西宮・学びの会


西宮・学びの会のホームページへようこそ。
学びの共同体としての学校づくり、授業づくりに向けて、参加者が互いに学び合える会にしたいと思います。学びを中心とした授業(学び合う学び)づくりのために、授業実践ビデオを持ち寄り、子供の学びの事実から学び合いましょう。(2012年4月)

2017.10.6更新

【次回の日程】  第56回  2017年11月2日(木) 19:00~21:30頃
          
            
                

【会場】 プレラにしのみや内 西宮市立中央公民館   階    集会室(部屋は、毎回変わります)

      西宮市高松町4-8  TEL 0798-67-1567

      阪急電車「西宮北口」駅 南へ徒歩3分 地下に有料駐車場有り 近くにコインパーキングもあります

【次回の内容】  2年 算数「        」

【会費】 会場費等として、500円いただいています。

【講師】 小畑 公志郎 先生(元宝塚市立小学校長) 

【代表】 岡田 行弘(元西宮市立甲東小学校) 松野 一郎(西宮市立春風小学校)

【その他】どなたでも参加していただけます。授業ビデオを見ながら、参加者の皆さんから感想をうかがったり、講師の先生にコメントしていただいたりしています。

【参加申し込み・お問い合わせ・授業ビデオ提供希望連絡】 こちらをクリックし、お名前・所属をご連絡ください。(参加は、申し込みなしでも歓迎です)

【これまでの活動報告】

【申し訳ありませんが、活動報告は一時的に控えています。】

2016年10月27日の活動報告。1年算数 「たしざん」(小畑先生の話)

・とても良いところがあります。最後に言います。
・確かにやかましい。どうしてかというと、最初に教科書の問題をやっていたから。子供たちにとってはやさしい。最初のプリントも難しくない。やさしいやさしいときているから、収まらない。
・ペアはいい。全体的に、隣といい感じでやっている。そうすると、かなり高いレベルまで挑戦できる。
・誰かが前に出て話をする時に静かになる。あれはとてもいい。
・座席表に、「聞くのが難しい」などと書いてあることがある。これは、一斉授業を想定して書いてある。その発想自体が間違っている。なぜかというと学びの中心は一斉授業にはないから。
・最大のポイントは、一斉授業のようになっている時間が短い。これは最大のいいところ。ペアやグループをやっていても、授業のメインは一世授業だと思っている先生がたくさんいる。
・一斉授業が長くなると、話を聞かない子が出てくる。これは、先生の責任。子供たちは、一斉授業が短いのがわかっているから、途中で止められてもパッと静かになれる。そしてまたすぐペアに戻れる。そういうところがとてもいい。
・一斉授業で、5人も6人も続けて話をさせない。
・算数で、「これができてからこれ」という発想がある。その発想を疑ってかかる必要がある。例えば、繰り下がりのない引き算よりも先に繰り下がりのある引き算をする学校もある。それで成果が上がっている。そうすると、それまでの常識はどうなのか。
・難しいところから入って、やさしいところに戻っていくという発想。すでに実践例がある。



2016年9月23日の活動報告。1年国語 説明文「くちばし」(小畑先生の話)
・ペアの時が良い。一人でできる子もいるが、隣とするからなおよい。
・文章の中身について。並べ替え。無理がある。写真がポイント。写真なしで並び替えは無理。「これは・・・」の「これ」は、実質的には写真を指している。写真を抜きにして並べ替えるとどうなるか。
・どれが正しいかという考え方はしないほうがいい。
・写真があると、教科書の順番以外でもいい。
・違う順番を考えた2人は、面白い。順番の決着をつけなくていい。あまりにもむちゃくちゃな順番でなければいい。
・「はな」が、どちらの花(鼻)か分からないといった子、面白い。
・今、おとなしくしている子供も、ペアの時はよい。
・並べ替え自体はしてもよいが、教科書の通りが正解としないほうがいい。

・動作化については、ものによって、ごく単純なもの、イメージを問題にしないものであればやってもいい。物語文のようなイメージが必要というときは、まずやらないほうがいい。

2016年8月30日の活動報告。5年社会 「さまざまな土地のくらし」(小畑先生の話)
・クラスの雰囲気とグループの感じがいい。
・途中、グループのトーンが上がってきた。しかし、マイクに入っている声は、マイクに一番近い子供ではない。どちらのグループの状態がいいか。グループで、話をしているグループがいいわけではない。考えてるグループがいい。グループの見方。あまり話をしろという風に持って行かない。
・子供はよく考えているが、一斉で発言する数が長すぎる。だから、ついていけない子供がいる。どの教科でも、一斉をあまり長く続けない。
・最後にワークシートに感想などを書くことについて。毎時間すると、「こんなことを書いておけばいい」という風になる。かえって子供はかわいそう。最後の5分で書くとなると、5分で何が書けるか。
子供はいい。先生は一斉授業が好きなもの。どうしてか。一斉はいるが、グループに戻す。
・この資料は非常に面白くていい。6月であるから、多くの資料はいらない。大人でも、沖縄のイメージは豚肉。なのに資料では牛肉が多い。・・・そんな風に資料を見ていくといろんなことが見えてくる。
・資料が面白いのがポイント。やってる事の質が低いと、子どもはガチャガチャする。質の高い、難しいことに取り組むことが、学びの基本的な姿。やさしいことでも我慢してやるクラスはダメ。このクラスは素直な感じ。前半良かったのは、教材がいいから。後半は、グループに戻すとよかった。
・資料は、新しいほうがいい。5年に一回更新するとかで、ごく最近のはないことがある。それはそれでいい。

2016年7月22日の活動報告。6年国語 詩「おみやげ」(小畑先生の話)
・雰囲気がいい。この子が入ってくるかどうかがポイント。その気にならすかどうか。
・いい感じの子を当てている。
・研究授業でグループをしたら、先生たちがグループに入る。そのことはいい。でも、子どもに発言をメモしていいる人がいる。それも悪くないが、この詩の雰囲気にズバッと入りそうな子は、・・・こういう子は、あんまりものを言わない。
・まどみちおさんの、この詩はあんまりベラベラものをいう詩ではない。
・気になる言葉を聞いたのはいい。良かったのは、それを聞かずに「読んでみて」としたこと。いつでもそうかというとそうではない。小さい子の場合など、2,3人に言ってもらうといい。
・物語の授業で、子どもにたくさん物を言わそうとしないほうがいい。たくさん読むこと。
・作家が探した言葉は、その言葉でしか表せない。無理してしゃべることになる。
・感じるけど言えない。あまりものを言ってほしくない。
・読む・味わう・何度も読む。感じながら。
・子供に聞くとしたら、直接中身を聞かず、例えば「季節」。
・「気持ちは」「気持ちは」と聞く人がいる。そんなに簡単に言えるものか。
・何のために話をするかは、文章に戻って文章を読むため。「読んでみようか」
・子供が読み違えたら、文章に戻れる。言葉に触れる。
・あんまり、説明的・解釈的にしゃべらせないほうがいい。文学は。読み方として違う。


2016年6月16日の活動報告です。2年算数「長さ」(小畑先生の話)
・要素が多いから、子供たちにとっては難しい。何人かの子供は、問題がやさしいとだめだと思う。ガチャガチャする。これ難しいぞと思うからやっている。問題が配られる始めの時はぐちゃっとしている。やさしい問題だとそのまま。だけど、おっというのでやりだす。これは面白い。この子供たちは、子供たちにとっての問題のレベルが分かる。ありがたい。
・この子とこの子はいい。手をあげたりしないけど。考えようとしている。
・困っているところ。あれは、必ずやったほうがいい。困っているところは聞いたほうがいい。だけど、条件がいる。問題自体はそこそこ難しいこと。だけど、要素はあまり多くない問題でないとだめ。そうでないと、共有できないこの場合は、要素が多い。それぞれ困っているけれど、困っているところが違う。要素が多くて、子供が小さいと、みんなで共有することは無理。だから共有できなくてもかまわない。
・共有するときには、ペアと一斉の組み合わせが必要。ペアが長めになると飽きてくる。そこで一斉を入れる。しかし、その一斉が長いとだめ。ペアやグループでやったことを、そのあと一斉でやるんだという固定的な考えを持っている人は、一斉が長い。だから一斉で、どこ6人も7人もしゃべらせる。仮にこのクラスで、6人も7人もしゃべると、ついて行けない子がいる。ペアやグループでやることが、そのあとの一斉の準備段階であるように考えている人はだめ。それは学び合いとは違う。
・学び合いは少人数の方にある。一斉が苦しいと言っているが、一斉が長い。この問題では、わからないところ出させただけでよい。
・子供たちはよくやっていた。良かった。物差しは2人で一つであるが、1人に一つを渡したらどうなるか。この子らはだめ。自分がしたらおしまいになる。または、別々にする。2人でいっしょにやらないとだめ。2人でいっしょにやるような条件設定にしないと。2人に一つで良かった。
・できるできないはかまわない。どれか一つを自分で見つける、それぐらいでいい。その一つが間違っていてもいい。自分なりに、これにちがいないというのが一つ出せたら十分。いい感じ。
・考える中身、課題の質が大切。感じのいいペアがたくさんある。ただし、課題のレベルが低いとそうはならない。
・物差しの取り合い。これはやりたいという気持ちがないとそうはならない。やりたいという中身がポイント。立ち歩いたり、いろんな子供がいるんだけれども、一番のポイントはそこでやる学びの中身。いわゆる、生活指導的なことは、とりあえず応急処置。決してそれは本線ではない。本線は、学びの中身、課題。


2016年5月19日の活動報告です。5年国語「動物の体と気候」(小畑先生の話)
・最初にグループに聞いた。あれはやめたほうがいい。理由その1、グループに聞くと、出番のない子が出てくる。グループの中の特定の子が言う。もう一つは、グループでまとめるという雰囲気になる。発言力のある子供が思うようになる。例えば、理科で、100グラムの水に5グラムの食塩を入れると、重さは100グラムになるというグループが出てくる。全員がそう思ってるように見えないのに。またその逆もある。105グラムになるというグループで、あいつが言ったらもう終わりと思う子がいる。
・このクラスのいいところは、発言力のある子供がいろいろ言っているが、それに合わせて手を挙げておこうかという子が少ないこと。
・「分ける」のは、そう簡単なことではない。説明文を分けるとき、観点によって何通りか分け方がある。
・文章の頭、例えば「実際に」「逆に」「また」・・・など。こういうところにも意識がいったほうがいい。しかし基本は、読んだ子供たちが「なるほど面白い関係があるなぁ」と思うかどうか。ところが、分けていくとそういうところはどうでもいいことになる。
・書いてある中身がよく分かるように、丁寧に読みたい。全部は分からなくてもいいのだが。体積・表面積など。
・説明文のポイントは、「面白い関係がある」「最高傑作である」というような部分を、子供がなるほどそうだなとちょっとでも思うこと。そうでないと、子供は説明文が嫌いになる。
・段落と段落のつながりや関係は、最後でいい。
・要旨を書くというのもどうか。言葉をつまんでいるという感じになりがち。説明文でもイメージは必要。頭に思い浮かべてもらいたいことはある。「毛皮」「空気」・・そんなところのイメージはいるだろう。要旨とか要点をまとめると、そういうところが大概抜ける。
・物語にしろ説明的な文章にしろ、一番具合が悪いのは子供を読むのが嫌いにさせること。いくら立派な理屈を言っても、子供が読むのが嫌いになったらわたしは論外だと思う。それが大前提としてある。そのことを抜きにして、理屈を並べてもだめだと思う。大概、指導書に沿って説明文をやると子供は説明文が嫌いになる。これが重大な問題。
・一番なってほしい姿は、中身が面白いなあ。他の、こんな感じの本も読んでみようかなぁというふうに子供がなるといい。そうなると、国語以外の理科や社会の分野でも読むようになる。その辺が一番のポイント。


2016年4月27日の活動報告です。2年国語「風のゆうびんやさん」(小畑先生の話)
・ペアが必要。必要な子供がたくさんいる。授業は、一斉授業がメインだと思っている人がたくさんいる。ペアのあとは一斉をするのがメインだと。ペアは、一斉のための準備段階だと。そういう人が多い。しかし、全然違う。そういうのは学び合いではない。
・早い時期に研究授業するのは当たり前。そんな時、ペアがメインだという話をする。大体、一斉が長いと子供は退屈する。こぼれ落ちる子供が必ずいる。ところが先生は、何人にもしゃべらせる。早い時期は、一年生を中心に見る。入学したばかりの子供は、いい子にしないといけないと思っている。シャンとしているが、先生の思いが届いているかどうか。
・一斉にするのは、早い時期は子供に何か話をしてもらうのはせいぜい2、3人まで。それより多くは続けない。ペアやグループに戻す。
・「ああ」について。だいたい不自然。ちょっと言ったら、みんながそれに合わせて言う。ただ、いいはじめの子供はよく聴いている。皆が思わないような事を言ったとき。文章に書いていなくて、そんなことは思いもしなかったということを言った時。反応は、基本的に表情かなにかでするのがいい。
・読むための初発問について。とりあえずはいらない。というのは、子供に読んでもらって、子供の読みに合わせてちょっと聞いてみる。そういうのはあっていいと思う。子供の発言を受けて、子供に発問してみてもいい。早い時期は、ここをよく読んでほしいと思うところを、投げかけてみてもいい。
《以下は資料に沿って》
・行空きがある場合。子供は行空きに関係なく読む。子供に聴いてみたらというのは、一行空いているから、ここは何があったんだろうねと。そこを想像しながら読んでみようかとか。ペアで読むときに、行が空いているところで交代して読んでねと。そうすると子供は、行空きを意識する。また、上に線がある部分。この線は何だろうねということは、露骨に聴いてもいい。それはあまり説明させようと思わなくてもいい。意識してねというふうになればいい。
・「   」がある場合。これは、誰に言っているんだろうね。そんなことを思いながら読んでみてねと。3種類ほどある。誰か(何か)に向かって言っている。自分に言っているなど。そんな問いかけがあってもいい。あんまりいろいろ言わせなくてもいいけど、意識して読んでもらう。
・新聞記事について。 詩(物語)というものは、基本的に曖昧で多義的なもの。教育の現場では、これは何を意味しているのか、作者は何を言いたいのかという文読むでしょう。でもそんな簡単に割り切れるもんじゃない・・・根っこには言葉への不信感がある・・・言葉は自分の感じている現実の100分の1もとらえられない・・・口に出した瞬間に嘘になる・・・物語について話をさせようさせようとするとこういう傾向が出る。物語を読んだ時には、話をするということが授業のメインにはならない。では、何で話をさせるか。読むために話をする。文章に戻るため。
・文豪の朗読。谷崎潤一郎・・・共通しているのは、まるで子供の音読のような読み方もある。いわゆる棒読み。何しろほぼ感情を入れない。とつとつと読んでいる。文章を読むには3通りある。一つは、自分のために思う。自分に聞かせるために読む。谷崎の読みもそう。人に聞かせるということは目的にしていない。読み味わうということになるとそうなる。二番目、人に聞かせるということも意識するが、プロ(俳優)でもそこそこ力量のある、またプロのアナウンサーが読むと、淡々と読む。どういう状況かを思い浮かべるのは、聞き手の問題。聞き手が多様に思えるように思う。したがって変な感情入れない。3番目は、自分の感情を入れて読む。3番目は、プロのアナウンサーはそんなことをしない。学校の音読は、プロからすると、学校音読・学校朗読と言って、バカにしている。したがるの学校の先生だけ。気持ちを入れて読むとどうなるか。ほとんど子供には、形容詞・擬音語・擬態語・・・「  」というところばかり変なアクセントをつけて読む。しかし、文章の基本は地の文。
・音読では、一番目の読み。極端に言えば、他の子供に聞こえていなくてもいい。しかし、周りの子供は雰囲気で指で追っている。そんなのでかまわない。せいぜい2番目の読みまでがいい。ビデオでは、音声に入っていなくてもいい。こちらが雰囲気で感じればいい。
・多少思いが入った、自分なりの読みでいい。多くの場合は、先生がそれを強調する。どんな読み方がいいかなど。そうすると子供は作り読みをする。それは良くない。気持ちが分かるように、気持ちが伝わるようになど、良くない。
・他の子に様子が分かるようになんて、どんなふうに読んだらいいのか。音読は評価するものではない。読み方について他の子は何かを言うというのは違うと思う。そうじゃなくて、その子の読みを聴いて、この言葉って面白いなと感じだとか、そういうふうな感じになればいい。文豪の音読、これは評価をすればみんな×。
(算数については省略)


2016年3月3日の活動報告です。2年国語「かさこじぞう」(小畑先生の話)

・お隣と読んでいる時の感じがいい子がいる。当たって良かった。
いない。学級や時期によっては、指名読みが先の方が良い場合がある。早い時期は、指名読みをしてくれた方がコメントしやすい。このように読んでくれたらいいなというコメント。その子の読みを評価するのではない。
まちがって読んでくれるとなお良い。今日もあった。(「海の命」の例) 必要なコメントができる。
子供は楽しんで読んでいて、状況としては良い。ただし、傾向としては読みを深めるとかイメージを広げるとかいうことは、言葉にして出すんだと思っている人が多い。それは違う。そんなことをしたって、文章から離れるだけで読みは深まらない。子供が話をすることが、深めることでも目的でもなんでもない。文章を読むことが目的。話はおまけ。文章を読むための。人の話しを聴いて、もう1回読んで見る。自分でどういうイメージがわくか。そのように読めばいい。
・最初の指名読みで当てた子供たちは、ものを言わない。そういう子を当てたから。お話でわあわあやってもだめ、音読しないと。お話をさせて中身が深まったと思っている人の授業は、一部の子供を相手にした授業。一部のものが言える子を対象にした授業。今のお話どうだった、じゃあ読んでみてくれるとすればいい。指名すればいい。よく誤解があるが、いかにも硬いのをかんでいるように読めというのではない。(かさこじぞう)言葉を受けて、自分の中に入ればいい。読み方で表す必要はない。極端に言えば、子供が何かを言うたびにそれを受けて読む。

