『10.19ダブルヘッダー』10周年記念特別対談

『10.19ダブルヘッダー』10周年記念特別対談

あの興奮をもう一度…

 1988年のパリーグペナントレースは、球史に残るシーズンとなった。森祗晶率いる西武ライオンズが終始圧倒的な優位を築いていたが、そこに仰木彬率いる近鉄バファローズが猛追。10月19日川崎球場での対ロッテダブルヘッダー最終戦で連勝すれば、近鉄の優勝が決まるという劇的な結末を迎えた。第1試合は僅差でものにした近鉄であったが、第2試合(シーズン最終戦130試合目)は延長10回時間切れ引き分けに終わり、奇跡の逆転優勝はならなかった。ここではこの近年稀に見る名勝負といわれる『10.19』から10年を迎えたことを記念し、当時を振り返りながらあの時の興奮をもう一度味わいたいと思う。

(98年9月29日収録)

☆10.19がプロ野球に与えた影響
マドロック小林(以下マ)「僕がこうしてパ・リーグにはまって、パ・リーグ同好会を作ってしまったきっかけというのは、最終的に『10.19』に行き着くんですよ。当時僕は中学1年生でまだ球場に通うということを知らなかった人間でして、そんなに野球に対する専門的な見方もしていなかったし、純粋に投げた・打った・勝ったといって喜んでいる状態だったんですけど。あの試合からは野球のドラマ性とか人間模様といったものに引きつけられ、より専門的な見方をするようになりましたね。」
シュルジー檜山(以下シ)「僕も野球の原点というと、あの試合に行き着くんだよね。僕は中学3年生だったから小林君よりは時間的にずれて、少しは野球のことが分かりかけてきた時期だったんだけど、未だにあれ以上の試合には出会えないな。」
マ「全てにおいてドラマチックだったじゃないですか。試合内容からそれまでの経緯から当日のテレビ朝日の採り上げ方やニュースステーションでの久米さんのコメントとか(笑)。そういうのに丸ごと、はまってしまいましたね。」
シ「僕が前々から思っていることなんだけど、昔のプロ野球は『個人』に着目されることが多かったんだよね。昔から名勝負とされている試合は数多くあるんだけど、そういうのはすべて選手個人、すなわちスターが活躍したものなんだ。たとえば天覧試合だって結局は長嶋茂雄に尽きるわけだし、王の756号や近藤真一のノーヒットノーランもそうだし…。でも『10.19』だけは違う。純粋に試合の展開だけに人々が注目し一喜一憂したものって、他にはないんだよね。試合に出ている選手全員がまさに主人公だったと言えると思う。」
マ「逆転・逆転の連続でね…。今だにナンバーのビデオを何度も見返してしまいますしね。あの当時の、ガラガラの川崎球場にあれだけの観衆が集まったというのも意義深いと思いますね。パリーグが息づいていた時代ですよね。」
シ「そうだね。セリーグ中心のプロ野球が確実に変わった一戦と言えるだろうね。特にメディア(テレビ朝日)に出た、というのが大きかったね。」
マ「視聴率もすごかったんですよね(関東で30%、関西で46%)。『純パの会』が盛り上がったのも、あれ以来ですからね。」
シ「まぁ、パリーグ復興の契機となった試合というのは、実は他にも色々挙げられていて、1980年の後楽園球場日本ハム−近鉄最終戦(日本ハム戦で初めて後楽園が満員になった試合)とかあるんだけどね。その中でも『10.19』は別格でしょうね。」

