名古屋近代文学史研究会

研究紹介




「若き日の富沢有爲男(五)」三田聰子

春夫の葬儀の後、春夫に纏わる挿話として、有爲男から春男に宛てた封書について書く許可を求めた長谷川幸雄に、有爲男は伝説としては結構だが、「ほんとうは、こうです」と次のように語った。

「私は、その紹介状と、自作の数編の短編小説を一つの封筒に入れ、自分では先生のところへ行かれないので、佐藤春夫先生のお宅の近くにあつた車宿に行き、車夫に頼んで届けさせた次第です。その中に、青、赤、紫、黄、その他の色紙を入れまして、先生が私の小説を讀んでくださつて、少しでも(よい)とお認め頂いた折は青、全然いけなければ赤、多少讀んでいるとなれば紫、まだ少しも讀んでいないとなれば黄、そのほかにもまだありましたね。それで、いろいろの色紙を同封しておいたのです。さて、お願いした豫定の日になつて、私は、こわくて自分では行かれず、友人に依頼して行つてもらいましたが、友人の報告では、青、赤、紫、黄、その他澤山張つてあるというのです。判斷に苦しみましたね」
(『近代作家追悼文集成[11]』・「音羽九丁目のころ」長谷川幸雄)

他からは傲慢に見えるほど度胸が良い有爲男も、かねてから尊敬し私淑する佐藤春夫にだけは謙虚だったのであろう、奇矯とも思われかねないナイーブな面をのぞかせた。

一方、大正十一年秋、帝展に『題卵圖』を出品し入選。前年秋の『白晝夢林』に続く入選に、余の職業やうやく畫家らしくなりたり。と得意げに記している。

更に、編集兼発行人斎藤昌三の『芥川賞全集 五巻』によれば、大正十二年、『趣味の婦人』の七、八、九月号に、戯曲「南男爵の予審」(三幕)を発表。

ここに至って、ようやく生活にゆとりが出来、大正十一年から十三年にかけて、度々旅行に出かけた。青年にしては少し贅澤過ぎる生活をなせし様に思はる暮らしに、友人知己も一時に増え、あらゆる階級に亘って多くの人と親しく交わるようになった。

小島昴、また、後に同人誌『鷲の巣』の仲間となった坪田穣治、井伏鱒二と知り合ったのも、この頃であった。

大正十三年春、名古屋瓦斯会社社長、岡本櫻の秘書となる。月棒百八十円。有爲男は彼の人格を尊敬していたが、わずか一ヶ月で辞し、代議士に立候補した桐生悠々の選挙運動に馳せ参じた。桐生は、『新愛知』時代の恩師であり、有為男は私財を投げ打って応援したが、悠々はあえなく落選。

夏になりて貧窮我が身に來る。秋に到って一層激烈なり。獨り貧窮に止まらず悲痛なる人事交々至れり

具体的なことは不詳だが、父久蔵は大正九年七月四日付で東海中学を辞任しており、一家は既に名古屋に居なかったのではないか。

同年秋、有爲男は、帝展に『秋風十九谷山』を出品し、落選。

その年の冬、再び上京。

年末より年始にかけて余の人生観に變調を來す所すらあり、進んで出版書肆新潮社に記者として入社す。

とあるように、新潮社に入社した。月棒八十円。一つには仕事によってこのところの憂鬱を晴らし、一つには生活費を得るためであった。

翌大正十四年四月、

遂に身邊より發狂者を出だす、その看病と、社務と、自分自身の仕事とによつて余の肉體は全く綿の如くに疲労せり、又寧ろその考うる餘地とて無き疲勞を望みたる余なりき

大正十四年十月創刊号の同人誌『鷲の巣』に発表した有爲男の作品「兄弟」によれば、同居していた兄日出男が精神に異常をきたし、その看病にあたったと推察される。

「兄弟」は「眼鏡」「葡萄」「煙草」の三部に分かれる。「眼鏡」の文中、

私は畫家書生である。そしてわたしの兄は『醫科大學の卒業期』である。私と彼とは二歳違ふ

という記述があり、事実に近い。当時、兄日出男は東大生であった。

三作品共、それぞれに弟から見た兄の不可思議な行動がリアルに描かれる。ストーリーらしいものは無い。例えば「煙草」の書き出しは次のようである。

この頃兄の寝相が悪くなつた。そして折々譫ごとを云ふのである。大變寝顔が疲勞して見える。

「兄の様子が大分變だ」と私は思ふ。

そして朝も、少し早く起きる様になつたし、私が覺めた時大抵兄は私の枕元にポツネンと座つてゐる。黙つて何か考へてゐる様に見える………自分の寝床丈は綺麗に形付けてゐる………

「兄の様子が大分變だ」と私は思ふ。

「オイ」と寝床から呼ぶ私の聲に何時もこの兄は非常に狼狽して私を眺め返す。そして『破れた紙』の様な微笑を漏らす。

「大變淋しい笑ひだ」と私は思ふ。兔もすると私は薄氣味惡いので、

「寝床丈は殘して置け、私が一處に畳むから………」

さう云つて頼む様にする。そして考へて了ふ………

「兄は事によると…………?」

この年の秋、再び『秋風十九谷山』並びに『白獅子』を帝展に出品するが、落選。

度重なる帝展落選は、自尊心の人一倍強い有爲男のプライドを著しく傷つけた。

余は今日までになん十回となくこの愚しき希望を持つて裏切られたれば、この聖なる勇氣に對してすら今は望みをかけざる也。唯余は製産なき生活を怖るが故に今や斷然總ての絆を絶ち唯一箇の自分に帰つて勉強したき也。

