名古屋近代文学史研究会

研究紹介




「矢田津世子ノート(一)」三田聰子

「矢田津世子をやってみませんか。津世子の評伝を近藤富枝が書いていますが、名古屋時代が抜けているんです」

当会員のKさんから、そんなお話をいただいた。矢田津世子については、その名前すら知らなかった。

早速、『矢田津世子全集』(小澤書店 H1年刊)を読んだ。

小説に関して個人的な好みをいえば、私は恋愛ものが苦手、幻想的なものも読まない。どこかに生活が描かれていなければつまらないのだが、矢田津世子の小説を読んでみると、生活があり、加えてユーモアがある。いままで津世子を知らなかったのが驚きだった。

例えば、昭和十一年に芥川賞候補になった『神楽坂』は、多くの人物の心理が陰翳深く描かれた、味のある作品だった。ちょっと古めかしいけれど、さすが武田麟太郎が激賞し、川端康成に手堅い人と言わしめただけのことはあると思う。

また、『茶粥の記』は、普段あっさりした茶粥を何より好んでいた亡夫が、本当は食べたこともない料理を、何処かで聞きかじったり活字で読んだりした話に想像の翼を与え、まことしやかにさも食べた風に語り、世間には食通として知られていたという話。 妻の視点からそんな亡夫の思い出を描いた、面白い作品だった。

続いて、津世子の評伝、近藤富枝著『花蔭の人 矢田津世子の生涯』(講談社 S53年刊)を紐解いた。

なるほど「名古屋の津世子」のタイトルの項は、近藤富枝が東京在住である故か、かなり大雑把で、なによりも作品についての記載が少ない。

しかし、津世子が東京から名古屋に転居した昭和二年、

兄が妹をうながし、津世子の文学修業がスタートし、やがて新愛知、名古屋新聞などへの投稿となってあらわれた

と、名古屋が津世子の文学の出発点である旨が書かれており、一度詳しく調べる必要があると感じた。

年譜によれば、津世子が名古屋で暮らしたのは、昭和二年四月から同六年一月頃までの足掛け五年に過ぎない。

だが、その間、習作を地元の新聞や同人誌、長谷川時雨主宰の『女人芸術』などに発表し、昭和五年十二月には、「罠を跳び越える女」が『文学時代』の懸賞小説に当選する。

この当選により、津世子は作家として立つ自信を深めたのか、 間もなく、次兄と母を名古屋に残したまま、友人を頼って上京する。

いずれにせよ、『花陰の人』にも述べられているように、名古屋が矢田津世子の作家としての原点であることはあきらかだが、以下、津世子について、この時代に書かれた作品を中心に、その足跡をたどってみたいと思う。

矢田津世子(やだつせこ)は明治四十年、秋田県南秋田郡五城目町に生まれた。父、鉄三郎は町の助役で、後には郷土史編纂委員も兼ねている。文筆に親しむ質だったと思われる。

津世子九歳のとき、一家は上京し、市内麹町に居を定めた。彼女は、大正十三年、麹町高女を卒業。翌年、日本興業銀行勤務。同年七月、父の死により、一家を支えるべき長兄が病弱の上、家族を抱えていたために、次兄不二郎が母と津世子の面倒をみることになった。

不二郎は官史への道を進みたかったが、家計を支えるために諦めた。『花陰の人』には、このことが後になって、津世子に大きな影響を与えることになった、と語られている。

昭和二年四月、不二郎は、勤務先である日本微兵保険(後の大同生命 後年、彼は社長になる)の九州の支店から名古屋支店に転勤になった。それを機に、津世子は母チエと共に、それまで住んでいた東京市外野片町上高田二一六から、名古屋市東区千種町丸田九十三に移った。津世子二十歳の時である。

文学青年で、文学への造詣も深かかった不二郎は、津世子の中にその才能を認めると、自分の夢を注ぎ込んだ。

『花陰の人』には、津世子と不二郎の関係が、次のように記されている。

自分と同じ芽が、妹の中にも、息づいているのを発見すると、彼は思わず、
「燃えろ。作家になれ。そうしたらおれなんぞどうなってもいい。がんばるんだ、津世」と叫んでいた。(中略)彼は妹のために読書をし、口移しに餌を与える燕のように、妹にその甘味を吸わせた。(中略)「お前がやれ。ボクの代わりだ」

兄不二郎の、こうした熱い思いが、津世子の書く原動力となったにちがいない。

昭和四年八月十九日付の『中央新聞』に、津世子は処女作「黄昏時の感情」を発表した。原稿用紙二枚半ほどの小品。二十二歳のときである。

ちなみに、『中央新聞』は東京で発行されていた小新聞で、その前身は、絵入朝野新聞。なぜ津世子が『中央新聞』に発表したのか、誰かの推薦によるものか、不詳である。

彼女は私生活を書かなかったといわれている。しかし、この作品には、当時の津世子と不二郎を思わせるものがある。

(略)妹は無口な兄の細い横顔をそつと眼で撫でた――。その兄の、餘にも高い頬骨と、その影になっている急傾斜の、頬から顎へかけての線を、妹は痛む心で見続けた。彼女はさうせないではゐられなかつたのだ。そして、兄から窃と眼を離すと、彼女は悲痛に窒息しかける心を自分で持て餘した。兄を慰めたい衝動が、その言葉を彼女は自分の胸の裡に捜した。その胸の上を、尻尾の長い赤い感情の虫がピンピンはねて踊つてゐた。

