4 丈部直=武蔵宿禰家の勃興と没落
4−1 不和麻呂以前の丈部直
「古代東国の風景」の著者・原島礼二は、佐伯有清の論文(「臣か直かー銘文と武蔵の豪族」「歴史と人物1979年1月号」)を引用しながら古代武蔵の豪族を調べている。それによると丈部直不破麻呂(足立郡)、杖部直某(横見郡)、宍人直石前(加美郡)、丈直山継(多摩郡小川郷)などが見受けられるという。丈部直、杖部直、丈直は阿部氏の配下、宍人は阿部氏と同族と解説する。「つまり、阿部氏らの援助をえて、その配下の人びとが有力な地位を占めるのは、どうも7世紀になってからのようである。それは、この阿部氏が、7世紀はじめの推古朝以降、宮廷で重きをなすようになったことと、おそらく密接に結びついていると思う。」(「古代東国の風景」原島礼二 1993年 平成5 吉川弘文館)丈部は武蔵のみならず東国に散見する。古代5世紀に海上国という広大な地域豪族連合が千葉県市原市を中心にあった可能性がある。王賜の剣の発見がそれを物語る。このような中にいくつかの新興勢力が押し寄せ、その一つが印南国造。近畿の阿部氏の配下に入り、丈部(はせつかいべ)直という氏姓を名乗った。「海上首長連合から分離独立してすすんで大和王権の先兵たらんとする志向がよみとれよう」(同上)と原島礼二は語る。大和王権の東国支配と共に丈部直を名乗る。軍事氏族の阿部氏の支配下に入ることで丈部直を名乗った東国の一族が現われたと原島礼二は語っているのだ。それは阿部氏ともまた各地の同名の丈部とも血のつながりを必ずしも意味しない。部民である。この原島礼二の考えに従って、丈部直を考えていきたい。
ここで、足立郡に突然現われた丈部直は、他の地域、例えば近畿地方から阿部氏に伴って入植した部の一族ではなく、在地の中小土豪でであったと考えられる。この地域集団は阿部氏の系列に入ることで中央とのつながりを強め、武力と地域的な権力の拡大に成功したと思う。このような事例は「出雲風土記」に出雲の神門臣古禰が帝の門を護る「建部」(たけるべ)となり、それ以降は建部臣を名乗ったとの記事がある(「古代国家と軍隊」 笹山晴生 1975年 中公新書)。これから考えて、在地の名前、例えば足立を名乗っていた一族が、丈部直に改姓していったことも充分考えられる。
この外に阿部氏に先行して東国に入った近畿の豪族は大伴、物部氏である。この氏族の支配下に入っていた部民があり、後に入間宿禰を賜る物部直広成などの系列が考えられる。これらの氏族に比べると阿部氏の部民、それを率いる丈部直は新興氏族であったと原島礼二は考えている。丈部直不和麻呂にいたる武蔵宿禰家も丈部直の一つであった。断言はできないが、充分説得力がるように思える。なお、最初の武蔵守として記事が見える(「続日本紀」)のは703年 大宝3の引田朝臣祖父(おおじ)である。阿部氏は布施、引田両系統があり、引田朝臣祖父は阿部氏である。
「氷川神社をまつる武蔵氏は、意外にも奈良時代の後半になって、ようやくクローズアップされてくるにすぎない。それ以前の姿を示すたしかな文献はなにもないが、武蔵氏の祖先たちがのこした古墳をみると、いずれ全長が50メートルにもみたない。つまり、その実力はとても武蔵最高とはいえないのである。豪族の実力を明証する古墳の規模からみるかぎり、武蔵氏は奈良時代になって強大化した、新興氏族といわざるをえない。」(同上)と断定している。丈部直=武蔵宿禰氏が比較的新しい新興氏族であるということは、彼らが基盤とした足立郡が旧利根川、旧入間川の川筋にあり長く乱流地帯で開発が可能となったのは、他の地域(例えば比企・入間地域)に比べて遅い地域であったことからも頷ける。