☆メモリアル〜88年10月19日
シ「ここでは、あの日のことを振り返ってみましょうか。」
マ「僕はあの日、中学1年で修学旅行に行ってたんですよ。旅館でクラス全員でテレビを見ていて、まず6時のニュースで『阪急身売り』という話を聞いて愕然としまして(笑)。で、試合が始まって、テレビ朝日が広い度量で中継を入れてくれたわけですよ。それをクラスの連中と熱く語りながら見ていましたね。」
シ「そうそう、あの日は阪急身売り発表と重なったんだよね。」
マ「阪急の身売りは、まったく突然でしたからね。びっくりしましたよ。」
シ「南海身売りもショックだったけど、阪急もショックだったなぁ。」
マ「ま、南海の方は前々から噂が絶えなくて、『報知』がスクープしたりしましたけど、阪急の方は完全に極秘で動いていたようですね。」
シ「俺は阪急ファンだったにもかかわらず、あまりそちらの話を覚えていないんだよな(笑)。試合のことしか記憶にない(笑)。」
マ「そうですね。そういったチームの枠を飛び越えて感動を呼んでしまったということなんでしょう。」

☆森西武を苦しめた仰木近鉄の価値
シ「やっぱりね、『10.19』を支えているものは、当たり前だけど『森西武』の存在なわけですよね。これは僕の個人的な話なんだけど、僕がパリーグにはまったきっかけというのは『打倒西武』だったんだよね。いかにしてあの西武を倒すのか、というのが若き日の俺のテーマだったんだよ。」

マ「当時のパリーグファンは、西武ファンを除いてみんな西武が究極の目標であり、倒す対象だったんですよね。」
シ「あの西武をあそこまで苦しめて、事実翌年優勝している近鉄の凄さは、表現のしようがない。森西武は89年の前後3年間日本一に輝いているんだけど、あの森西武の全盛期に、ちょうど真ん中で連覇をぶった切った近鉄というのはね…。凄いよね。」
マ「あの西武に勝つというのは本当に凄いことですよ。我々のリアルタイムでは、あれが最強のチームなわけですから。」
シ「もしね、仰木近鉄の存在がなかったら、森西武というのは巨人のV9の二番煎じというか、その程度の位置付けしかされなかったと思うんだ。でも『10.19』をはじめとして、仰木近鉄があったからこそ、森西武の偉大さが余計に際立つんだよね。森さんにしてみれば、連覇がちょうど真ん中で途切れているんだから、そりゃ悔しいだろうとは思うけど、逆に森西武の強さを際立たせているんじゃないかなぁ。」
マ「しかもあの2〜3年は毎年のようにデットヒートの連続だったじゃないですか。それで必ず最後に西武が一枚上手で勝つという…。」
シ「それを考えると、今のプロ野球は中身が薄くなったなぁと思うね。緊張感が全然違う。」
マ「今年のパリーグは4チームによる史上空前の大混戦と言われてますけど、結局あの時代からすれば、今は『6弱』にすぎないわけですよ。今のレベルからすれば、当時のロッテですらまともな野球をやっていたと言えますね(笑)。」
シ「それはやはり、『森西武』という目標があるから、周りのレベルもそれを目指して引き上げられていくということなんだろうね。今のパリーグは全体が低レベルで、森西武のような牽引者がいない。それが残念だね。」

【参考:森西武9年間の成績】    
    86年 日本一           
    87年 日本一          
    88年 日本一          
    89年 リーグ3位      
    90年 日本一          
    91年 日本一          
    92年 日本一          
    93年 リーグ優勝      
    94年 リーグ優勝
☆10.19までの経過を振り返る
シ「88年の近鉄は、今シーズンの西武並とも言えるハードスケジュールを、驚異の勝率で勝ち抜いてきたわけです。特に最後は13日間で15試合を消化するという、ちょっと尋常じゃない過密日程だったんですね。」
マ「9月13日時点で西武とのゲーム差が6だったのが、その後7年ぶりの8連勝で一気に1.5ゲーム差まで詰め寄ったんです。実はこの年の6月7日に、主力のデービス(当時打率.303でベストテン7位)が大麻所持で逮捕されるという事件があって、その影響もあって6月は唯一の月間負け越しだった。6月28日には最大のゲーム差8をつけられたわけですから、そこからの巻き返しはまさに驚異的だったわけですよ。」