さっき「同じです。」というのがあった。あれは、物を言わそう言わそうとしている授業に多い。本当はそれぞれ違うはずだけど、言葉でまとめて言ってしまうと「同じ」になってしまう。いろんなばあさまを想像しているのに、まとめて言って、「ばあさまはやさしい」なんて言ってしまうと、「同じです」になっちゃう。あまり言葉で言わそう言わそうとしないほうがいい。「同じです」という反応自体を、小さいころ、一年生のころからさせないほうがいい。なぜかというと、「同じです。」と言ってもいい場合がある。算数など。教科がちがい、中身が違うのに、例えば国語の物語で、「同じです」というのはほとんどないはず。
・「同じです。」と言った子供に、自分の言葉で言ってみてという。
・算数の時間などは、「同じです」と声に出さなくても、うなずけばいい。
・「言ってもいいですか」「いいです」というやりとりがある。二つ問題点がある。「いいです」は、誰が言ってるか。こういう子(聴いてほしい子)は、いいですとは言わない。「いいです」という子は決まっている。全員が言っているクラスなんてない。この子こそ聴いてほしいという子供は言わない。もう一つは、「だめです」とは言えない。オウム返しのようになるのに決まっている。決まり文句はやめたほうがいい。
・「気持ちが伝わるように読んでみて」とか、「様子が分かるように読んでみて」とか、それは無茶苦茶。先生自身ができるのか。プロの役者でも難しい。子供がそれをしようとすると、作り読みになる。普通に読めばいい。自分なりにイメージしながら。言葉かけとしては、そのイメージを大切に読んでみて。それが読み方に表れているとか表れていないとかいうのはいい。

2016年2月18日の活動報告です。1年国語「おとうとねずみチロ」(小畑先生の話)
この子の存在価値は大きい。声小さい子がいると、聴くということには良い。
・この子はナンバーワン。学力が低そう。そういう子が「独り言」なんて言う。本を持って聴くかどうか、この子は必ず指で追っている。こういう子は、指で追ってほしい。指で追ってほしい子が、指で追っているのは上手くいっているということ。
・逆に、指で追う必要のない子がいる。そうすると、どうして皆同じようにやらせるか。これは変。指で追った方がいい子もいるし、指で追う必要がない子もいるのに、どうして皆同じようにしなければいけないか。持って読めなんていうのは最低。持って読むということは、この子に指で追うなということ。それは無茶苦茶。でも言っている人は多い。そんなことはそろえる必要はない。
・読みの回数は結構入っている。ただし、指名読みが多すぎる。後半になったら、ほとんど指名読み。そうすると、ちっちゃい子はだめ。その子自身にほり込まないと。読んでみてというときに、めいめい読むか、ペアで読むかして、どの子も読めというふうにふる。特に小さい子供ほどたくさんやってあげないと、指名読みが続くと、当たらない子供は崩れる。そこへ、ちょいちょい指名読みをはさんでいく。高学年でも、指名読みばかりにしない。
・カメラアングルがいい。多いのは、カメラの向きが高い。壁や窓が写っている。カメラを下の方に向けると、周りでみている先生の表情が見えない。これはいい。

(以下、用意していただいた資料をもとに)
・指導書または赤本などというものについて。おおきなかぶ・・・この部分は声に出してるか・・先生が意識して読む。お願いしているという子供がいる。声出していないか、出していつも独り言のように言っているかもしれない。いろいろある。そういうことを想像しながら、それぞれが読んでくれればいい。そんなふうに読まないと、物語はだめ。
・音読発表とは・・・? 学習の見通しを立てる。見通し・・・?
・一読に要する時間が約2分30秒・・・1人で読むと、2分30秒じゃ終わらない子供がいる。そうすると、声をそろえて一斉に読むという発想か。
・1学期なら、「  」の部分は、声を出しているのかななどと、きいておいてやればいい。先々のことも考えて、「だれに言っているのかな」と聞いておく。「自分に言っている」というのがこれからたくさん出てくる。そういうのもあるんだよということを、子供が意識しておいたらいい。自分に言ってるけど、声に出していない場合もたくさんある。
・名前を見てちょうだい・・・2年・・・赤本がある。子供が、牛やキツネがズルいなどと言う。卑怯などという。しかし、最後の行、牛が後ずさりをしながらブツブツつぶやきましたとある。そうすると、「早く帰らなくちゃ・・・」は、誰に言ったのか。狐も・・・。いろんな呼びがあっていいが、普通の読みは、誰か相手に向かっていう時にはつぶやくという言い方はしない。独り言に近いイメージがある。そうすると、「早く帰らなくちゃ・・・」は、自分に言っていると考えてもおかしくない。自分に言い訳をしている。思いとしては、ここで逃げてはいけないという思いがある。でも、こわいから逃げる。牛やキツネは可愛らしいと思う。
・「だれに言ってるんだろうね」と聞いてやると、子供は「つぶやきました」を見つけてくる。はじめは気が付いていなくても。そういうことを、小さい時から意識しておく。赤本には、そんな感じのことは書いていない。
・「だれに言っているのかな」ということを考えると、その時の気持ちが絡んでくる。それを、「気持ちは?」なんて露骨に聞くとだめ。子供はまとめた言い方をする。気持ちを聞くなというのはそういうこと。登場人物の気持ちはどうでもいいということではない。ユ
「様子」やら「だれに言ったか」ということに、心情が含まれている。それを表に出して聞いてはだめ。
・「気持ちは?」なんて聞いたら、「早く逃げたい」なんていうことになる。文章に戻らない。それを聞くのは禁句。大概よくない結果になる。


2016年1月15日の活動報告です。6年算数「整数の性質」(小畑先生の話)
・何人かの子供たちが、自分が出せるかを興味を持って見ていた。その中の子で、割合早いうちにものを言ったのでホッとした子供がいる。子供はいい感じ。
・整数の中にはいろいろ法則がある。計算とかよりも、法則を探るのは面白い。今日のは、基本的には十進数。二つの要素が入っている。差が18になる。一の位と十の位が逆になる。結構面白かった。子供たちは、機嫌よくやっていた。
・(以下資料を使って)整数って面白いなと子供たちが思えばいい。例えば、数字の全ての位の数を足して急になるものは、必ず9で割り切れる。なんでかななんてなると面白い。九九で、7の段だと、答えに1~9までの数が全部出てくる。そうならない段もある。
・面白いなというものを、授業の中でどんどんやっていったらいいと思う。


2015年12月7日の活動報告です。5年国語「注文の多い料理店」(小畑先生の話)

・笑いながら読んでいて、いい感じの子がいる。なぜいいかというと、そういう話だから。これが、「ごんぎつね」とか「ちいちゃんのかげおくり」とか、ああいうのは笑いながらではだめ。だけど、この話は笑いながら読む話。

・隣と何かするのは、必要があるからする。目的は話をすることじゃない。文章を読むこと。話はおまけ。こんな話をしたからよかったということにはならない。

・この話の面白いのは、注文と、その注文に対する2人の紳士の反応。子供が誰か言ったとき、そのたび読めばいい。読むのは、注文とその注文に対する紳士の反応のところをまとめて読む。

・読み方は、指名読みであったり、めいめいで読んだり、隣と交互にそこを読んでというのもあってもいい。

・この話は、宮沢賢治が何を言いたいとかいうのは、読み方が間違っていると思う。そういう読み方をしてはいけないと思う。明日は資料を使いながら。

(資料配布後)

・童話集「銀河鉄道の夜」今ほか14編、岩波文庫から。その最後の、解説と童話集の序文に宮沢賢治本人が書いているもの・・・以下省略。

・つまり、もともと「何が言いたい」とかいうことで書いたものではないということ。ただし、作者がそう言っているからそうなんだと考えるのは間違い。作家が出した後は、作家の手を離れる。

・そこから出てくるイメージやおもしろさを読むといい。

・クリームをかけて、酢をかけて、塩を塗って・・・西洋料理って、そんな順番でいいのか。宮沢賢二は、頭に浮かんできたことを順番に書いているだけ。面白がって読むのがいいだろう。

・「紳士はどのあたりでおかしいなと気が付いたんだろう」、なんて言いながら、読んだらいいかなと思う。

・宮沢賢治になると、生き方や考え方を重ねて読もうとふうに、すぐになってしまう。しかし、「ごんぎつね」では、新美南吉の生き方や考え方を重ねて読もうとはならない。あと、教科書に沢山載っているのが、あまんきみこさん。しかし、あまんきみこさんの考え方や生き方を重ねて読もうなんて言わない。

・以下、社会科の資料について説明。(省略)



2015年11月2日の活動報告です。6年社会「開国」(小畑先生の話)
・社会科の教科での、学びに対する考え方が私とは根本的に違う。
・最初、絵を見て人物を当てるような事をやっていたが、この時点で、これから後も課題というような課題は出ないように思う。資料集や教科書に書いてあることを追うようなことになるのか。
・いい感じの子がいるのだけれど、自分から物を言うような感じではない。ワーワー言っているのは男の子。ただ、女の子も一部それに乗っている。だいたい女の子はそういうのに乗らない。それがいいのだが。
・社会科の課題と資料。資料というのは、資料集を見るとか教科書を見るということではない。この子の発言(資料集に書いてあること。)は、大統領からの手紙。本当は20何行がある。しかし、「日本やアメリカにとって利益になる」と言っている部分は2行しかない。また、中学校の資料には、この項目はない。なぜかというと、最初の2行は、時候の挨拶程度のもの。アメリカの国民が難破した時には助けてくれ・・・という部分が中心。資料を見るとはそういうこと。
・資料は「誰が」作ったかが大切。例えば徳川家康。当時の人が書いたものと、明治政府が書いたものは違う。日露戦争中の人物についても、どういう時代に誰が見てどう書いたかによって、資料が違ってくる。だから資料集に書いてあることだけを読んでいては、社会科にならない。資料を見て検討しないとだめ。この授業の場合、アメリカが本当に両国の利益を望んでいたかどうか。そうすると別の資料がいる。資料が大事というのはそういう意味。
・日本との貿易が必要なのではなくて、中国行くための中継点としての日本が必要だった。小笠原や沖縄によっているが、それだけでは食料や水が足りない。そんなところは小学校の資料集には載っていない。中学校や高校の資料集から取る人もある。大学の資料も。そういう資料が必ずいる。そういう資料によって考えていくというふうにならないと、社会科にならない。
・ポイントは資料。ペリーがとった航路などを考えようと思ったら、世界情勢の資料が必ずいる。どこがどこを植民地にしているか、しようとしているか。これがないと考えられない。材料が足りない。だから、材料がなくても言える子だけがしゃべる。
・資料集は、教科書の記述があって、その記述に沿って作ってある。だから、いろいろなものがのっているわけではない。学校単位で、資料を集めて残していくのも良い。ある学校の先生は、教科書や資料集以外の資料を必ず出している。教科書と資料集は、いつでも見てもいいよという扱い。
・今は、パソコンから資料をとってることができる。それを印刷するぐらいなら、手間もかからない。
・女子が出てくるためには、①中身 ②授業のあり方  中身のレベルが高い方がいい。授業のあり方は、これが正解だと、正答を求める授業をすると、女の子はあまりモノを言わなくなる。まちがってても平気だという何人かの男の子と、自信のある子しかモノを言わない。最初のクイズは、まさに正解がある授業。それから人とのあり方、部屋やグループを意識的に取り入れることが大事。中身とも関係がある。1人はだめ。
・「まず1人で」とやっている学校で、自尊感情が高い子供はまずない。1人やっていて、できなければどうするのか。それと、「まず1人で」とやっている先生は、出している課題のレベルが低い。例えば算数では、30人学級なら20人ぐらいは自分で何とかなるというレベル。そうすると、できない子の方が少ない。それで、自尊感情が育つはずがない。そのあとどうなるかというと、できたこができない子に一方的に教えるということになる。それから、分からない子が「分からない」と言いにくい。問題のレベルからいって、分からないのは俺たちだけかという感じを子供が思ったら、「ここが分からない」とは言いにくい。だから、常に人といっしょにやっていくのがいいと思う。資料も、2人に一枚配るなど。
・授業ビデオを提供するとき、いいのを出さないといけないと思っている人が多いみたい。そうじゃなくて、困っているところを出した方が。子供が座らなくてウロウロしているというところを映して持ってくる。それをどうするか、という話になる。私はそういうのもいいと思う。そういうのも出ないと。

2015年10月9日の活動報告です。6年算数「拡大図と縮図」(小畑先生の話)
・3人ほどものを言ってもらって、またグループに戻した。これが必ず必要。グループ → 一斉 →またグループに戻す。グループをやって、一斉をやってそこで答えまで出してしまうと、必ず付いてこれない子はいる。グループをやって、一斉をやって、ここで決めてしまうと考えている人が多い。問題のレベルが上がれば上がるほど、グループ全体グループ全体グループ全体の繰り返し。グループをした時に、困っていることが出ればいい。それを皆に聴いてもらって、またグループでどうぞ。そして途中経過を言ってもらって、またグループでどうぞ。
・このクラスでは大丈夫だが、手を挙げている子供が2人。ここで手を挙げている子供に当てるのはだめ。この学級の状態を考える。今回、手を挙げていない子が当たった。だから手を挙げている子が少なくても全然かまわない。
・よく、「話し合いをして」という。グループでべちゃべちゃしゃべっているのはだめ。走そうじゃなくて、一緒に考えているのがいい。
・まず1人で考えさせようとする人がいる。1人でしないと自分で考えようとしないなどということはない。子供は、グループでやっていても必ず自分で考えている。
・「ぼくはできている。ヒントをあげるよ」という感じの子供はあまり当てないほうがいい。先生も、「ヒントを言ってみて」なんて言わないほうがいい。
・困っているところを出すのであれば、何人かに言ってもらったほうがいい。その中から、共有できるところを考えればいい。たくさん出たら、共有できるところは必ずある。
・1人が、他のグループの所へ行く。のこりの3人がいい加減になる。あんまり動かさないほうがいい。
・問題は面白いと思った。課題を考えるときに考えやすいのは、ジャンプを先に考える。このジャンプに挑むためには、どんな武器がいるのかということで共有を考える。考えやすい。
・ワークシートの枚数。4人グループで一枚出すと、グループがまとまる。それを良いと、誰かが言うと、グループで1枚がいいという発想になる。そうではない。①子供の状態 ②中身 によって考える。(資料を使って説明→省略) 自分で解ける子供が1人もいない場合、1人に一枚もらっても、仲間と相談しなければならない状況になる。1人に一枚だと、仲間といっしょに考えなくなるなんていうことはない。問題のレベルが高ければ。ところが、問題のレベルが低い状態で、1人に一枚渡すと仲間と相談する必要がない。
・また、社会科の資料などで字が小さすぎる場合がある。その時は4人に1人はだめ。物理的な理由で。算数の文字が入っているようなものは、4人に1人にすると逆から見ると見にくい。そういう場合は、2人に一枚などにする。
・一緒に考えるのが当たり前という、クラスの雰囲気と、課題のレベルが必要。
・ジャンプの課題は全員ができなくてもいい。答えそのものではなく、そのやり方がグループで出たらいい。全員が答えにたどり着くようにしようと思わない。そうしようとすると、レベルを下げることになる。するとジャンプの課題にならない。
・教科書レベルを超えるジャンプの課題をみんなですることによって、みんなが教科書レベルができるようになればいい。
(以下、国語の資料についての説明がありましたが、省略します。)

2015年9月4日の活動報告です。1年算数「長さくらべ」(小畑先生の話)
・女の子の方が断然いい。順調。
・「細い」と言っていることは「長い」と言っていることと同じ。そのように子供のはなしを聞き取る。
・折ったり切ったりする事はしょっちゅうあっていい。その時は、指定した方がいい。今日は左側の人が切ってねとか。右側の人が折ってねとか。
・ペアの関係が、 CD の縦横をやっているところが一番いい。それがこの時間の中で一番難しいところ。やさしいというのはだめ。難しい内容の方がよくやる。人との関係もできる。難しい方が、人とやる必要ができるから。
・実物投影機を使ったほうがいい。「こことここ」というふうに言われたときに、見えなければ分からない。
・前半は、先生の都合で進められた。そういう時はこういう子供が当たる。手は上げている子だけが当てられるようになる。手を挙げていないが、当てたい子供が何人もいる。雰囲気はいい。問題はレベル。課題のレベル。
・テープを黒板に貼るとき。子供はもうわかっている。二つの長さを比べるときに、ぴったりとくらべてやった方がはしもそろうし分かりやすい。しかし教科書では、離れている。子供そうするもんだと思っている。しかし、くっつけてやった方が当たり前によく分かりやすい。
・大津で、一年生の算数のビデオを出してもらった。この部分だけは絶対に入れといて欲しいといったところがある。それは、最初に問題を出して、「今、なにを悩んでいるの? 悩んでいるところを言ってみて。」と言った。この部分。分かったところを言ってではなく、困っているところを言ってという。そういうのは割に少ない。その場合、問題のレベルがある程度以上高くないとだめ。
・「困っているところを言ってみて」というのは全体。「じゃあそのことをお隣と考えてみて」と言ってペアにする。もう終わったという感じのペアがでてくると、とりあえず止める。やっているところがまだあっても。「困っているところや、途中経過」を言ってもらう。そしてまたペア(グループ)を始めると良い。ペアやグループで済んでしまうという内容は、全体は必要ない。逆に言うと、全体の必要のないようなレベルはしないほうがいい。グループやペアでやったらもうおしまいという内容を、全体でするのは良くない。わかりきったことなので、子供は話を聞かなくなる。そうする人は多い。
・ビデオは、しょっちゅう撮ったほうがいい。先生の声の大きさ、言い方が冷たい、というようことが分かる。でも、先生はそのつもりで言っていない。ピンとこない。ビデオを見ると分かる。自分だけでみても良い。
・置きっ放しでビデオを撮るときは、気になる子供が入っているように映す。
・隣の人に訊ねている子供がいれば、何を訊いていたか言ってもらう。そこで一斉にしてもいい。他の子どもには聞いてもらう。他にもここ分からない人いる?と言ったら、他の子どもも言いやすい。
・よく発言する子には、「〇〇さんが言ったことをあなたはどう思う?」と問う。それは、人の話しをよく聞くんだよということ。

(以下、小畑先生が用意してくださった資料についての解説は省略します。)

