第3章  八咫烏の謎と古文書

      スキタイ系民族渡来説 

         ギリシャ人がスキタイと呼んだ、強大な軍事力を持つこの民族は、北方イラン語系のアーリア
         人種で、ペルシャではサカ族と呼ばれた。インドでは「シャカ」と呼び、西インドに王朝を興した
          。悟りを開いて仏陀(真理を開いた者の意)となったゴータマ・シッタルダは、シャカ族の王子
         だった。黄金文化を持つイラン系サルマタイ人、シルクロード交易商人で仏教徒のソグド人
         もスキタイの末裔である。中国では「塞」とか「烏孫」の名で呼んだ。この部族の一支流が、ア
         ルタイ山脈から敦煌・酒泉を勢力範囲とした「月氏(大月氏)」である。また、モンゴル草原地帯
         を勢力範囲とした、アルタイ系の匈奴族、ツングース族の鮮卑族、朝鮮半島北側の烏桓族、ト
         ルコ系の突厥族などもスキタイ系民族の末裔だった。なおサカは京都の八坂神社の語源とも
         いわれている。 

      シルクロード渡来人=イスラエル12支族とは
          
         ユダヤ教はキリストが現れキリストを神とするキリスト教と一神教であるユダヤ教に分かれる
         。最近ダビンチ・コードなどこの辺がブームである。そしてバビロンの捕囚で戻ってきて聖地
         エルサレム
をはさんで北イスラエルと南ユダに分かれ住んだ。北はガド族を含む10支族、南
          は残り2支族住んだ。聖地エルサレムをはさんで生活するが北の10支族は東アジアに分散し
          広くその血は土地の種族と混血し消滅していった。それがシルクロードを旅した商人の祖先
       
  たちでした。残りの2支族は南ユダに住んでいましたがスペインの方に流れて消滅したと言わ
         れている。

                       ダン族
                       ユダ族(南ユダ王国)これが四国に上陸したらしい
                       セブルン族
                       シメオン族
                       レビ族               
                       ルベン族  弓月王国
                       ヨセフ族 →マナセ族  弓月王国
                       ヨセフ族 →エフライム族
                       ガド族    弓月王国
                       イッサカル族
                       ナツタリ族  日本に上陸していない
                       アシュル族  日本に上陸していない
                       ベニヤミン族(南ユダ王国) 日本に上陸していない
                       
          しかしちょっと待って下さい。異説にユダ族イザヤ阿波にきたという話もあるので
        日本人は南の
ユダの子孫であり得ると思われます。まず北の10支族の相当数の人々
        が何の原因もなく、あとかたもなく消えるなんてあり得ない。それをそのまま信じて現在
        は済ませていることが、そもそも勝手な理屈なんです。そして時の権力者に都合の悪
        い事は隠され嘘の話が流布されて
定説とされるのです。その定説がひっくり返ると損を
        するのは誰かが謎を解く鍵であります。結果から言えば日本人はユダ族の子孫である
        といえる。
総額23兆ともいわれる「ソロモンの秘宝」を守るために阿波ソロモン伝説
        与太話とし興味持たないようにしたのが真相とみました。昔から人間なんてそんなもの
        です。


        この中でのガド族というのが所謂ミカドのカドであるという論を主張するのが猪瀬直樹
        さんです。彼の著書
「ミカドの肖像」に書かれている。この本は建築家・村野藤吾と西武
        堤さんの話が出ているから暇のある人は読むと面白いですよ。


     「えびす」は「タタラ」族

         南方のウル王朝を征服した北方セム人は、バビロンに王朝を樹立(BC2200年)した
        
ハムラビ王は世界最初の法典を作る。
     
         
ヒッタイト人はドナウ河の流域からアナトリアへ移住し、コーカサスへ移住し、コーカサ
        ス山脈を越えて南へ移住。BC1300年頃ヒッタイトの王ムワタリシュは、太陽神への祈
        祷文に「天上の太陽神、人間を導く羊飼いよ!汝は海から帰ってて来た天上の太陽な
         り!わが主たる天上の太陽よ、人の子に、犬に、豚に、草原の野獣に対等真なる汝は
        来る日も来る日も判決を下す。」海から昇るは、ドナウ河を出発したヒッタイトがカスピ海
        の西岸に住んで、その後コーカサス山脈を越え、アサイリアへ来た。探鉱冶金部族がヒ
        ッタイト族で天候神を主神とした。

