楽書快評
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書名 ある明治人の記録
著者名 石光真人
初出 1971年 中公新書
鶴ヶ城 東日本主導による鎌倉以来の武家(軍事)政権はおよそ700年弱続いた。明治維新はこれに対する西日本の反撃という側面を持つ。松平容保を京都守護職として担つぎ、尊皇討幕運動によって倒れ行く徳川幕府を、最前線で支えたのは東北の会津藩である。この会津藩の上級藩士の子どもとして生まれた柴五郎が、少年期の記録を残した。それを石光真人がまとめて「ある明治人の記録」としたものである。明治を薩長土肥の視点からのみ眺めていては、大切なものを見失うと思う。そのことをはっきりと私に教えてくれたのが、「ある明治人の記録」である。
 柴五郎は1900年の義和団事件当時、北京在住武官をしていて55日に及ぶ籠城戦を守り抜いた一人であり、その勇敢で的確な指揮によって籠城戦をともに戦った欧米及びキリスト教徒中国人に深く信頼を寄せられた。北京が連合国によって制圧され、第1回の列国指揮官会議が開かれた。席上で籠城した防衛軍の指揮を委ねられていたイギリス公使マクドナルドが「北京籠城の功績の半ばは、とくに勇敢な日本将兵に帰すべきものである」と語った言葉がそのことを示している。また、その後の北京占領においても日本軍の支配地域では警察事務を受け持つ柴中佐のもと厳格な規律によりいち早く治安を回復した。将兵による民間への略奪はこれを厳しく対応した。柴五郎の「北京籠城」(平凡社 東洋文庫53)や村上兵衛「守城の人」(光人社)にその経過は詳しく描かれている。柴五郎のみではなく、マクドナルド公使の語るとおり、明治期のある日本人が持っていた大切なものがそこには見受けられる。
 とくに、柴五郎のもつ大切なものの由来を知ることができるのは、彼の幼年時代の激烈な体験である「ある明治人の記録」よってである。23万石の会津藩は朝敵として下北半島にわずか3万石(実質7千石)の斗南藩として移されたが、その実感は藩ごと流刑に処せられた様相であった。その一人として12歳の五郎少年がいた。斗南での常食はオシメ粥。海岸に流れ着いた昆布わかめを木屑のように細かく裂いて、これを粥に炊く。臭気があってはなはだ不味いと五郎少年は回想している。冬には蕨の根を砕き晒してつくる澱粉を、丸めて串に刺し火にあぶって食べる。これも不味い。拾ってきた犬の肉を毎日食べる。ついに喉を通らづ吐き気を催すと「武士の子たるをを忘れしか。戦場にありて兵糧なければ、犬猫なりともこれを喰らいて戦うものぞ。ことは今回は賊軍に追われて辺地にきたれるなり。会津の武士ども餓死して果てたるよと、薩長の下郎どもに笑われるは、のちの世までの恥辱なり。ここは戦場なるぞ、会津の国辱雪ぐまでは戦場なるぞ」と父にしかられたことを記している。餓死を免れたのは、会津の国辱を雪ぐ迄生き延びる武士の倫理である。
 極寒の冬である。こんなこともあった。田名部にある兄の友人宅に預けられ、そこから学校に通う。1、6の休日は落の沢の自宅に帰る。帰って米一升を下宿先まで運ばなければならい。その行き帰りを夏のままの衣類を風に翻し、氷点下15度の氷雪をはだしで走る。「氷雪の上に跣足にて起ちてあれば凍りつきて凍傷す。常に足踏みしてあるか、あるいは全速にて走るほかなし。」この描写の的確さ。