2015年7月24日の活動報告です。2年国語「お手紙」(小畑先生の話)
・全体的に読みのトーンが高くなくてよい。
・ゆっくりがいい。がまくんとかえるくんの会話。ゆっくり読むと、言い争っているような読み方にはならない。ここは、言い争っているような言い方なのかどうかは考えどころ。
・女の子の方が断然いい。
・形をそろえていないのがいい。本を持ってとか。本を持ってということは、指で追うなということ。指で追ったほうがいい子もいる。なのに、全員本を持てというのはおかしい。
・印刷した教材について。線を引いたりするのはしやすい。問題は、挿し絵の色。挿し絵には色が付いている。教科書開いて、色付きの挿し絵も見たほうがいい。必要なときには。特に、「お手紙」「スイミー」この二つは、文を書いた人と絵を書いた人が同じだから。最近、教科書会社も工夫して、少し挿絵が増えた。
・子供にモノを言わそうとする人が多い。また、子供が言ったことをストレートに受け取る。ある子供は「にぎやか」と言った。ところが音読する、全然にぎやかではない。言わされるから「にぎやか」と言っているけれども、感じてることは違う。言葉として言わされるとそういうふうになる。気持ちを言わせるとそうなる。気持ちを的確に言い表すなんて、大人でも難しい。
・言葉で言わせるのでなくて、読めばいい。
・「ああ」の部分は、子供に投げかけるとすれば、すぐに言ったのかどうか。
・読みをゆっくりにするという。これは必要があるからする。子供が一番意識しやすいのは、間。何のためにゆっくり読むのかは、子供に言わないとだめ。「とてもいいお手紙だ」の後、すぐに玄関に出たのかどうか。何があったとかは言わせなくてもいい。すぐに出たのかどうかだけ意識させる。そんなことを、頭に思い浮かべながら読もうねと言ったら、速くはならない。
・がまくんはいつから玄関に座っていたのかな。子供に物を言わせるためではない。カエル君はすぐにやってきたのかな。そんなことを頭に思い浮かべながら読んでみてと言ったら、速くは読めない。間を聞いている。これが一番子供も意識しやすい。ゆっくりになりやすい。これは早い時期にしたい。4月が大切。前の「ああ」と後の「ああ」を比べるとすれば、せいぜい「誰に言ってるのかな」くらいがいい。
・「  」は、相手に言っている時と、自分に言っている時と、相手に言っているけど実は自分に言っている時の3つがある。3番目が一番多い。「来やしないよ」もそう。これはただの会話文としてしまうと、味も素っ気もない。誰に言っているのか。また、それをしゃべらそうとしない。そんなことを考えながら読んでみようとするのがいい。
・悲しいと書いてあるが、1人で待っているのと、かえるくんが一緒に待っているのとでは全然違う。ところが、途中で帰る君が帰ってしまう。そのあとがまくんはふて寝する。そのあとカエル君がまた来る。「ああ」に戻ると、手紙の内容だけではない。そこで、かえるくんが途中で帰ってしまって、また来た訳が分かった。つまり、かえるくんはそんなことをしてくれたんだ。それもひっくるめた「ああ」。そうさせてしまった。僕もためにそうしてくれた。それを、子供が「悲しい」という言い方をしてしまってもおかしくはない。言葉で言わせることには無理がある。
・「がまがえる君」というふうに出てくるのは3回だけ。あとは全部「がまくん」。
・音読について。「音読」が大事だという。「朗読」が大事だと決してして言わない。音読と朗読と、先生がたの意識の中にちがいがあるのか。先生方は、音読または朗読のどちらをさせようとしているのか。というのが面白い問題。考えておいてください。
・子供に問いかける。そのあと別にものを言わさなくてもいい。そのことを考えながら読んでねとする。
・辞書を引いてみると「音読」と「朗読」は、違うように書いてある。多くの先生がしているのは、「朗読」の方なのではないか。私はそれと違う意味で「音読」と言っている。

《この後、算数の資料について説明。以下はその概要》
・まわりの長さと面積。4年生。長さの書いていないところがある問題。このままでは解けない。
・1年生の算数。1~9のカードを当てはめる問題。プラス★のカードを一枚。この★のカードは、どの数字にもなる。
・3年生の算数。式が横1列に書かれていない。四則計算のどこを先にすればいいかが分かりにくい。
・教科書の問題であるが、単元の導入に、単元の最後の一番難しいものをやる。教科書レベルを超えるものをしたいが、学校の状況によって難しい場合がある。その場合は、教科書の一番最後に出てくるような問題を、一番最初にするのも面白い。


2015年6月12日の活動報告です。3年国語「ゆうすげ村の小さな旅館」(小畑先生の話)
・先生が座っているのはとても良い。余っている椅子があれば、後の両側あたりに置けば良い。そこへも座れば良い。子供は先生に向かって言うから。
・後ろの子の言うことは、前の方にも届く。前の子どもが言うことは、後ろの子どもには届いていない。
・子供の表情、雰囲気がいい。
・読みは速い。2人同時に読んでいるというのが大きい。2人同時に読むと、だいたい声を合わそうとする。速い方に合わせる。片方があまり読まなくても済む。2人で読むときは、交互に読む。交互に読むということは、お隣の子の読みを聴くということ。
・「。」で交代したり、段落で交代したりする。そういうことが必要な子供がいる。学級の状態が良いのでいけると思う。
・交代ごうたいに読むと、どちらにもプラスになる。読みの速い子は、遅い子のスピードに合わせるようになる。
・物語の授業では、子供の表情か一番良いのは、間違いなく読んでいる時。なのに先生はしゃべらせようとする。子供は音読が好き。
・年のことが出たが、どんどん文章から離れていく。よく読めている子は、年の話の時は出てこない。何歳かにはあまり興味がない。この感覚はいい。
・美月さんてどんな人。物語の授業でこれを聞きたがる人がいる。それを言葉で言わしたがる。先生方ならどう答えるか。私はよう言えない。これを言わせたとすると、一般的な話になる。優しいとか。こういう読み方は、文章を読んで味わおうということにはならない。年齢はそれぞれが思うことでいい。ただしきっかけにはなる。たとえば、美月さんが出てくるところに全部線を引いてみよう。2人で相談しながらひいてもいい。初めに出てきたのはどこかな、そこを読んでみてとする。
・この物語に「美月」というのは3回しか出てこない。あとは全部「娘」となっている。こういう書きぶりに触れる。
・このお話は何が言いたいとか、どうまとめるとか、それは違う。課題を解決する、という授業があっていいのだが、物語は、物語自体が課題を解決するために書いてあるものではない。どの教科もどの領域も課題解決学習にしてしまうことがおかしい。
・国語の中で課題解決になるとすれば、説明的文章。文学はそうではない。すぐれた作品は、作家が何かを主張するために書いているのではない。
・絵が付いているわけだから、絵を見るのはいい。ただし必ず、文ではどこに書いてあるのかを確認する。絵に書いてあるが、文にはないものがある。それは絵を描いた人のイメージ。絵だけを見て、話が広がらないほうがいい。
・「娘は」と書いてあるのをよんで、どう感じるか。小説なんかでもよくある。名前がチラッと出るが、「男は」「女は」というふうに名前を言わない書きぶりがいっぱいある。そういうところに意識が行けばいい。ただ無理に話をさせなくてもいい。
・席を決めるとき、頼りなさそうな子供2人を並べるのも面白い。頼りない子供の隣にしっかりした子をつけると、一方的になることがある。
・子供が国語きらいという。これはある。わたしの基本的な考え方は、物語を読むとき、どんな立派な理屈をこねようが、子供が読むのが嫌いになるのは最低だ。立派な理屈がこねないが、子供たちが読みたがる。そういうふうにしている人が一番いい。ところがどうも、先生の中には理屈を言いたがる人がいる。こんな風に読まして、とかなんとか。子供がどうなっているかで見る。
・45分間全部音読していてもいい。ただ実際にはできない。途中で何らかの働きかけがいる。さっきの、美月さんが出てくるところに線をひく。そうすると、美月さんに注目して読んでという注文になる。それから、つぼみさんが出てくるところに線を引いてみよう。これは、そこに注目して読んでと言っているわけ。読んでもらうためにそうする。ということが入ってくる。そういうことをして、話もする。
・このクラスはいい。なぜかというと・・・(資料から)男の子は謎だらけ。・・・しばらく資料解説。男の子は訳が分からない子が多い。女の子はどうか、知的な発達も女の子の方が早い。普段の取り組みに問題があると、女の子の発達が進んでいない。これは良くない。女の子の方が、学年が1つか2つ上の感じがするほうがいい。ポイントは授業の質。レベル。
・小説すばるの新人賞を取った人の話。・・・記事を読むと、自分の気持ちを上手く言葉に結びつけられない。・・・感情のグラデーションのようなものが言葉にした途端にこぼれていく感覚・・・文章を書くときも、気持ちと書いたものに距離があってどこにもとどかないのが寂しくて・・・そんなもどかしさをそのまま物語に託した。つまり何かを解決するために書いているのではない。文学はそういうところがある。物語を書くときに、登場人物の気持ちを聞かない。ということとも繋がる。気持ちを聞いて、子供にモノを言わせようとすると、言わせるたんびにこぼれていく。その人物を丸ごと受け取ることができなくなる。
・アクティブラーニングの話。次の学習指導要領にはのる。2020年。何年か前から試行。ペアやグループでやるのが当然となる。問題は、中身。(資料に触れて)この新聞記者は、ここがいいと思って選んでいる。これが問題。ぼくをぜんまいねずみに変えられる?・・・これをうれしそうな感じで言っていいのか。ちょっとうれしいというのはあると思う。だけど期待、疑問、失望、というものがある。それらがこぼれている。
・(資料に触れて)これは国語の授業ではない、これは遊びの授業。気持ちを聞いたり、子供には水曜言わせようとすると、こぼれていくものがボロボロある。物語を読んで味わったということにならない。従って、アクティブラーニングというと、学習指導要領に立派な文言がつくと思うが、ペアやグループやっていたら何をやってもいいという実態になる。だから要注意。
・子供に物を言ってもらうのは、文章に戻すため。「どこからそう思うの?」「そこを読んでみよう。」子供が言ったことを受けながら、何回も読んでもらう。話をすればするほど理屈っぽくなる。ボロボロこぼれる。
・内容と方法は切り離せない。つまり、方法というのは内容から出てくる。ペアやグループは必要だからやる。2人で一冊にして読む。なぜか。この子に必要だから。必ずやらなければならないパターンではない。目の前の子どもに必要だからする。このことが必要のないクラスもある。クラスの子どもや内容によって方法が決まってくる。いろんなクラスを見ていると、2人で一緒に読んだ方がいいのではないかというクラスの方が多い。
・説明的な分掌は、書きぶりが違う。自分の思いがあって、それを人に伝えようとして書いている。そういう読み方になる。物語文は、あまりわからそうとしなくていい。説明的な文章は、書いてある内容を分かって欲しい。説明文は皆同じかというと、違う。書きぶりが違う。「動物の赤ちゃん」は、最後にまとめのようなものがない。ウナギの話は、何のために研究しているか、なにを解明したいかというのはない。物語風。天気予報は、よく言われる書きぶりになっている。当然、読み方は違う。内容があって方法がでてくる。方法を先行させるとだめ。
・一年生二年生では4人組は難しい。3人に対して話すのは難しい。ただ中身による。ペアは、1人では難しいからペアになる。2人では手に余る難しいものをやるから4人になる。じゃあ一斉がいいのか。一斉はだめ。でも一斉は必要。課題をするときに、4人でカタがつくようなものはだめ。それなら一斉はいらない。4人でも肩がつかないところがあるから、一斉が必要になる。そうすると、かたがつかない部分を出し合うことになる。そこで学びが生まれる。一般に言われる話し合いとは違う。
・まず1人で、というのは、課題のレベルが低い。クラスの3分の2から4分の3ぐらいの子は1人で何とかなるような課題は、レベルが低い。それから、まず自分で考えて自分の考えを持つ、自分の考えを持ってそれで話をする、こういうのは自分で考えたこと分かったことを言えという発想。つまり、分からないことを出し合いという発想ではない。話し合いというのは大体そう。クラスの大体の子が、自分の考えを出せるというのは、課題のレベルが低いということが想像がつく。
・まず1人でとする学級と、はじめからペアでする学級とで、課題のレベルが明らかに違う。テストなんかしたら、学力が違う。課題のレベルが高い方が学力が高くなる。物語でお隣と話をするのは、課題解決ではないので、お隣の話を聞いてよかったなという感じにならないとだめ。あっ、そうなんかと。ぼくは気がつかなかったけど、お隣の人の話を聴いて文章を読んでみたら、違うことが見えてきたとか。そのためにペアやグループをする。

2015年5月21日の活動報告です。2年国語「たんぽぽ」(小畑先生の話)
・子供はいい感じ。先生と子供の関係がすごくいい。これは授業を考える時の最大のポイント。先生と子供との関係が悪いとだめ。わたくしたちは実践者。口だけ達者であればそれは研究者。こどもとの関係が一番大事。
・この子がもう後半落ちている。一部のものをいいたい子供が言っているということになっている。しかし先生との関係はいいから、子供頑張った。
・他の学校で子供が「聞いてませんでした」と言った。中身がつまらないから聞かない。授業の中身が何でもいいから、とにかく一生懸命聞くんだという発想は無茶苦茶。なんでもいいから頑張れと言ってるのと一緒。だから、中身が面白くなければ聞いていなくて当たり前。ということは内容が一番ポイントになる。
・他の先生たちに、教材文はいつくばったか。教材はポイント。事前に教材文を郵送で送ってくる学校がある。逆に、教材文がない学校もある。それで、読みに対する姿勢が分かる。その学校の。学校によっては、隣のクラスの教科書を入り口に積んでいるところがある。これは、その時間にその場で読めという発想。そういう学校は、文章を読むことを大事にしていない。私は指導案なんかいらないから、教材文と座席表があればいい。
・説明文で、どこの学校も面白くないのは、はじめ・なか・終わりとなっている。いろんな分け方をするが、何かこれにこだわる。4月にも話をしたが、内容と方法は切り離せない。説明文という言葉は業界用語。載っている辞書と載っていない辞書がある。説明文と物語はもともと書きぶりが違うから、当然読み方が違う。内容が違うから、読んでいく方法が違う。物語は物語で全部一緒かというと、違う。 詩でもいろいろある。同じ発想で授業をすることはありえない。説明文もそう。
・序論、本論、結論でいうと一番大事なのは本論ではないか。なのに、一番大事なのは結論になることがある。本文をあまりちゃんと読もうとしない。しかし、序論、本門、結論という分け方はつまらない。中身をよく読む。形式的な発想でいくと、中身のイメージされそうなところがとんでしまう。たとえば、東京書籍3年生の「自然のかくし絵」。アゲハ蝶の羽をとじると、という書きぶりがある。そのとき私は、羽はどうとじじたのと聞く。これは読んだら分かる。なのに、そんなことをちっとも気にしていない。これは文章を読むことになっていない。ただ形式的に分けることだけが中心になっている。
・今回の教材でも、花がとじる・花がしぼむ、という違う言い方で書いてある。こういう言葉の違いは文章を読むときには大切。ところがそういうことがどうでもよくなっている。説明的な文章でも、そういう言葉の使い分けをしている。そういうところに触れていきたい。でないと言葉に触れることにならない。そういうところに触れていくと、言葉って面白いなという気になってくる。
・説明文にしろ物語にしろ、最大のポイントは「読むのをきらいにさせてはいけない。」授業している先生がどんなに立派な理屈を言っても、子供が本を読むのが嫌。読みたくないとなっているクラスはいけない。それは国語の授業ではない。だって文章を自分で先々読む子どもになって欲しい。子供が、文章を読むのが好きになるかどうかが最大のポイント。全員好きになってくれたら一番いいが。少なくとも嫌ではないと、どの子にもなって欲しい。このように(形式的に分ける)すると、中学年や高学年になると、大概説明文がきらいになる。どうして嫌いになるかということを考えないといけない。
・一般的な見方をすると、はちゃめちゃに見えるような授業であっても、このクラスの子どもたちは読むのが好きなんだと思われるのが一番いい。ただ、本当にはちゃめちゃだと好きにはならない。一見はちゃめちゃで見えるけど、それなりのものはあるわけ。一般的に言われていることと違うから、はちゃめちゃに見えるだけであって、実は違う。
・光村図書の二年生では「タンポポの知恵」というのがある。どっちが面白いとか、どっちが分かりやすいとか、そういうことをしたってかまわない。一般的な常識では、そういうことはないでしょう。でもそうすると、子供は一所懸命読む。両方。私は、そんなののほうがよっぽどいいと思っている。
・説明文で自分もやって、人にもおすすめしたのが、1~10段落あるでしょ。どの段落が一番面白いか。どの段落が一番好きか聞いてみたらいい。そうすると、出てくるのは、あらかたはここ(中)。説明文は、最初から順番に読まなければいけないことはない。一番つまらないところから読むことになる。具体的なイメージとか実験とか分かりやすいところを子供は面白いという。どこが面白いか順番に聞いていく。そして読んでみる。やはり読むということはいる。説明文でも物語でも共通しているのは、「読む」ということ。あとでまた、どこが面白いと思うかもう一度聞いてみる。子供が面白くないと思うのは、一つは内容がつまらないところ。もう一つは書いてあることが分からないところ。段落を追うようなことは、最後にやってもいい。説明文は、バラバラに読んでも内容が繋がるように書いてある。
・「なぜ」とか「どうして」とかは、物語文では聞いてはいけない。説明文ではかまわない。理由は二つあるが。登場人物はなぜこんなことをしたとかどうしてこんなことになったとか、物語の読みではない。文学の一番面白いところが崩れていく。ある作家は、言葉と気持ちがぴったり合わないということに苦しんでいる。言葉にすればするほどこぼれていくものがある。「気持ち」を聞いたり、「なぜ」「どうして」と聞くと単純になる。ボロボロこぼれる。いいところが。それから、子供が思ったことについて、「なぜそう思うの」というのは、絶対に聞いてはだめということはないが、聞かないほうがいい。なぜかというと、子供に説明しろと言ってるわけ。子供は、無理に説明しようとする。説明すると、またこぼれることがいっぱいある。なぜというふうにしょっちゅう聞くと、子供は感じたことを言わなくなる。言ったら、先生に理由を聞かれるから。理由が言えないようなことは言わない。説明できる子、理屈が言える子がものを言うことになる。そうすると味わいは消える。

