 タイトルと装丁から小難しそうな印象を受けていたが、内容は充実している。

 哲学的思想史のなかではプラトン、アリストテレスからキリスト教とのかかわり、カントとその周辺までを中心としている。

 ここでは「自由」、「歴史」、「個と普遍」、「客観性」、「実存」について1〜2パラグラフずつ使って紹介するが、

 必然的に長くなるので、興味のあるところだけ拾い読みしてもらってもかまわない。

 ちなみに本書は、僕の受講していた大学の講義にテキストとして用いられた。



 「自由」とは何かというのが、この文献の最初の命題だが、何かの行為に対しての因果関係なしに、

 つまり何の留保もなく、自ずから決断することが本質的な自由である

 欲望のとりこになっている状態は、「〜だから」という「必然の鎖」にとらわれている状態でしかない

 (ちなみに、ふと思ったのだが『薔薇の名前』(エーコ)や『ドグラ・マグラ』(夢野久作)は、

 こうした自由と実存ということをテーマにしたものだとも読める)。

 これについて本書は、ギリシア人とキリスト教を比較しながら、両者の捉え方の違いを明らかにしていく。

 まずキリスト教における自由とは、神によって創造された「そこにあるもの」として存在する。

 すなわち単純化して言えば、神への信仰という無償の行為(理性的には「抑制」という形をとる)によって

 「あるがままの姿」でいることが、キリスト教的自由なのだということである。

 それに対してギリシア人は、ソクラテスが徳(アレテー)を追求し、それがプラトン、アリストテレスと受け継がれていく中で、

 観想(テオーリアー)によって「必然」というものを捉えようとした。

 それは現存財という奴隷のくびきから解き放たれて、普遍性の中に生きることこそ自由だという考え方で、

 これは「イデア論」として有名である。

 『テアイテトス』(プラトン)の紹介で書いたように、

 日常語における流転するものを固定させ、停止させる言葉は本来あり得ないのであって

 すべての物事は「〜性」という本質から顕現したものにすぎないという考え方である。

 したがって、観想によって即物的な世界から離れ、真理(アレテイア)を見つめることが本質的な自由だということになる

 (このあたりは、東洋哲学(特に仏教思想)と重なるところが感じられる)。



 「歴史」とは相対的な時代区分を切り取り、主観的に事件や人物を列記したものであって、

 この、ある種恣意的な歴史作りというのは、他ならぬ今に生きる「自分」との関係性からつむぎだされるものである。

 だからこそ歴史とは、人間の自由と密接な関係を持っている。

 キリスト教の歴史とは、「終末観」から分かるように、初めから終りを想定した完結的歴史観に基づいている。

 それは無からの創造にはじまり、最後は世界の終りによって閉じられる。

 これは信仰によってのみ、そのパラダイムの中に生きられるのであって、

 つまり、キリスト教徒を物語に位置づけ、その他の人間はキリスト教徒として取り込んでいく以外は記載されない。

 だからこそヴォルテールは、敢えて合理主義的に歴史を再構成していったわけだが、

 かえって「有限一直線、別の言い方をすると、世俗化された終末観」になってしまったという。

 これが現代の科学的進歩の考え方のベースとなっている(終りがなければ進歩はないから)。

 反対にギリシア的歴史観は、歴史というものが客観的に存在するのではなく、「自分」も内包したものであり、

 さらには普遍的価値観というのは、「普遍的」というだけあって、時間や場所が変ろうとうつろうものではないのであり、

 その意味で、歴史とは今の連続であり、進歩史観からはかけ離れたものである。

 このように歴史、つまり人間存在の連続性についても、哲学的な特徴がある。



 「個と普遍」の問題もイデアを軸に考えていく必要がある。

 歴史のところで述べたように、「今」(世俗的なものではない)という本質こそが重要なのであって、

 自分という一つのちっぽけな存在が本質なのではなく、個とはイデアを「分有」しているにすぎないものなのだ。

 だから、ギリシア哲学においては理性をつかさどる知恵(ソピアー)、気概をつかさどる勇気(アンドレイアー)、

 欲望をつかさどる節度(ソープロシュネー)を得、イデア全体が調和することによって、

 正義の徳(ディカイオシュネー)に達することこそ最終的な人間善であるとされる。

 以上がプラトン的イデア論だが、アリストテレスはもう少し議論を発展させて、

