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「有田オレンジユースホステル」に泊まりました。
このユースホステルのマスコット、猫のマイケルがおすすめする「絶景お散歩コース」というのがありました。
明恵上人にまつわる遺跡群をめぐるコースでした。 僕は、明恵という人のことについては、高山寺に「明恵上人樹上座禅像」という絵があることを知っていただけで、どんなお坊さんなのか全く知りませんでした。 ところで、「みょうえしょうにんじゅじょうざぜんぞう」と、声に出して言ってみて下さい。 「新春シャンソンショー」に負けないくらいのみごとな「早口言葉」でしょ。 |
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『コンサイス人名辞典・日本編』から「明恵」の項を写しておきます。
時代としては源平の戦乱から、鎌倉幕府の実権が源氏から北条氏に移っていく時代です。 百人一首の撰者、藤原定家は1162〜1241ですから、明恵より9年先に生まれ、9年後まで生きていました。 同時代人と言っていいでしょう。 そして、34歳の明恵に栂尾の地を与えたのは、それから15年後に承久の乱で隠岐に流されることになる、後鳥羽院です。 明恵上人が故郷である紀州のこの地で修行をされていたのは、23歳から3年間のことです。 上人は、ひたすら栄達を嫌い、釈迦に憧れ、戒律を守って一人静かに修行することを好みました。 しかし、ひたすら穏やかな人だったかというと、そうとも言えません。 上人は紀州にいる間の建久7年(1196)、24歳のときに、自ら右の耳を切っています。 美しい姿が修行の妨げになるという理由だそうです。 穏やかな表面の奥に、強く激しいものを秘めていたのでしょう。 京都の栂尾に高山寺を開いてからは、身分・老若男女を問わず、その徳を慕ってくる人は多かったそうです。 特に、承久3年(1221)の承久の乱の時には、夫を失った多くの貴族・武士の妻たちが出家の道を選んで高山寺に集まりました。 明恵はこの女性たちのために、善妙寺という尼寺を高山寺から徒歩20分ほどの所に建てています。 善妙というのは、新羅(しらぎ)の華厳宗の初祖、義湘(ぎしょう)を恋い慕った中国の女性の名前です。 義湘が華厳の勉強のため唐に渡っていたとき、乞食(こつじき)に立ち寄った屋敷で侍女をしていた善妙は、義湘に一目惚れし恋情を打ち明けますが、義湘の志を聞いて改心し、義湘の仏法弘布(ぐぶ)を支えていこうと誓います。 |
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その後、義湘は長安の至相大師に華厳を学びに行きます。
善妙は自らの財を法服その他諸々の什器に替え、箱に入れて整え、帰国前にもう一度会ってこの箱を渡せば、もう一生会えなくても心はひとつでいられると待っていました。
ところが、義湘の帰国の知らせを聞いて港に駆けつけた時には、既に船は出帆していました。
嘆き悲しんだ善妙は、「わらわは、実心に義湘法師を供養し奉った。願わくは、この箱を、かの船に届けてたもれ」と箱を波濤の中に投げ入れました。
さらに、「わらわ、願わくは大竜と化して、舳艫(じくろ)を扶翼して新羅国に無事送り届け、義湘大師が法を弘通(ぐづう)せられんことを」と願を発して、海中に身を投じました。![]() 善妙は、誓願通り竜となって義湘の帰国を助け、その後も奇跡を起こして、義湘を支えていきます。 同じ、僧に恋してしまった話でも、道成寺の安珍・清姫の話とは、全く対照的な話ですね。 明恵はこの善妙の像を仏師・湛慶に造らせ、華厳の守り神として、高山寺・善妙寺の鎮守に祀っていました。 | ||
| 施無畏寺は、明恵上人の死の1年前にあたる寛喜3年(1231)、上人の従兄弟である湯浅氏の藤原景基が、上人修行の地・白上山に精舎を建立、上人を開山としたのが始まりです。 |
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| 参考・義湘と善妙 |
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