2015年4月21日の活動報告です。2年国語「風のゆうびんやさん」(小畑先生の話)
・早ければ早いほどいい。ある学校の校長さんが、初めおとなしかったけど、1週間2週間しだすとガサガサしだしたという。子供が先生の様子を見ている時に、どうして手を打たないのか。授業らしい授業をしないで、だらだらと過ごす。始業式の日から授業する。
・筆箱の位置。お隣との関係をつくるとか、お隣と話をするとか意図的にやっていくのであれば、筆箱の位置はこうなる。筆箱は右端に置きましょうなんてやかましく言う先生がいる。ところが、お隣と話をさせていくのであれば、筆箱を両方を右に置くなんていうことはない。2人で一冊となると、ちゃんと筆箱を動かしている。
・この子は男の子でナンバーワン。
・すれ違ったと言った子。感覚がいい。スピード感がある。
・人間には聞こえないというところで、小さい子供は一斉授業が長いとだめ。一斉でやって4人も5人も続けてしゃべらせるとだめ。一斉が長くなると、うまくいあない感じの子どもがゴロゴロいる。なのに先生は一斉授業が好き。
・一斉授業ちょっとすると、あとペアにすると良い。ペア、一斉の繰り返し。ペアが長いとだめ。大きい子であれば、グループで。
・しっかりした女の子が、ふにゃっとした男の子を引っ張り込んでくれる。教科書の文字を手で追っているのはほとんどが女の子。
・これは音読教材。話をしたら読む、話をしたら読む。どこの教科書会社も、最初の教材は声に出して読む教材。4月の早い時期に出てきて、面白いのは、光村図書の5年の「あめだま」ぐらい。
・これは書かないほうがいい。なぜかというと、理由は二つ。書くなら、少なくともどの子も書かせないといけない。書けなかった子がいてはいけない。そうなれば、それなりに時間を取らなければいけない。今の状態で、少しだけ時間を取って、書いてみようとしてもだめ。書かせるのであれば、時間を確保する。そして、1人で書かせるのではなく、お隣の人と話をしながら書かせる。どの子も必ず書くという状況を作る。最低でも10分はいる。
・書くときに、後で話をさせるために書かせるのであればやめたほうがいい。それは書くうちに入らない。このような子が、どれだけ書けるかがポイント。
・本人が文章と向き合って、思いを自分なりの言葉にして書く。人に言うために書くのではない。もう一つ重要なのは、物語の授業で、メインが話し合いになっている授業が多い。それは根本的に違う。話し合いを目的にして書かせる人は、話すために書かせる。しかし、物語の授業は話し合いをすることが目的ではない。目的は読むこと。子供が話をするのは、読むために話をする。
・ビデオを出すとなると、多くの会で、気負うことがある。それなりのものを出さないといけないと思うようで。ただ、宝塚の会だけは違う。ここは、ぐちゃぐちゃの状態のを平気で持ってくる。子供が立ち歩いているとか、教室を飛び出すとか。それを見て、この子供たちにどう対応して行こうかなんていう話をする。4月、5月、6月と子供の様子が変わっていくのが面白い。私はそんなのも、大いにいいと言っている。全然かまわない。何か、恰好の付いたやつを持ってこなければいけないなどと考えなくてもいい。実際にそういうところで困っている人は多いのではないか。何でもいいから持って行こうかというようなつもりでされるといい。私はそんなんで十分だと思う。

2015年3月4日の活動報告です。3年国語「手ぶくろを買いに」(小畑先生の話)
・グループ形のままで全体もやると、子供がものを言う子供に背中を向けている状態もある。だからなかなか聴けないか学級がわりとある。もしもそういう状態があれば、二つ考える。一つは、コの字型とグループをする。しかし、一時間の中に何回も机を動かすのは間が開いてよくない。もう一つは、グループの間を詰めたほうがいい。それはクラスの状態によって。
・グループとグループの間が、もっと離れている学級もある。グループをするときはいいが、その場合は全体をする時はコの字型に戻したほうがいい。そうでないとを子供の距離が遠すぎて聞かれない。
・休み時間になったら広げればいい。
・ペアの読みは、必要だからする。1人ならまともに読まない子もいる。いい加減な子もいる。いい加減な読みをしているのに、読んでいるポーズをしていればいいというのがあって、それは読んでいることにならない。それから、隣の子どもを意識するから、ゆっくりと読む。どちらにもプラスになっている。読みにくい子供のためにだけやっているわけではない。読みは遅いほうがいい。
・想像しながら文章を読んだら、速くは読めない。部屋で全文を読ませると差が出るのではという意見があったが、これは日頃からの話。遅いほうがいいんだというのが子供に伝わっていれば、速く読むのはだめなわけ。子供によって違いは出るが、平気。早く読み終わった方が意識をする。早く読み終わっておかしいんじゃないかというようになる。
・読みがやや雑な子供を指名している。それはいい。4月とか、早いうちは、読みについてのコメントを先生が入れるのがいい。詳しくは4月4日に。
・今手を挙げている子供がいるが、ちょっと危険なメンバーが手を挙げている。読みの時の様子から言うと、ちょっと理屈っぽい事を言いそうな感じの所から手が挙がっている。ここらを当てると、ちょっと理屈っぽい話になるかな。手を挙げている子供に当てる必要はない。
・司会とかいうのがあったけど、学び合いで司会を立てようという発想はありません。司会を立てようという発想は、だいたいグループで話をまとめようという発想から来ている。だけど、まとめる必要はない。
・この子は、最初に指名したらこんなこと言っていない。前の子どもの発言を受けて、きつねは4本足があって…という話をしているだけ。こんな子の話を、みんなが受け止められたらいい。
・書き込みをやるなら本格的にやればよい。欠点は、何で本当のおててを出したんだろうなんて言っている。そんなことを言う子じゃない。多分最初にそう書いたと思う。でもこの子は感じからして、あと1回か2回読めば、まぶしくて目がくらんだということはすぐ分かる子。だけどあてられたから、最初に書いてること言っている。書き込みの、時々出てくる欠点。何でだろうねえなんてせず、音読するのがいい。
・ペアをするのは、どちらの子にもプラスになるため。つまり、こちらの子どもを何とかしたいからやっているという問題ではない。
・物語を読むときは、あまり理屈っぽい子にあてないで、他の子どもの話を聴いてから当てたほうがいい。この子は解説的な発言をしている。これを好む先生と、好まない先生がいる。6年に「雑草」という詩があって、授業を見た。ある子は、作者は雑草の力強さに感動しているという。私は具合が悪いと思う。なぜかというと、どこかの参考書に書いてあるようなことだから。問題は、何が足りないかというと、「雑草」という詩を読んで、あなたはどうなの、あなたの心は動いたのと、それがまるっきり出てこない。ただ解説するだけ。そういう読みをする先生も多い。それは基本的に、文学の読みではない。
・辞書をひくのもいいが、欠点がある。その言葉を、別の言葉に置き換えてしまって終わりということがある。「独り言」というときのポイントは、会話文全部ですけど、誰に言っているか。独り言というてしまえばおしまい。それを誰に言っているのか。本当に人間はいいものかしら…これは誰に言っているのか。というのがポイント。つぶやいたから独り言だで終わってはいけない。自分に言っている、自分に言い聞かせる、自分に問いかける、そこがポイント。会話文で一番多いのが、相手がいて相手に言っているけど実は自分にも言っている、というのが多い。一番露骨な例は、「大造じいさんとがん」の最後。「おおい、がんの英雄よ・・・」あれは、じいさんは残雪に言っている。でも、じいさんの決意表明。自分にも言っている。このパターンが一番多い。「ちっともこわかないや。」のいいぶりによって、誰に言っているかが違ってくる。自分ではうまく言えないが、先生がどう受け止めるか。
・本当の手を出してしまったことに気が付いたのはいつだろうねということは、授業でよくされる。いつか決めることが目的ではなく、文章読んでみようということ。
・そんなことを思いながら読むと、速くは読めない。すらすら読めてよかったねなんていう先生は、そんなことを考えていない。
・子狐は、実は両方の手を出している。なぜなら、銅貨は人間の手に握らされているから。そんな子ギツネの姿を想像しながら読めるといい。いつ気が付いたかを決めるために聞いているのではなく、そういう姿を想像しながら読んでねというために聞いている。
・ちょっと本気度が足りない子供もいる。やはり、グループとグループの間が空きすぎ。心配していたが、結構聞いてはいる。だけど、聞いている子と聞いていない子がいる。最初二通と言ったけど、もう一つ付け加えて、グループのまま行くが、グチャっと机を寄せて他の子どもの話を聞きにくい子には、背中を向けることになる位置(列)には持っていかない。できるだけ多くの子どもに向き合う位置に持っていく。そういう座席も考えればいい。
・グチャっと詰めておいて、机をひっくり返してグループにするときに、それをやらない方法がある。ここの子は、机は動かさない。椅子だけ後ろを向けてしまう。そうすると、机二つを挟んで4人という形になる。椅子だけにひっくり返せばいいので、それほどロスにはならない。というのもある。クラスによって工夫しながら。
・基本的には、手を挙げて物を言いたがる子は、ほぼ軽い。だから、手を挙げている子供をボコボコ当ててやっている授業は大体良くない。中身も軽い。時間がたってくると、手を挙げて物を言いたがる子の多くは、だいたい先生の気に入りそうなことをいう。これは良くない。大体は、手を挙げてない子はいい。じっくり考えている。あまり手を挙げない。これはどのクラスにもたいている。たいてい女の子。そういう子が出てきてくれないと中身が膨らまない。手を挙げていない子にどう対応するかが大きなポイント。

2015年2月17日の活動報告です。4年国語「ごんぎつね」(小畑先生の話)
・子供は、よく育っている。読もうとしている。
・後ろで見ている先生方の様子が気になる。ペアは、必要だからする。一人ずつめいめい読みで、どの子もが本気になって、文章と向き合ってやれば、めいめい読みがいい。だけど、そうじゃなくて、隣の子と交代で読むということは、隣の子の読みを聞いて読んで聞いて読んでがいい。
・1人で考える時間というのは、別に取る必要はない。子供はいつも、1人で考えている。ペアでも、ものを考えないとものを言えない。当たり前のこと。1人で考える時間を取らないと考えないと思っていることが具合が悪い。
手法としてのペアではない。必要だからやっている。手法として見るからだめ。
・償いとしてやっているからお礼はいらないというのは、読みとしては浅い。これは一般常識の話
でも、ここに登場するごんは、おれは引き合わないと言っている。これは読まないとだめ。そこでペアに持って行ってるのもいいと思う。
ここは文章に戻しどこ。お礼はいらないと言っている子は、引き合わないということがよくわかっていない。今、他の子がつまらないと言ってくれた。ここで、読んでみようというふうに行くところ。
・話をさせようとするといけない。物語を読むとき、話をすることが読むことだというように思っている人がたくさんいる。それは全然違う。話をするのは文章を読むため。女の子が、ごんは「お礼を言って欲しい」と言っていた。この時はチャンス。いつからお礼を言って欲しいと思っていたんだろうね、読んでみよう。言ったことをきっかけにして、また文章を読む。言わそう言わそうとするから、いいところ(子供)が出てこない。話し合いで話し合いででは、文章は読めない。
いわしを放り込んだときではないだろう。お礼を言って欲しいとなっていくのは、月のいいばん。ごんから見ると、俺の話をしている。クリア松茸をおいたのは誰かと言っている。長いお念仏が終わるまで、井戸のそばでしゃがんで待っている。きっと俺の名前が出てくるという感じで。直接お礼を言うとかじゃなくて、俺がやっているというのを分かって欲しいと変わっていく。文章読まないとだめ。話で行くとそこらが飛んでしまう
・最後、兵十の家の中に入って栗をかためておいているというのは、ごんの行動の変化。神様にお礼を言うがいいよの後の、兵十の「うん」も、何回も読むと子供の感じが変わってくる。賛同の「うん」なのか、生返事なのか。読んでみて感じをつかむ。音読に戻せるチャンスはたくさんある。
・文章を、鉛筆で指しながら言っているような子がポイントになる。またそういう子が出てこない。
・テキストを見ながら話をするでないとだめ。顔が上がっていてはいけない。
・物語を読むときに、あんまり話をさしちゃだめ。
・区切りのことから言うと、基本的にはいつでも全文が対象。ただし、その時間で一応ここをメインにというのはある。でも、前へ行ったり後ろへ行ったりすることは当然ある。全文を読む。これは必要。ただし、昔は時間の融通がきいた。国語2時間続けるなんて平気でやる。今はそれは難しい。だから、2時間から3時間に1回は全文を読む。ただ読むのではなく、丁寧に読む。となると、当然ゆっくりと読む。
・影法師をふみふみ・・・ごんは絶対に、俺の話が出ると思っている。音読を丁寧にすると、ここなんか絶対に出てくる。影法師を踏みながらとはまた違う。印象に残るところなので。
・こういうの子どもが感じてくれると。月のいいばん。お城。向こうから人が来る。隠れる。ついていく。お城からかなり距離がある。影をふみふみついていく。加助は長い間物を言っていない。このあたりのごんの姿は面白いと思う。長い沈黙がある。話話で行くと、こんなところはまるっきりなし。このあたりの時間経過はないことになってしまう。やっぱり音読。
・主要発問ということは、しないで行ければ一番いいと思う。発問はしてもいいと思う。しかし、2学期や3学期の授業で、こんなことを先生が聞かないと子供は考えないのかというのが、指導案に書いてある。そんな事は子供が自分から考えるのが当然なのに。というのがある。子供が育っていない。主発問が必要。そうなっていると思う。具体的にどういうことを主発問にしているかがポイント。



2015
1月16日の活動報告です。2年算数「かけ算」(小畑先生の話)
子どもの雰囲気はいい。先生との関係もいい。
・同じ二年生で、かけ算を使った問題で三重と大阪でこういうのがあった。(ホワイトボードに図を書いて説明。)明らかに中身のレベルが違う。やさしすぎると思う。1人学びでやる教材はやさしすぎる。大方の子供が1人でできなければ困るから。1人学びは、やっている中身のレベルと繋がる。こんなこと(三重や大阪の例)をやる人は、まず1人学びなんて言わない。1人では無理だということかわかっているから。そういうの課題に出している。
何人もの子供がすぐにできている。だけど二枚目にはいかない。もう答えが出ているから。
・この子はいい。よくできる。何で普段しないかと言うと、中身がやさしすぎるから。つまり、人とやる必要がない。
(壁面に掲示している自画像の絵について)肩の所まで描いてある子ども、頭・顔・体のバランスがそこそこ取れている子どもは、大体感覚がいい。幼い子どもほど、頭はドッチボール、体は爪楊枝というような絵を描く。これは、精神的に幼い証拠。だけど、絵そのものをきちっと描いている子どもとなると、計算とか漢字とかはしっかりできるけど、考えるのが苦手ということになる。逆に、こういう感じ(バランスがいい)の子は、あんまりきちきちやらないけど、考えるのはそこそこ考える。
・いっぺんレベルを上げてみたらいいかなと思う。その中身は、4月4日の会の時に話をします。
・立って歩くことについて。2人組とかグループとかいうのも何のためにしているのか。いくつか理由がある。その中の大きな理由の一つが、一人一人の学びを保障する、どの子も引っ張り込む。だから、2人での学びをやっている時に、あの子こそ入って欲しいなあと思う子が入っていなければ、後がやってたってだめ。そうすると、立ち歩いている時に、(数人の子の名前を挙げて)が、どうなっているかが一番問題。そこらがやっていなければもうだめ。それが基本。
・立ち歩いてするのは、時々見ることがある。わりにましな方だなと思った。なぜかというと、それをやっている所の多くは、男の子は男の子、女の子は女の子の所へ行く。そんな学級はだめ。現実問題として、そういう学級の方が多い。それから、誰も来ない子。どこへも行かない子。一番見逃しやすいのは、動いているんだけれどもただウロウロしているだけ。そうなると、やめたほうがいい。固定してやったほうがいい。
・ウロウロした後に全体の交流があった。全体の交流のときの、手の挙がり方をどう思うか。ウロウロして、いろいろ話したように見える。そのあとの全体で、2人しか手が挙がっていない。これは、異常に少ない。ということは、動いて話をしたことが、どれだけ子どもにとって良かったか・・・。
・だから、あまり人が見ていない時や学年に相談せずにいろいろやってみたらいい。難しい課題をやらせるなど。固定して2人でやって、気になるところは先生が手助け行けばいい。座席は同君でも、ここは難しいだろうなぁというペアは必ずできる。それができるからだめではない。そういうことは前提にして、そこへは先生が行けばいい。だし、その数があまり多いと手が回らない。気になるところは、自分の手のまわりで収まるようにする。
・3×8か8×3というのが出たが、掛け算では一番大事なところ。つまり、3×8と8×3は違う。問題は、1当たり量。2年生の掛け算は、九九を覚えさせたらいいと思ってやっている人がいる。それは全然だめ。そうすると、5年や6年になって、割合になった時にちんぷんかんぷんになる。先が見えていると言うことになる。二年生の掛け算の時から1当たり量。3個のかたまりが8列というように。或いは、8個のかたまりが3列。だから3×8と8×3は違う。同じなのは答えの数字だけ。
小さい子どもの場合、問題そのものはやさしいが、やり方がいくつもあるという場合。算数として面白いことは面白いが、とにかく答えが出たらもうおしまいとなる傾向が強い。自分で答えが出たら、あまり人の言うことを聞かない。しかし、このクラスはそういう傾向が少ない。子供と先生の関係がいい。