原島礼二が引用する論文には鈴鹿千代乃氏の「古代の武蔵国造家は沼地に面した高台に神を祀り、居場所を構へた。これが氷川神社であり、又国造の居所であつたと考えられる足立神社(水判土)である。−−更に所沢市山口の式内社中氷川神社と、西多摩郡氷川町奥氷川神社は、それぞれ、祟神朝、景行朝と、その創建を伝える年代も古く、大宮の氷川神社と中社・奥社と形で、ほぼ同一線上に同間隔をおいて鎮座し、その勢力範囲の伸張の跡をたどることができよう。」(「式内社調査報告第11巻」)がある。新興氏族が急速に武蔵国全域に川筋をたどりながら勢力を拡大していった様子を明らかにしている。このような勢力の拡大は所沢市や東京都西多摩郡奥多摩町氷川にまで川上を遡るだけではなく、旧東京湾を目指して川下を降りていったことは充分に推測できることである。大宮台地の西側を旧入間川河川に沿って足立神社・殖田郷、東側を見沼に沿って氷川神社・郡家郷があったと思われる。武蔵国は大化の改新の詔で誕生した。その管下に21の郡がある。そのひとつ足立郡
は荒川(旧入間川)と元荒川に挟まれた南北に長く延びた地域である。735年11月 天平7 の木簡に始めて足立郡が資料に登場する。特産物の蓮の実を運ぶ荷札に記されている。特産物が蓮の実ということからも、湿地帯を多く抱えていたことが窺える。武蔵国内でも開発は遅れて始まった地域である。足立郡は掘津(ほっつ)、殖田(うえた)、稲直(いなほ)、郡家、大里、発戸(ほっと)、余戸の7郷からなっていた。一郷は50戸で構成されていた。8000人規模の郡であり、余部郡が足立区にあると考える見方もあることは紹介した。
だが、郡衙も郷の所在地も未だどこも確定されていない。足立郡衙の場所は発見されていない。武蔵国中21の郡衙の中で発見されたのは埼玉県の榛沢郡衙(岡部町の仲宿遺跡)、神奈川県の都筑郡衙(横浜市の長者原遺跡)、そして紹介した東京都豊島区の豊島郡衙(御殿前遺跡)のたった3箇所に過ぎない。そもそも郡衙とはなんであろうか。衙は役所、したがって郡衙は郡を治める役所であり、郡家は役所に勤める人々の住居も含めた地域を指すと考えている。郡衙の規模は豊島郡衙が参考になる。最盛期の9世紀の建物を見ると一辺が約62メートルの回廊が巡っているが郡衙。これに付随する官館、内部面積が5500平方メートルにも及ぶ倉庫群が、足立郡家にもあったと思う。大宝令では郡は大きさによって大上中下小の5等級がある。役人は4等官で郡司は大領、少領、主政、主帳とに別れている。足立郡は7郷であるから、下郡であり、大領1人、少領1人、主帳1人の職員配置となっている。その下に書生、案主という役もあったとされる(「官職要解」和田英松 1983年 講談社学術文庫)。このような上級の郡役人に仕えるたくさんの人々がいたのであろう。
さいたま市大宮区の氷川神社付近に足立郡衙を比定する人もいる。又、水判土(みずはた)地区に比定する意見もある。また、低地に進出して足立区に比定。さらには想像をたくましくすれば「更級日記」に出てくる武芝寺を港区三田の済海寺と考えれば、港区に足立郡衙があったことになる。足立神社のある水判土は水端である。大宮台地の指扇支台最南端にあり、古入間川旧河道に沿っている。奈良時代から台地と自然堤防を利用して川越―大宮の街道が通っていた。
さいたま市西区植田谷は殖田郷の中心と目されている。鴨川流域には古墳群もあり、また条里制の名残もある。平安時代初期の造営とされる島根氷川神社もあり、古来から高鼻にある氷川神社の姉宮と称されている。林光寺の西側に足立遠元の末裔を称する小島勘太郎家がある。この敷地内にある小さな祠が「新編武蔵風土記稿」によれば延喜式内社足立神社である。鴨川縁にある林光寺は菩提寺である。流域をさらに細かく見てみよう。「この入間川は現在の荒川を流れる流路の他にもう一つの流路を見ることができる。」「この流路を細かく見ていくと現在の大宮市の西部、宝来付近から大宮台地の縁辺に沿って佐知川、水判土付近を通り、現在の鴨川と重なるように浦和市白鍬を通り南下する。大久保領家で東から北向きに方向を変換し、与野市上峰付近で大宮台地に再び沿うように流れ、浦和市中島、与野市大戸を通り、大宮台地から一時はなれ、浦和市鹿手袋方面で東に方向
