I Have Been in Torture Photos, Too -- Abu Ghraib is No Surprise to Irish Republicans
私も拷問写真に写ったことがある――アブ・グレイブはアイルランドのリパブリカンにとっては驚くべきものではない

2004年6月5/6日号
Gerry Adams |ジェリー・アダムズ
原文@Counter Punch(英語)

例によって粗雑な日本語化です。
 
筆者のジェリー・アダムズ(Gerry Adams)は,英国・北アイルランド,ベルファスト・ウェスト選出の英国会議員……というより,シン・フェイン党の党首。以下の文は,「シン・フェイン党とは何か」を知らないと,コンテクストがわかりづらいかもしれません。「シン・フェイン党」も分裂などいろいろあってちょっとややこしいので,ご注意ください。


イラクでの捕虜虐待(the ill-treatment of prisoners)の報道は,republican Irelandでは大きな驚きを巻き起こすことはなかった。既に自分たちが見たり聞いたりしていたことだからだ。私たちの中には,あのような扱いを受けたことがある者すらいる。イラクでの残虐行為はごく一部のはみだし者によって行われたことだと何度も言われているが,ここアイルランドではそれが真面目に受けとられることもない。そういうこともまた,私たちは既に見たり聞いたりしていたからだ。しかし,私たちの経験からはっきりしているのは,個人個人は彼らのしていることに特別なインパクトをもたらすかもしれないが,そうする人々は上層部にオーソライズされた尋問を実際に行うという枠組の中で,そうしているのだということである。

例えば,1971年,アイルランド北部における一斉拘留の後に用いられた尋問テクニックは,英軍将校によって王立アルスター警察隊(RUC)に教えられたものだった。誰かがこれをオーソライズしたのだ。「デメトリウス作戦」と呼ばれる最初の一斉拘留では,何百という人々が殴られたり,犬をけしかけられたり,警棒で打たれたり,靴で蹴られたりといったことが,システマティックに行われた。

服を脱がされ,頭に黒い袋をかぶせられた者もいる。袋は光を完全に遮るもので,頭から肩までこれをかぶせられるのだ。壁に向かって四肢を広げて立つと,脚を下から蹴られる。睾丸や腎臓を警棒や拳で殴られ,股間を蹴られる。ベンチに寝かせられ,身体の下にラジエータや電気ヒーターが置かれる。腕がねじ曲げられ,指がねじ曲げられ,肋骨をしたたかに殴られ,肛門に物を突っ込まれ,マッチで火をつけられ,ロシアン・ルーレットをやらされる。ヘリコプターに乗せられ宙吊りにされた者もいた。中空高く飛んでいると思っているが,実は地上5〜6フィートでしかなかった。彼らは常に袋をかぶせられ,手錠をかけられ,途切れることのない高音のノイズを聞かせられていた。

のちにこれはextra-sensory deprivation(extra感覚遮断)であると説明されることになる。これが何日も続くのだ。この過程において,何人かが裸の写真を撮影された。

そして,こういったケースは欧州ではなくなり,英国政府は何千人にも補償として金を支払ったが,それでも拘留者(detainees)の拷問や虐待(torture and ill-treatment)はなくならなかった。ただ,英国政府や英軍,情報機関が,いかにしてそれを行うかについてより慎重になっただけだったし,また,拷問を加える者たちを守り,有罪である者を白日の元にさらすことを非常に困難にするよう法律を改正するよう作用しだけだった。

私は何度か逮捕されたことがある。逮捕の都度,RUCかあるいは英軍の人間たちによる尋問を受けた。最初は1972年,パレス・バラックスにおいてだった。兵舎様の木造の小屋の正方形の小部屋に入れられ,私は穴の空いた板壁に向かわせられた。それをやられると,映像や形や影が(幻覚として)見えるようになってくる。他にも正方形の小部屋はあり,拘留者が入れられていた。彼らも私と同じ扱いを受けているだろうと推測した。後頭部や耳,腰のくびれや股間を殴られているだろうと。数日にわたって,私はこの部屋から尋問室へと往復させられていたのだ。

私を拘留した者たちは,部屋と尋問室を往復する間に,私が誰も見ないよう,また誰も私を見ないよう,非常に念入りに確認していた。私は文字通り,壁にぶつけられ,出入り口に押しこまれた。一度,指紋を押捺するように言われたとき,私の手は無理やりテーブルの上に広げさせられた。奇声を上げ,何かを叫び,明らかに錯乱した,血の染みのついたエプロンをつけた男が,手斧を手にして私のところに来た。