《小畑先生の DVD と「白いぼうし」「ごんぎつね」の教材について》
・(たぬきの糸車の音読)音読そのものがいい。特に見て欲しいのは、間を取っているこの子。すぐに読み始めない。「やがて」で始まる文章。子供がそんな風に読んでいるということに気がつかない先生がいる。時間が経っているということが、この子はわかっている。子供はそのように音読をする。音読が中心というのはそういうこと。
・ここの子は今、ベランダで遊んでいる。上靴物入り。1人でやりましょうと言ったら、まずやらない子。ここの子も後から入ってくる。特別支援学級の子供。1人で読むのは難しい。2人で1冊のテキストを読むのは、私が行っている学校ではほとんど当たり前になっている。理由は、この子はこの子に指で追ってもらっている。どの子も必ずちゃんと読めということ。あと、めいめい読んでいたらやたらと速い子がいる。それから、読んでいたり読んでなかったり、適当にやっている子がいる。必ずどのクラスにもいる。それはだめだ、みんな読むんだということで、2人で、しかもテキスを1冊にして、交互に交代に読んでいく。次に入れ替えて2回やれば、全部読むことになる。
・こういうタイプの子。お隣の子が読むときに指で追ってあげている子。この子は、お隣の子供の面倒を見ているだけか。面倒みてくれるだけでも素晴らしいことだと思うが、国語としてはどうなんだという面も抜くわけにはいかない。
・「白いぼうし」・・・車が引いてしまうわい・・・雑な言い方だという子供がいる。こういうタイプの女の子に先生がどう思おうと当てる。その女の子は、松井さんが言ったんじゃない。つまり思ったことだと言う。先生も、「えっ」と思った。「どこからそう思うの」と問うと、女の子は例を挙げて答えた。「  」で、行替えをしていない。それまでの「  」は、短いやつで行替えしてある。その子は、行替えしていないのは、言った事ではなく思ったことだと言う。その通り。
・そのように、文章を丁寧に読んで感じることは、ひょっとしたら先生より上かもしれない。
・(ごんぎつね)ある子が、今日中に言いに行ったらいいのにと言う。そうするとある子が、言いに行ったら打たれる殺されるという。別の男の子が、それもあるけど照れくさいと言う。そして、このタイプの女の子の登場。手を挙げていない状態の時に先生が当てる。その当たった女の子は、ごんはお話ができないんじゃないのと言う。この根拠が二つある。文章から。先生も気が付いてなかったようですが、ごんの「  」は、全部、考えました、思いました・・・などで、言いましたは一つもない。つまり、あの作品全編を通して、ごんは一言も物を言っていない。それが、言わないのか言えないのかは分からない。そうすると、ごんは自分の思いを伝えるときに、言葉で伝えることができない。行動で伝えるしかないんだということになる。こんなこと思っていない先生がかなり多い。そんなことに気が付くのがこのタイプの子。つまり、こうやって(隣の子供のために教科書を指さして)やっていると、言った子も初めは気が付いていなかったみたい。でも、お隣の子供に指で追ってあげて読んでいる時、「あれっ」と思うみたい。そこで気が付くようです。というようになる。
・このようにして読んでいると、この子にもプラスになるこの子にもプラスになるこの子にもプラスになるこの子のもプラスにになる・・・。それを学級に出してくれると、「あっ、本当だ」ということになる。
・これはいろいろ問題のある学校。(詳しくは省略)それが落ち着いてきた。学力も上がって来た。今この子を、先生がおさめに行っている。1人ではできない子。落ち着いてやるんだよということを、先生が言いに行くのが必要な子。一人一人の学びをどうするかと言うことがポイントなので、こういう子達が授業でどうなるかがポイント。やっている内容はこれ。3桁+3桁。1~9のカードがある。この足し算を成立させる。3段階あって、一つ目は、合うように入ればいい。二つ目は、答えが一番小さいのはどれだ。その三、答えが一番大きいのはどうだ。これは、大人がやっても結構難しい。
・当然ですが、1人でやりなさいなんて言わない。基本的にそんなことはしない。1人やれというと、この子はやらないに決まっている。でもグループでやるとこうなる。これ、一時間もつんです。よく、繰り上がりの練習プリントをさせることなどあるが、やりませんから。ところが、このようにグループでやって一旦答えが出て、またやり直すんですが、そういうことがあって、繰り上がりの練習をしてみるかというと、「うん、やる」と言う。ここでやったことで、いけると思う。これが、まず個人で練習すべきだという考え方と、全く考え方が違う。
・学力が低い子供が、こうやって首を突っ込んでやっているのを見たらうれしくなる。これは難しいので、1人では手も足も出ない。そこをグループでやるのが、グループの値打ち。算数でもこういうことをやるから、この子は変わってきた。はじめ国語で、めいめい読むときに、すぐ終わっていた。読んでない。ところが2学期になって公開授業があって、その時に読んでいたけれど、最後まで残るようになった。たどたどしい読みではあるが。つまりこういうことの積み重ね。
・4月4日の時には、違う時間のものを出そうと思っている。子どもの学び合いと言ったら、ペアをやる、グループをやるというのがあるが、中身のレベルが低いのに、グループをやってもほとんど意味がない。必要がないのにやってもだめ。グループをやるということは、中身と関係している。内容はどうでもいいから、ペアやグループをやれば、それは学び合いだというのは、考え方が根本的に違う。それは別口の学び合い。



201411月20日の活動報告です。1年国語「サラダでげんき」(小畑先生の話)
・前時の復習とかいろいろあるが、特にどの子に言わせたいか。いろいろ言ってくれる子は、たいがい復習はいらない子。言わない子が必要な子。その子が入ってこない。ということでは復習にならない。この後音読であるが、誰がちゃんと読んでいるかも一致する。誰に注目しておくか。特に誰に反応してほしいか。そういうつもりで見ないといけない。
・油と塩と酢をまぜると「マヨネーズ」になるということは他の学校でもよく言っている子がいる。これは子供の語彙の問題。イメージはあるけど上手く言葉にならないときがある。それをどう受け取るか。途中で他の子供が、「ドレッシング」と言ったときに、前に言った子が「あっそれそれ」というわけ。特に小さい子供の場合は、そういうふうに聞いてあげる。
・子供の雰囲気がいい。気になる子たちも、表情が崩れていない。これは大事なこと。
・目立たない子供が気になる。先生の目がいかないから。目立っていないが、この子がその気になるかどうか。ガサガサしたりしない、かといって目立つこともない、そういう子が実はポイント。目立たないから置いて行かれる可能性がある。
・そういうことも含めて、隣と・・・ということは絶対に必要。次のときに DVD を持ってくる。2人で読んでいるところ。グループで考えているところ。一年生の音読も入っている。タンブリンなどは必要ないという読みを、ちゃんとしている。それでイメージを作りながら話をしたい。
・ほとんど1人では読めない、或いは読まない子が、隣と読む。〇〇という子はいい。今度席替えしたら、この子の隣に○○を持って来たらいい。
・動作化は基本的にだめ。遊びですから。物語を読むということにならない。「大きなかぶ」の指導者に、動作化をするように書いてあるらしい。しかし、文学の読みにならない。なぜかというと、「大きなかぶ」は、おじいさんが来ておばあさんが来て犬が来て猫が来て、最後にねずみ。ねずみが何の役に立つのか。本来そういう感じの存在。でも、それで抜ける。それが、あの作品のおもしろさの一つ。これを動作化すると、無茶苦茶。これは運動会の綱引きのようにして引っ張ると、全然物語と関係ない。ただの遊びになる。
・この話は、アンバランスのおもしろさというものがある。たとえば、お母さんが病気になった。げんきにさせようと思って考えた。最初の方に、確か、くすぐって笑かしてあげようかというのがあったはず。この発想が面白い。犬が出てきて猫が出てくる。何がアンバランスかというと、猫は野良猫であるが、言葉遣いは野良猫の方が丁寧。
・この場面で言うと、ぞうさんがスプーンを鼻で握って・・・これを想像したら面白い。とても面白いところ。それから、力強くくりんくりんとまぜました。くりんくりんというと、何となく力強く速く。ここは言葉として、イメージになりにくいところ。何度も読まないと。すると音読にも関わってくる。ここを動作化すると、面白さだけになってしまう。
・「せかせか」も、言葉で言うには難しいところ。「早く」とか「急いで」とかはぴったりこない。人間で言うと、体操などが得意な人が、急いで歩いていても「せかせか」とは見えない。そうではないタイプの人が急いで歩いていたら、「せかせか」に見える。何で「せかせか」に見えるか。像だから。ぞうさんがせかせか歩くという、アンバランスの面白さ。だから、せかせかという言葉だけを別の言葉で言い換えることはかなり無理がある。
・そういうふうなことを感じようと思うと、基本は音読。言葉で言わそうとすると完全に無理があるから。
・「どんな事を言いながらかきまぜているでしょう」と決め付けてやるのは良くない。何も言わなかったかもしれない。かきまぜてから、「できたよ。」と言ったかもしれない。こういう出し方をすると、そういう読みが省かれてしまう。
・書きぶりからみて、中に入れたかどうかがよく分からないものがある。そういうと、子供は丁寧に読む。何を入れてないんだろうということ。子供自身が、文章に集中しながら読む。読むための問いかけをするといいと思う。答えは「にんじん」。そんなことをしながら読むと面白い。
・彼は、隣とやれば何でも取り組める。1人でやれとなれば、落ちていくばっかり。自分で書けなければ、隣の子のを写してもかまわない。「聞いてあげるよ」という感じの子がクラスには必ずいる。そういう子を隣にする。
・はじめから隣と話をさせる。読むの隣と2人で。1冊のテキストを2人で見ながら読む。読めない子がいる時、隣の子が指で追ってくれることがある。もう一ついのは、隣の子の読みを聞くことになる。聞いて読み聞いて読みになる。こういう子は、人のを聞くことが大事。聞いて身につけていくことがいっぱいある。常に隣とやっているというのがいい。
・基本的には、こどもと一緒に読むというつもりで。教師の読みで、これだけはよく読んで欲しいという話はよく出る。ところが、そう言っている先生本人の読みを検証してみると、だいたいろくでもない読み。一例を挙げると、「ごんぎつね」。子供の方がよく気が付く。先生の方が気が付いていないと言うのがいっぱいある。このとき言語なんて言ったのなんて聞く。子供はそれにこたえる。そうだねというふうに授業を進める。こんなバカなことはない。なぜかというとあの物語は、全編を通してごんがものを言っている場所は1箇所もない。なのに、教師の読みがどうこうと言うと、子供には迷惑。丁寧に読む子供は、ごんは「言ったらいいのに。」なんて言う。またある子は、ごんはお話ができないのではないかと言う。よかったのは、先生が「どこからそう思ったの?」と返した。すると子供は、実際の文章を例に挙げながら、どこを読んでも「思いました」とか「考えました」と書いてあって、「言いました」というところは一つもない、というのを子供が出す。そして先生が気が付く。だから、一緒に読むというつもりでいたほうがいい。ただ、子供に文章を読んでもらう、文章に目を向けるための問いかけは考えておいたほうがいい。

(この後、「書き込み」について、小畑先生から資料いただき、話をしていただきました。内容は省略します。)


2014912日の活動報告です(小畑先生の話)

音読の時間や回数の話になりがちである。音読そのもの、子どもの音読を先生が受け取るという話も必要。
音読がいい、読みそのものがいいということがある。音読そのものを受け取れないと、音読ばかりしてていいのかなという発想になる。音読そのものが受け取れない人は、子どもに物を言わせないと受け取れない。先生が、子どもの言葉でしか受け取れない。だから言わそう言わそうとする。

音読で、手が挙がってない状態の子供が当てられていた。そればいい。読んでと言ったときに、手を挙げてもらうこと自体は構わないが、その時は人数を気にした方がいい。さらに、手を挙げている子どもに当てる必要はない。当ててもいいけど。

めいめい読んでいる時は 雑くて、1人で読むときはていねいに読む子がいる。そんなことも含めて当ててあげると良い。当てるのは二通りあって、この子の読みを他の子にも受け取ってもらいたいとき。もう1つは、この子はめいめいで読むと雑になるとき。いい加減に読む。そういう子も指名したらいい。

音読そのものをどう受け取るか。子どもがイメージして読むようになると、音読だけでも面白い。1時間中ずっと音読しておいてもいい。ただ、現実問題としてそれはしんどいから、間にお話をちょっと挟む。ペア読みもいい。この子は、隣の子の読みを聴いて自分も読めばいい。大いにやればいい。

この子は、1人で読んでいる時よりもペアで読んでいる時のほうがずっとていねい。

読みがというと、様子がよく分かるようにとか、気持ちを込めてとか、結局は上手に読めという言い方をすることがある。それは違う。擬音語、擬態語、形容詞、副詞、「  」、そんなところばかり意識してしまうことになる。イメージを浮かべながら文章に向き合って読ませたい。速い読みはだめ。イメージしている場合の読みは、速くならない。

「〇〇〇〇」を頭に浮かべながら読んでみてと言っておいて読んでもらう。

概ね、読みが雑な子どもほどよくしゃべろうとする。読みがていねいな子どもはあまりしゃべらない。聴き手に回ったりする。だから、思った事を言ってもらうと、ものを言う子は読みが雑な子どもが多い。だから指名のこともある。

先生で、トーンが高い人は自己主張型。子どもが言ったことの中で、自分が気に入ったことだけを取り上げる。他の事はよう受け取らない。とても面白いことを子供が言っても、先生と合わないところは取り上げない。

グループの時、ウロウロしないのがいい。特に先生が言って、サポートしなければいけない子はいない。グループをしたとき。

一斉授業が好きな先生が沢山いて、なんでかなと思う。自分から話をしようと思う子は固定している。決まった子ばかりになる。同じ子が何度も発言する。一斉授業でよく起こるのは、当たってもものが言えない子どもがいる。つまり、聞いていない。一斉授業はそういうのがよくある。先生が聴いていて面白いと思ったとき、その子どもとのやりとりになる。こういうのは一斉授業中じゃない。その子とのやりとりというのは、個別のやりとり。一斉授業というのは実は難しい。いろんな発言をする子どもがいても、よく見ていると聞いていない子が何人もいる。なのに、一部の子供の発言ばかり取り上げて進める。そういうのは基本的に学び合いではない。なぜなら、学び合いというのは、一人一人の学びを保障すること。となると、一斉授業は難しい。なので、少人数がベースがいい。ただし少人数には限界がある。4人しかいないから、話したり聴いたりは良くできる。しかし、出ても思いは4通りぐらい。限界があるので、一斉授業もするが、それをメインに考えると必ずこぼれていく子どもがいる。メインは少人数の方にある。少人数の限界を超えていくために一斉をする。

普段よく聴ける子どもが、話を聴いていない状態になれば、一斉授業は即やめる。要するにほとんどの子供が聴いていないから。そしてグループにする。そういう判断があったらいい。

手を挙げるのは、音読をするときに人数を意識したらいい。基本的に子どもは読むのが好きである。そして、思ったことを言うとかいうときは、手は挙がらなくてもいい。0でもいい。逆に、思ったことを言うとなった時に時に、沢山手が挙がっている学級はろくなことはない。なぜかというと、もの言おうとする子どもは、分かったことやある程度自信のあることを言おうとする。だから手を挙げる。どうなんだろうなぁと迷っている子どもは手を挙げない。話をするときに、パッと手を挙げる子は返って要注意。なので、先生の方からボコボコ当てるといい。子どもの表情や様子を見ながら。この子の思いを出して欲しいなぁという時など。

手を挙げている子どもの中にも、このタイミングで当てないと後はだめだという子どもがいる。だからポイントは二つ。手は出ているけど、今当てないとだめだという子どもに当てる。もう1つは、手を挙げていないけど、この子の思いを出させたいと思うときに当てる。

ものを言ってもらう時、どちらかというと最初は手を挙げていない子の方がいい。手を挙げている子は後回しでいい。最初から手を挙げている子どもの話は面白くないことが多い。当たり前のことや教訓的なことを言うことが多い。そうすると、そのあとそういう流れになってしまう。

見ていると、手を挙げるのはほとんど男の子ばかり。大体は、小学校から中学校まで女の子の方がいい。だから、女の子が発言しない学級はそれだけでだめ。その状態は、学級崩壊だと思う。学びについては。ただし、手を挙げていなくても当てたら言うのは構わない。男の子がボコボコとものを言って、発言が多かったと喜んでいるのは良くない。だから、女の子をどう引っ張り出すか。

先生はトーンを低く。ウロウロしない。手の挙がりを気にしない。

子どもが読んだ後に、先生がコメントをするのは良いが、それは賞味期限付き。4月ぐらいにうんとコメントをして、それは、こんなふうに文章に向き合って欲しいなぁとか、こんなふうに読んで欲しいなぁというのを出す。そのためにコメントをする。それを2学期になっても3学期になってもやっていると、うるさいだけ。できるだけ早くコメントをしないで済むようにする。もちろんコメントの内容は、大きな声でスラスラ読めてよかったねなんて言わない。それは禁句。

子どもが音読した後のコメントは、本人にも言うが、まわりの子供にもこんなふうに読んでねとアピールしている。音読の途中子どもが詰まった時などに、先生は「ゆっくりと考えていたんだね」と言ってあげる。子どもはそのつもりではなくても。

「読み味わう」と「イメージを広げる」は、離しては考えられない。どちらにしても言葉。言葉に寄り添う。言葉からイメージを広げる。

どんな読みを子供に求めるか。それは、子どもがどれだけていねいに読もうとしているか、どれだけ本気で文や言葉に向かっているか。これがポイント。これは変な抑揚をつけるということではない。どう表現しようかということでもない。どう文章に向かっているか。隣の子供に漢字をきいたりしながらでも、一生懸命本気に読む子ども。そういう子どもの読みを受け取れないとだめ。

音読をどう受け止めるかは、とても大事な話。

子どもの読みを変えていくことのポイントは、子ども同士。子どもに働きかけたり手助けをしてくれたりするのはやっぱり子どもである。先生がやって何かできたと思うこともあるけれども、実際には難しい。物理的な問題もある。手が回らない。だから子どもに助けてもらいながら。隣の子供に助けてもらう。しかし、国語で読むときだけとかいうのはだめ。他の教科でも一緒にやる。算数の問題を一緒に考える。そういうつながりの中で子どもに助けてもらう。