 個にはそれぞれ、「あるべき場所」(形相、エイドス)が存在し、質料(ヒュレー)からその場所へ移っていくと考えた。

 したがってイデアとは、個物と別に存在するものではなく、個に内包されているものだということになる。

 この哲学における倫理的な徳とは、「情意的な倫理的徳」によって

 中庸への選択へとうながす習慣(ヘクシス)である(情意的な倫理的徳に対するのは理性的な徳である知性的徳)。



 キリスト教では、キリスト教徒である「私」という絶対的な個人主義が人間一般に先行する。

 つまり、信仰するという「個」が重要であり、個人が永遠へ昇華するため普遍は存在しない。

 しかしアウグスティヌスは、キリスト教的にしか合理性をもたないこの問題を、対外的に説得するために哲学を取り入れた。

 イデアが運動の初めであり、「神の思惟の中なるイデアに従って個物が作られた」と考えたのだ。

 次にトマス・アクィナスは、アリストテレス哲学とキリスト教を統合しようとした(スコラ哲学)。

 よって、イデア的普遍性こそが本質であり、思考によって普遍存在に思い至ることができるとして三段論法を好んだ。

 これに対して、ロジャー・ベーコンやドゥンス・スコトゥス、ウィリアム・オッカムは、

 意志と実験・観察によって個をとらえようとしていった。

 数学の使用も、純粋科学としての確立のために不可欠だったと考えられる。

 このように、キリスト教的世界観を現実的な合理性を持たせつつ確立するために、

 科学的哲学、さらには自然科学そのものをキリスト教的パラダイムに取り込んでしまおうという動き

 キリスト教を理解するうえで、一つの大きなダイナミクスになっている。



 純粋科学の方法として、デカルトに代表される還元主義というものもある。

 デカルトは『方法序説』において、心身二元論を主張し、すべてのものを物質的に還元し観察してみせた。

 ケプラーの、「「言葉」を離れて個々の天地万物を調べていけば、

 そこに矛盾撞着のない神の真理が見いだせるのではなかろうか」という考えから、

 「宗教的なインタレストを抜きにして、宗教的な読みこみをしないで」客観的に観察することである。

 これにより、確かに個から抜け出して、普遍的な科学知が確立しだしたが、

 アリストテレスの目指したイデアと違って「生きている」ということが欠如してしまった。

 このことは還元主義の限界を如実に示している。



 「客観性」については、カントの議論(「コペルニクス的転回」)が大きな影響を持っている。

 つまり、認識というのは対象を単に模写する(模写説)のではなく、

 認識によってはじめて対象が成立するという考え方(構成説)によってである。

 それはコペルニクスが天体が静止し地球が動くと説明したように、「対象が静止し、われの方がはたらく」と考えたことから

 このように名づけられたのだが、これにより主観と客観の相互依存性が説明されたのである。

 完全な第三者として観察するということがいかに不可能な幻想であることか。

 この主観とは、合理的な悟性という非現実的なものではなく、アプリオリな(事実に先行する)感性のことである。

 感性が対象を認識することで経験を重ね、それにより「法則」を確立することはできるが、それは決して「定理」ではない

 (ポパーがいみじくも指摘しているように、客観性の担保は反証可能性にさらされることでしか得られないから)。

 それでも、そのように感性を研ぎ澄まして積み重ねたものの中から、本質的な「客観」が生まれるのではないだろうか。

 デカルト流の対象分析の数式に、感性という変数を持ち込むことで、カントは現実的な客観性を成立させたのである。



 「実存」については、ニーチェなどを例に挙げて論じており、ここでは二人の私(I&ME)について紹介する。

 「ME」という存在は、例えば学生や母親、会社員などといった、自分以外にも存在する自己であるのだが

 (MEとは文法的に目的格にあたり、上記のような社会的立場を当てはめることができる)、

 それを客観的に知覚している存在(I)こそが、追及されるべき本質的人間存在なのであるという。

 キェルケゴールやサルトル、ハイデッガーの説く「不安」というのは、この「I」という私が抱くものであり、

 「ME」として生きる私すべてを背負って、自分というものの意味を考え続ける「I」という存在を生きることが

 実存主義的な生き方であるのだといえる。

 ニーチェのニヒリズムはこのような問題提起から発生したものだと考えられる。

哲学・宗教学自然科学 2006.7.24