《参考:近鉄バファローズ88年10月の戦績〜13勝5敗1分》
1日藤井寺 ×0−6(西武)  ×阿波野−谷崎
2日藤井寺 ○10−5(西武)  ○山崎−S吉井、V新井
4日ドーム ○1−0(ハム)  ○高柳−S吉井、V金村 逆マジック14
5日ドーム ○2−0(ハム)  ○小野、V大石 首位浮上 
(※西武が4勝6敗ともたつく間、近鉄は11勝1敗)
7日西武  ×2−5(西武)  ×阿波野−加藤哲 2位転落
8日西武  ×2−4(西武)  ×山崎−木下−加藤哲−石本−吉井
9日藤井寺 ○5−3(ロッテ) 村田−加藤哲−○木下−S吉井、V鈴木
10日藤井寺 ○3−0(ロッテ) ○小野、Vブライアント
    〃  ○7−2(ロッテ) ○高柳−木下、V淡口
11日川崎  ○4−2(ロッテ) 村田−○加藤哲−S吉井、V鈴木
12日川崎  ○2−0(ロッテ) ○阿波野、V金村
13日川崎  ○4−3(ロッテ) ○山崎−木下−加藤哲−S吉井、V新井 
14日藤井寺 ○8−3(阪急)  ○高柳、Vブライアント
15日大阪  ×4−6(南海)  小野−加藤哲−×石本−木下
(※大阪球場最終戦)
16日藤井寺 ○6−4(南海)  ○村田−S吉井、V山下
(※西武全日程終了)
17日西宮  ×1−2(阪急)  ×阿波野
18日川崎  ○12−2(ロッテ) ○山崎−石本、Vブライアント
19日川崎  ○4−3(ロッテ) 小野−○吉井−S阿波野、V梨田
   〃   △4−4(ロッテ) 高柳−吉井−阿波野−加藤哲−木下
《凡例》○…勝ち投手、×…負け投手、S…セーブ、V…勝利打点
シ「いやはや。これは見ただけでもすごいな(笑)。」
マ「5日間で6試合ロッテ戦をやって、しかも全勝(笑)。これにはさすがの森さんも『ロッテよ、いい加減にしてくれ』と怒ったという話です(笑)。」
シ「森さんの著書の中でも、当時のロッテについてはボロクソに書かれているよね。10月のロッテ戦9試合のうち、近鉄は2つ落とすだろうと見ていたのだが、ロッテは1勝もしやしねぇ、と(笑)。」
マ「とにかく『10.19』を影で演出していたのは、間違いなくロッテの存在ですね。」
シ「しかもそのロッテ戦も一ヶ所じゃなくて、藤井寺と川崎の往復だもんな。」
マ「その後大阪球場の最終戦をこなしたりしまして…。最後新井が三振して終わったんですが、これに負けて少し苦しくなった。ま、それでも最後までもつれたのですが。」
シ「こうしてみると、やはり西武との直接対決では負けてるんだね。そこが近鉄の苦しさの原因だろうね。西武球場で連勝した時点で、森さんは優勝を確信したんじゃないかな。」
マ「最後にまたロッテ戦が2日で3試合ですか…。ここまで負けるロッテもロッテですが(笑)。最後の最後に一矢を報いたような印象がありますが、ただ単に引き分けですからね(笑)。結局勝ってないわけですから。」
シ「つくづく『10.19』にはドラマ性の要因が揃いすぎてるね。特に近鉄は引き分けではダメという条件だったのに、ダブルヘッダーの第1試合は9回打ち切りで、延長がないとかね。」
マ「西武が全日程を先に終了していて、あと近鉄次第でどうにでもなるというところもね。それが驚異の追い込みを呼びましたね。そこまでで十分ドラマが作られていましたね。この年は、年自体がドラマチックでしたよ。デービス事件がなければ、ブライアントが入団することもなかったわけですし…。」
シ「そうそう、ブライアントは途中で中日から入ってきたんだよね。74試合しか出場していないのに、ホームランが34本!」
マ「よく仰木と中西が引き抜いてきたと思いますよ。当時の中日は郭源治とゲーリーがいて、ブライアントは二軍で飼い殺されていたんですが、彼がいなかったら『10.19』は絶対になかったでしょうね。」