2014716日の活動報告です(小畑先生の話)
・いい感じの子が何人かいるけど、本気じゃない子もいる。全文を読んでから書いていたけど、この子なんかが書き終わったらもうおしまいがいい。ただ文章は読まないと話にならない。文章を読んだのはいい。ただし、先生が全部をと言ったときに、この子たちは全文を読む必要性を感じていないわけ。声が大きすぎなく、トーンはいいが、ちょっと速い。
・「どんな気持ち?」というのは、そのこと自体はあまり良くない。気持ちを聞くこと自体具合が悪い。文章に、かえって入っていけなくなる。「透明な空気」というところに着目してもらいたいとき、直接その部分を問題にしない。周りから攻める。気になる言葉があったら直接そこでしたがるけど、それは違う。例えば、「走れ、そのまんま走れ」は誰が言ったのか。誰が言ったかによって多いに違う。決めるのは難しいから決めなくてもいい。子供が読んで、誰が言ったと受け取るかが問題。これが、お母ちゃんとけんじが声をそろえて言ったという感じになると、後ろにずうっと響いてくる。だからそういうところがポイントになる。これは、「絡みついたものがスルスルほどけていく」に関わってくる。私はこれは、お母ちゃんとけんじの位置関係が大きいと思っている。お母ちゃんとけんじの声が重なって聞こえてつまり、同じところにいるのではないかというふうに、声が背中にかぶってくると、もう余計のことこれはスルスルとほどけるんですよ。という成り行きになる。その流れの中で透明な空気が出てくる。だから、直接そこをさわるんじゃなくて、それ以外のところから触っていけばいい。
・「走れ、そのまんま走れ」は誰が言ったのか。3通りある。けんじが言った。お母ちゃんが言った。2人で言った。決める必要はないが、あなたはどう受け取ったというのが大事。そんなことを考えるのも面白い。この文章の書きぶりからいくと、「 」と( )があって、「 」は明らかに言葉に出して言ったという書きぶり。「走れ、そのまんま走れ」は、口に出して言ったという書きぶりになる。のぶよが自分で口に出して言ったというふうには思いにくい。
・この子面白い。お隣の女の子がいい。だからもっと沢山お隣と。頭から、もう読む時からお隣とするぐらいがいい。雰囲気はいいし、反応もしている。だけど話の中身は軽い。言う子も限られている。何人かの男の子がポッポと言っている。それなりに考えてはいるけど本気になっていない。文章を読んで、どういうふうにとはなっていないところがある。だから音読をもっともっと。子供が何かものを言うたびに、「そこ読んでみて」と、範囲を広げて。
・手を挙げていない子。こういう子や後ろの女の子。お隣と話をして、その後ぐらいに指名してみたい。この子には、お隣の子はなんと言ってたと聞いてみたい気がする。お隣の子の言うことを聞いていたかという意味も含めて。そういうことはこの子にとってプラスになる。
・お母ちゃんは、自分の膝から割り箸が落ちたのを気が付いていると思いますか。というようなことのほうが、私は面白いと思う。気がついていると思っても気が付いていないと思ってもいいけど、気が付いていないとなると、「何も言わずにゆっくりとご飯をのみ込んでいる。」というところの読み方が違ってくる。気が付いているにしても、拾う気力がないわけでしょ。となると、ただ食べているんじゃない。そんなところのほうが面白いと思う。
・挙手していない子にも、慣れてもらうことも含めてペアをしたすぐ後に指名する。すぐ後は割合ものを言いやすい。言いやすい条件のときに当てて、ものを言って慣れてもらう。
・音読については、「どこからそう思った」と子供に聞いて、子供が場所を言ったら、仮に32段落からそう思ったと言ったとする。そうしたら、31.32.33.34を読んでみようかと。音読している時が一番感じがいい。先生がそこ読んでみようと言ったらみんなよく読む。ものを言うときになると、言っている子もいるけどそうでない子もいる。だからもっと音読する。
・この子なんかは、お隣と交代交代で読んだりさせたい。この子も隣と交代交代で読ませたい。この子なんかは、「隣と一緒に読め」と言って読ませたい。
・理屈ばかりにならないようにするためには、ていねいに読もうということが一番。「何で」とか「気持ち」とかを聞かないほうがいいが、何でかなと思うことは当然ある。読みのスピードの話もしたけど、はじめの方で、「えっ、3人分?」なんて思いながら読むと、そんなに速くは読めない。何も考えないでわーっと読むと、速くなる。ていねいにていねいに文章を見ながら、そうすると9行目の「うん・・・多分ね」なんて、どう読もうかなぁなんて考えると思う。あっさりと言ったのか、ひょっとしたらこないんじゃないかなんて。演技のようにわざとらしく読めとは言わない。でもどう思うという感じで、こんなところは速くは読めない。
・「しわしわの枕をパンパンと叩いて」というところは「のそのそ」というところとイメージが違う。文や言葉を、ていねいにていねいに読むのがいい。
・グループをどのタイミングでなんて思わないで、しょっちゅうやるほうがいい。逆に、どのタイミングで一斉をやろうかなと考えておいたほうがいい。グループやらペアがずっとあって、どのタイミングで一斉授業をしようか、そっちの方がいい。
・大体、ビデオを撮ってくれる人がいる学校はいい。置いたままでもいいんだけど。だけど、置いたままなら右後ろの子どもは映らない。だから学校の雰囲気はいいと思う。

2014617日の活動報告です(小畑先生の話)
・雰囲気はいい。グループは、一番基本的には一人一人の学びを保障するため。人と繋がれたらいいなと思う子が繋がっているかどうかがポイントになる。必要とする子が入れているかどうか。
・学び合いと言って、グループにしたり2人組にしたりするが、4月ぐらいに、この学校の「やり方」はと対応している学校はだめ。なぜなら、学び合いはやり方の問題ではない。方法の問題ではない。方法は中身と切り離すことはできないので、中身を別にして方法だけが独り歩きをするのはだめ。少人数にするのは、一人一人の学びを保障することが1つ、学びの質・レベルの問題があって、必要があるから少人数にする。そういうレベルのことをやるのが前提。だから、2人組とか4人組をしながら、1人でもできることをやっているのは話が違う。
・今日の授業では、レベル的にはそれほど難しいものではない。ただし、いいところは答えが1つではないこと。だから、何通りも考えていくということで子供同士が繋がれる。
・話をしてるからいいだけではなく、自分から訊けるといい。グループでは、学力の低い子が自分から訊けないと、一方的に教える関係になって、でも話をしているからいいと、それは違う。
・問題の質・レベルによって、4人に一枚の紙はいいと思う。または2人に一枚でもいい。4人に一枚の時は B4サイズぐらいがいい。
・隣と確認している時、ポイントとなるのは、隣と確認することが必要な子が確認しているかどうか。当然。ところが必要な子は大概確認していない。そのまま通り過ぎてしまうのは具合が悪い。「受け取れた」とか「伝わった」とかいう時に、ターゲットは持っておいたほうがいい。つまり、誰に反応してもらいたいのか。子供が他の子に、「いいですか?」と聞くことがある。まわりの子が、「いいです」ということがある。ところが30人のうち、「いいです」という子が20人もいない。あの子こそ反応して欲しいなと思う子が全然反応しないのに、そこそこの人数が反応したら先生はそれでいってしまう。誰に反応してもらいたいかは意識しておいたほうがいい。
・途中に、グループで考える時間はあるが、グループというのが明確でない。ぽそぽそと話をしているところと、全然話をしていないところがある。グループは何回でもすればいい。少し前のところで、「合ってる」「合ってない」と、意見が別れていた時があった。その時ははっきりとグループで話をしてと指示をすればいい。どのグループもやるように。そうしないと必要なグループがやらないことがある。
・教科書ぐらいのレベルになると、ここの学校の場合は大方の子はしゃべる必要がない。人と相談する必要がない。退屈してしゃべることになる。人と話をして学び合うのは、中身がそれを必要としているから。共有の学びと言われるものの方が、グループでやるのは難しい。なぜなら、グループを必要としないレベルの子が沢山いるから。レベルが高く、1人ではできないとなると、話をしないと仕方なくなる。
・みんなができたかどうかをどうやって確認するか。だいたいは、早くできた子が他の子に教えて、それでできたということになる。その関係がグループの中でできてしまうと、分からない子は自分から訊くのではなく、一方的に教えられる関係になってしまう。これは要注意。分からなかったら自分から訊く。
・自分から訊けない子は、具体的に言ってやらないとけない。「この子にきけ」というふうに言ってやらないと、グループでと言っても、3人いるので訊けない子はなかなか訊けない。「分からなかったら誰かに聞いてごらん」と言っても大概訊かない。先生がそういうふうに進めようとしているという姿勢があればいい。
・教育観の問題。授業がぐちゃぐちゃになっても、先生があの子を何とかしようとしているのであればそれでいい。
・先生が座って授業をすることについて、逆になぜ先生は立って授業をするのか。それにちゃんと答えられる人はあまり多くない。よく見えるからとか言う人がいるが、始めに内容と方法は切り離せないと言った。先生がどういう居方をしているのか。中身とくっついている。立っているか座っているかというのは、どういう授業にしたいかということの違い。あと国語で、どうして子供がめいめいバラバラで読むのかと聞かれることがある。では、なぜ声をそろえて読むのか。これも答えられる人はあまり多くない。答える人も口だけ。ちゃんと読めない子がいるから、みんながちゃんと読めるようにするためなどと言う。でも授業を見てたら、読んでない子が何人もいる。そういうことがあるから、当たり前だと思っていることは疑ってかかった方がいい。たいがい、当たり前だと思っていることはろくなことはない。
・グループの形になって授業をしている。そして祝える机間巡視。ウロウロと見て回らなければならないと思っている人は、グループとグループの間を、人が通れるように空けている。子どもの全体の様子を見ていればいいなぁと、それからグループの形のまま一斉授業もしたいなぁと思っている人は、グチャっとグループでも詰めている。なぜかというと、向こうの端の子とこっちの端の子が遠すぎると、その一斉授業をすると繋がらない。そこで、席の形を一斉がしやすいように戻すか、グループをグチャっとひっ付けてしまうか。それらは先生がどう思っているかによって決まる。
・一般に、クループ形のままで一斉授業をするのは難しいと言われるが、グループがグチャっとひっついている場合、その一斉授業もできる。だからグループの間を空けていると言うのは、当たり前でもなんでもない。どうしたいかの違い。
・繰り返しになるが、内容と方法は切り離せない。従って、学び合いというのは方法の問題ではなくて、内容がくっついている。基本的には、1人できるような問題をしょっちゅうやることはない。基本は、1人でできないような問題、人と相談しなければならないような問題、人から受け取らなければ自分が高まらないというような内容をやるから、少人数にする。やさしい問題でグループにするとおしゃべりになる。そこの勘違いがあって、学び合いと話し合いは違う。


2014522日の活動報告です.(小畑先生の話)
・ふうふうふうのところをこの子は、他の子と読み方がちがう。面白い。
・この中で言うと、ペアというのはこういう感じ。(画面を指差して)
 隣の子どもの影響をもっと受ければいい子がいる。
席が横に広すぎる。狭くても大丈夫。横に広いとしゃべりにくい。横に広い学級を見ると、私と感覚が違うと感じる。両端の前の方の子どもを見ていない先生が沢山いる。人数が多い時は、私なら縦長の方が話しやすい。
・大丈夫じゃないのは、子供同士に話をしろと先生が言っているから。基本的に違う。ペア・グループで話をするのではない。読む。
・詩であれば、基本的にはまとまりを1人が読む。しかし、人が読んでいるのをあまり聞いていない子がいる時は、一行ずつ切って読んでも全然構わない。期間限定で。
・この場合、隣と話ししろじゃなくて、隣と読めばいい。交代交代で読む。これなら一行ずつ交代で読んでもいい。そのように、隣と「読みましょう」という。
・隣と交代で読むのは良くて、それは隣の子の読みを聞かないといけないから。聞いて受け取って自分の読みになる。
・ペアにしたら子供が崩れるのは、話をさせるから。話しをさせるのではなくて、隣と読む。これは高学年でもした方がいい。話をして何か考えろというのが授業だというのが先生の中にある。それは違う。
・考えろではなくて読んでみよう。そしてイメージしてみよう。考えろ考えろと先生が言う場合、先生のイメージが貧困な場合がある。
・「トントントン」という音は、子供によっては歩いている音であったり走っている音であったり跳んでいる音であったり、ドアをたたいている音だったりする。子供のイメージが面白い。先生もそのようにイメージして読む。「ふうふうふう」も、子供によってはため息であったり、疲れた声であったり、雨がかからないように吹いている音であったりする。こういうことで、言葉から情景をイメージすることになる。
・この頃うんと増えているのは、2人で読むときはテキストを1つにして読む。ベチャっとひっついて。こういうことをしてみると、べちゃべちゃしゃべったりしない。
・沢山のペアがお隣と話をするようになったが、これは「どんなふうに読むか」を話をしていると思うか。私は?だと思う。だからあまり話はさせないほうがいい。話をするより読みたいと思っている子がいる。
・2人で一緒に読むよりも、交互に読むほうがいい。2人で読ませるのはいい。
・「この学校のやり方は・・・」という話があるが、そうではない。なぜかというと、学びとか学び合いとか、ペアにするとかグループにするとか、あれは、やり方の話ではない。方法の話ではない。それを方法の話にしてしまうところが、何もわかっていない。理由は二つある。1つは、どの子も学びの中に入れるというのが1つ。もう1つは、1人ではできないレベルの課題をやるから、当然人と組まないとできないということ。ところが、形が先行すると、なんでそんなものをグループでするのということになる。すると当然やかましくなる。課題がやさしすぎるから。だから基本が違う。やり方の問題ではない。
・じゃあ、1人でできないからといって、全体でやるということになると、これはだめ。一斉授業はだめ。一斉授業でやったらこの子たちは絶対に置いていかれる。この子は参加もしない。この子なんかは話を聞いているような顔をするだけ。一斉授業でやっている人は、一人一人の学びというのがぬける。置いていかれる子が必ず何人か出てくる。
・見た目、行儀悪くならない子が危ない。行儀悪くならなければ先生はいいと思っている。
・だから少人数で考える。少人数で考える必要がある課題にする。
・例えば、実際にはないだろうが、高学年でグループやペアでやったときに、繰り上がりのない足し算や繰り下がりのない引き算をやれという先生はいないだろう。なぜなら必要がないから。ところが方法論で言う人は、グループやペアは大事だから、そんなレベルの低いものでもグループでということになる。そうするとやかましくなり、学びがない。
・「読み」なんかは、「人の読み」を聞かないとだめ。それを受け止めないとだめ。全体で読んでいる時は、聞いている子もいるけども聞いていない子もいる。一人一人がということを考えると、やはり隣と読む。少人数でということになる。

・先生の声のトーンが低くて良い。ある研究会で、先生の声が小さすぎるのではないかと言った人がいる。しかし、先生から一番遠い位置にいる子供がちゃんと聞いていた。その事実がある。子供を見ないで、その声では聞こえないなどという人がいる。あのトーンで十分いける。
・早い時期から、子供をべチャっとくっつけたらいい。ベチャっとくっつけてうるさくなるのは、二つのパターン。1つは先生がうるさい。声が大きくてうるさい場合と、ぐちゃぐちゃと口うるさい場合。もう1つは、やっていることがやさしすぎる。これはおしゃべりになる。
・座席配置は横に6列なので、真ん中にぎゅっと詰めれば良い。子供後ろにまわすという事をしなくてもいける。
・隣の子の読みを聞いて、隣の子のイメージを感じ取る。言葉や話を付け加えても良い。読みを入れながら話すのではなくて、話を入れながら読む。読みが中心。
・ある学校で、ペアで読んでいて、読めない子供のために隣の子どもが指で追ってやっていた。これは、読めない子のためにだけすることなのか。実は違う。そこそこ読める、或いはを読めると思っている子は読みが雑なことが多い。自分で読んだときは気が付いてないことも、お隣の子に指で追ってやっているうちに自分の読みも丁寧になって、パッと気が付いたということがある。
・スラスラスラスラ読む子は、だいたい中身が雑。そういう子が指で追うことで、別のことに気づく。
・先生がいろんなことに気づいていない場合が多い。その理由の1つは、先生自身があまり読んでいない。もう1つは、この話って何が言いたいのかお話してみましょうという趣旨で、授業をする人は頭から読み方が雑。小さなことには気がつかない。だって、この話は何が言いたいのかということになればいいから。私は、文章の読み方として、そういう読み方は間違っていると思う。
・ある学校で、ごんぎつねで、子供が「狐がものを言うのはおかしい」などと言った。ところがある子が、ごんは1回も物を言っていないという。これは気づきやすい。どの「 」にも、考えましたや思いましたと書いてあるから。そういうことに、子供が気づく。丁寧に読むとそういうふうになる。先生によっては、「これが物語だから、狐が物を言ってもいい」という人もあるが、全然違う。狐は物を言ってない。その程度は先生も読んでおきたい。丁寧に読むと子供も気づく。読めない子がいるからペアで読むわけではない。読める子にももっと丁寧に読めということ。
・高学年になると、グループでまわして呼んでもいい。

2014424日の活動報告です.(小畑先生の話)
・早い時期の授業。手を挙げている子どもがこれだけで、これを多いと見るか少ないと見るか。これを意識する。
・子どもが緊張している。これは早く崩したほうがいい。全体的に読みはいい。始めにあの子を当てたのが良い。子どもに手を挙げさせたとき、当然気になるのは手を挙げていない子。手を挙げさせる時の面白さは、誰が手を挙げないかがわかること。手を挙げてない子を指名するのは当たり前のこと。
・グループ。4人グループとかの方法がある。しかし、中身があって方法がある。なんでグループにするかというと、この子に思いを出させたり、一人一人の学びを保障するためにやっている。だから少人数。今、子ども固そうだが、これでグループをするとどうなるか。グループに入れない子がいたら、先生は当然手助けをする。
・子どもの表情が良くなってきた。一斉授業はだめ。この子とこの子と・・・一斉授業だと置いていかれる。何人かのものを言う子だけを当てて授業を進めるのは教育ではない。授業研究では座席表を用意して子どもの名前が出ないといけない。
・一斉が長くなると、この子、この子・・・にはほとんど伝わっていない。一斉を長くやると、どのクラスでもそういう子がでてくる。時間が短くていいから、グループを多くする。グループ・全体・グループ・全体というふうにしてあげないと、入れない子が出てくる。
・授業中の発言のさせ方の問題。多いのは、わかったことを言えということ。わかったことを言っても、面白くもなんともない。・・・・・が、わたしはわからない・・というような発言は出ない。だから雰囲気をやわらかくする。グループでは出せるが全体では出せない。
・子どもに次々に物を言わせるのではなくて、これが春の子どもだと思うところに線を引かせるのもいい。引けない子どももいる。グループで話をしながら引けばいい。
・ものを言わせるのが国語の授業ではない。ものを言うのは、文章を読むためにものを言っている。連単位でもいいから、何回も読んでみてという。
・文章を読むのは、文章を音読するという事ではない。或いは解釈して説明することと考えている人が沢山いる。それは間違っていると思う。以前ある子どもが、「雑草」の詩の授業で、「作者は雑草の強さに感動している」と言った。その種の発言が続いた。そういうのを良しとする先生も多い。だけど作者ではなくあなたはどうなのというのが出てこない。その子の心は動いていない。説明、解説しているだけ。
・あまんきみこははっきりと言っている。読者がどう読むか。統一するものではない。教師の読みがとか教師のねらいがとか言う人に限って、文章を読めない。例えばごんぎつね。最後「ごん」が死んだということになっている。誰もがそう思っている。直接的に「ごん」が死んでしまいましたという表現はどこにもない。教師の読みが、教師のねらいがという人に意地悪く聞いてみる。「ごん」が死んだというのはどこでわかるんですかと。まともに答えられる人はごく少ない。「ごん」が死んだということは、それなりの書きぶりでちゃんと書いてある。