即ち、新潮社を辞す。新潮社に在職したのは一年に満たなかったのではないか。

この時、父久蔵は

リギウの子アカクしてツノあらばショウセンあにコレを捨てんや

と、遥かに電文を寄せる。有爲男は、次のように述べる。

余は今日迄の歩み來りし道が今日に至つて始めてどうやら一通りのものに打ち眺めらるヽ也。少なくとも余は間違はざる道を歩いて来りし也。余は親の愛にも渇せざりき。友情にも不足はなかりき、世間の人は皆余を可愛がつて呉れしなり、しかも余は立派なる藝術の保護を受けたり。余は今迄の何時の自分よりも常に今日の自分が樂み多く微笑み多きを感ずる也。貪婪とも云ふ可き生活慾の湧出は日一日と旺盛になつて來るなり

有爲男は大正十三年春以降、新潮社を辞すまでを不幸な時代と名付けているが、その頃の有爲男を慰めてくれたのは、レミーゾフの『十字架の姉妹』、サビエンコフの『黒馬を見たり』、佐藤春夫の『田園の憂鬱』、シャルルフイリップの諸作、顧之の『女史蔵圖』、雅邦の『猫』、甚五郎の『猿』などの文芸絵画の逸品であった。

また、この夏、常々尊敬していた岡本一平に会う。

夫人かの子から、中條百合子と共に、強い印象を受けた有為男は、会う人毎に、かの子の歌集『櫻百首』、小説『小さな雲』を推奨した。あまりの熱心さに人々は笑ったが、

笑ふ人の方が間違つて居る也。

と譲らなかった。


さて、この辺りで、大正十四年十月に創刊された同人誌『鷲の巣』について触れておきたい。

ここで私が記述しようとする富澤有爲男は、芥川賞作家として、また画家としての彼ではなく、名古屋在住時代の主に文学青年としての風貌である。

ところが、この同人誌『鷲の巣』は東京に於いて発刊され、名古屋と殆ど関わりがない。

しかし、昭和十一年八月、有爲男は牧野吉晴と共に、美術文芸雑誌『東陽』という美術と文芸との接点をねらった雑誌を創刊するのだが、その出発点のありようはこの同人誌『鷲の巣』であり、有爲男を語る上で見過ごせない。

この『鷲の巣』創刊は、未だ新潮社在職中で、丁度、帝展に『秋風十九谷山』並びに『白獅子』を出品したころであった。余の肉體は全く綿の如くに疲労していたのは、兄の看病に加え、同人誌『鷲の巣』創刊に於ける雑事も加わってのことではなかったか。

早稲田関係者が多いが、中心人物は美大中退の有爲男であり、更に付け足せば、同人の佐々木弘之は、東海中学の一級下で、その頃から文学の話を交えた間柄であった。

紅野敏郎氏によれば、この同人誌は、研究者の中でも重視している人は殆どいないという。わずかに『日本近代文学大辞典』(講談社・S52、11刊)に、

大正一四・一〇〜一五・八(?)。現在のところ七冊の発行が確認されている。大正末期のいわゆる同人雑誌全盛時代に、富澤有為男、佐々木弘之らによって創刊された。同人は富澤、佐々木のほか、石田寿一郎、井伏鱒二、藤堂高宣、松岡宮晴、坪田穣治、内山惇一、松本瑞、小林理一、茂手木真志、安中健次郎、浅山清、斎藤泰三、柚秀吉、茂手木真志、鈴木修弐。井伏、坪田らは途中から参加した。

と記されている以外は、高見順の『昭和文学盛衰史』の中にちらりと名前が出てくるだけである。ちなみに、井伏鱒二が同人となるのは大正十五年八月号から。

創刊号の表紙は署名こそないが、有爲男の描いたものに違いない。中央に鷲が一羽、まさに飛び立とうとしている。鷲は淡茶色で描かれ、その下に小さく「鷲の巣」拾月号とある。しかも淡茶色の枠の四隅に、蛇と蛙と豚と魚の小さなカットふうの意匠。つまり鳥の王者鷲と小動物を配した、強さと微小なるものとの共存という心にくい図柄である。編集兼発行者は牛込区若松町一二七の内山惇一。

この創刊号に有爲男は先に触れた「兄弟」を載せる。

編集後記的役割を果たしている「鷲の巣」欄には、正宗白鳥、佐藤春夫、志賀直哉、芥川龍之介、谷崎潤一郎、宮本百合子等の名をあげつつ、つまるところ佐藤春夫への礼賛に落ち着く文がある。これは有爲男と春夫との関係を考える上で興味深い。

『鷲の巣』第二号は大正十四年十一月発行。ここに有爲男は「一夜の知人」を発表。

第三号の発行は大正十五年一月。先に触れた「略自傅」を発表。有爲男が誕生した明治三十五年(一九〇二)から二十三歳の大正十四年までを記している。その稿の終わりに、

余、突然ながらこの稿を終えて直ちに民国上海に行く事となれり、實は今年遊學の爲に欧州へ行く筈なりし多年の計畫破れたれば、その鬱晴らしと見る可き也。半月か一月もしたら帰つて來るつもりなり。(一九二五・一一・一八)

と述べている。

後に有爲男は、フランスに留学することになるのだが、その頃の画書生の常として、早くから渡仏を画策していたことが伺える。


初出

『名古屋近代文学史研究』第160号 /2007年(平成19年)6月10日発行
サイト掲載にあたり、加筆しました。


名古屋近代文学史研究会 URL http://www.geocities.jp/nkbk1970/ メール nkbk1970@yahoo.co.jp

最終更新 2010年3月17日 ページ開設 2008年2月2日 サイト開設 2007年8月5日