これは黄昏時の感情である。

(中略)兄の眼に、妹を劬る感傷の波がほのかに揺れる。そして、久しくみせなかつた微笑を、ほんのちょつとの間、兄はその眼に浮べた。斯くて無言の表情が妹へ語る。

「ね、からだに毒だよ。行つておやすみ。俺のことなんぞ、心配して無理したつて、今更何にもなりやあしないんだからね。」

兄は、失恋したのだった。妹は何も打ち明けてくれないことを悲しく思う。兄に何か慰めの言葉を囁きたかった。

妹は限りなく兄を愛していた。兄の行く処へは、風のようについて行き、兄のとどまる処へは一緒にとどまっていたいと思う。

「これも黄昏時の感情――感傷かも知れない・・・・・・」

ここで「黄昏時の感情」は終わっている。

この作品について津世子は

当時、よみなれてゐたピエール・ルヰの作風に刺激されたものであつた
(『婦人公論』S8年 笹本寅著「女流作家・世に出るまで」)

と述べている。

多彩な言葉に満ちているが、兄妹愛のやりとりをさりげなく描いただけにとどまり、格別の感興も起こらない作品である。

さて、作家への出発点であった「名古屋の津世子」を語るのに、『女人芸術』とのかかわりを触れねばならない。

「黄昏時の感情」が掲載されて間もない昭和四年九月一日、『女人芸術』名古屋支部が設立された。 津世子はこの設立に参加する。

岩橋邦枝著『評伝・長谷川時雨』によれば、『女人芸術』は長谷川時雨が主宰し、昭和三年七月創刊された女性のための思想文芸誌である。時雨は女性を世に押し出したかったと後に語っている。女の発表機関も少ない時代だった。

時雨はまず、生田花世に協力を求めた。 花世は才女であり、迫力のある文章を書いた。また、庶民的なタイプの世話好きで、人のために親身な労を惜しまない性質だった。

発表の機会に恵まれない女たちが、時雨の『女人芸術』へ馳せ集まった。初代編集長は愛知(鳳来寺山)出身の素川絹子であった。

『女人芸術』は、創立一周年をひかえた春、全国規模の「女人聯盟」を発足させ、読者が五人以上の所に支部を設ける組織をつくった。

名古屋支部は昭和四年九月一日設立され、その様子は、『女人芸術』の付録であった『女人大衆』(昭和4年10月号)に次のように記されている。

かねて支部設立準備中であった名古屋市の準備会では九月一日午後一時から、名古屋市西区本町名古屋城前松影館棲上に於いて発会式を挙げました
主として文学上の研究、毎月第三日曜に集まって各自作品を持寄り検討する
事務所は、名古屋市東区下飯田南出六九、萩岡ちさ子氏方です。

名古屋支部のメンバーは十五名。初代幹事は『社会詩人』同人の萩岡ちさ子であったが、津世子は、彼女と

張り合つた
(『名古屋近代文学史研究』第20号「西尾紅二の周辺」)

と言われている。

明治四十四年設立の青鞜社名古屋社員が、東京に次ぐ多数(正社員五名、補助団員一名)であったことからも伺えるように、名古屋は女性自身がよりよい文化と向上心を求める気風が強いのだろう。『女人芸術』名古屋支部も、いち早く設立した福岡支部に次ぐスピードだった。

「女人聯盟」は、さらに講演旅行を行い、国内各支部との連帯と女人聯盟員の拡充をはかった。林芙美子たち若手作家を中心に数人ずつグループになって各地方へ出かけ、講演に日本舞踊や独唱を加えたプログラムは、どこへ行っても好評だった。

十月には生田花世が、講演のために支部が出来たばかりの名古屋にやって来て、六日間逗留した。『花蔭の人』によれば、津世子は宿に通って花世の世話をしたという。

花世は、そのときの様子を、『女人芸術』二巻十二号「名古屋女人聯盟會記」に書いている。

女人聯盟の小會が十月九日の夜、名古屋城前の松蔭閣楼上で開かれた
矢田津世子氏は小説の方へと志して、この頃ずっと勉強中の人である

さらに

萩岡氏と矢田津世子氏とともにこもごも語るにはこの名古屋には文藝を解しない人が多くて大分やりにくいんです

津世子にとって、名古屋は住みにくい土地柄であったらしく、同じような不満を折に触れて漏らしている。

花世が帰ると、入れ違いに林芙美子が講演に来た。芙美子は二十六歳。すでに「放浪記」を『女人芸術』に掲載していた。

好評のうちに講演が終わり、芙美子を東京へ送り出した夕方、津世子は、当時プロレタリア作家として活躍していた林房雄と片岡鉄兵を迎えた。このことについて、『花蔭の人』には、

これは二人が京都ホテルにいるのを知って、津世子が電話をかけて誘った

と語られている。

津世子のこうした一面は、私には理解し難いところなのだが、彼女が作家として世に出るためには、このような人たちと知り合っておくのも必要だと考えたのだろうか。

確かに、当時、女性が作家になるためには、著名な作家の夫がいるか、師と呼べる力のある作家が身近にいて、彼らを通じて世の中に作品を発表するか、あるいは、懸賞小説に応募して当選するしかなかった。

すでに作家として活躍していた田村俊子には、のちにそのもとを離れたとはいえ、幸田露伴に師事したことがあり、中条(宮本)百合子は母親の知り合いの坪内逍遥の口ききで「貧しき人々の群」を『中央公論』に発表した。吉屋信子や宇野千代は懸賞小説に当選し、作家となった。


初出

『名古屋近代文学史研究』第144号
サイト掲載にあたり、加筆しました。


名古屋近代文学史研究会 URL http://www.geocities.jp/nkbk1970/ メール nkbk1970@yahoo.co.jp

最終更新 2008年7月30日 ページ開設 2008年3月1日 サイト開設 2007年8月5日