         オリエントの主神が
風の神「フイゴ」神とし、大型フイゴ(製鉄所)には牛皮がつかわ
        れるので、
牡牛がヒッタイトでは天候神の象徴となった。人類の文明は金属製の農耕具
        によってはじまり、鍛冶師は武器の製造者でもあるという。
エプス・エドムはヒッタイト族
        である
聖職者であった。

         稲飯神社というのがある、その神社を守る稲飯家は別名呼名
「カージャ」である。「鍛冶
        屋」の語源だろうか。また分家は
「イズモ」と呼ばれるものもある。恐らく「高天原は阿波
        だった」「邪馬台国は阿波だった」の仮説も真実性をおびてくる。そしてここで
秀吉が鍛
        冶屋の修行をしていた話と結びついてくる。というのは
放浪の民は出雲からでているか
        らである。
        
    八咫烏の祖先

          神武の東征はバビロニアの侵攻を受けたBC722年頃にエルサレムをバビロンの捕囚以前に
         出発し陸路東方めざした数万人のイスラエル人のボートピープルがサマルカンド、タクラマカンを
         越えて東をめざし日本に到達した。数千人の征服騎馬民族の一集団であった。当時の日本は
         弥生の初期で稲作農業も西日本では漸く平地部にまで降って人口も57万人前後に増加し、群
         雄割拠し小集落の集団が稲作の適地を求めて争いが始まり弥生社会の芽生えの時期だった。
      
         東征軍の総司令官イツセノミコトナガスネヒコの軍団本隊と激戦となり矢傷を受けて敗退し
         大和入りを果たせなかった。弟の神武(イワレヒコノミコト)は兄に代わって再び九州、瀬戸内海
         に棲む宗像海部族の協力をえて海上に出て淡路から阿波に渡り兵力を休め東征戦略の再構
         築を図った。紀の川の河口に上陸し内陸部の大和をめざした再起の東征軍も不慣れな吉野の
         土地に迷い大熊の毒気にあてられ立ち往生し熊野の峻険に阻まれたて苦戦している時「古事
         記」、「日本書紀」
も共に「八咫烏」が道案内したとある。「鴉」は旧約聖書の記録にもある
         ハズ王
の怒りをかったエリヤが深山幽谷(日本の神山)に隠れ棲んだときにエルサレムより4
         0日40夜ソロモンの宝物をひそかにエジオンゲベル港まで運び続けたエブス族を聖書は「鴉」と
         黙示している。     
      
         日本神話は「八咫烏」と黙示している。「トホカミエヒタメ」(南無八幡大菩薩)・「八咫烏」・「八幡」
         →ヤ→ウダ→ユダヤであり「エビス人」が作戦参謀となって先導したことを意味する。東征軍を
         苦難の暗闇から導き出し、すぐれた鉄器の武器、武具の製造、造船、方位、航海、天文にすぐ
         れたエビス人をたたえたものである。


 




































  



































     現代の八咫烏
   
        どうも、
八咫烏の正体はフリーメーソン型日本神道組織のグランドマスターに他ならない
        ようだ。なぜなら
賀茂神社における神道を機軸とする天皇制護持体制はとてもフリーメー
        ソンの組織の構造に酷似しているからだ。どちらも決して正体は分からないようにされて
        いる。国定教科書にも神話としいて出てきているが記録としては古事記と日本書紀に伝
        承として紹介されているにすぎない。そして
光と闇というダブルスタンダードの闇の天皇
        (奥の院)
でもあるのだ。
       
        日本の場合は賀茂神社を頂点に各神社が地区の
ロッジとなっている。それは神社本庁と
        いう役所を元に機能している。天皇制を維持し日本の文化を統制するには格好のピラミッ
        ド型の組織を形成していることである。神社の数はへたするとコンビニよりも多いのではな
        いのか。
    
        フリーメーソンはロスチャイルド家を頂点とする
イルミナルティーである。ローマ法皇です
        ら彼らが決定するだけの権力を擁している。そして日本を中心に両者の暗闘が繰り広げ
        られていると見られる。あたかも天草四郎の時代の再来であろう。天草四郎はフリーメー
        ソンが送り込んだ刺客であったと推定される。