 しかし、絶望の日々を送る柴五郎にも「曙光」が射す。藩政府の選抜により青森県庁の給仕として遣わし、大参事野田豁通(ひろみち)の世話になることが決まった。この野田豁通の出会いが五郎の将来を決定づけた。野田は熊本細川藩物産方頭取石光真民の末弟で、維新随一の思想家横井小楠門下。当時31歳。やがて、上京した柴五郎は陸軍会計一等軍吏に就任していた野田豁通の紹介で陸軍幼年生徒隊(幼年学校の前身)を受験合格した。柴五郎はそれを「わが生涯最良の日」としている。
 話は先を急ぎすぎた。柴五郎の会津の日々。父柴佐多蔵は280石の御物頭。祖母80歳。母ふじのもとに太一郎、謙介、五三郎、四朗(政治小説「佳人之奇遇」の著者 東海散士)、かよ(木村家に嫁す)、つま(望月家に嫁す)、志ゅん(夭折)、そい(土屋家に嫁す)、五郎、さつの大家族であった。あまりにおとなしい子どもであったので、母が近年めずらしいとして「近年五郎」と呼び、かわいがった。
 戊辰戦争といわれた悲劇が始まる。そいの夫土屋啓治、伏見にて戦死。父佐多蔵は若松城に籠城。長兄太一郎は軍事奉行として越後方面。次兄謙介は大砲隊に属し山川大蔵(浩)指揮下にあって日光宇都宮方面に出撃。偵察に出て不明(後、農民に虐殺されたことが判明)。三兄五三郎は佐川官兵衛に属し、のち農民隊長として越後戦線。四兄四朗は白虎隊に入るも熱病にて臥床中であり歩行も困難であったが、母によって若松城に追いやられる。8月21日、郊外の別荘に住む大叔父の未亡人が五郎を松茸取りに誘いに来る。23日、会津城下に戻ろうにも、紅蓮の炎に包まれた城下に戻れず、叔父柴清助より祖母、母、兄嫁、姉、妹の自刃を知らされる。
 柴五郎は思い起こして語る。「この日までひそかに相語らいて、男子一人なりと生きながらえ、柴家を相続せしめ、藩の汚名を天下に雪ぐべきなりとし、戦闘に役立たぬ婦女子はいたづらに兵糧を浪費すべからずと籠城を拒み、敵侵入とともに自害して辱めを受けざること約しありしなり。わずか7歳の幼き妹まで懐剣を持ちて自害の時を待ちおりしとは、いかに一ツ橋 この奧に御搗屋余が幼かりしとはいえ不敏にして知らず。まことに慚愧にたえず、想いおこして苦しきことかぎりなし。」木村家に嫁したかよも負傷して動けぬ夫をはじめ一家9名ことごとく自刃する。女性で生き残ったのは望月家に嫁ぎ寡婦となり3人の子どもを養育する26歳の姉つま一人となった。こうして、男は6名中5名が生き残り困難な生涯を歩むこととなった。この新政府軍の会津侵攻の模様は会津人から見れば「ああ自刃して果てたる祖母、母、姉妹の犠牲、何をもってか償わん。また城下にありし百姓、町人、何の科なきにかからわず家を焼かれ、財を奪われ、強盗強姦の憂目をみたること、痛恨の極みなり。」である。柴五郎の生涯は痛恨の極みを胸に抱いたものである。
 そして、明治2年長兄太一郎とともに東京での俘虜収容所生活。7月の梅雨明けの蒸し暑い日、「一ツ橋門内、御搗屋と称する幕府糧食倉庫に着きたるときは、疲労困憊、瑠官淋漓たり。ーー木造二階建の広き倉庫にて土間なり。漬物置場らしく、沢庵着の香り満ち、湿気ははなはだしく通風悪し。この建物を謹慎所と称す。」と劣悪な環境に落とされる。このとき柴五郎わずか11歳の俘虜生活である。しかし、この劣悪な倉庫生活も下北半島の生活に比べればましであったかも知れない。
 すでに述べた北京籠城でのキリスト教徒中国人への姿勢、そして占領した北京市内での警察業務への姿勢はこの会津での「不敏」「慚愧」「痛恨」の心情から発している。
 「守城の人」には二つの光景が描かれている。会津で錦の御旗のもとに行われた話。「西軍の兵士たちは、戦いよりも自分たちの部隊名を誌した『分捕』の張り札を、土蔵に貼って廻るのに忙しかった。そして、それらは故郷に『分捕品』として送られた。若松のまちから滝沢口へと向かう街道は、この分捕品の荷駄の列で、『人馬駅絡として絶えることなし』と、当時の記録は書き残している。」「そして、その焼跡は、分捕品を商う俄かごしらえの露天の店でにぎわった。」
