最後の大女優 山田五十鈴

時代を遡る。一九五四(昭和二十九)年二月のことである。銀幕の大スター、山田五十鈴はこの年二月、離婚を発表した。山田にとって五度目の破局だった。相手は俳優の加藤嘉。加藤は日本共産党員で、左翼政党や労働運動が大きな影響力を持っていた時代背景もあるが、俳優同士が離婚するのに「声明」を発表するという仰々しさも手伝って、芸能ジャーナリズムは蜂の巣をつついたような騒ぎとなる。各紙誌は離婚秘話の掘り起こしを競った。山田にも加藤にも「愛人」の存在が噂されたが、二人は「離婚対談」の誌上で否定し、原因は仕事と家庭生活が両立できなかったことと説明し、互いのことを思いあっての「愛情から生まれた離婚」と、円満離婚を演じて見せた。

対談にこんな場面がある。再婚は全く考えていない、という山田の発言を引き取って、加藤が、

「そんなにはっきり意思表示しておかないほうがいいよ。若し新しい相手ができたときに笑われるからね」

 と語るのである。加藤の予測どおり、翌年山田は、舌の根も乾かぬうちに俳優の下元勉と同棲生活を始めることになり、周囲はあきれる。が、それは初めてのことではなかった。それまでも、別れては二度と結婚はしないと言い、すぐに新しい男と生活を始めるということを、山田は繰り返していたのだった。

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二〇〇二年末、山田五十鈴は病の床にある。秋の公演を降板して表舞台から姿を消したのち、二十年以上住み慣れた帝国ホテルの一室を引き払い、都内の病院に移った。八十五歳。「天才」「芸の虫」と謳われ女優として初めて文化勲章を受章した芸能界の巨星は今、病床で一人新年を迎えようとしている。

十二歳の幼さで「活動」という異界に飛び込んで以来、七十年の長きに亘り主演女優であり続けた。そのような人は他にいない。その山田五十鈴は、ゴシップの人でもあった。六度の結婚・同棲を繰り返し、芸能ジャーナリズムを賑わせた男性は数知れない。口さがない人は「男を喰って芸の肥やしにした」と揶揄し、理解者は「彼女はいつも真剣で自分に正直なだけ」と、その「遍歴」を庇った。山田五十鈴とはいったい誰であったのか。彼女の生涯を振り返ってみたい。

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 山田五十鈴は一九三五(昭和十)年、十八歳で最初の結婚をしている。相手は二枚目俳優の月田一郎で、初恋の人だった。山田が主演した映画での共演が二人を結びつけた。山田は一九一七(大正六)年、大阪の生まれ。本名は山田美津。父は新派の役者山田九州男、母律は元芸者だった。生い立ちは後述するが、貧しさと父母の不和のため、寂しい少女時代を生きた。十二歳で日活に入社し、数年後にはスターダムに駆け上っていた。子役ではなく、ラブシーンのある娘役である。娘の稼ぎで経済的に安定すると、父母の不和は決定的となった。一家は離散し、山田は一人暮らしを始める。そのころ、月田と出会った。

 当時の山田は月給百円だった日活から、契約金二万円、月給千円、映画一本につき二百円という好条件で設立直後の第一映画に移籍したばかり。移籍第一回作品は「建設の人々」(一九三四年、伊藤大輔監督)で、この映画で二人は共演した。月田は八歳年長で、離婚歴があった。山田はこの後、「愛の遍歴」を重ねることになるのだが、相手のほとんどは離婚歴があるか、妻帯の人である。

 一人暮らしをはじめた山田は寂しかった。酒で孤独を慰めていた十八歳の映画スターが、共演者に惹かれるのは自然の流れだった。山田は「月田一郎は(中略)早く父を亡くして、やはり孤独な人だった。心に、ふれあうものがあった。おたがいに同情しあい、やがて、熱烈な恋愛に入っていった」(『女性自身』1963年1月21日号)と語っている。

 女優が結婚しては人気が落ちる、と会社も両親も強く反対した。が、山田は、愛し合う二人が結婚してなぜ悪い、女優が結婚して悪ければ女優をやめる、と言い張った。すでに月田との子を身ごもっており、それと知れると、反対の声は消えた。役所に届けただけの簡素な結婚で、月田は山田家の入り婿となった。翌年三月、女の子が産まれた。山田美智子、のちの映画女優瑳峨三智子である。

熱烈に結ばれた二人だったが、幸せは長続きしなかった。美智子誕生後、月田は山田が女優をやめて家庭に入ることを望んだ。山田もそれを受け入れるつもりでいた。が、発足まもなく看板スターを妊娠出産で失った第一映画の窮地を救うため、最後の奉公、これが終わったら女優をやめると月田に約束して出演した「浪華悲歌」(一九三六年、溝口健二監督)が、山田の人生を大きく変えることになる。

「浪華悲歌」は、山田五十鈴扮する電話交換手が父親の公金横領に後始末をつけるため、社長の愛人となったり美人局をして株屋を強請ったりした挙句に、警察の御用になる、という物語である。二・二六事件前後の社会に暗雲が垂れ込め始めた頃の作品で、「汚れ役」の女優を主演に据えリアリズムを追求した、実験的な野心作だった。封切前、京都・新京極の松竹座で試写を見たときの感動を、山田はこう述べている。

「気がつくと、握りしめた掌がびっしょりとぬれていた。(中略)女優・山田五十鈴の分身が、呼吸し、泣き、笑い、苦しみ、もだえ、愛し、憎んでいた。(中略)長い女優生活に、私は、あの試写の夜ほどの感動を知らない。演技の目が、いっぺんに開いた思いだった。」(同)

 作品は好評でこの年のキネマベストテンの三位に選ばれた。欲が出た。月田との約束を反故にして出演した次の「祇園の姉妹」(溝口健二監督)もヒットし、ベストテンの一位を得た。この二作で演技に開眼した山田は女優として生涯を生きていく決意を固める。

 売れっ子の女優業と家事、育児を鼎立できるはずはなく、美智子は月田の実家に預けられることになる。妻は大スターの名をほしいままにしているのに、鳴かず飛ばずの月田は「五十鈴の夫」と呼ばれる始末。収入にも大きな差ができた。月田は荒れる。酒に溺れ、女に走った。

 第一映画は溝口健二監督らが秀作を多く世に送り出したが、経営は芳しくなく「浪華悲歌」封切の年に解散、山田は月田とともに新興キネマに移った。さらに、一九三八(昭和十三)年六月には、東京の東宝に月給二千五百円で引き抜かれ、成城に転居した。月田も東宝に移籍したが、居を移しても生活は変わらなかった。

一九四〇年、ついに山田は月田との暮らしを諦め、浅草に住んでいた父九州男宅に身を寄せた。美智子は月田側が養育することに決まる。二十三歳の決断だった。

のちに山田は月田、そして美智子との別離を振り返りこう記した。

「芸に生きて、悔いはない。この道の深さ美しさにくらべれば、親子や夫婦の情愛などとるにたらないもののように思えるのだ」(同)

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週刊新潮2003年新年号掲載
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