        長崎では天主堂が二つあるそうである。これもキリスト教の旧教と新教の分裂が原因とい
        える。今も昔もキリスト教の異端に対する弾圧は異常なものである。天草四郎は隠れキリ
        シタンでありスペイン・ポルトガルの
マラーノは改宗ユダヤ人として有名である。

     
日本人の定義

        日本のユダヤ支族の使命は世界の崩壊を救うということにある。正義の精神は六十年以
        上経たにも関わらず中国や北朝鮮のしつこい嫌がらせに対して我慢に我慢をかさねてい
        る日本人の原罪に対する自虐史観にある。結局この
自虐史観を大いに利用して利益を得
        ている人
がいるということにすぎない。当然イルミナティーに決まっている。イルミナティー
        と日本のヤハウィーの戦いなのである。各種の本にも良く書かれていることだが、足を引っ
        張っているのが中国、朝鮮なのである。彼らはすでにイルミナィーによって支配下になって
        いる。統一教会、創価学会、ライオンズクラブ、ロータリークラブなど庶民の親睦団体など
        もすでに侵食されている。しかし、最近はよく頑張って抵抗していることが判る様になって
        きている。ただ天皇家のリーダーはユダヤ人だったのだが、原日本人は縄文人であり、ど
        こまでを日本人と呼ぶのかが定義されてない。このことを言っている人が身受けられない。

        日本人の定義とは
ヤハウェーの具現者、真の救済者の使徒であるべきと結論できる。だ
        から世界のため我慢しながら、マゾヒチックにいきているのだろう。奇麗事のキリスト教信
        者のまやかしに手を貸すことの愚かしさに気づいている人は多いのではないだろうか。多
        の民族と混血し単一の民族の定義はもう無理であろうが、
島国ということで他国よりはま
        だメチャクチャではない。日本人の中には原住民として、アイヌもいるが所詮彼等も東南ア
        ジアからの渡来人の末裔だし既成概念をリセットするべきときであろう。下手なこと言って
        いると地球誕生の時代まで遡るまでいかないと納得しない人がでてくるので、
国益を第一
        に考えることが国民の資格であり、国籍を取得する際に宣誓し、国益に反する行為を行っ
        た場合は国外退去が当然であり。とにかくハッキリしなくてはなりませんね。性格や仕事の
        やり方が汚くとも、彼らを国籍を得た以上日本人と認めなくてはいけないでしょう。アメリカ
        がユダヤ人に席捲されたように、日本においては芸能、金融など異民族の侵食は現在もう
        手の施しようがありません。すでに
暗黙の了解である。でも他国から比べればまだ時間が
        あります。奥の院の制裁がどのような形で実行されるか、非常に興味あるところであります
        。右も左も真実にもう一回、目を向けて戦う時でしょう。
   

           当時のことを残した文献には以下のようなものがあり有名である。  

    「竹内文献」

         八十(ヤソ)神とは諸々の神、古事記では大国主の兄弟を指すといわれている。秦野には
         河勝
がきたという伝承がある。また伊勢原市の大山阿夫利神社は雨降りから名付けられた
         とか、アフリカの神を祀ったとかの説がある。伊勢原市郊外にはユダヤの祖モセフ(ヨセフ)
         の墓真磬塚といわれる。これを書いたのが有名な「竹内文献」である。大山一帯は古代の聖
         地だったのではないだろうかと言われる所以である。

          竹内巨麿は新宗教・天清教の開祖といわれ、その本部に皇祖皇太神宮の御神宝として太古
         から伝えられたという宝物や古文書郡が伝えられていたという。その古文書こそ、「竹内文献」
         である。  

         竹内文献とは宮城県の皇祖皇太神宮天津教の館長職である竹内家に代々伝わる神代史の関
         係資料である。その内容は、元始神の宇宙創造に始まり、神々の地球降臨、人種・文明の発生
          、大異変による崩壊などが年代誌的に記されている。これを日本最古の伝承と称した。5世
         紀後半竹内宿禰の孫平群真鳥が漢字仮名混じり文に書き写したものである。「古事記」より
         もはるか以前に成立していた古文献ということになる。

