おキツネさま

はじめに

 いつかまとめてみようと考えて,構想だけはずっと前からあったのですが,面白いかどうか自信なくて,ずっとずっと先送り。
 でもいいや。ぼくの興味のみで突っ走る歴史万サイト。ということで,今回は「おキツネさま」がテーマです。
 「キツネは人を化かす。」
 「キツネは油揚げが好き。」
 「キツネは神社にいる。」
 「キツネは・・・。」
 数え上げたらキリがないくらいキツネって日本人に親しまれていますよね。日本昔話が好きだった僕は,キツネとタヌキが大好きでした。
 皆さんはいかがですか?
 でも,キツネは親しまれている反面,「狐憑き」のように人に取り憑いて奇っ怪な行動をとる禍々しい者として,あるいは「金毛白面九尾の狐」のような大妖怪として人に災いをもたらす恐ろしい面も持っていたりします。まさに「陰」と「陽」の両面の顔を併せ持つ「おキツネさま」。
 なぜなのでしょう。
 今回は,そんな「おキツネさま」の一面を考えてみたいと思います。
 

キツネ=稲作の神として

 稲荷といえば,真っ先に思いつくのがキツネ。稲荷神社では狛犬の代わりにキツネがご神体の両脇を固めます。そう両脇なんですよね。僕は,長い間,稲荷神社とはキツネを祀った神社だと思っていました。稲荷とキツネ,どんな関係があるのでしょう

 元来,キツネは鹿などとともに人里近くに現れ,人々に親しまれた動物です。
 山からおりて田の近くで食物をあさり(実る稲穂をねらう害獣:ネズミ等が獲物),子キツネを養う。
 それは,稲の稔った晩秋から冬にかけての季節。そして,秋の田園でたわわに実る稲穂の色と,キツネの体毛は同色。
 豊かな実りを迎えた田園風景に,稲穂と同色のキツネの親子。農村に生きる当時の日本人の目には,繁殖=豊作のイメージとして結びついたでしょうか。

 柳田国男氏は,そんなキツネの習性が「稲作の神」として古来日本人にイメージされたことを「田の神の祭場として残した未開地にキツネが住み着き,人々の前で目につく挙動をしたため」と説明しています。

 尊い神は容易には姿を見せてはくれません。山でキツネの姿を見たり,鳴き声を聞いた人々は何かしらの霊的な感覚を覚えたかもしれません。キツネを山にいる神霊の先駆けとみても不思議ではないでしょう。
 そんなわけで,キツネの習性が神秘性と結びつき「キツネは神の使い」とイメージされ,やがて「稲荷信仰」と結びついたと考えられているのだそうです。

 稲荷神社の祭神は宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)です。
 宇迦之御魂神は,『古事記』によれば須佐之男神(すさのおのかみ)と大市比売(おおいちひめ)との間に生まれた神で,大年神の妹になります。
 大市比売は市(流通)の神,大年神は植物などの1年間の神,そして宇迦之御魂神は食物霊であり,その一族によって,人間の生活にとって根源的な食の生活と流通を支えていることになります。

 また,『延喜式』では,宇迦之御魂神は,伊勢神宮外宮の神豊受大神と同体であるとされ,また一般に五穀の発祥の元の保食神,そしていざなぎ・いざなみが産んだ阿波国の神大宜都姫とも同体であるとされます。
 いづれも穀物の神です。
 
※ 『延喜式』;律令を補足した施行細則のようなもので,格式の一つ。延喜時代(927)に編まれたことから『延喜式』と称される。『延喜式』は当時の政治万搬にわたって,百科便覧のような内容をもっている平安時代の研究に欠かせない史料。全五十巻から成る。そのうち「神社」に関係が深いのは第一巻から第十巻までの神祇の編(神祇式という)。

 キツネが,この穀物の神である宇迦之御魂神の使いになったのは,一般には宇迦之御魂神の別名が「御饌津(みけつ)神」であったことから,ミケツの「ケツ」がキツネの古名「ケツ」に想起され,誤って「三狐神」と書かれたため。そして,先に触れたようなキツネの習性(穀物を食べる野ネズミをキツネが食べてくれるなど)が,田の神の先触れ,田の守り神と見られ,キツネを通さなければ穀物あるいは豊かな実り・農耕の神の神霊をうかがい知ることはできないと考えられ,キツネが稲荷神社にご祭神とともに祀られる必要性が生まれてきたためということです。