20131127日の活動報告です。(小畑先生の話)
・トーンはいい。読み方が速い子がいる。いい感じなんだけど物を言わない子がいる。この子は自分から手を挙げない。意図的に当てている。普段あまりモノを言わない子、集中しにくい子を意図的にあててこういう読みならいいと思う。教材を細かく分けて当てているけど、今の状態なら、人数を多くは当てた方がいい。そうしながらだんだん一人で長く読むようにしていけばいい。
・もう一ついいと思ったのは、最初めいめいで読んで次に指名読みというふうにパターンがあるというふうに考えていることがある。そんなものパターンも何もない。だから、最初に指名読みをして、次にめいめい読むのを入れる。そういうのがあって全然構わない。読みの速い子がたくさんいる時には、先にゆったり読む子を指名しておく。めいめい読む時に速い子も、指名しているのと違ったりする。だから、先にゆったり読んでもらって「今のような感じで読もうね」と言って、めいめい読ませる。
・どの学校でもどのクラスクラスでもよくあること。休んでいる子のこういうのが気になる。引き出しが机の上に出しっ放しにしてある。こんなん邪魔だと思う。中へ入れればいいだけの話。この子やこの子やこの子が他の子が読んでいる時にずっとテキストを見ておれればいいが、それは難しい話。ちょっとずつ見られるようになればいい。少なくても読んでいる時間帯の半分ぐらいはテキストを見てくれていたら。読んでいる子ではない他の子も見ていればいいと思う。
・この女の子が読むのが一番遅かった。その次がこの子。いいよこの子ら。残って読んでるこの子らを、他の子らが聞けたらいい。この子も遅かった。この子がこれぐらい文と向き合っているというのはいい。この子は「ごんぎつね」が好きなんだと思う。めいめい読みのトーンも高くないのでどんどん入れる。ポイントは後に残った子の読みを周りの子が聴くようにすること。
・話をするのが目的ではなくて読むのが目的。今のようにめいめいで読む前に、もう1回読むチャンスがあった。この子が、「びくを土手に置いた時」と言った。「キスなんかが取れるかもしれないから」と言った。テキストの9ページから10ページにかけて読んで、「今この子が言った事どうかな」と、読んで返す。なぜなら、ごんはキスが取れるかもしれないと思ったわけじゃないから。だって逃してるわけでしょ。だから逃している部分も入っているところを読んで、どうだろうかなと。今みたいに、「ビクを置いた時」と言わなかったら、「どこからそう思う」と聞き、その前後を広げて読んでみようと。それでめいめい読むというふうにしていけば、何回も読むことになる。読んで文章から確認するために何回も文章に戻す。
・根本的な問題として、ごんは良い狐なのか悪い狐なのかと、物語文を読むときはそれはだめ。なんでかというと、文学なんていうのはそういうことが書いてあるものではない。だからそういうことは持ち出さないほうがいい。だけど、段階の問題として、いい狐とも悪い狐とも言えないと。そういうのが問題にはならないのだということが結果的に子供たちに入ると、それはそれでいい。子供たちは育って学年が上がって物語を読む時には、この登場人物はいいのか悪いのかというようなそういう読み方をするのではないのではというようになってくれれば成長。
・グループを終える時は、一つでも二つでもグループがやかましくなってきたと思ったら終わる。全体にする。そこで聞いてみたらいい。どこからそう思うのと聞いてみて、読んでみて、そういうふうに幾らか聞いてみて、「どう?」というふうにまたグループにすればいい。
・こんな感じで先生がグループに行っているのはいい。先生が意図的にこの位置にいるかということになると、いいよ。意図的でなかったとすれば、どんどん意図的にしてほしい。このグループに行った時に先生がこちら側にいた。これはいい。このグループの中で一番気になるのはこの子。だからこの子のそばに行ってはだめ。この子はそうなったら話すとしても先生と話すから。先生が向かい側に行った。こういう位置に行くのがいい。側へはいかない。いい位置にいると思った。
・兵十のおっかあが、うなぎが食べたいと言ってるやんというけど、これは分からないこと。「・・・違いない」と書いているけど、これはごんがそう思っているだけで、読んでみるといいなと思う。この子の最後の言葉がいい。「乗せておきました」というのが。私はこの教材の話をする時に必ず入れる。ここのところを今みたいに気づいて言う子供はめったにいない。先生にもめったにいない。ごんがウナギをほってしまったのではなく、葉っぱの上に乗せておいたというような、ある意味丁寧な、そういう感じのある狐だというふうに思うのは、そういうふうに読んでいる先生自体も少ない。子供がこういうふうに言うのはごく少ない。ああいうのは、そこ読んでみようと言ってまた読んでみたいね。
・あの子も読み違いをしている。へばりついているのはごんだと思っている。やっぱり読まないといけない。何回も。話をしたら、そこを読んでみようというのが必要になる。
・この子もいい。顔にへばりついているのにとらないというのは、魚をとるのに必死だという。こういう子も、ごんぎつねの授業を見ていて、あまりいない。なぜかというと、ごんが良いか悪いかの問題ではなくて、兵十をという人間の人となりを表している。つまり兵十っていうのはそういう人だと。ごんが兵十に何やら親しみを感じて近づいていきたくなるのはここ。その兵十の様子。何か人の良さそうな、働くことしか知らないような。ごんが兵十に親しみを感じるきっかけはこれ。始めはいたずらという形でごんが兵十に近づく。「ちょいと」なんていう言葉にそれが含まれている。ごんはいたずらという方法しか知らない。ここは兵十という人の様子を表している書きぶりで、そういう引っかかり方をしてくれるといい。結構いいところに引っかかっているので面白い。そこ読んでみようというふうにやって、そんなふうにやるといい。
・こんな子がその気になってくれればいい。授業は明らかに先生がしゃべりすぎ。ただ、この話の作りの中身としては先生の言いたいことは分かる。なぜかというと、ごんにしてみればちょっとしたいたずら。だけど、それをされる村の人からみると生活に関わるようなこと。村の人は非常に腹立たしく怒っている。これがずっと流れている。念仏に行って、その帰りに後をついてくる。ごんはあのとき、「きっと俺の名前が出てくるんじゃないか」思っている。ところが出ないから、神様の仕業なんて割に合わないなんてなるんだけど、人間の側からするとごんなんて候補にも上がらない。問題外。ごんの方は、俺の名前が出るかもしれないなと。この違いは、いたずらの捉え方の違いからずっと一貫している。最後は兵十が問答無用で打つんだけど、うなぎのことかどうか分からないが、うなぎのことだけでドンと打ったりしない。暮らしを脅かすようないたずらをされているから、兵十の側から見れば、ごんは問答無用で打ってもいいという存在。でも、ごんの側は違う。ごんのいたずらは無茶苦茶ひどいいたずらだということを、子供が意識していればそれはそれでいい。そうしたら、兵十は何でごんを打つのというように、あまり一方的にはならない。
・グループを取り入れてというのは、学び合いということを考えると、グループを取り入れてという発想自体が間違っている。少人数でやらなければだめだということ。これが基本的な発想。話し合いとか討論とか、そんなことは必要がないというのが学び合いの基本。なかなか先生の方の発想が変わらない。子供たちに物を言わせるときに、分かったこと・自信のあること・前もって考えたことを言えという発想。それは明らかに先生の言葉遣いにも表れていて、ほとんどの先生が、子供がものを言うことについて子供が「発表する」という。発表とは、分かったこと・自信のあること・前もって考えたことを言う言葉。つまり発表会をしろと言っている。それは学びではない。つまり、分かったことを言い合うのは学びではない。そうではなく、分からないこと・自信のないこと、これを出し合って、いっしょに考えて積んでいくというのが学び。自分はこう思うんだけど、誰かに訊いてみたいなという、自信のないこと。これは分からないなというふうなことを、出し合ってみんなで知恵を集めて重ねていく。それが学び合い。だとすると、3040人でそれをやるのは難しい。というより不可能。3040人でやろうとすると、100%こぼれていく子供ができる。だから、一斉授業で一斉にやって全体で確認してなんて言うけど、それはだめ。やってる本人が勝手にそう思っているだけで、そんなことはあり得ない。まずこれ一斉でやったらこぼれる。間違いなく。ところが、例えばこういう子が目立って行儀悪くしないでおとなしくしていると、先生はそれで全体が確認できたと思うわけ。勝手に。授業を見ていると、ほとんど聞いていないのに行儀悪くしないから、ちょこんと座っているし、授業者の先生はこれで確認できたって言うわけ。子供をちゃんと見ているのかと思う。この子は読みがいいし私は好きだけど、一斉でやったらこの子は置いていかれる。みんなを中へ入れて、さっき言ったような学びにしようと思ったら、絶対に少人数じゃないとだめ。どんどん少人数をやる。この子なんかが思いを出せたらいい。きっと分からないことがいっぱい出てくる。この子(別の子)なんかがそれについて一生懸命になって話をすると、いいと思う。その話をする子にとってもプラスになる。なぜかというと、思ったことをこの子(分からないと言っている子)に伝わるように言おうと思ったら簡単なことではない。一方的にしゃべるのは簡単かもしれない。でも、一方的にしゃべるのはコミュニケーションではない。だから、発表会というのはコミュニケーションではない。基本的に。コミュニケーションというのは、やりとりがあって相手に通じるまたは通じるように話す。受ける側は、一生懸命受け取ろうと思って聴く。それがないとコミュニケーションにならない。この子をある意味鍛えることになる。この子がこれ分からないと言って、そのことについて伝わるように話そうと思ったらこの子は大分知恵を絞って苦労する。そうするとこれは一方的に教えてるという感じじゃなく、この子にもプラスになる。この子も疑問を出せたらいい。この子がこの子を苦しめてくれたらいい。あと、子供同士の関係。この子もこの子も2回ぐらいし話した。面白そうなこと言った。だけど聞いている子供の様子を見ると、この子の場合は聞いている子がどうも雰囲気からしてまたあいつやという感じがある。この子がいる時の方が周りはよく聴いている。こういう関係がある。聴いている子の様子が違う。
・子供の一つの不幸は、幼稚園から一年生にかけてずっと本気になれないような課題ばっかり先生から出されて、そのまま大きくなっていくと、5年6年になって本気になったら絶対に力を出すはずやのにと思うのに、そういうことを経験したことがないから、ほわーっとした感じに見える。そういう子って残念ながらいる。この子なんか課題がピタッときたら絶対に行くと思う。
・読みがたどたどしい子は、スッと言葉の単位でパッと頭に入ってきたりしにくいわけ。当然。だからたどたどしい。要するに、一生懸命になって文字や言葉を追おうとしているわけ。それがつながってスイスイと行かないけど。そういう感じが一つ。それからプラス、これは子供によって違うけど、イメージしながら或いは考えながら読むとちょっと詰まったりとか、するようになることがある。その二つが合わさってたどたどしく。例えば、これで言うとごんぎつねは「小ぎつね」と書いてある。始めの方に。その小ぎつねの「小」が子供の「子」ではなくて小さいと書いてある。これ、子どもの狐のような感じがする。にもかかわらず、小さい狐と書いてある。なんでかなと思って詰まっても不思議ではない。この小ってどうして小さいなんだろうなって思いながら読むと、そこのところを詰まったりすることは十分あるわけ。そんなことも含めて考えると、たどたどしいっていうのはいいんですよ。逆に言うとすらすら読むのは、書いてある文字を声にするのが上手なだけで、イメージとはなんの関係もない。イメージになっているかどうかとは。だから、スラスラ大きな声で読めていいねなんていうふうに褒める方が変。ただし、すらすら読めるというのは、音を声にするのが上手だという意味では、決して悪いことではない。そこだけを取り上げると。でも、文章の中身に触れながら読むとなると、そうはいかないだろう。

2013
1017日の活動報告です

この日は佐藤学先生のお話をまとめてみました。
5年国語「大造じいさんとがん」のビデオを見たあと
・このクラスは子供と先生との関わりがいい。教室の後ろの方が暗くなっていない。端から端までどの子もつながっている。
・この授業の一番のポイントは、音読はいい声。だけどその後の発言を聞いているとほとんど内容がない。読んでいながら読んでいない。子供たちが話していることは本当単純なことで、会心の笑みであったということと、夏からたにしを準備していたと、このことしか言っていない。
・途中から何となく夢中になって学んでいるという感じがしない。それはすでに分かったことをしゃべり合っているから。なぜそうなったか。最後に少し皆が読みに入ってくるけれど、ハプニング的に〇〇君がいいこと言ったから。この子実は最初から全く読んでいない。面白いことに、読んでいない子が一番読んでいる。ということは、読みが読みになっていない。
・最初の指名読みが4分。その後めいめい読むのが4分。ただ、読むのが速すぎる。言葉に触れていない。これはいい、読むのは好きだけど、言葉に触れて読んでいる読み方ではない。
・先生の指名は良かった。ただ子供が読み間違えた時にすぐに訂正をする。あれは良くない。なぜかというと、子どもは間違えずに読もうとする。間違えずに読むのに一生懸命になる。声のいいのは、間違えずに読もうとする一生懸命さ。よく先生言うでしょう。「上手に読めたね」とか。これは言っちゃいけない。子供は、先生が上手だと思うような読みをしようと思うようになる。それから「スラスラ読めたね」これが一番良くない。間違いを指摘するのも良くない。間違えずに読もうとするようになるから。間違えて読むのは悪いことじゃない。なぜ間違えるかというと、想像力が働いているから。おのずから、聞いている子は「間違えた」と思いながら聞いているから心配ない。
・速く読んでいるけどイメージが湧いていない。その段階でどうするかの判断。一つは「書き込み」に持っていく方法。子供って「気づいたこと」や、「なぜ」と思ったことを書き込んでしまう。そういうことよりも、「気になる言葉」に線を引かせたい。引っ掛かる言葉とか気になる言葉。「あっ」と思った言葉。そっちの方がはるかに重要。分かること分かることを書いていくんじゃなくて。子供たちは「会心の笑み」というところに行っちゃった。それは構わない。その後意味不明なのは、先生はこう聞いている。「どうして大造じいさんは満足したのかな。考えたいから音読してくれる。」「どこから大造じさんを会心の笑みを漏らしたのかな。隣の人と話をしてみよう。」どうして会心の笑みを漏らしたかという部分の先生の読みは違う。子供たちも同じ。答えは出ているようだけどそれは違う。前もいけるぞと思ったんでしょう。前と今度はどう違うの。だから会心の笑み。生けるぞと思ったのは同じ。季節は秋だとどこで分かる。ということを子供にもう一回確かめる。前にも書いてある。なぜ戻したいかというと、前とは違うよということ。大群を率いてやってきた。大群てどれぐらいだろう。言葉に触れるとはそういうこと。いつなのか、どれぐらいなのか。どこから来たのか。それがイメージされているかどうか。そして例によって。「例」によって。例によってというのはどういうこと。これまではがんを受けていたけど、ここのところ撃てなくなった。またあの撃てないところにということ。ここに大造じいさんの気持ちが入っている。また手の届かないところにいる。そういう例によって。この「会心」というのは、ずっと場所に関わっている。前と違うから、銃を持つ手もブルブル震える。この緊迫感。だからただ満足してやれるぞということではない。
・教師がそういうものを持っていないと、子供もそういうところに向かって発言してこない。キャッチボールやっていて、ボールを投げても投げても大人が球をポロポロ落としていると、絶対に子供はもうおもいっきり投げてこないでしょう。いい加減な球を投げてくる。どんな球でもぽーん、ぽーんと受けていると、子供は全力投球。受け止められたら気持ちがいいからまた挑戦してくる。こういうキャッチボール。特に文学の場合はそう。一人一人が読みが微妙に違ったりするわけだから、一番自分が言いたいところを先生がパッと受けとめてくれる。友達も受け止めてくれればもっといい。文学の読みというのはそういう快楽。言葉の快楽。今日で言うと、子どもたちは言葉の快楽に触れていない。
・文学っていうのは面白い。一番いいところに子供が食いつく。駄作も名作にしてしまう。だから子供と文学を読む面白さがある。
・例えば先生が言ってもいい。「例によって」・・・「前にもあったよね」「前もしてやられたよね」「毎年毎年そうするという意味じゃないでしょ」「今度の場所は前といっしょの場所?もう一回読んでみて。」
・文学の授業は結局は、テキストをどれだけ細やかに繊細に教師が読んでいるかにかかっている。子供は感覚的に掴んでいる。その時に、こちらが子供の繊細な部分、微妙な部分に響き合えないと。
・グループを入れる時の入れ方が中途半端。〇〇君と〇〇さんのグループが、机の向きを変えていない。彼らのところほどくっつけたい。グループ学習は相談し合うのとは違う。教師はすぐに周りと相談してと言う。あれは非常に中途半端。グループでやる場合は向きを変えなければだめ。島にする。会心の笑みって、ただうまくいくぞという意味なの? はい、グループで考えて。前の期待感とどう違うの。?証拠を見つけて。文章の中から。3カ所証拠があるよ。はい、見つけて。」それで気づいたことを交流する。
・読んで感じたことを交流してというよりも、気になったところを3ヶ所線を引いてと言う。「はいグループでやって。どこが気になったの? どう気になったの?」そうやると面白い。グループを相談し合うようについやってしまう。テキストの触れ方、言葉に触れたところの交流。「どこが気になった?」そういうふうに持っていきたい。
・明日からできること。まず読みを間違えても訂正しない。それよりも言葉に触れて読んでいたか。読んでいながら読めていない。だから課題を出す。「大造じいさんの一の場面の仕掛けと今回の場面の仕掛けとどう違うの。」「大造じいさんの、それにかける意気込みも違うよね。どこかどう違うのか。」それを考えながらもう一回読んでみよう。そういうふうにやって行くと、子どもはどんどんどんどん読んでいく。
・先生自身がどの言葉に触れながら、子供がどの言葉でつながり合えるか探りながらやるといい。

