ヤマハ0W53                                                             YAMAHA

 1980年、ケニー・ロバーツは並列4気筒ピストンバルブエンジンを搭載したヤマハ0W48に乗り、3つめの500ccタイトルを手にした。しかし、1980年終盤、その勢いは明らかに衰えており、並列4気筒ピストンバルブエンジンの限界は見えつつあった。そのため1981年に向けてスクエア4気筒の0W54の開発が進められていた。1979年の世界チャンピオンマシン0W45の市販レーサー版のTZ500が80年に市販されたものの、そのシーズン中には将来の500ccマシンは並列4気筒ピストンバルブエンジンでは無理なことが明らかになったことは皮肉なことである。
 
 しかし、その一方、1980年オランダGPで登場した、外側2気筒を後方排気にした0W48Rをベースにした0W53の開発も進められた。これは次の理由が考えられる。

・0W54の開発が順調に進んでいなかった。
・この当時はまだ市販レーサーの競争力があり、市販レーサーに乗ったライダーが上位入賞することも珍しくなかった。日本のメーカーにとってメーカー選手権は決して無視することはできず、メーカー選手権獲得のためには市販レーサーの競争力を高める必要があった。そこで、市販レーサーTZ500と0W54の間を埋めるマシンをヤマハと関係のある複数のライダーに供給する必要があった。

 81年、世界GPで0W53を与えられたライダーは、バリー・シーン、浅見 貞男、Boet van Dulmen、マルク・フォンタン、クリスチャン・サロン、ミシェル・フルチで、シーンはフランスGPから0W54が与えられた。なお、81年日本GPで高井幾次郎が0W53に乗っている。シーン、高井が乗った0W53は他の0W53と異なり、テールカウル等も0W54に酷似しており、おそらく、この0W53は、他の0W53よりエンジン部品等のレベルも上(最新部品の供給等)だったのではないか。

 下は浅見貞男が82年に全日本選手権で使用したマシンで、ステアリングヘッドのフレーム番号の刻印は「0W53-B-○○○」だが、○○○は補強の溶接があり見えない。その代わりにフレーム右側に銘板が貼られ(下右)、新たなフレーム番号4A0-000169が与えられた。なお、「4A0」は1980年型TZ500の機種記号であり、プロトタイプを除く市販型は4A0-000101から始まる番号が与えられていた。

 エンジン番号は4A0-00 o139(4A0-00の後に隙間が空いて小さいoの次に139)。パワーバルブはTZ500の鼓胴型ではなく、ギロチン型。パワーバルブコントローラーの部品番号「0W53 P-11」のPはproductionを表すようだ。

 0W53の特徴の一つとして、モノショックを直接スイングアームが押すのではなく、レバーとロッドを介して押すようになったことが挙げられるが、写真のマシンではレバーの支点はフレームに残っていたが、使用されておらず、スイングアームが直接、モノショックを押すようになっていた。

 1982年の市販レーサーTZ500Jは0W48R、0W53と同様に外側2気筒を後方排気にしていた。そして、0W53フレームは83年の全日本選手権を戦う上野真一、鈴木修、平忠彦に供給された。81年に製造された0W53がそのまま用いられたのか、新造されたフレームが用いられたのかは分らない。
 

 左は鈴木修のマシン、エンジン番号5Y9-000109、フレーム番号4A0-002189、パワーバルブコントローラーの部品番号は0W47S-03。0W45と0W48の間に0W47というマシンが存在したのだろうか?それとも私が見間違えたのだろうか?
 シリンダー、シリンダーヘッドは黒塗りのTZ500のものではなく、アルミの地肌のままのもの。


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