 つまり,古来の日本人のキツネに対するイメージは,この稲荷信仰とシンクロする形で五穀豊穣,稲の豊作を知らせる「神の御使い」。
 いうなれば,幸福の神であり,喜ばしい季節への先触れが役割だったのでしょう。

 しかし,キツネはそのような稲荷信仰の中での御使いであるイメージとは別に,人に災いを振りまく恐ろしい妖弧としての一面も持っています。
 神の御使いであるキツネが,何故妖弧となったのでしょうか。
 
 実は,稲荷信仰にはもう一つの顔,すなわち2つのルーツがあったのです。
 
 

荼吉尼天(だきにてん)の眷属(けんぞく) 

 一般に稲荷神社というのは京都の伏見稲荷大社を指すのだそうです。伏見稲荷の祭神は宇迦之御魂神。先にも触れた五穀豊穣の穀物の神です。幸せの守り神です。
 
 しかし,実は稲荷神社にはもう一つのルーツがあるのです。それは豊川稲荷とよばれます。もう一つの「稲荷」信仰です。

 豊川稲荷は神社ではありません。妙厳寺という寺院で,本尊である千手観音を守護するために奉られた祭神は茶枳尼(だきに)天です。
 茶枳尼天は,左手に如意宝珠または火焔宝珠を載せ,右手に剣を持ち,白ギツネにまたがり,三面二臂の像や,天女の姿の像などで描かれるインド発祥の女神「ダーキニー」のことです。
 
 この「ダーキニー」は,カーリー女神の侍女で,人間の肝を食う夜叉でした。「空を歩く者」と言う意味をもつダーキニーは,血で満たされた頭蓋骨の杯を手にし,踊りながら空を進むといいます。
 
 しかし,ある時,大黒天に化身した大日如来(あるいはお釈迦様)に敗れ,眷属(あるいは妻)になるのです。その際,
「肝を食われては,食われた人間が死んでしまうではないか。」
と叱られ,
「しかし,わたしは人の肝を食わねば生きていけません。」
と,反論。
 そこで,大日如来(あるいはお釈迦様)はダーキニーに<人の死を六ヶ月前に予知する能力>を与えられ,
「死ぬ運命にある人間の心臓のみを,寿命がくると壊れる石の心臓と入れ替えた後に食べる。」
と約束させたのです。この時から,ダーキニーは人間を守る神になったのだそうです。
 
 その茶枳尼天が眷属・乗騎をキツネとするところから,日本に流入した際,「あら,この神様もおキツネ様に乗るんだわ。」と,神仏習合の風習にならい「お稲荷さん」とひっくるめて呼ばれたらしいのです。

 ただし,インドの女神ダーキニーの眷属は,本来キツネではなく「野干(ジャッカル)」であるといいます。インドから中国,そして日本へ流入してくる間に,「野干」はキツネに変貌したのです。なぜでしょう。
 
 日本にはもちろんジャッカルはいません。「野干」という表記は当然中国でされたわけですが,その中国にもジャッカルはいません。
 どうやら,中国で漢訳された際,中国にはいない動物のジャッカルに「野干」と当て字がされ,キツネの仲間と理解されたため,そのまま日本でもダーキニーの眷属はキツネとして流入したらしいのです。
 さらに,中国のキツネは,修行のため人間を化かしたり,人間に憑りついたりするのだそうです。これが,インド発祥の呪術『巫蠱(ふこ)』(毒のある虫や蛇などを殺し合わせて生き残ったものを使って行う呪術。あるいは動物の怨霊を操る呪術。犬神や修験者の使う管狐もこの一種。)と混同され,その結果,キツネの妖獣性が強まり,いよいよ人に取り憑くキツネ,『狐憑き』が発生するのです。
 
 茶枳尼天は,インドでは男女の性交により,ある法悦の境地に達しようとする左道密教の信仰の対象とされているそうです。
 そんな茶枳尼天信仰は,日本でも平安時代末期になると民間信仰や,あるいは閉塞感のある貴族社会の中で,何とも恐ろしげな茶枳尼天の外法として形成されていきました。
 「自分の肝をダキニ天に捧げる密約をすると,ダキニ天がその人の願いを何でも叶えてくれる」と言われるもので,徳川家康までもその外法によって天下を取ったという俗説があるほどです。
 いよいよキツネが禍々しいものになってきました。
 
