名古屋近代文学史研究会

研究紹介




矢田津世子ノート(三) 三田聰子

余談になるが、以前名古屋の青鞜の女たちの資料を収集したとき、彼女たちに対する揶揄、嘲笑、侮蔑に充ちた新聞の記事に唖然とし、怒りすら覚えたことがあった。これが現状を打開しょうとする進歩的な女性に対するジャーナリストの一般的な見方かと思っていた。

ところがどうだろう。このインタビュー記事はこれ以上ないほど好意的で、私は作家として立ちたいという津世子さんは希望をツエ伯號飛行船のやうに成功させるだろうと結んでいる。それほど津世子に魅力があり、インタビュァーが好意を抱かずにはいられない女性だったということだろうか。

『青鞜』が、反良妻賢母の旗印で社会基盤そのものを揺るがしかねない危険思想と解されていたにしても、この扱いの違いには、また違った意味で驚かされる。

また、先に触れた「名古屋講演會記」の載った『女人藝術』三月号には、津世子の小説「嗤ひを投げ返す」がはじめて掲載された。

この小説は、夫が職場で怪我をして働けなくなった三人の子供を持つ女性が、周り人の嘲笑をはねとばしながら娼婦として働き続ける暗い話である。

おきぬは井戸端へ出る度に四方八方からの嘲笑を浴びた。彼女は握りしめるポンプの柄が、人々の嗤ひの中でブルブル顫へるのを感じた。裾からはみ出た赤い蹴出しに、八ッ口の綻から覗く温かい乳房に、前身頃の點々とした汚れに、無數の非難めいた冷たい眼を覚えて、總身の寒気立つの止める事が出来なかつた。(略)

「インバーイ」

子供達は、尻上りの名な單語を叫び乍ら、大人達の嗤ひの前に立つて、おきぬの家に投石した。

何と蔑まれようと、こうするより他に親子五人生きる術の無いおきぬは、

人々の嗤ひの礫の中に悠然と立つて、何時もかう叫んでゐた――

「嗤ふがいい。存分嗤ふがいい。お前さん達のその嗤ひに一々應答してゐたら私達あ飢え死んでしまふよ。私達は食つて生きたいんだ。食ふんだ。食ふんだ。」

決して秀作とはいえないこの作品が、『女人藝術』に掲載されたのは、女人藝術名古屋講演會における津世子の大働きと無縁ではないだろうと『花蔭の人』は書いている。

そして、この小説にとどまらず、津世子の左翼小説全般に対しても、『花蔭の人』は手厳しく切り捨てている。若い娘が頭で考え出しただけのもの文体の、肩肘張ったつきとばすような調子も津世子の独創ではなく、『女人藝術』の同人に共通した傾向ですべて型通りで文壇の流行に盲従しておりマニュアルに沿って書いた模倣品であると。

たしかにプロレタリア文学運動、失業問題をかかえた時代の雰囲気にまきこまれ、まだ足が地に着いていない感は否めない。しかし、津世子の頭で考えだしたといわれる小説の、真実を掴むためのフィクションの底流にあるのは、社会の矛盾に対する怒りであり、正義感だったのではないか。

晩年の作品にみられる安らぎにも似たきめ細やかな文体とは異なるものの、虐げられ、打ちのめされた庶民の怨念がやりきれないような怒りをこめて描かれている、と私は評価したい。

また昭和五年三月には名古屋の同人誌『第一文學』が誕生した。

この『第一文學』に津世子が参加していたことは、『花蔭の人』の著者近藤富枝も言及しているが、この同人誌と彼女との関わりについては、紅野敏郎氏が『国文学鑑賞と研究』に「〈連載〉逍遥・文学誌(34)「第一文学」――名古屋時代の矢田津世子」と題して、詳しく書いている。

それによると昭和初期の名古屋の雑誌として、私は「第一文学」をあげておきたい。それには矢田津世子に名古屋時代という時期があったからにほかならぬと書かれてあり、

高見順の『昭和文学盛衰史』のなかにも「『女人芸術』は地方に支部を作ったが、支部のあったそれぞれの都市で、その頃『女人芸術』派の花形だった人に、名古屋の矢田津世子、広島の太田洋子、神戸の高橋鈴子がいる」と書かれているが、「第一文学」を点検してみると、『女人芸術』のみではなくて、「第一文学」にもそれなりの力を入れようとしていたことがわかる。矢田津世子は『女人芸術』で浮かれすぎ、背丈の合わぬ仕事には不向き、というさめた自覚をどこかに秘めていたように思われる

と、津世子が『女人芸術』と共に、『第一文学』に対しても、肩をいれていたことが、はっきりと指摘されている。

では、『第一文學』とはどのような傾向のものだったのか。

『第一文學』が、名古屋時代の津世子を知る上で、『女人芸術』と共に貴重な資料であることはいうまでもないが、前述の紅野敏郎氏の「第一文学」――名古屋時代の矢田津世子」には、『第一文學』の、第六号(昭和五年八月十一日)まで確認と記してあるにもかかわらず、私が直接手にすることができたのは、昭和六年一月一日発行のもののみである。

残念ながら、これから先も『第一文學』を散見する機会はきわめて厳しいと言わざるを得ないため、紅野氏の文章を借りて『第一文学』の内容を紹介することで、名古屋時代の津世子を探ってみることにする。

