
左の写真は本堂に上がる階段で、右に写っているのはエスカレーターです。 聖徳太子に始まる歴史の古いお寺としては、ちょっと意外な光景ですが、妊婦さんや乳飲み子を抱いたお母さん、老人の方々にはうれしい心遣いかもしれません。 こんな明るいにぎやかなお寺ですが、縁起を調べてみると、怨霊の影が差しています。 文献によって、ちょっとずつ異同があります。 ここでは、『関西古寺巡礼』(首藤一著)からの引用です。
仲哀天皇は第一の后=大仲津姫とその子供たちを近畿(たぶん滋賀)の都に残し、若い第二后の息長帯(おきながたらし)姫=神功皇后と筑紫への遠征に出ました。 そして『古事記』によると、仲哀は神功が神がかりして告げた託宣を信じなかったので、罰が当たって死んでしまいました。 神功は、新羅に向かったあと、近畿に向かい、先后の2皇子の軍と戦ってこれを滅ぼし、遠征中に産んだわが子を皇位につけました。応神天皇です。 『古事記』は正当防衛を主張していますが、どう考えても皇子たちの軍が正規軍、神功の軍が叛乱軍です。 大仲津姫は神功を呪って死んでいったのではないでしょうか。 そして、200年余り後の用明の時代、疫病などがこの大仲津姫の祟りと信じられていたと思われます。 聖徳太子が命ぜられたのは、大仲津姫の怨霊を鎮めることだったのです。 ある本には「大仲津姫母子を供養するようにとの命令を受け、同時に物部守屋の霊も慰めるため」と書いてありますが、どちらも怨霊であったことはまず間違いないでしょう。 |
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大仲津姫の墓所と伝えられる「石の唐櫃(からと)」。
実際は6世紀後半、ちょうど聖徳太子の頃の古墳です。
境内の大黒堂のわきにあります。 同時期に同じ場所にお寺と古墳が作られるということは、ありうるでしょうか。 先ほどの「用明天皇の2年(586)」の記事が怪しくなってきます。 このお寺が建てられたのはもう少しあとで、目的は大仲津姫母子・物部守屋・聖徳太子の3者の鎮魂のためではないでしょうか。 むしろ重点は聖徳太子の鎮魂にあったのかも知れません。 「聖徳太子開基」は聖徳太子をおおっぴらに祀るための立派な理由になります。 僕の仮説は、こんな風になります。 用明2年(586)、聖徳太子は大仲津姫母子と物部守屋の怨霊を鎮める命を受け、この山の上の「天宮塚」、あるいは奥の院の地で修法を行ないました。 そのときには、現在の寺の位置は、ある地方豪族(おそらく渡来系)の墓域で、「石の唐櫃」が作られました。 そして、後に太子の子の山背大兄皇子とその一族が滅ぼされ(643)、太子が怨霊として祟るようになったとき(7世紀中〜後半)、太子が山上で修法をしたこの山の麓の地に太子を祀るお寺が建立されました。 それが今の中山寺です。 さきほど、「ただの日曜日」と書いたのは誤りでした。 今、暦を見てみましたら、4月25日は「きのえいぬ」、「いぬの日」だったのです。 混んでたわけですよね。 |





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