 

妖弧あるいは一般的なキツネのイメージ
         

 次に,日本で語られる妖弧について考えてみましょう。
 
 キツネが霊獣として伝えられる歴史は古く『日本霊異記』には,すでにキツネの話が記されているそうです。
 美濃大野郡の男が広野で1人の美女に出会い,結ばれて子をなすが,女はキツネの化けた姿で,犬に正体を悟られて野に帰ってしまう。しかし男はキツネに,「なんじ我を忘れたか,子までなせし仲ではないか,来つ寝(来て寝よ)」
と言ったそうな。これが「来つ寝=キツネ」の語源になったとか。キツネは,人間との婚姻譚において語られることが多く,後に『葛の葉』,古浄瑠璃『信田妻(しのだづま)』などで語られた異類婚姻(この場合は人間とキツネ)によって生まれた子の超越的能力というモチーフが,稀代の陰陽師安倍晴明の出生となって完成されます。
 ※ 『日本現報善悪霊異記/日本国現報善悪霊異記(にほんこくげんほうぜんあくりょういき)』:平安時代初期に書かれた日本最古の説話集。『日本霊異記』と略して呼ぶことが多い。著者は奈良右京の薬師寺の僧景戒。上・中・下の三巻からなる。上巻に35話,中巻に42話,下巻に39話で,合計116話が収められる。それぞれの話の時代は奈良時代のものが多く,古いものは雄略天皇の頃とされる。場所は畿内と周辺諸国が多く,特に紀伊国が多い。登場する人物は,庶人,役人から貴族,皇族に及び,僧も著名な高僧から貧しい乞食僧まで出てくる。
 
 キツネの子が神秘的能力をもつのは,稲荷の神の使いとして親しまれてきたキツネが,豊穣や富のシンボルであったことに由来するものでしょう。
 狐婚姻の類話には,正体を知られて別れたキツネの女が,再び農繁期に帰ってきて田仕事で夫を助けると,稲がよく実るようになったという話があるそうです。江戸の八王子では,大晦日の夜に関八州のキツネが集うため無数の狐火が飛び,里の人間はその動きで豊作の吉凶を占ったという話も残っているそうです。
 
※ そういえば,キツネは女性によく化けますね。あまり男に化けたという話は聞いたことがありません。(いや。きっとあるのでしょうが,私が浅学なだけで) これは,キツネが陰陽五行思想においては土行,特に八卦では「艮」に割り当てられることから「陰気」の獣であるとされ,後世になって「狐は女に化けて陽の存在である男に近づくものである」という認識が定着してしまったからなんだそうです。また,キツネが化けた女はよく見ると,闇夜でも着物の柄がはっきり見えるといわれていたそうです。
 
 人間を助けるキツネの側面は,かつてキツネが農耕神信仰において重要な役割を果たしていたことの名残り。いわゆる「幸せの使者」的な役割がイメージされていたのでしょう。江戸大窪百人町などの郊外にある野原に出没する特定のキツネは,名前をつけて呼ばれ,人間を化かすが,災害や変事を報らせることもあったといいます。
 以下は,そんな愛らしい全国の妖弧たちです。
岐阜県の老狐「ヤジロウギツネ」:僧に化けて,高潔な人物の人柄を賞揚したという。
群馬県の「コウアンギツネ」: 白頭の翁となり,自ら128歳と述べ,常に仏説で人を教諭し,吉凶禍福や将来を予言したという。
千葉県の「デンパチギツネ」:飯高壇林の境内に住みつき,若者に化けて勉学に勤しんでいたという。
静岡県の「オタケギツネ」:大勢の人々に出す膳が足りない場合にお願いに行くと,膳をそろえてくれるといわれた。
岩手県の白狐:九戸のアラズマイ平に棲み,村の子どもたちと仲がよく,一緒に遊んでいたという。
鳥取県の「キョウゾウボウギツネ」:城に仕え,江戸との間を2,3日で往復したと伝えられている。現在は御城山に祭られている。


 また,「キツネノヨメイリ」。
 宝暦3年8月,江戸の八丁堀本多家に,日暮れから諸道具を運び込み,九ツ前,提灯数十ばかりに前後数十人の守護を連れた鋲打ちの女乗物が,家の門をくぐった。5,6千石の婚礼の体であったが,本多家の人は誰も知らなかったという。
 このような「キツネノヨメイリ」には必ずにわか雨が降るとされますが,これも降雨を司る農業神の性質であったかもしれません。

