閔泳翊

1860(哲宗11)〜1914。朝鮮末期の文臣・開化思想家。本貫は驪興。字は遇鴻・子相、号は芸楣・竹楣・園丁・千尋竹齋。
閔台鎬の子供で閔升鎬の養子。閔氏戚族の巨頭。


高宗14年(1877)庭試文科に及第したのち閔妃の寵愛を受け吏曹参議を経て、1880年頃には閔氏戚族勢力の少壮領袖となり、1881年統理機務衙門理用堂上・別技軍のヘ錬所堂上を歴任した。さらに壬午軍乱後、朴泳孝に従い謝罪使節として日本に、交渉通商事務として海関事務を交渉するために天津に派遣され、外衙門協弁として外交関係の主要任務を担当した。 特に1883年報聘使の全権大使として朝鮮で初めて米国を公式訪問し、帰国の際には欧州を経由することで新しい見聞と知識を備えるようになった。しかし帰国直後、協弁統理軍国事務・恵商公局堂上・機器局総弁・左営使などの要職を兼職しながら、閔氏勢力を維持することに専念した。結局1884年甲申政変当時、郵政局落成式祝賀宴に参加して重傷を負ってしまった。彼は米国人宣教師アレン(Allen,H.N.)の応急手術でかろうじて命拾いをした。甲申政変以後、彼は親軍右営使・協弁内務府事についで高宗22年(1885)10月に漢城府判尹を暫し務めたのだが、当時清国が直隷省保定府に流配されている大院君を帰国させようとするや、これを阻止しようと天津を訪問した。 このことが意のままになされないとみるや、彼は上海を経由してしばらく行方を暗まして帰国した。1886年政府の親露拒清政策に反対する一方、袁世凱にこれを密告したのち政治的脅威を感じて、翌年内帑金を持って香港や上海などの地を転々として帰国し、統衛使になり、1888年6月錬武公院弁理事務として、学校の運営担当委員になり、韓圭・李鍾健に実務を任せた。 1889年5月外務顧問デニー(Denny,O.N.)とフランス銀行から200万両の借款を契約し、利権回復の資金として使おうとしたが袁世凱の反対で挫折した。ついで判義禁府事、1894年宣恵庁堂上になったが、その後高宗の廃位陰謀事件に巻き込まれて香港・上海などの地に亡命した。その後一時帰国したが、1905年乙巳条約の締結で親日政権が樹立されると再び上海に亡命した。