           「若き日のイエス・キリストが日本を訪れ、学び、それを基にイスラエルで教えを説いた」
         と主張しイエスは昇天後、再び日本列島を訪れ、遺言書を書いたことになっている。ここでは十
         字架に掛かったのはイエスの弟のイスキリだとして、青森の十和田で没したとされている。崇
         仁天皇三三年、キリストは陸奥の八戸に上陸し、迷ケ平に居を定めて、弟イスキリの頭髪と耳
         を十来墓に葬った。キリスト来日から六六年後、彼は自らの霊をこめた像を造り、当時越中に
         あった皇祖皇太神宮に奉納したという。

         この文書は神武天皇以前にさかのぼる長大な皇統譜や世界各地を天空浮船(UFO?)で飛び
         回る太古天皇の事蹟など超古代文明に関する史書というイメージが強い。しかし予言書として
         の性質を持つ文献でもある。戦後、岡田光宝が開いた新宗教・真光は複数の分派に別れ活動
         しているが、その教義には矢野祐太郎の予言を介して竹内文献が大きな影響を与えている。崇
         教真光の奥宮のある飛騨位山は竹内文献で太古の神都が置かれたとされる場所である。また
         、その予言に影響を受けたのがオウム真理教である。
  
         地名にも竹の内という所もあり、近くには聖峰という修験の山もあり、さらに伊勢原の隣の厚木
         市岡津古久にはノアの箱舟が流れ着いた伝説があるくらいである。また葦獄山ピラミッド説
          酒井勝軍
により日本で最初に発見されたものである。竹内巨麿は新宗教・天清教の開祖とい
         われ、その本部に皇祖皇太神宮の御神宝として太古から伝えられたという宝物や古文書郡が
         伝えられていたという。その古文書こそ、「竹内文献」である。
          

      「物部文献」

         「日本書紀」神武天皇の条は、神武東征に先立ち、天磐船に乗って大和に飛来したも者があり
         其の名をニギハヤヒ(鐃速日)というと伝える。ニギハヤギは土豪・ナガツネヒコ(長髄彦)の妹を
         娶り、ナガスネヒコと共に神武の侵攻に抗したが、結局ニギハヤヒコを殺して神武に降伏し物部
         氏
遠祖となったという。
     
         河内国哮峰(現在の大阪府交野市私市の哮ケ峰)に天降ったとされる。同地にはニギハヤヒを祀
         る磐舟神社がある。それが定説(「先代旧辞本紀」)であるが、東北地方にあったと伝えるのが
         「物部文献」なのである。
       
         また、秋田の「物部文書」伝承によれば鳥見山の山上、潮の処に降臨したという。この鳥見山
         (トミとよむ)は出羽国の鳥海山であった。逆合川の日殿山に「日の宮」を造営した。これが唐松
         神社
(秋田県仙北郡協和町)であり現在は協和町船岡字合貝の三倉神社として残っている。
         神代文字のアヒル文字草書体、豊国文字が伝わっている。
       
         こうして物部氏は祭祀と軍事の両面から大和朝廷を補佐し、その威勢を振るってきたが、崇峻天
         皇の御代崇仏廃仏戦争に敗れ、勢力を一気に失う。物部守屋の戦死後、守屋の一子、那加
         が蝦夷の地へ落ちのびたことを「物部文献」は伝えている。後に日の宮の神官となる。

         物部の「物」は霊を意味していたらしい。そのなごりは大物主命(三輪山の神)などの神名や
         ノノケ
などの語彙に見ることができる。「物」に関わる部民の長たる物部氏が、シャーマニズ
        
を奉じるのは当然といえる。

      「九鬼文献」
       
         本丹波国綾部藩主・九鬼旧子爵家に伝わった歴史・神道・武道関係文書の総称である。その中
         にはスサノオの姉と、スサノオの娘というアマテラスを挙げ、天皇家は後者から発したとする系
         譜や、ウガヤフキアエズ王朝七十三代の存在が記されている。しかし原本は書写後焼き捨てられ
         たために、書き換えられたことに気付かれたため余り信用されていない。これらは九鬼家に伝わ
         ってきたとされる「天地言文」という古文書によったとされる。