それによれば、創刊号は、半紙を袋綴じにした、謄写版刷りの、四十四ページの奥付きもない小冊子である。表紙の上方に「第一文学」、その中央にモダンガールを思わす女の顔のスケッチ、その下方に「1930・3・1」とある。謄写版刷りとはいえ、なかなかしゃれた意匠である。その刷りかたも一人の手で行われ、丁寧で判読十分、きれいなしあがりなのである。巻頭は山辺淡吾の評論「美人論」。それにつづいて稲葉清雄のコント「トリック」、S・M生の「レッド」。さらに山辺淡吾の読書後感「ギルヘルム・マイスターに就いて」。末尾に小島秀雄の小説「海草」、豊島義子の「義兄に寄せて」、稲葉清雄の「お天陽様とビジヤマ」、トーマス・ハーデイ作、鈴木篁風訳「萎びた腕」が据えられている。文学史的に名の通った人は一人もいないが、当初は山辺淡吾と稲葉清雄が推進の中心だったらしい。

ところが第二号(奥付に年月日付なし、しかし四月ということはわかる)になると、堂々とした活字版になり、表紙も「THE FIRST LITERATURE」「四月号」、「第一文学」「No,2」と朱黒の二色刷となる。

この第二号の「巻頭言」はプロレタリア文学運動、失業問題などを抱きかかえた、いかにも「一九三〇年」らしい内容だが、しかし地に足がついている、真の肉声とは思えないと紅野氏は述べ、「編集後記」においては、

一般社会文芸雑誌は殆ど、その内容はブルジヨア意識濃厚であるため、我々インテリゲンチヤ、サラリーマン階級に機関紙ではない、此処に第一文学はインテリゲンチヤに対する、警告として社会問題が雑然としている中より一般、社会人の叫ばんとする、文学、哲学、宗教に於いて、第一級として立ちたいと思ふ

と記されている。この号でも稲葉清雄や鈴木篁風が寄稿しているが、編集発行人の外山俊夫なる人物については未詳とあり、

第三号(昭和五年五月十三日)に至って、はじめて「第一文学」同人として、「南条哲夫、嶺思外雄、稲葉清雄、藤木謙」の四名の名が列記され、編集兼発行人の外山俊夫、発行所の住所は、名古屋市東区平田町二一ノ一大矢方に変更。)

第四号(昭和五年六月八日)に至ってはじめて矢田津世子が登場する。(中略)

カットは小島秀雄や藤木謙が担当。同人は一人去って稲葉清雄、藤木謙、嶺思外雄の三人。編集兼発行人も青山輝光(名古屋市東区平田町二一ノ一大矢方)。一貫して稲葉らが中心だが、投稿も大いに歡迎していることがわかる。津世子の参加を喜ぶかのように「編集後記」にはそのことを誇らしげに書き、「新しい生活目的意識に目覚めて元気に戦線を切つた朗らかな女性とインテリゲンチヤとしての弱みを完全に?み出された男性との会話」と要約している。津世子に並んでチエホフの翻訳をした守山不二郎が兄の筆名(故郷秋田の五城目野山、森山とだぶらせている)である。

この津世子の「春光を浴びて」は(三〇・三・二六)の執筆、「女人芸術」発表の作品と比べてみると、ホンネはこちらのほうに顕著、といい得るものだ

とある。

以上の紅野氏の記述から、地元に発祥した『第一文学』第四号に於いて、輝かしく登場した津世子が、この同人誌に自分の発表の場を見出し、力を入れようと試みたことが伺われる。

ところで紅野氏は、前述したように第四号(昭和五年六月八日)に至ってはじめて矢田津世子が登場と記している。

しかし、『矢田津世子全集』に付してある年譜によれば、昭和五年五月、「アンナ」(創作)が『第一文學』に掲載されている。おそらく第三号と推察する。

この矛盾はどう解釈したらよいのだろうか。

ちなみに「アンナ」は、亡命ロシア女性のソビエト革命への共感を描いたものだが、それはそのまま津世子自身の思いであろう。

また、この年譜には、六月の「春光を浴びて」と同時に「午前三時の会話」(創作)が発表されたとあるが、紅野氏は「午前三時の会話」については、何も触れていない。採り上げるまでもない作品だったのか。

続いて紅野氏は、次のように紹介している。

第五号においても矢田は、コント「不快を買ふ」と小説「多忙の唇」の二本を寄稿しており、この「多忙の唇」は

主人が留守という当時の有閑夫人の一人しゃべりの作品だが、ここにはごった煮のかたちの多忙を語りに語る器用な技巧、その手腕が読みとれる。末尾は「今日だって、奥様これから村瀬様を訪問し、夕方の六時十八分の汽車でいらつしやる本部の方をお迎えして、夜は夜で茶話会でも催すつもりですわ。支部のリーダーをしてゐると、繁雑な仕事も多くてね。明日は支部の名で改良クラブで本部の方を主賓に晩餐会。明後日は支部の人達だけで内輪の懇談会。それが済むと同時に、夜行で上京しなければならず、演説会の下準備の打ち合せもありますし、兼光様のところでお茶の会もございますしそれにね、主人の母が、危篤だという電報が先刻きたんですの、主人を電報で呼び戻して、一緒に博多迄帰らなければならず、忙しくて、忙しくて」で(完)となっている。

紅野氏はこの作品について、

今日でもそのまま通用する都市居住者の光景でもあるが、此の種の女性の内側を透視する力が、矢田には徐々に備わって来たといってよかろう

と評価している。

またこの号で行われている「月評」(T・Y・M・S)のなかで、津世子の「春光を浴びて」は

今迄のプロレタリア文学が素通りして来たサラリーマン階級の機構暴露であるだけに無理がなくて効果的だと思った

とほめられている。


初出

『名古屋近代文学史研究』第146号
サイト掲載にあたり、加筆しました。


名古屋近代文学史研究会 URL http://www.geocities.jp/nkbk1970/ メール nkbk1970@yahoo.co.jp

最終更新 2010年3月18日 ページ開設 2008年4月8日 サイト開設 2007年8月5日