 しかし,そういった農耕信仰からくる「幸せの使者」的な役割とは逆に,しだいにキツネが狡猾な登場人物としてイメージされることが多くなります。
 『今昔物語』の「高陽川の狐,女と変じて馬の尻に乗りし語」では,夕に若い女に化けたキツネが馬に乗った人に声をかけて乗せてもらうが,4,5町ばかり行ったところでキツネになって「こうこう」と鳴いた話。『行脚怪談袋』には,僧が団子を喰おうとするキツネを杖で打ったら,翌日そのキツネが大名行列に化けて仕返しをしたという話。『太平百物語』では,京都伏見の穀物問屋へ女がやって来て桶を預けていった。ところがその桶の中から大坂真田山のキツネと名乗る大入道が現われて,この家の者が日ごろ自分の住まいに小便をして汚すと苦情を述べる。そこで主人は入道に詫びて,3日間赤飯と油ものをキツネのすみかの穴に供えて許しを乞うたという話。
 また,得体の知れない燐を「狐火」と呼び,説明がつかない不思議な現象一般を「狐に化かされた」として,キツネの仕業とすることも多かったわけです。
 
 さらに,キツネに化かされないためには,眉に唾をつけるとよいという俗説も生まれたりします。これは,キツネに化かされるのは眉毛の数を読まれるからだと信じられていたためで,真偽の疑わしいものを「眉唾物(まゆつばもの)」というのはこれが由来だそうです。
 
 それにしても,化けるにしろ,仕返しをしに来るにしろ,キツネの話はどこかユニークで,愛らしいものが多いのはなぜでしょう。

 キツネにまつわる俗説では,日暮れに新しい草履(ぞうり)をはくとキツネに化かされるというものがあり,かなり広い地域で信じられていました。(私は調べていて初めて知りました)下駄はもちろん靴でも,新しいはきものは必ず朝におろさなければならないとされます。夕方,どうしても新品をおろさねばならないときは,裏底に灰か墨をぬらなければならないといわれているそうです。

 その変化は,人間はもちろん,月や日,妖怪,石,木,電信柱,灯籠,馬やネコ,家,汽車のほか,雨(狐の嫁入り)や雪のような自然現象にいたるまで,実に豊かなバリエーションをもっています。これは,キツネが人々にいかに愛された存在であったかを示すものではないでしょうか。

狐憑きそして金毛白面九尾のキツネ

 こうやってみてくると,キツネは日本人にとても愛された存在であることが分かります。
 いつのころからなんでしょう。キツネが禍々しい者として民間で語られるようになったのは。
 例えば,全国的に見られる所謂「狐憑き」などの現象。そして,大妖金毛白面九尾のキツネ。
 以下,詳しく書いてあった資料があったので,まとめて書いてみますと,
狐憑き
 きつねの霊が人間にのりうつること。精神錯乱のような状態。 日本独自の現象である。
 狸,蛇,犬神憑きなどに比べ範囲が広く,全国的に見られ,かつ根強い。狐憑きは,精神薄弱者や暗示にかかりやすい女性たちの間に多く見られる発作性,ヒステリー性精神病と説明され,実際に自らキツネとなって,さまざまなことを口走ったり,動作をしたりするという話が,平安時代ごろから文献に述べられている。
 行者や神職などが,「松葉いぶし」や,キツネの恐れる犬に全身をなめさせるといった方法で,キツネを落とす呪術を行っていた。
 狐憑きのバリエーションとして「狐持ち」という現象があり,キツネの霊を駆使して術を使うと信じられる家系がある。「飯綱(いづな,いいづな)使い」と呼ぶ地方もあり,管狐(くだぎつね)や,オサキ,ニンコを操ると信じられていた。これらの狐霊は,人に憑いて憎む相手を病気にしたり,呪いをかけたりすることができると信じられ,現在でもなお忌み嫌われている地方がある。
 狐憑きで有名なものは,長篠を中心に語り伝えられる「おとら狐」で,「長篠のおとら狐」とか「長篠の御城狐」などと呼ばれていた。おとら狐は,病人や,時には健康な人にも憑くことがあって,憑いた人の口を借りて長篠の合戦の物語を語る。「おとら」は櫓に上がって合戦を見物しているときに,流れ弾に当たって左目を失明し,その後左足を狙撃されたため,とり憑かれた人は,左の目から目やにを出して,左足の痛みを訴えるという。