          用明天皇の御代、厩戸皇子と蘇我馬子の神祇殿放火により、「天地言文記録ノ写本ハ守屋ノ一
         族、大中臣ノ一族、春日ノ一族、越前武内ノ一族各保存ス」と記録を残している。守屋の一族とは
         「物部文献」を伝えたという秋田の物部家、武内の一族とは「竹内文献」で名高い竹内巨麿の家
         だろう。

         丑寅(艮)は陰陽道では鬼門といわれ、祟り神の金神が潜む方位とされる。ところが「九鬼文献」は
         その忌まれる神・艮の金神こそ万物の創造神であるという。

         大本発祥の地・綾部は九鬼家の旧領であった。九鬼家こそ大本が興る遥か前から鬼門の神を祀
         っていた家系だという自負があったので、九鬼隆治は大正十年、皇道宣揚会という教団を設立し、
         反大本運動を展開していく。九鬼家側の主張では、世界救世教の岡田茂吉、生長の家の谷口雅
         春、神道天啓居の友清歓真、合気道の植芝盛平など大本を出て、それぞれ一派を開いた人物の
         多くが隆治の下で学んだとされる。九鬼文献で、第二次弾圧で教勢を失った大本に代わろうという
         目論みがあった。ただ当時の体制では「九鬼文献」は大本や「竹内文献」の亜流とみなされた。

          陰陽道を信じた古の王朝人にとって、鬼門への畏怖は具体的なものだった。それは東北の地に
         跋扈する縄文人の末裔・蝦夷のイメージと重なっていたのである。艮の金神とは、王朝人を震撼さ
         せた縄文の神だったのだろうか。「九鬼文献」は、この恐ろしい鬼門の神が、実は創造大成の
         だったことを教えてくれるのである。

     「宮下文献」または「富士古文献」

         郡内地方の旧家・宮下家に伝わる古文書、年代記などの総称である。宮下家は記紀で仁徳天
         に反旗を翻し、滅ぼされたとある大家守皇子の子孫で、現富士吉田市明日見村にかつて栄えてい
         たという神代パンテオン・阿祖山大神宮の宮司家である。阿祖山大神宮はもともと神々が都を置い
         た高天原の遺跡であり、そこには神代以来の古記録が大量に残されていた。その中には、秦始皇
         帝の明で不老不死の霊薬を求めて日本を訪れ、帰化した徐福が神代文字から翻訳した史書など
         が含まれていた。

          しかし、延暦十九年(八〇〇)、富士山の大噴火により、阿祖山大神宮は溶岩に埋まり、史書の原
         本は永久に失われた。当時の大宮司・宮下源太夫元秀は相模国高座郡に難を逃れ寒川神社が勧
         請され、宮下家はそこの大宮司におさまった。平安時代末期、宮下家は相模・甲斐の土豪として勢
         力奮ったという。文献は何度となく当主等の努力により写本を残したが文献が明治十六年、再発見
         された。大正十年「神皇記」として世に問われるようになった。「宮下文献」は「古史古伝」で唯一、
         テキストの現態が判る形で、一般に公開された文献なのである。

      「東日流外三郡誌」 
     
         ここで非常に面白い歴史論争があります。「東日流外三郡誌」です。

         日本古代史の権威である歴史家としての有名な古田先生とこれまた対極をなす先生方の攻防は日
         本の歴史以上に興味深いものがあります。異端の歴史家の原田実氏は偽書であると徹底的に反論
         そして建築家で歴史家の渡辺豊和氏は古田氏擁護に回り歴史学者を真っ二つに割り論争が行われ
         た。小生は邪馬台国四国説が好きなので、どうでもいいやと思っていたが古代史に興味を持つもの
         にとっては一応は知らねばならない事のように感じられる。なかなか渡辺豊和氏は結局著者の秋田
         孝季は湊源左衛門であると断定し東日流外三郡誌は偽書とは思えないとの結論なのである。邪馬
         台国の比定においても、かなりアバウトな数値の羅列には二百か所もの土地が論じられる始末なの
         に、この書はかなりボコボコに批判されているのはちょっと可哀そうな気もするが、実は古田先生の
         人柄がかなりその原因となっているという。同じような話は設計の世界にもあり学者もやはり紳士で
         ないといけないのでしょうね。小説家の高木彬光さんは彼の小説「七福神殺人事件」の中で彼を殺
         してしまっているほど嫌っているのである。