若王山 無動寺 (にゃくおうざん むどうじ)


神戸市北区山田町福地字新池・真言宗

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本堂


鎮守・若王子神社本殿


本尊・大日如来(絵葉書より)


釈迦如来(絵葉書より)


阿弥陀如来(絵葉書より)


不動明王(絵葉書より)


十一面観音(絵葉書より)


ご宝印

 お寺で頂いたパンフレットから『略縁起』を紹介しましょう。
 当寺は推古天皇の時代、聖徳太子が物部大臣守屋を討たんとして、鞍作鳥(鳥仏師)に命じ、本尊大日如来及び諸尊を刻ましめて戦勝をご祈願されたところ、忽ち大軍を征破することができたので、七堂伽藍を建立して普救寺(福寺)と名付けられたのに始まります。
 その後幾度か盛衰の変遷があり、記録等は散逸して、多くを知ることができません。 縁起(慈雲尊者真筆)によれば、現在の堂宇は中興開山眞源阿闍梨が帰省の折、当寺の荒廃を見て、復興の悲願を発願され、二十数年の勧進努力の結果、宝暦2年(1752)3月、再建されたものであります。
 明治8年廃仏毀釈により、末寺と統合して現在に至っております。  中興開山眞源阿闍梨(1689〜1758)は北区山田町中の出身で、高野山成蓮院に住し、左学頭にまで昇補された高僧です。

 さて、厩戸皇子(聖徳太子)が蘇我馬子とともに物部守屋を討ったのは用明2年(587)のことなので、「推古天皇の時代」とあるのは、ケアレスミスと思われます。 守屋の位も「大臣(おおおみ)」ではなくて「大連(おおむらじ)」です。
 この時の厩戸皇子の行動が『日本書紀』に書かれています。 大阪の四天王寺の縁起として有名な話ですが、『全現代語訳・日本書紀』(宇治谷孟著・講談社)から引用しておきましょう。
 このとき厩戸皇子は、瓠(ひさご)形の結髪をして、軍の後に従っていた。 何となく感じて、「もしかするとこの戦いは負けるかもしれない。願をかけないと叶わないだろう」といわれた。
 そこで白膠木(ぬりで)を切りとって、急いで四天王の像(みかた)を作り、束髪の上にのせ、誓いを立てていわれるのに、「今もし自分を敵に勝たせて下さったら、必ず護世四王のため寺塔を建てましょう」といわれた。 蘇我馬子大臣もまた誓いを立て、「諸天王・大神王たちが我を助け守って勝たせて下さったら、諸天王と大神王のために、寺塔を建てて三宝を広めましょう」といった。 誓い終って武備を整え進撃した。 迹見首赤檮(とみのおびといちい)が大連を木の股から射落して、大連とその子らを殺した。 これによって大連の軍は、たちまち自然に崩れた。(以下、中略)
 乱が収まって後に、摂津国に四天王寺を造った。大連の家の奴の半分と、宅居とを分けて、大寺(四天王寺)の奴・田荘(たどころ)とした。
 田一万代(一代は百畝)を迹見首赤檮に賜わった。蘇我大臣は誓願の通りに、飛鳥の地に法興寺(飛鳥寺)を建てた。

 このとき厩戸皇子は13歳くらいです。
 この戦(7月)より先、4月に厩戸皇子の父である用明天皇が崩御しています。 その記事に鞍作鳥の父、鞍部多須奈(くらつくりのたすな)が登場します。 再び、同書からの引用です。
 天皇の疱瘡はいよいよ重くなった。 亡くなられようとするときに、鞍部多須奈が前に進み出て、「私は天皇のおんために出家して修道致します。また丈六の仏と寺をお造り申しましょう」と奏上した。 天皇は悲しんで大声で泣かれた。 今南淵の坂田寺にある木造の丈六の仏・脇侍の菩薩がこれである。
 用明天皇と多須奈のこの関係からすると、お互いの子供同士である厩戸と鳥が旧知の間柄であるのはまず間違いないでしょう。

 周囲の影響で幼いころから仏教に関心のあった厩戸皇子は、多須奈が仏像を彫っている工房にも出入りし、鳥とともに端材で遊びのようにして仏像を彫っていたのかもしれません。 時々は多須奈も仕事の手を休め、息子と皇子に彫刻の手ほどきをしたり、仏像の像容について教えることもあったでしょう。 13歳の少年が、戦陣でいきなり「四天王の像を作る」と言い出すには、それなりの過去があるはずだからです。

 そして、厩戸が戦陣で自ら四天王像を彫るとともに、人を遣わして幼なじみの鳥にも仏像を依頼したというのは、ありうる話だと思います。 「四天王寺の縁起に似ている」と言って切り捨ててしまうわけにはいきません。

 ですが、「大日如来」は時代的に無理だと思います。 無動寺の現在の諸像は平安期のものですから、鳥が彫ったのは別の仏様だと思います。

 このお寺の最初の名前「普救寺」から想像されるのは観音様です。 「戦勝祈願」と観音様は不釣合いに見えるかもしれませんが、『法華経』の「観世音菩薩門本」には、

 人ありて、まさに害せらるべきに臨みて、観世音菩薩の名を称えれば、かの執るところの刀杖はにわかに段々におれて、まぬがるることを得ん。

とありますから、戦に赴く人を守るという意味で相応しい仏様であるということができます。 のちに、坂上田村麻呂が清水寺に祈願して、東北の蝦夷との戦いに出発したことを考えても、観音様の可能性は十分考えられます。