 平安時代頃から文献に語られるようになったとは何か理由があったのでしょうか?一体何があったのでしょう。
 キツネ関連で思い浮かぶことといえば,母親がキツネであるという噂を持つ安倍晴明。そして,もう一つが「金毛白面九尾のキツネ」でしょうか。
金毛玉面九尾の狐
 『山海経』の一書「南山経次一経」の中に「有獣焉 其状如狐而九尾 其音如嬰児 能食人 食者不蠱」とあるのが,九尾の狐に関する最初の記述と思われている。「その状は,狐の如くで九つの尾,その声は嬰児の様,よく人を喰う。食った者は邪気に襲われぬ」という。特に謡曲『玉藻前』に語られた金毛の九尾狐が有名で,天竺摩伽多国では華陽夫人となって斑足太子を惑わせ,中国では夏の妹妃,殷の妲己,周の褒似となって国を滅ぼした後,遣唐使船に乗って来日。「玉藻前(たまものまえ)」となって鳥羽上皇の寵愛を受け,本朝を滅ぼそうとするが,陰陽師・安倍泰成(安倍泰親,あるいは安倍晴明とも)によって正体を見破られ,那須野原で退治される。しかしその妖力は衰えず,謡曲『殺生石』では,その怨霊は殺生石となって,触れるものの命を奪っていたが,僧玄翁が,焼香,説法をして殺生石を教化した。
 石を砕く鎚「玄翁(げんのう)」 は, この玄翁の名に由来するとされる。

 調べてみて初めて分かったことですが,金毛白面九尾のキツネに限らず,九尾の狐の伝説は東アジアの各国にあるようです。ベトナムや韓国,もちろん中国など,詳しく調べればさらに例を挙げることができるかもしれません。

 と,ここで一つ気がついたことがあります。

 『玉藻前』で語られるところの「金毛白面九尾のキツネ」はインドで発生し,中国の夏・殷王朝を王の寵姫となってありとあらゆる贅沢・残虐行為のかぎりをつくし滅ぼした後,インドへ戻りマガダ国の王妃となって国の転覆を謀り,再び中国に現れ笑わぬ寵姫となって国を傾けた。その後,遣唐使船に乗って来日してくる。(吉備真備が連れ帰ったとか・・・。)※周代から唐の時代では,かなり時代の「空き」があるのは気になりますが。

 
 インドから中国,そして日本へ。
 この図式,先に紹介した何かの伝来に似ていませんか?
そうです。茶枳尼天の流入経路そっくりなんですね。
 

おわりに

 またもや想像世界・・・。
 もとはインドの神様だった茶枳尼天。それが中国に伝わり,やがて日本にやってくる。人の生き肝を食らった悪鬼の一面を持つ茶枳尼天が,中国に流入したときキツネとシンクロし,金毛玉面九尾のキツネの原型が作られる。やがて時代が下るにつれ,キツネそのものが茶枳尼天の性格をそのまま受け継ぎ,あやかしとしての一面がクローズアップされてきたとき,金毛玉面九尾のキツネという大妖怪が象徴として生まれた。
 すなわち「茶枳尼天の外法」が貴族社会・民間を問わず流行した平安時代に,同じように金毛玉面九尾のキツネが生まれ,狐憑きの信仰も広がっていったのではないでしょうか。
 周代の中国で金毛玉面九尾の狐が暴れ回り,その後唐代まで動きがなかったのは,日本の社会が平安の世になってようやく茶枳尼天を受け入れることができたため。いわば,外来の文化がそれまでの日本の文化に流れ込み融合するまでの時間の流れが必要だったということではなかろうか。

 キツネの禍々しさは,「茶枳尼天の外法」の性格の象徴として,民間にかなり分かりやすい形で広まった結果なのではないでしょうか。

 そしてさらに大胆な想像をするならば,そういったキツネの怪しさを利用した一族がいたかもしれません。
 外来からやってくる物に,なんやかやと理由をつけて,まつろわぬものに仕立て上げて自らの繁栄に利用した一族が。
 外来からやってきた者・・・あるいは「鬼」であり,あるいは「あやかし」であり,そして,病であり目に見えぬ怨霊をも利用した一族。
 ・・・想像です。あくまで想像です。