《参考:近鉄バファローズ88年当時の戦力概観図》
◆レギュラー◆投手◆野手
4大石(先発)(中継)(抑え)(捕手)(内野手)(外野手)
3新井阿波野加藤哲吉井山下羽田ブライアント
7ブライアント小野石本梨田大石新井
Dオグリビー山崎木下……金村鈴木
5金村村田佐々木古久保真喜志オグリビー
9鈴木高柳光山吹石村上
8村上(淡口)安達淡口
2山下吉田栗橋
6真喜志…………
デービス加藤正
谷真佐藤

※解説…こうして眺めてみると、圧倒的に攻撃力重視の『いてまえ打線』と言える。ただ、ピッチャーがやはりコマ不足。先発5本柱が抜けると代わりがいない。現メッツの吉井が抑えで大活躍したのはこの年から。なお、余り知られていないが、伊良部もこの日の第1試合に偵察要員として出場している。

☆10.19第1試合
マ「第1試合はね…、ロッテの先発が当時近鉄キラーとして名を馳せた小川博。この年の小川は奪三振王ですから、小川が唯一輝いていた年ですね。この年まで奪三振王という表彰がなかったんですが、小川は投球回数を上回るすごい奪三振数をマークしていて、勢いがありました。僕は小川だから、ロッテは勝っちゃうんじゃないかとすら思ってたんですけど。」
シ「で、愛甲の2ランでロッテが先制する、と。あのホームランもビデオで見るとフェンスギリギリで、今から考えれば『川崎ホームラン』だね。ああいうのを見ると、愛甲が広い球場だと打てなくなる理由が分かる(笑)。」
マ「89年のオリックスの優勝を阻んだ、川崎での愛甲の3ランなんかもそうですね。佐藤義則から打ったやつですけど、流し打ちでヒョロヒョロ〜と上がってレフトスタンドギリギリ(笑)に落ちたんですけどね。余談にそれました(笑)。」
シ「その後、共に1点ずつを加え、ロッテ2点リードで終盤を迎える、と。」
マ「7回まででロッテが3−1とリードしているわけですよ。このあたりからテレビ中継が始まったと記憶してます。」
シ「その後にまさかあんなドラマが待っているとはね。8回に代打村上の2点タイムリーで同点。で、問題の9回を迎えるわけだ。この試合、とにかく近鉄は引き分けではダメで、勝たなくてはならないのだが、ダブルヘッダーの第一試合は延長がない。だから絶対に9回に点を取らなくてはならなかった。」
マ「しかもピッチャーに牛島が出てきた。当時の牛島はリリーフエースですからね。すべてが困難な条件に覆われているわけですよ。マウンドにはエース、点は取らなくてはダメ。しかもせっかく一死二塁の場面で鈴木貴久がライト前に打ったのに、代走の佐藤純一が判断ミスをして、三・本間でタッチアウトになった…。」
シ「現パ・リーグ審判の佐藤がねぇ(笑)。この試合に代走として出ていたんだよなぁ(笑)。」
マ「ここで点を取らないと絶望的というところで、佐藤とサードコーチャーが致命的な判断をミスをした。ここで終わった、と誰もが思いましたね。」
シ「呆然とする佐藤の表情がね…(笑)。」
マ「あそこはナンバービデオの編集もうまいんですよ。佐藤純一が転んでタッチアウトになって、頬に泥につけながら呆然としている、あの顔(笑)。あれはね、パリーグファンのまぶたに今だに焼き付いてますよ。」
シ「でもまだチャンスは残っていて、場面は二死二塁となった。」
マ「ベンチに戻った佐藤純一が泣いてるんですよ。その中で代打梨田が告げられて…。梨田はこの年限りでの引退が決まっていました。」
シ「その梨田が打った!」
マ「梨田のヒットはかなり詰まった当たりのセンター前でした。本塁ではかなり微妙なクロスプレーになったんですね。袴田がブロックしたんですけど、それをランナーの貴久が必死にかいくぐってね…。で結果的にセーフになって、中西コーチと安達と貴久が本塁で子供のように抱き合っている…。もう人間ドラマとしての野球をすべて表してますね。」
シ「その代打梨田の場面なんだけど、仰木監督が代打を告げるのに少し間があったというエピソードがあるんだよね。僕はこの試合は、仰木さんの良いところと悪いところの両面がすごく出ていると思うんですよ。あそこですぐに代打を告げてしまうとイヤな流れのままで試合が進行してしまう。その流れを仰木さんは断ち切りたかったんだろうね。そういう流れを自分の所に引き寄せる力というか、凄いと思うんだけど、一方で阿波野と心中すると決めると動かさないとかね。ある意味頑固さも持ち合わせてるんだよね。」
マ「スターの使い方はうまいですよね。後の野茂もそうですし…。」
シ「選手の持ち上げ方はたしかにうまい。ただ、それに逆に足を引っ張られてミスをするという場面も、仰木さんにはあるんですよ。」
マ「あの試合、今ではほとんど採り上げられていませんが、最後に阿波野がピンチを招いたんですよね。」
シ「阿波野の使い方はたしかに難しくてね。ああいう使い方(リリーフ)しかなかったのかどうかというのは、今でも疑問に思わなくもないんだよね。これは結果論になっちゃうけど。」
マ「しかしあの場面で他に投げられるピッチャーはいませんね。吉井は審判の判定に切れちゃったりして、それがまたドラマの要素でもあるんですが…。石本ではちょっと苦しいでしょうし。」
シ「最後二死満塁になったときは、どうなることかと思った。まぁ阿波野にしてみれば、無死一塁の場面で山本功児のセカンドゴロが守備妨害と判定されて(※注)アウトカウントが一つ稼げたのが大きかったね。」
マ「最後は森田がスクリューを空振り三振してゲームセット。第1試合終了後、仰木も感動のあまり泣いたそうです。しかし、こんなドラマチックなゲームはないですね。森さんも言ってましたよ。『素晴らしい第一試合を見させてもらって、観念した』と。これは後に石毛も言ってました。」
シ「普通こういうゲームに勝ったら、もう決まったと思うでしょうね。」