別のときには,私を拘留した者たちは,彼らが自白剤(truth drug)と読んでいたものを投与しようとした。

逆上した男が叫び声を上げながら部屋に入ってきたこともある。その男は銃を取り出し,他の者たちに押さえられつつも,私を撃とうとするかのような仕草をした。

こういったことが起き,その合間に,私は壁に向かって四肢を開いて立たされ,腎臓の辺りや股間や背中,脚の裏側をしたたかに殴られた。殴打はシステマティックで極めて冷静なものだった。怒りは込められていなかった。

パレス・バラックスに拘留されていた間,私は私に対する虐待について,正式に申し立てようとした。私を尋問する者たちはこれを無視し,私が身柄を引き渡されたときには,制服を着たRUCの職員もまた私の要求を無視した。しかし最後には私は拘留施設を出る前に,正式に申し立てをすることを許された。だが,私が書類に記入するために連れていかれると,私の前には何人もの警棒を持った憲兵がいて,私の申し立てを阻止しようとするのだ。どうせ出ていくのだしと思い,私は憲兵たちを無視して書類に記入した。

数年後,私は再び逮捕された。今度は友人たちも一緒だった。私たちはスプリングフィールド・ロードのRUCのバラックに連行された。そこで私は独房に入れられ殴られた。それが終わるときがあるとは思えなかった。私を殴った人々はみな,平服姿だった。イングランドの話し方をしていた。

最初に何発か浴びせられ,私は抵抗したが続かなかった。その後殴打は執拗なものとなり,蹴りも加わり,私はまるでパンチ・バッグだった。手のひらを壁に付かせられ,体を曲げられ,開脚させられて,所持品検査の体勢を取らされた。彼らは私をシステマティックに殴打した。私は倒れこんだ。バケツの水が浴びせられた。服を脱がされ,裸にされた。一度,意識を失い,英軍の軍医に起こされたことがある。軍医は私の腎臓へのダメージについて心配しているようだった。診察をすると軍医は出て行き,そして殴打は再び始まった。ある時点で,頭にプラスティックのバケツをかぶせられた。制服を着た英軍兵士2人と残された。バケツのへりから,迷彩柄のズボンと重たいブーツが垣間見えた。兵士の1人が私の手首に煙草を押しつけて火を消した。もう1人がそれを非難した。

尋問担当者は,戻ってくると,ころっと態度を変えて非常に友好的になっていた。私は服を返されたが,まだ湿っているものもあった。尋問担当者の1人は私の髪を櫛でとかしてくれたほどだ。私はかろうじて立って歩けたが,ひどい傷跡が残っていた。バラックの中庭で私は友人たちと再合流した。私たちは逮捕した者たちと一緒に写真を撮られた。他の英軍兵士たちが,個別に,またはグループで,私たちの横でポーズを取った。この進行をビデオに収めている者さえいた。

このようにはしゃいていることから,私たちは,私たちを捕らえた兵士たちに褒賞が与えられるのだと知ることになる。彼らの話では,私たちは「A」リストに載っており,つまり姿を見たら撃てということだった。多くの連隊が記録をつけており,そこには生きていようが死んでいようが,私たちを見つけた者に与えられるかなりの褒賞が累積されてつけられていた。バラックの中庭のクラック【訳注:craic,アイルランド音楽】から,幸運な者たちがかなりの褒賞を得たことは明らかであった。

という次第で,私たちはしばらく,若く騒々しく元気よい兵士たちと一緒に写真を撮影されていた。私たちの見た目がよかったからというわけではないということを私は確信している。また,ごく最近目にした写真の兵士たちと同じような笑みを,彼らが浮かべていたことも,私は確信している。私たちの写真は公表されなかったが,連隊の博物館とか誰かのワードローブの上とか引き出しの底とかに,私と友人たちと,私たちを捕らえた者たちの写真がある。戦利品は勝者に(To the victor, the spoils)。

ジェリー・アダムズはシン・フェイン党首でベルファスト・ウェスト選出の英国下院議員。

この稿はガーディアン紙に発表された。

 

■註■

・ 「殴打はシステマティックで極めて冷静なものだった。怒りは込められていなかった」という一節が,非常に重たいです。
 
・ジェリー・アダムズがここで言いたいことは,「あんな程度の拷問は昔っからあったし,俺もそういう目にあってるんだから,何を大騒ぎしてるんだ」ということでは決してありません。もし上記日本語がそういうふうに読み取れるとすれば,それはひとえに私の筆力不足です。原文の淡々とした調子には戦慄を覚え,拷問の具体的な描写では私は吐き気を覚えました。腎臓のある場所や急所を狙って警棒で打つ,それも無表情に。ジェリー・アダムズの言いたいことは,そういった非人間的行為が,システマティックに行われているという事実です。体験者としての証言です。
 
