楽書快評
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書名 クレーの絵本

著者名 谷川俊太郎

初出 1995年 講談社

 パウル・クレー(Paul Klee)の絵で思い出されるのは1925年に描かれた「黄金の魚」(Der  Goldefisch)である。これを真似てスケッチを試みたこともある。その輝きの美しさ。だが、輝く黄金の魚は暗い水の中でも巨大な異物である。他の魚たちは遠ざかるように逃げていく。黄金の魚も硬直し、永遠に止まっているように見える。黄金の魚自身も、その孤立さに戸惑っているように見開かれた目。
 谷川俊太郎は、この作品に触発されてこのような詩を書く。大きな魚が小さな魚を食べて生きる姿を描いたのだとして、

いのちはいのちをいけにえとして
ひかりかがやく
しあわせはふしあわせをやしないとして
はなひらく

 真に谷川俊太郎らしい「黄金の魚」に対するきれいなコメントだ。1931年、哲学者谷川徹三の息子として生まれ、早熟な才能を開花させた谷川俊太郎。21歳で第1詩集「20億光年の孤独」を刊行した。谷川俊太郎はあとがきでパウル・クレーについてこのように記している。「若いころから私は彼の絵にうながされて詩を書いてきた。ちょうどモーツァルトの音楽にうながされてそうしてきたように。」と。
 1879年12月18日、スイスのベルン近郊に生まれた「幻想絵画の画家」といわれたパウル・クレーもそういえば早くから光り輝く才能を示した、という。
父はドイツ人音楽教師、母はフランス系スイス人のオペラ歌手。パウル・クレーは小さい頃から特に音楽に親しみ、11歳でベルン市の管弦楽団のヴァイオリン奏者になる。しかし途中で美術の道に踏み出す。21歳でミュンヘン美術学校に入学した。1914年、友人とのチュニジア旅行をきっかけに独自の絵画の境地を開く。1920年にはワイマールに新設されたばかりの建築学校バウハウスの教授として招聘された。しかしナチズムの台頭に伴い、学校は1932年に閉鎖、1931年から兼任していた別の美術学校の教授に選任されるも、ナチスは彼を危険人物として迫害、この美術学校からも解雇される。
 1937年には彼の作品が大量に各地の美術館から没収され、その一部は「退廃美術展」に展示される。ナチスの迫害から逃れ、生まれ故郷のスイスに拠点を移しスイスへの帰化の申請をおこなうが、それが認められないまま享年60歳で死去。このような略年譜から輝く才能と、ドイツ国籍をもつパウル・クレーの厳しい一生が分かる。彼の制作は1919年のワイマール体制成立前後から、ナチス政権の成立までに重なる。ヴェルサイユ体制で押し付けられた平和ドイツ。だが、第1次世界大戦の敗北から多大な賠償金にあえぎ、1923年には貨幣価格が1兆分の1に暴落する。
 もう一つ「クレーの絵本」からクレーの絵と谷川俊太郎の詩とが巧く重なった「幻想喜歌劇『船乗り』から格闘の場面」を見てみたい。この絵は1923年の発表だから、「黄金の魚」とほとんど同時代の作品である。劇場の一つのシーンを思わせる。照明の当った舞台中央では船乗りが巨大な魚たちと戦っている。谷川俊太郎は戦いいの恐ろしさを語り、そして予見する。

べつのせかいへと
めざめることはできなのだ
ぬるぬるのうろこのうえをすべり
なまぐさいくちのなかへ
まるごとあなたはのみこまれる

 パウル・クレーの多彩な色使いの幻想絵画は、ワイマール体制の危うさに似ている。遅れて資本主義化したドイツは、その背伸びした背を第1次世界大戦で叩かれた。その後、開放感とともにドイツというキャンパスにさまざまなゆめまぼろしが行き交い、別々の思いの絵が一斉に描かれた。その中にはナチスの影も。やがて、ドイツは一つの虚ろで巨大な悪夢へと収斂していったのであった。だが、この世界、この地域、この現実から逃れることは出来ない。「べつのせかいへと めざめることはできないのだ」。私もまた、この21世紀初頭の極東の現実から逃れることは出来ない。
 「黄金の魚」に戻ろう。谷川俊太郎は「黄金の魚」をさらに続けて、このように結ぶ。だが、「幻想喜歌劇『船乗り』から格闘の場面」ほどには魂は呼応していないと、思う。

どんなよろこびのふかいうみも
ひとつぶのなみだが
とけていないということはない

 これが、パウル・クレーの「黄金の魚」から谷川俊太郎が感じた魚と海である。私は別の感じを受ける。「黄金の魚」の背景の暗い海に「よろこびのふかいうみ」を見ることは出来ない。「しあわせはふしあわせをやしないとして  はなひらく」というすばらしい一句に、でも暗さやおぞましさがないのはなぜか、と思う。たくさんの感情を飲み込んだような海。そこに現われた黄金に輝く巨大なものに引き込まれていく魂の行方は、救済であったか地獄であったか。(2004/6/27)



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