※9回裏一死一塁、山本のセカンドゴロでランナーと二塁手大石が交錯、守備妨害と判定されるシーンがあった。もつれた試合を象徴するプレーだった。

☆10.19第2試合
シ「第2試合のロッテの先発は園川。これがまたビデオで見ると若いんだな(笑)。」
マ「園川がローテーションに入って規定投球回を投げたのは、この年が初めてですね。それよりも、近鉄の先発が高柳なんですよ。最終戦の、しかもこの大一番にルーキーを先発させますかね。」
シ「こういうところが仰木さんらしい、思い切った采配だよね。」
マ「たしかにもうピッチャーいなかったんですよね。ギリギリでやってましたから。」
シ「高柳も良かったのは、この年と次の年ぐらいだったよなぁ。」
マ「翌年、西武と優勝を争ったダブルヘッダー(ブライアントの4打席連続本塁打などで近鉄が逆大手をかけた試合)の第1試合でも先発しています。だからこの2年間だけだったですね。」
シ「この試合もマドロックの一発でロッテが先制した。」
マ「よもやマドロックが!よりによってこんなときに打たなくていいのに(爆笑)。ロッテファンの僕ですら憤りを感じましたよ(笑)。僕もこの試合は完全に近鉄側に回って見ていました。」
シ「その後、試合は膠着状態になって、園川−高柳の投手戦になった。」
マ「それまでの、第1試合までの展開を考えれば、もう近鉄が圧倒的な勢いで勝っちゃってもおかしくない感じだったんですけどね。今でも近鉄はその名残を残していますが、まさに『いてまえ打線』でしたから。でも接戦になった…。」
シ「ようやく6回の表にチャンスが来た。一死二塁で3・4番に回ってきたのだが、ここでロッテベンチはブライアント敬遠でオグリビー勝負を選んだ。このあたりは、まさに勝負の分かれ目でしたね。」
マ「オグリビーの打撃フォームがね(笑)。また変でね(笑)。」
シ「当時のスポーツ新聞で、よく『オグリ(=オグリキャップのこと)』という一面が出るもんだから、どうしてオグリビーが一面なんだろう…と不思議に思ったものです(笑)。」
マ「オグリビーもメジャーでホームラン王取ったほどですから、敬遠で自分勝負にはさすがに腹も立ったでしょうね。オグリビーは日本に来たとき、もちろん期待も大きかったのですが、すでに38歳だったんですよ。その割には2年間で打率.306、46本は、よくやった方だと思いますよ。」
シ「で、そのオグリビーがセンター前タイムリーで、同点に追いつく。メジャーのホームラン王というイメージには程遠いボテボテのセンター前だったけど(笑)、やはりあれがメジャーの意地なんでしょうね。」
マ「次の7回表には吹石・真喜志のホームランが出た。どちらも最前列ギリギリの、八百長ホームランでしたが(笑)。これで2点リードとなり、勝ったと思ったんだが、このあと高柳が続投したんですよね。」
シ「で、岡部に同点ツーランを浴びる、と。近鉄にとっては高沢のホームランもそうだが、むしろこの岡部の一発の方が痛かったんじゃないかな。高柳はプレッシャーのかかる試合の先発で、もうこのあたりが限界でしたね。ここで、もし中継ぎで一人良いピッチャーがいれば、吉井まで挟むことが出来たんだが…。やはりコマ不足か。」