・組織的拷問については,「アブ・グライブから中南米へ:合州国による虐待模様の地図が拡がってゆく」(@反戦翻訳団さん)や,「拷問について」「イスラエルもアラブ人を拷問」(@益岡賢さん)などもご参照のほどを。
 
・また,アブグレイブの拷問写真が出た後の5月半ばには,北アイルランドから「俺も同じ体験をした」という記事が発せられています。私のウェブログに紹介記事がありますのでご参照のほどを。
 
・5月にイラクで亡くなったジャーナリスト,小川功太郎さんが,3月(米“民間人”=傭兵殺害直前)にファルージャを訪問したときのレポートが,『月刊現代』の2004年6月号に掲載されていました。占領統治への反発の強いファルージャにおいて,米軍によるイラク人拘束とアブ・グレイブ収監が常態化していたことが,ただならぬ怒りを蓄積させていたことがわかるレポートです。例えば「無実の友達が3人も捕まっている。もう4ヵ月も釈放されていない」といった証言,また,女性に対するレイプがあり,「数ヵ月ぶりに釈放された娘が米兵の子を身籠っていて,毎日死にたいと泣くのを母親が必死になだめているという。身に覚えのない『テロ未遂容疑』で一緒に逮捕された父親はまだ帰ってこない」といった記述,米兵の銃の乱射で生後7日の息子が殺され,自身は『テロ容疑』で逮捕された哲学教師の資格をもつ男性が「刑務所では毎日殴られた」と語るのに,バグダードやラマディーからかけつけた親戚の男たちが真剣な表情で聞き入っているという描写……これに加え,ファルージャは03年にも米軍に攻撃されています(非武装のデモ隊に米軍が発砲)。さらに米軍は学校を占拠し,市民たちを監視下に置いていました。これらの事実がろくに報道されることなく,ただ単に「民間人が襲撃され遺体が燃やされ……」が繰り返されていたのですが,本当のところ,米国のオルタナティヴ・メディア『デモクラシー・ナウ!』でのラフール・マハジャンのインタビュー*にある通り,「怒り」が許容範囲を超えるほどに蓄積されていたのだと思います。ライード・ジャラールさんも書いていらっしゃいましたが,ファルージャ市民のあの行動は,何もないところから発生したわけでも,反米勢力に煽られて起きたわけでもない。ただ,怒りが満ち満ちていた。そしてそれだけのことを,米軍は行っていた。
 
・北アイルランド(シン・フェイン/リパブリカンは「アイルランド北部」と呼ぶ)でも,非武装のデモ隊への発砲,手当たり次第の拘束,拷問といったことが,1960年代末から1970年代にかけてthe Troubles(「紛争」)と呼ばれたあの事態が始まり激化していく時期に,ありました。英国はそれを「失敗の教訓」として学ぶどころか,「隠蔽とごまかしの先例」として利用している。私はシン・フェイン支持者ではないし,ましてやリパブリカンによるイングランドに対する無差別爆弾攻撃(いわゆる「爆弾テロ」)には完全に反対なのだけれど,一方で「IRAは悪い奴ら」という宣伝を繰り返し,英軍やRUC,さらにはそれらに(密かに)バックアップされていたユニオニスト過激派テロ組織の行為を矮小化していた英国には,disgustingの一言です。米国のことは日本でもわりと熱心に伝えられますが(おそらくはその規模の大きさと頻度ゆえに),英国のやったことが米国のそれほど伝えられないからといって,英国はマトモ,ということにはなり得ません。
 

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■お知らせ■
2004年6月に,現代企画室から『ファルージャ 2004年4月』という本が出ます。21日の週に店頭に並ぶ予定です。私(いけだ)は翻訳や語注執筆で関わっています。内容はラフール・マハジャン(米ジャーナリスト),ダール・ジャマイル(米ジャーナリスト),ジョー・ワイルディング(英人道活動家)各氏のルポが中心です。「目撃した」「話を聞いた」だけでなく,現場に飛びこんで,負傷者の救援(動けない人を診療所に運ぶ),住民の避難(銃撃があるエリアから安全圏に運ぶ)といった活動をされています。ワイルディングさんはファルージャ近辺のムジャヒディンに身柄を拘束されています(24時間で解放されました)。元記事はインターネット(ウェブログ)で発表されたものです。価格は1500円(+税)。多くの人に読んでいただければと思っています。

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日本語訳&ページ制作:いけだよしこ@nofrills
翻訳日:2004年6月8日(日本時間)
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