名古屋近代文学史研究会

研究紹介




「若き日の富沢有爲男(一)」 三田聰子

富沢有爲男は、昭和十二年(一九三七)三十五歳のとき、『地中海』により、第四回芥川賞をうける。同時受賞は石川淳の『普賢』であった。

選者であり、師である佐藤春夫は後に

「『普賢』『地中海』の二篇を同じく当選と決定になった時には自分は何やら安堵の吐息が出るような気持で臨機に最も適当な処置をとってくれた菊地氏に感謝した

と、弟子の門出に執着した心情を吐露している。

彼の著した著作は多数で、主な作品だけでも『ロンバルディア』、先に挙げた『地中海』、以後『法廷』『法廷弁論』『情死』などの一連の法廷物、及びその延長線上の『許婚』『夫婦』『女房』など。これらは人間の意志がどこまで現実を導くことができるか、その可能性を追求したもので、彼の文名を高めた。また、国策順応の線に沿う危険を含んでいた『東洋』を発表し、言葉と行為と思想の緊密な一致という実践を主張。これは発表とともに激しい論議を惹起した。

この他『愛情部隊』『ふるさと』『白い壁画』『愛の画廊』『折れた相思樹』『これが人生だ』『侠骨一代』『人食鮫』など。少年少女向けの翻訳も手がけ、オルコットの『若草物語』、バイコフの『偉大なる王』などもある。東京美術学校中退の彼は、帝展にも入選、その多才ぶりを発揮した。

富沢有爲男の弟子を自認する寺内大吉氏は、次のように語っている。

若くして絵画を岡田三郎助に学び、のち文学に志を求めて佐藤春夫門へ列した富沢有為男の文業を一言でいえば「青春の美学」ということになりはすまいか。そしてこの青春は勃興期をむかえつつあった日本の青春でもあった。敗戦という挫折でこの勃興期も空しくなり、それ以後の日本は異質な再起の仕方をするのであるが、富沢文学を味読するにあたってこの国が昭和前期で体験した青春を看過してはなるまい。
(『富沢有為男選集』昭和41年1月刊・集団形星)

その生涯に残した著作の数も多く、没したのが昭和四十五年という近年であるにもかかわらず、富沢有爲男の経歴について調べてみるとかなり曖昧な点が多い。私の知りたいと思う名古屋時代の有爲男について、殊にその点が指摘されそうである。

 

富沢有爲男は、明治三十五年(一九〇二)三月二十九日、父久蔵、母アイの三男として大分県に生まれる。

有爲男が同人誌『鷲の巣』に発表した「略自伝」によれば、

兄に不二男日出男あり、姉に富貴子、弟に正男武雄兩名あり

としている。

しかし、『富沢有為男選集』の年譜では、長兄不二男、次兄日出男があることは同じだが、

のちに妹富貴子、弟正男あり

とある。この年譜の略歴関係は、富澤志真氏に提供をうけたと記載されている。

父久蔵は中学校の英語教師をしており、その転勤に従い、明治三十六年夏から四十年夏にかけて、新潟県高田市に住む。

明治四十年晩春、再び父の転勤に伴い、一家は佐賀県鹿島町に移住。

明治四十一年、有爲男は鹿島小学校に入学する。

明治四十五年春千葉県に移住。一家が千葉在住中、有爲男に多大な感化を与えた長兄不二男が館山沖にて水死。父久蔵は代議士に立候補(三回目)するも選挙違反の疑をもって入監、落選。ちなみに、その時の対立候補は福沢桃介であった。有爲男は

千葉と云ふ所が嫌になりたり

と後に述べている。

大正元年東京に移住。一家は落ち着く間もなかったことだろう。

大正二年、父久蔵が愛知県の東海中学校に赴任したため、一家は名古屋市に移る。

私の少年時代、同じ町内に廣津柳浪氏が住み、また、歌人の尾山篤次郎が暮らしたことがある
(昭和32年6月10付『中京新聞』「名古屋時代」)

と有爲男が戦後追想しているところから、廣津柳浪の住んでいた東区新出来町二丁目に居を構えたと推察する。

有爲男は東区布池町三一番地の葵小学校へ転校。

元々有爲男は、佐賀県鹿島町の小学校に入学当初、級長副級長をするほど成績もよかった。しかし「略自伝」に従えば、

三年級頃より余は順次に野生を帯び毎日一二回の喧嘩をなせり。常に身體に生傷の絶えたる事なく(中略)終日家を忘れ學業を怠るの事多かりき。同級の一味十七八名を隋へ短刀、鎌の類を懐中に呑んでよく隣村の子等と闘ひたり、多くは長兄不二男の感化なり。(中略)山に昇りて野宿し、船に密乗して島原に行き、乞食の家に泊まりて蝮に藝當を眺め(この乞食は蝮複数匹を愛養せり)裸足となりて學校に通ひ、袷1枚にて冬を通せり。

隣村の小学校で人を殺害し、有爲男の居た学校に転校して来た男児が、入校早々学校の帰途に有爲男と激烈なる闘争をなし、ついに有爲男の勝利となった。この時有爲男は彼の海軍ナイフで五六ヶ所切られた。この男児は以後有爲男の忠実な右腕となった。

有爲男は

九州の生活五ヵ年は余の大體の性格を作り上げし時也。(略)當じの面影歴然たるもの身體に八ヶ所の傷跡あり。左の小指は常々露はる々所丈に目にたちて見ゆ

と後年、語っている。母親は深く憂えた。


初出

『名古屋近代文学史研究』第155号 /2006年(平成18年)3月10日発行
サイト掲載にあたり、加筆しました。


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最終更新 2010年3月17日 ページ開設 2008年2月2日 サイト開設 2007年8月5日