楽書快評
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書名 評伝 佐久間象山
著者名 松本健一
初出 上 1997年1月号―1999年3月号 「This is 読売」
   下 1999年5月号―2000年10月号 「正論」
   2000年9月1日 中公選書
 佐久間象山はパトリオットだ、と松本健一は言う。西洋の技術を積極的に得ようとし、また開国を望んだのも、そして京都において蛤御門の変(1864年)が起こる7日前に河上彦斎によって暗殺されたのも、象山がパトリオットであったからである、と評伝で描く。
 アメリカ合衆国の総領事ハリスが日米修好通商条約を結ぼうと、幕府に交渉を強引に働きかける。老中堀田正睦と会談の後、条約締結に向けた協議が始まる。当時の幕府における外交担当者は外国掛の跡部甲斐守良弼(水野忠邦の弟)、土岐丹波守頼旨、筒井肥前守政憲、伊沢美作守政義、川路左衛門尉聖謨、鵜殿民部少輔長鋭、井上清直(川路の弟)、勘定奉行永井玄蕃頭尚志(前長崎海軍伝習所総監督)である。
 堀田政権はアメリカ大統領の親書とハリス口上書の写しを諸大名に示し、意見を徴収した。松代真田藩は山寺常山を介して象山に意見を求める。弟子の吉田松陰の下田踏海事件に連座して信州松代藩で蟄居謹慎を余儀なくされていた佐久間象山は状況を正しく把握し、しかも安政5年4月(1858年)、幕府宛上書稿を提出する。求められた象山の回答が「ハリスとの折衝案に関する幕府宛上書稿」である。藩主名で上書するための案文である。しかし、藩内の反対派のため、幕府には出されることはなかった。代わりに、藩主の口上をつけて川路左衛門尉聖謨に送られた。
 象山の危機感は、幕府がハリスと条約締結の約束をしながら、朝廷の了解を得ることが出来ないという国内都合で違約をすれば、戦争にもなる危険があると考えたところからうまれた。象山が考えた打開策は、改めてハリスに3か条の質問を行うという仕切り直しをすることで一方的に幕府が条約締結の話を進めたのではない体裁をつくる。そして、ハリスが「天地公共之道理」によって通商を求めてきたら、改めて朝廷に開国を説得する。こんな道筋の中で、打開できる人物は自分だと自負していただろうと、松本健一はとらえている。
 松本健一は「評伝 佐久間象山」においてキーワードを「パトリオット」としている。日本のナショナルな形成を強烈に意識した人物だというのである。
 象山のことばとして有名なのは「東洋道徳、西洋芸術」である。これは小林虎三郎の父又衛門宛の手紙に書かれたことばである。松本は、このことば以上に佐久間象山の簡潔なテーゼとして「夷の術を以って夷を制す」であるという。「西洋のより進んだ文明の『術』を手に入れることにより、西洋に負けない国づくりをする。それが、象山の考える日本の開国の戦略(進路)に他ならない。これがのちに平俗化されて、近代日本の『和魂洋才』というテーゼになるわけだ。」「象山がそう考えるのは、19世紀半ばのいまの列強(パワーズ)の力の支配の時代つまり帝国主義国家の覇権競争のさなかにある、と熟知しているからだ。」
 「象山は開国思想の持ち主だが、その開国思想は究極の攘夷を目ざしたものであり、『夷の術を以って夷を制す』という戦略にもとづいてのものであった。」
  象山の輪郭を評伝でこのように描いている。
 「ハリスとの折衝案に関する幕府宛上書稿」では、強国との外交交渉において毅然とした態度で付け入る隙を与えなかった事例を中国春秋時代の故事から解き明かす。司馬遷が御者となりたいと「史記」で語ったあの晏嬰の話である。
 その故事は岩波書店、「日本思想体系55」によると、その脚注に「晏氏春秋」にあるという。もっとも象山の引用は「後漢書」馬融伝注、あるいは「文選」注によるものであろうとしている。
「晏氏春秋」(中国古典新書 山田琢 明徳出版社)によると、強国の晋が隣国の斉を攻めるために、敵情視察として臣を送り込んだ。晋の臣、范昭は自分が飲んだのと同じ酒器で斉の景公に飲むように促した。中国の宴席では君臣が同じ酒器で飲まないのが礼である。そこで晏嬰は酒器を取り替えさせた。范昭の無礼な振る舞いは賢臣の毅然とした態度によって阻止された。逃げ帰った范昭は晋の平王に告げて「未だ伐つべからざるなり」。孔子は絶賛することばを晏嬰に贈る。「尊俎の間を出でずして、千里の外に折衝すとは、晏氏の謂いなり、而して、太師それに与ると」。宴席中のやり取りで敵の衝ききたる矛先をくじいた。そして国威を遠く外に輝かした。これに楽官の長も与った、と評した。このようなエピソードが「上書稿」の文中にあることから、日本で中国の故事が深く受容されていたことを知りえる。