 もう一つは北京での話。「連合軍の入城によって、事態は一変した。市街戦は、おおむね5日間にわたり、清国兵は市中から掃蕩されたものの、群盗と化した暴徒が跳梁し、連合軍の将兵そのものも掠奪者となって横行、北京は死んだまちになった。その中で逸早く治安を回復し、日常が戻ってきたのは内城の北半、すなわち日本軍の占領区域である。そのため他国軍の占領区域から、日本軍の占領区域に移り住む市民も少なくなかった。柴中佐は、今は軍事警察衛門長官として、目の廻るような仕事に忙殺されていた。」
 軍人としての柴中佐はこれらを任務として誠実に行ったに過ぎない、と言うであろう。しかし、誠実な任務遂行には大切なものが裏打ちされていたのである。「守城の人」を書いた村上兵衛はこの後結ばれる日英同盟には同じく北京に籠城した英国公使マクドナルドが日本軍将兵への信頼を厚くし、締結に向けて周旋したことが大きく作用していると推測している。
 「近年五郎」こと柴五郎が朝敵の会津出身にも関わらす、陸軍大将にまで上り詰めたのは、フランス語を始め英語、中国語など語学に堪能なばかりか、無類の中国通であったことがあげられる。その有能さを支えるには大切なものを生涯忘れずにいることであった。そこで、会津に生まれた人々はどのようにして屈辱を跳ね返そうとしたのであろうか。
 1975年から始まったNHKの日本史探訪は8年間続いた。その中で「白虎隊以降」として作家の綱淵謙錠がコメントしたものがある。綱淵謙錠の分析は鋭い。斗南藩を担った権大参事山川浩、少参事広沢安任、永岡久茂の三者三様のその後をたどって、朝敵汚名返上の3つのパターンを示す。第1は、山川浩である。彼は新政府の中に入り藩閥政府にあって自己主張できる場を確保した。陸軍少将谷干城の推挙により山川浩は陸軍に入り西南戦争では籠城していた谷干城を救出する手柄を立て、のち陸軍少将となる。その間に「京都守護職始末」を編集して朝敵でないことを主張する。柴五郎も上京して幼年学校に入学する以前は住む家もなく山川浩宅や野田豁通の世話になりながらその日暮らしをしていた。柴五郎も分類すると山川浩である。
 次の立場は広沢安任。彼は廃藩置県後も現地に残り開拓の成果を上げる。そして、明治政府から参議や北海道開拓長官のポストをもって招聘されるが、「亡国の臣、何の面目あって勤王諸藩の士と肩を比し、朝に使えんや」と姿勢を表す。
 第3の立場は永岡久茂。明治9年、親交のあった前原一誠の萩の乱に呼応しようとして思案橋事件をおこす。明治政府の転覆である(「新日本史探訪第2集」角川書店)。心に秘めた大切なものもそれぞれの人の中で別々の熟成がある。
 著者石光真人は熊本細川藩物産方頭取石光真民の子息真清の子どもである。真清は野田豁通によって柴五郎宅に預けられた。このような縁で、「ある明治人の記録」をまとめることとなった。真人は「柴五郎翁とその時代」で昭和17年の秋、玉川上野毛の柴宅を訪れたとき、柴五郎は「この戦は負けです。」と確信のこもった声で語ったエピソードを載せている。大切なものを持つ者からすれば、第2次世界大戦は負けるべくして負けた戦いであったのかも知れない。明治維新からはじまる日本の近代化は一体どのような意味を持っているのか。厳しい問いが「ある明治人の記録」から発せられている。 
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