マ「で、仕方なしに吉井を投入せざるを得なくなったわけです。」
シ「8回表にブライアントの一発が出た。後に梨田も言ってますが、まさに『これで勝てた!』と思わせる一発でしたね。」
マ「ベンチもこれで決まったと思って、阿波野を投入した。しかし高沢に打たれた…。」
シ「これねぇ、阿波野を責めるのはちょっと可哀想だよね。この場面、ナンバーのビデオで、梨田が配球のことを責めているんだけど、あれは結果論だろうと思うよ。」
マ「あそこは投げた阿波野も、打った高沢も、役者ですよねぇ。またここにもドラマがあって、高沢には首位打者がかかっていた。」
シ「(監督の)有藤ですら、ヒットで良かったと言ってるぐらいだからね(笑)。」
マ「打った高沢本人も回想しているんですが、『二塁ベースでうなだれている大石君を見て、僕まで悪いことをしてしまったなぁと思った』と。で、実際にうつ向いたままでホームインして…。これは高沢さんの優しさですね。」
シ「しかしこれで高沢の名は永遠に記憶されることになったわけだからね。僕はね、あの試合が最終的に高沢の一発に集約されてしまうのは、ちょっと違うと思いますね。あそこに至る過程の全てが、あの試合を作ったわけだから。あの一発だけで『10.19』を語って欲しくないですよ。」
マ「最後の最後で、またドラマがあった。9回裏、古川の牽制死について有藤が猛抗議、9分間試合が中断した。この試合も近鉄は引き分けではダメなのだが、ここで4時間時間切れという壁が迫ってくる、と。」
シ「古川の牽制については、どう見てもアウトだよね(笑)。足が完全に離れちゃってるし、ビデオにしっかりと残ってるからねぇ。」
マ「有藤は、あれは大石が古川の背中を押して離塁したんだと言って抗議したんですが。あそこもニュースステーションで、亡くなった小林さんが『何もこんなところで抗議をしなくても…、もうちょっと配慮をやって欲しい』というコメントをしたそうで。それは近鉄ファンだけではなくて、日本中がそう思っていましたね(笑)。」
シ「あの抗議がなければ…というのは、あの試合を見た全員の気持ちでしょうね。有藤は何を考えていたんだろうね?」
マ「翌日の新聞に、有藤が『近鉄の粘りに讃辞を惜しみません』なんていけしゃあしゃあとコメントを寄せていたんですが(笑)、僕はそれに腹が立ちました(笑)。『お互い恨みっこなしだ』とかね(笑)。お前が言うな(笑)。」
シ「抗議がなかったら、果たして次の回に行けていたかな?」
マ「それはもう『れば、たら』になっちゃうでしょう。引き分けという壁がドラマを生んだとも言えますからね。時間切れ引き分け制を見直すきっかけにもなりましたし。」
シ「非常に空しい結末ではあったけれど、あれで良かったのかなと思う部分もある。あれがあったからこそ、翌年(89年)の優勝があったのかな、と。」
マ「あの2年間というのは、パリーグの存在なり実力を世に知らしめた年でしたね。結果云々を除いて、とても意義深かった2年間だと思います。球史に残る2年間だったことは間違いないと思いますよ。」
シ「そうですね。パリーグが一番熱かった2年間と言えるかもしれませんね。」