 「西洋の衝撃を国家秩序とそのイデオロギーの危機としてのみ受止める水戸学やその他のイデオローグと明らかに対立する」のは象山や横井小楠が儒学者であり骨の髄まで儒教の普遍性を信奉していたからであると、正確に分析したのは岩波書店の「日本思想体系55」の解説での植手通有である。象山が西洋芸術とともに東洋道徳といった、その東洋道徳は日本の固有性を最大限膨らませて見せた水戸学や国学の言うところではない。朱子学がいう儒教の普遍性である。日本道徳ではない点を明らかにしなければならない。
 象山は9年にわたる蟄居から解除され、ようやく歴史に登場することが出来た。文久2年(1891年)12月29日である。これに先立つ文久2年12月24日、藩主に「攘夷の策略に関する答申書」を提出する。松本健一はその内容を要約して「究極の攘夷のために、西洋諸国にならって開国し、近代の文明を手に入れることが必要だ、と説くのである。明治の文明開化路線、富国強兵策は、ほぼここに極まっている。」と語る。先見性といっていいのだろうか。松本健一はパトリオットをキーワードとしたために東洋道徳と日本道徳の境目についての分析をあいまいにしてはいまいか。あるいは象山自身に国防に意識が走るあまり、東洋道徳による世界普遍性の追求が二次的になっていたのかも知れない。
 また、歴史に登場する象山の心持を松本健一は述べる。「象山は幕府でも朝廷でもなく、それらの合体を考えたうえで『日本』というもの、その統一国家のありように思いをめぐらせていた。」そうであるかも知れないが、統一国家の姿は私には具体的に見えない。
 文久4年(元治元年)1月、徳川家茂は入京し、将軍後見職一橋慶喜が禁裏守衛統督兼摂海防禦指揮となり、幕府から象山にも御用によって上京するように命令が下った。場を与えられた象山は京都にあって八月一八日の公武合体派による政変を行った側に加担する。蛤御門の変の直前、象山は会津藩山本覚馬、広沢安任らとともに、天皇を彦根に移し、さらに江戸遷都を構想した。これによって開国政策を天皇の名によって推し進めることが象山の狙いである。この点を強調したのが、松本健一の歴史発掘である。このような策謀を尊皇攘夷派が見逃すはずはない。品川弥二郎は回想で「天子をば敵の手に取らるるように思って、非常に激昂して居た。然るに、有志家中に陛下を彦根に遷し申すという説は、全く象山が唱えるのであるからに依って、彼を殺してしまえと云う説が起った」ことを松本健一は紹介している。久坂玄瑞ら松下村塾の門下生が主導した長州軍勢の主力は、師吉田松陰のさらに師である佐久間象山の抹殺を決意したのであろう。進発した戦略が崩れるからである。元治元年(1864年)7月11日夜、象山54歳。京都において熊本藩河上彦斎らによって暗殺された。
 司馬遼太郎「武市半平太」の一節。「犠牲者は小物ばかりであるといったが、ただひとりの例外は、社会的地位はひくいとはいえ、その言説の影響力の点では大物といえる佐久間象山が、河上彦斎のために殺された。彦斎はこのあと人変わりがしたように暗殺家業をやめた。斬った瞬間、斬ったはずの象山から異様な人間的迫力が殺到してきて彦斎ほどの手だれが、身がすくみ、このあとも心が萎え、数日のあいだ言い知れぬ自己嫌悪におちいったという。」(サンケイ新聞1969年8月2.5.7日)
 パトリオットの気概がこのような衝撃を河上彦斎に与えた。このパトリオットは、前藩主真田幸貫(松平定信子)に見出され、海防に心注いだことが始まりであった。ところが真田幸貫が亡くなると後ろ盾を失い、失速してしまった。門人吉田松陰の事件に連座して、さらに10年近く歴史の舞台から離れることとなった。義理の弟勝海舟のように幕臣でもなく、また、薩長土肥と呼ばれた西国雄藩のようなバックもなく、ほとんど孤立したような人生であった。久しぶりに訪れた政治の舞台で功をあせったのであろうか、密議が密議ではなく政治上の敵にたやすく秘密が漏れ、政治的な必要から抹殺されてしまった。勝海舟達は後年、佐久間象山の志を讃えて飛鳥山に「桜の賦の碑」を建てた。
 象山は政治の人ではなく、思想の人である。実践的な思想家であった。現実の政治過程にかかわる場合でも、コンサルタントであるべきであったと思う。そして、パトリオット佐久間象山よりも普遍的な公共の道を唱える横井小楠に、私は可能性を感じる。それは、象山の究極の攘夷が、明治になってアジア諸国への侵略戦争を志向する心持と近いように思えるからである。(2004年4月25日)
桜の賦の碑文

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