を変える。さらに浦和市白幡付近南浦和付近まで台地に沿い、川口市小谷場付近から台地を少々離れやや湾曲しつつ川口市芝、根岸,上青木,鳩ヶ谷市方面に流れ、毛長堀川に入っていくものである。」(「南伊勢系土器とそのあり方」小倉均 1999年 平成11 浦和市史研究第14号)。さいたま市の地図を見ながら旧河川道を思い描いて欲しい。この流域には遺跡も多い。河川の流れからすると水判土・植田本・大久保・白鍬に足立郡衙があり、郡寺がありそうにも思える。
それでは、氷川神社・郡家郷の想定はどうだろうか。もちろん郡衙があるところが郡家郷である。氷川神社付近に郡衙がない場合は、郡家郷とはいえないであろう。ここで、小倉均の論文をさらに引用させてもらう。旧入間川の「この流路は、川口市根岸付近でくの字状に曲がるが、この屈曲部分から北に芝川が流れており、見沼に向う流路があった可能性がある。見沼は1200ヘクタールにも及ぶ広大な沼沢地で、浦和市三室にある氷川女体神社の御手洗瀬として、磐船祭が執り行われたところである。」川口市根岸付近で芝川・見沼からの流れが合流していたことを明らかにしている。「この見沼の低地帯に臨む台地上の遺跡からも弥生時代から古墳時代にかけての外来系土器の出土が認められ、現在の芝川の谷奥上尾市にまで及んでいる。こうした外来系の土器などが沼沢地である見沼を利用した水上交通によってもたらされた可能性は高く、旧入間川から北に向う重要な水上交通路であったことが考えられる。」流れの速い大河川と違って穏やかな湖沼として、重要な水上交易のルートが見沼にもあり、氷川神社の側まで寄れたのである。ここにも郡衙・郡寺の可能性はある。どちらの可能性にしても、さらに下れば交易・祭祀拠点として栄えたといわれる足立区伊興遺跡に至る。大規模な物、大量な物資の輸送は鉄道が敷設されるまで、水運であったことを強調したい。氷川神社は水に関連した祭祀を行う。これを司る丈部直―武蔵宿禰家が急速に勃興してきたのもいわれのないことではない。
先にも紹介した「西角井従五位物部忠正家系図」(西角井家系図と略)によると、「天穂日命に発し、兄多毛比命からまた幾代も経て氷上万呂(足立郡司大領外正六位上)−道足(同郡司少領)−古麿(同郡司擬大領従六位下)−不破麿(同郡司大領外従五位下)」と記されている。不破麻呂は「続日本紀」に出てくるので他の文書からも確認できる。しかし、それ以前の先祖はどの位の確証があるのあろうか。土田直鎮は、疑問を持って検討している。「その祖先のほうは、足多毛比命(えたもひのみこと)というところから始まっており、この足多毛比命は『国造本紀』にも、武蔵の国造の祖先として見えている名前で、天穂日命の子孫であり、『古事記』『日本書紀』などにも、天穂日命の子孫としてあります。」「ところで、実はこの系譜にはちょっと気になることがありますので、それをお話しておきます。ご覧のようにこの系譜には氷上麿という名があり、その下に道足―古麿―不破麿と続いています。この系図の中で気になるというのは、実はこの三人で、不破麻呂というのは、たしかにさきに申したとおり丈部直不破麻呂が武蔵宿禰となり、そして武蔵国造になったわけで何の不思議もないようですが、実はこの不破麻呂の祖父の道足にしても、父の古麻呂にしても、さらに不破麻呂自身にしても、こういう名前の人物が当時大伴氏にそれぞれいたのです。」「こういうわけで、この系図の道足−古麿−不破麿というあたりのところは私としてはこれを鵜呑みにしたくないのです。」(「古代の武蔵を読む」土田直鎮 1994年 吉川弘文館)このような見解もあり、不破麻呂以降が確かに確認できるところであろう。しかし、名前が確認できないからといって、丈部直が大宮台地沿いに根を張って勢力を伸ばしてきたことまで不確かなものと言ってはならない。歴史に丈部直が登場するのはまもなくである。