1988年パシフィックリーグ最終成績
試合 勝率 ゲーム差
西武  130 73 51 6 .589
近鉄  130 74 52 4 .587  0.0
ハム  130 62 65 3 .488 12.5
阪急  130 60 68 2 .469 15.0
南海  130 58 71 1 .450 17.5
ロッテ 130 54 74 2 .422 21.0

☆10.19を支えた選手たち〜あの人はいま
シ「あらためて『10.19』のメンバーを見てると、10年という月日の長さを感じさせられますね。ここでは、『10.19』を支えた選手達が今どうなっているか、ということに触れたいと思います。」
マ「この日出場した選手で今でも現役なのは、近鉄では阿波野(現横浜)・吉井(現メッツ)・鈴木貴久・村上・古久保など、ロッテでは園川・愛甲(現中日)あたりでしょうか。こうして考えると、少ないですね。新井は仰木に目を付けられて、現在はオリックスのコーチになってます。当時の純パの会が出している本などを見ても、アンケートで『好きな選手=新井』という答えが圧倒的でした。『セでは篠塚、パでは新井』と言われ、玄人好みの選手でしたね。」
シ「先ほども触れましたが、代走の佐藤は審判になりました(笑)。第2試合の最後に投げた関は、広岡に買われて30歳を過ぎてからアメリカ留学をしましたが、広岡と共にクビになりました(笑)。」
マ「ホームランを打った吹石は、吹石一恵の父親です。今や娘の方が有名になってしまいました(笑)。袴田は『ドカベンプロ野球編』で里中を指導したりしています(笑)。」

☆10.19の舞台〜川崎球場
シ「川崎球場については、何かありますか?」
マ「この試合が川崎で行われたというのがね…。日頃閑散としている川崎にあれほど人が集まったのは、『10.19』と村田兆治の200勝ぐらいじゃないですか。」
シ「流しそうめんやったりとか(笑)、『好プレー珍プレー』でお笑いのネタにしかならなかった球場だからね(笑)。」
マ「川崎球場の外野裏にマンションがありまして、『ハウスプラザ』って言うんですけど、『10.19』の時も球場には入れなかったお客さんが屋上に上ったりして、話題になりました。そこに翌年ロッテに入ることになる島田茂(当時日産自動車)の自宅がありまして(笑)、彼はこの『10.19』を屋上で観戦していたんですね。それを見て感動した島田はプロ入りを決意した、という話があります(笑)。島田をプロに入れただけでも『10.19』には意味があったんですよ(笑)。」
シ「島田ごときとは言えね(笑)。」
マ「島田も一時4番を打ったりしたこともありましたから、球史に残る選手ではあったわけです(笑)。現在は郷里の徳島に戻ってしまいましたが。」
シ「今でもアメフトの試合とかで川崎球場に行く機会があるんだけど、あの狭さには愕然としてしまう。よくあんな所でプロが試合やっていたと思うよ。」
マ「グランドの狭さをフェンスの高さで補っているというところがね(笑)。」
シ「マグワイアなら何本打つかな(笑)。」
マ「さぁ…、100本は軽いんじゃないですか(笑)。」

※翌日のスポーツ新聞は、西武優勝そっちのけといった感じで『猛牛、胸張れ!』の文字が踊った。この年、時間切れ引き分けで優勝を逃した近鉄だが、翌89年は見事優勝を飾り、雪辱を果たした。