2013919日の活動報告です。
・授業前の様子からして、あの子は良さそう。授業の中で周りがどれだけ聞いているか。
・リズムをとりながら読んでいる子がいる。これはいい。先生はいいところを指名した。
隣と読むのはいいが、隣とどうやって読むかが伝わっていない子がいる。3人いるところは、どうするかを言っておいてあげる。ただし3人だったらこうしたらいいという一般的な話ではない。メンバーによる。
・指名読みを聞いている子も聞いていない子もいる。ポイントは読みの声。大きな声を出す必要は全くない。だけどあんまり小さいといけない。見ていれば分かるけど、声が小さくて聞こえないときは子供はテキストを見ていない。だからある程度、どこを読んでいるか分かるぐらいのことは必要。先生が動いて、ここまで届かしてねというふうにする。
・手が挙がるのが早すぎる。教師が何か聞いた時には子供がテキストを見てほしい。
・横並びの3人は難しい。机を動かした方がいい。
・子供と先生との関係は良い。ただ、人の話をあまり聞いていない子がいる。そこを読んでみてという。読んでから、〇〇君はここだって言っているけどみんなはどう思う。というふうにしていかないと、なかなか聞けないだろう。
・どこかの学校で私が授業をするときは、座席を詰めるところからする。なんでこんなに横に広いのかと思う。先生がしゃべる時もしゃべりにくいのではないか。子供同士が遠い。この間は広すぎる。真ん中へくっつける。そうすると子供がうるさくなるのではないかという人がいるが、その理由は二つあって、一つは先生がうるさ過ぎる。もう一つは課題がやさし過ぎる。普通はうるさくはならない。
・机をギュッと縮めるのが授業の始まりの合図であったっていい。広げるのが終わりの合図であってもいい。その方がよく聴くと思う。
・大造じいさんとガンの授業をやっていて、国語の授業じゃないねという話をしたことがある。なんでかというと、子供に話をさせることが国語の授業だと思っている人がよくいる。音読をたっぷり入れて話をさせると思っている。それが間違っている。文章を読むのが中心で、話をするのはあくまで文章を読むためにする。話をするのは補助である。目的でもなんでもない。「そこ読んでみよう」という。そして、「みんなはどう思った」と聞く。子供1人か2人発言する。「じゃ、またそういうつもりで読んでみよう」とする。そうならないといけない。話をさせれば読みが深まるという考え自体が間違っている。一年生なんかは誰かが1回もの言えば必ずそこを読ませる。そしてみんなどう思うと聞く。1人か2人がものを言えば、もう1回読んでみようと言ってまた読ませる。そうしないと文章を読む授業にならない。
・話を聞いていなかった子も、読んでいる時は聞いている。子供は読むことが好き。おしゃべりするより。
・途中教室を出て行く〇〇君は、感覚がいい。面白くなると教室へ戻ってくる。面白くなくなると出て行く。バロメーターのような子。
・本人はいいのだけど、少し浮いているような子が教室にはいる。その子が授業の中で発言して周りがどう受け止めるかが気になる。
・読むことが中心で話しをすることが中心でないと言ったが、他の教科も同じ。「話し合い活動」という言葉がある。あれは何なのか。話し合いが目的であるかのような。他の教科では例えば課題がある。(国語は別だが)その課題解決に向かうことが目的で、そのために話をする。話をすることが目的ではない。
・物語を読むときに、よく「気持ち」「気持ち」と聞く人がいる。登場人物の心情なんかどうでもいいかと言えばそういうことではない。「情景」や「人物の動き」の中に「気持ち」というのは必ず絡んでいる。だけど、そこで「気持ち」「気持ち」というと「情景」のイメージができなかったり、読みがとても雑になったりする。なぜかというと、気持ちが直接書いてあるところにしか目がいかないから。だからだめなんです。
・文章を読む場合基本は地の文。中心は会話文ではない。ただ、今日は会話文の話をしてみましょう。「  」の中には、①相手に言っている②自分に言っている(声を出すのと声を出さないのと)③相手に言っているんだけど、実は自分に言い聞かせている。この③番が文学では一番多い。これが読めないと文学はなかなか読めない。例えばごんぎつねの最後の場面。あれは自分に突き刺している言葉。ごんに言っているのではない。
・大造じいさんとガンの最後の「おおいガンの英雄よ・・・」は、おじいさんの決意表明ですから、③番です。大造しいさんとガンの場合、①は全然ない。

2013
725日の活動報告です

《小畑先生に教えていただいたこと》

・読みにもいろいろある。めいめい読む。指名して読む。もっと細かく区切って読むこともある。「。」読みというのもある。基本的にはまとまりで読むのが良い。どれがいいかは子供の様子で決める。この子たちはめいめい読むときがいい。それを増やす。この子たちの場合、指名読みの時は、一人一人を短く。前もって誰がどこを読むか決めておかない。子供に油断をさせない。手を挙げていようがいまいが関係ない。どんどん当てていく。だから読み方はいろいろ。目の前の子供に合っているかどうかが大事。基本は、誰か1人が長い文を呼んでいる時、周りの子がじっと聞いている状態を目指す。
・「あなたはどう思う?」というのはとてもいいと思う。一年生なんかは、「みんなは」って言っても、私は「みんな」じゃないよという感じの子がたくさんいる。先生は平気で「みんな」と言うけど。だから「あなたは」でいい。それから、ペアの時が断然いい。ペアの時は全体にとてもいい。だから逆に言うと、全体で何かやろうやろうとしすぎる。もっと、ペアないしはグループをたくさんやった方がいい。極端に言うと、91か月ぐらいは、誰かが何かを言ったら、「今のどう思う?」と。「お隣と話してみて。」と。それから、必ずそこを読んでもらう。どこからそう思うのって。何段落のどこにって言ってるけど、現実全体の中には聞いてない子もたくさんいる。だから、仮に本人が何段落と言っても、「それどこに書いてあるかな」ともう一度確認をする。そして読んでもらう。読んでもらうのが本人でなくてもいい。だから、文章に戻して、そこを必ず読む。子供同士の人数が少ない話に持っていく。少人数をたくさん入れればいい。
・多くの授業がそうであるが、手を挙げている子を先生は当てたがる。不思議だなと思う。普通に考えたら、気になるのは手を挙げない子のはず。これだけ手が挙がっているのになぜこの子は挙げないのかと。そのことが気になるのが普通だと思う。だから手を挙げている子だけを当てるのは賛成できない。同じように、ペアとかグループをしたら、その後は、普段あまりものを言わない子を当てやすい条件である。そこで一応話を聞いたりしているから。そこで、その子が手を挙げようが挙げまいが当てる。ペアの後、手を挙げる子が増えた。増えるというのは、物を言える条件が増えるということ。ペアは感じがいい。もう9月はずっとペア、グループで。一斉授業はしないという感じでやればいい。
・(小畑先生が、当てたいと思う子を数人示す。)
・子どもたちはよく頑張っていた。感心する。うんとお隣で話しをさせたらいい。全体としたら、4人グループもいけそう。それから何回も読むこと。それから、子どもにあまり考えさそうと思わなくてもいい。文章を読むのが授業のメインである。文章と対話してどう読むかというのがメインである。どう考えるかなんていうのはどうでもいい。そんなことを意識しなくていい。どう考えるかということを意識すると、よく授業が深まるとか高まるとか言うけど、そんなことは考えないほうがいい。高まるとか深まるとか言う人は、こういう子が問題外になってしまう。何人かの子が言ったことを、いいこと言ったねと行くようになる。でもそうじゃない。こういう子らを放っておけない。絶対に。学びの中にこの子らがどう入るか。一斉授業ではまず入れない。だから、2人組とかグループ。少人数で入ってもらう。
・“・・・のぶよが戸惑っていると・・・”先生が最初に言っているとき、「ゆっくり読もう」と言っている。ゆっくりはとても大切なこと。ただし私は、子供に「ゆっくり読んで」なんていうことは言わない。そういう言い方は好きじゃない。じゃあどう言うか。お母ちゃんは、ひざから割り箸が落ちたんだけど、これに気が付いてるんだろうかね。気が付いていないんだろうかね。それを、頭で思いながら読んでくれるっていうふうに言うと、速くは読めないんです。すらすら読む読みがだめだというのはそこ。だから、情景を思い浮かべながら想像して読むんだよと言ったりするけど、もっと具体的に言わないとだめ。通じない子供がたくさんいるから。だから、これどうなんだろうねなんて言って、それで読んでみてと。ただし、これは、そのことを考えてみようというのではない。23人に、どう思うか聞いてみてもいいが、じゃあそれで読んでみてと。気が付いていると思っても気が付いていないと思ってもどちらでもいい。あなたはどうなのと。だから、あなたが思う方で読んでみてと。そういうふうに読んでもらう。そうすると、絶対にゆっくりとなる。ただし、いつまでもこんなことばっかり言っているのではない。文章ってそういうふうに読むんだよということを、早い時期に出す。だんだんそういうことを言わなくてもいい状況になれば一番いい。この子は本気で読んだらかなりいい感じになる。この子(他の子)に対抗するぐらいになる。本気になればだが。最後になるほど手の上がる人数が減ってくるのはだめ。でも、この子らが最後手を挙げるようになって人数が増えたので良かった。少人数をもっともっと増やして、一斉で何か物を言わせてというのは極端に言えばなしでいいと思う。
・(資料解説)「一つの花」・・・問題は音読。“・・・ゆみ。さあ、一つだけあげよう・・・”と言っていますが、お父さんの手には一輪のコスモスがあった。ゆみ子はお父さんに花をもらうとなっている。この「 」のどこかでお父さんはゆみ子に花を渡しているわけ。どこで渡したんだろうねえなんて。それを想像しながら読んでみてなんて言ったら、絶対に早く読めない。また、この前のところではお父さんがゆみ子を抱いている。その後お母さんがゆみ子を一生懸命にあやしている。そうすると、お父さんはこの短い間のどこかで、ゆみ子をお母さんに渡しているわけ。どこで渡したんだろうねえと、そういうのを想像しながら読んでみてということになると、読みがゆっくりとなる。議論してというのじゃない。描きながら読むというのはそういうことなんだよということを出しているわけ。そして音読を増やすと、面白い。少人数をうんと入れて、音読をうんと入れて。

2013
626日の活動報告です

《小畑先生に教えていただいたこと》

・目的は「読む」こと。後の話は読むためにする。話をすることが目的ではない。読むことが多いのはいいこと。
・隣の子と2人で読むのもいい。テキストは一つで交互に読むのもいい。「。」読みでも段落読みでもいい。めいめいで読むといい加減に読む子が出てくる。そういう子こそきちんと読ませたい。
・グループをしている時のトーンの問題。一般的にトーンの高いのは良くない。しかし中身による。算数では、中身がやさしいとトーンが高くなってしまう。また、国語の「ごんぎつね」の最後の部分でトーンが高いというのはいけない。そんな時、女の子を指名するのが良い。
・よくしゃべる子には逆に聞かせたい。4人とも必ずものを言わなければいけないということはない。言ってほしい子に言わせる。
・文章を読むことが目的。常に文章に返る。文章に返る(音読)ときに文章が少し長めの方がいい。「」の中だけだと作り読みになることがある。むしろ地の文を読ませたい。
・子供が「今の読みがどうだった」というのは、ほとんど100%先生のコピーである。先生がどう言ってるかによる。子供の読みを子供が評価するようなことはあまりさせないほうがいい。先生が評価すればいい。
・グループは人数にこだわる必要はない。多いとだめ。5人でうまくいく場合はたまたま。4.32もあっていい。人の話をよく聞かせて話をさせる機会を増やそうと思えば2人がいい。クラスの中で2人でやる、3人でやる、4人でやる子がいても、全然構わない。どこも同じ人数にする必要はない。2人の方が実は過酷である。必ず聞けということ。
・物語を形式的に考えてはいけない。例えば場面に区切ること。どの話も同じように場面に区切ってやるという発想がおかしい。教材によっては全部一度に読んで、「どこが面白かった」とか「どこか好きだ」とかいってやった方がいいだろう。
・ある部分だけを切り取ると逆に難しい場合がある。また、小出しにして良い場合もある。ストーリーに展開があって話の面白さで読ませる場合。
・子供は同じ話でも何度でも聞きたがる。ストーリーが分かっていても何度でも聞きたいのは良い作品。
・音読はゆっくりの方がいい。なぜか。理由を子供に伝える。頭に描きながらあるいは時間の経過を意識しながら読むと早くは読めない。

・学習規律というのは、十把一絡げの発想がある。例えば本を手に持って読む。しかし手に持たずに指でなぞりながら読んだ方がいい子もいる。一律に考えないこと。
・テキスト一つで2人組で読ませるのはいい。2人で片手ずつ出して教科書を持つ。片手が余るので、指でなぞったりして応援してくれる場合がある。また、読むのが速い子も相手に良い影響を受ける。中学年、場合によってはそういうことも考えたらいい。

2013
530日の活動報告です

《小畑先生に教えていただいたこと》
・めいめいで読み終わった後の様子がいい子がいる。そういう子がカギになる。その子が本気になるといい。
・話をしながら文を見る子供を見る。文章に基づいて考える子。
・先生があちらこちらに動かずに、前から見ておられるようになればいい。ただし状況による。「〇〇さんと○○さんは、教科書のどこを見て話をしていたの?」とか、聞く。他の子へのアピール。そのためには全体が見えている方がいい。
・グループの止めどきがある。話をしていてもおしゃべりに近いとき。一度グループを止めて何人かに言ってもらう。その時に必ずどこからそう思うのと問う。そこでつなげようとか考えなくてもいい。いくつかの考えを出してもらって、それが「どこから」そう思うのかという事を言ってもらって。じゃあ、今聞いたことを頭に置きながらもう1回グループをしてみようという持って行き方もある。また、たまたま子供がしゃべっていることが耳に入ってくることがある。他の班にあまり出ていそうにないなということが耳に入ったら、その子を指名したらいい。そしてどこからそう思うのと。そしてもう一度グループ。どこからそう思うのということは、教科書を見なさいということ。
・グループは1回やったら終わりで、あとは全体でというのが多い。それは違う。短い時間で何回もやればいい。
・一番大事なのはそこでやる学びの中身。少人数にして子供がしゃべっておればいいというのではない。中身が伴っていないと学び合いではない。
・ビデオを見ながら教科書を指差している子がいた。イソギンチャクが得をしているというのはどこに書いてあるのか、ヤドカリが得をしているというのどこに書いてあるのか、文章に戻ることが大事。文章を指して話をするようにならないといけない。
・どんな子供に育ってほしいかというイメージ。グループをした後に、全体にするとき、パッと子供がこちらを向いてほしいなど。さっと静かになるクラス。そういうクラスはたくさんある。そういうクラスに子供たちがなってほしいと先生が思うかどうかが問題。理屈でなくイメージ。話をしながら本を見る子供になってほしいというイメージ。そういうものがなくて、やり方ばっかり優先させるということが実際よくある。それは良くない。
・子供を見ないで理屈ばかり言うのは良くない。ある学校で、子供が座って発言すると誰が言っているのか分からないという。実際に分からないわけはない。子供見る気がないのである。
・説明文という言い方はない。文章には散文と韻文しかない。説明文というのは業界用語。説明文というのは言いたいことがある。論説したいことがある。言いたいこと主張したいことがある。では文学は、どこが違うか。文学はそういうふうに表現できない世界を書いている。文学でよく、作者の言いたいことはなんて言う。そういう文学は二流以下。質が低い。質が高い文学は、こういうふうに生きるべきだとか言えない世界を、ドロドロしたところもあり、書いている。論説的な言い方では書けない。大きくその違いがある。
・説明的文章では「なぜ」とか「どうして」と問うこともある。なぜならそういうふうに書いてあるから。
・説明的な文章を、問題提起・論説・結論というような進め方をすると、面白くもなんともない。味もそっけもない。形だけ教えようということになる。
・ちょうど教材があるので、今から読んでほしい。どの段落が面白いか後で聞きます。子どもたちにもそのようにします。(皆さん黙読)
1段落・・・2段落・・・・・12段落。(それぞれ人数を数える)特徴から言うと子供もそうなんです。まずその12段落は問題提起。こういうところを面白いと思う子供はほとんどゼロに近い。結論は、12段落。こんなところが面白いという子はいない。そうすると説明文を三つに区切ると言ったが、最初と最後が大事なんて言うと、面白くないところが大事だと言っていることになる。どこが面白いかというと、一番多いのは9段落。水槽の中で実際に実験をやったことが書いてあるところ。大人も子供もこういうところが面白い。5段落のどこが面白いのなんて聞く。タコが逃げ回っているのが面白いなんて答える。それじゃあ、タコが逃げ回っている水槽の中の様子をグループで話してみてくれるなんて言うと、文章を読むことになる。文章を読んで水槽の中の様子を思い浮かべることになる。それを誰かに音読してもらう。それを聞いている誰かがクスッと笑ったりするといい。絵が浮かんでいるわるけ。
・そんなふうに読むと、説明的な文章も面白いことになる。しかし要点をまとめるとなると、こういうところは大事にしない。
・「次に」にと書いてあるが、何の次だろうねと言うと、文章に戻ることになる。説明的な文章が筋道を立てて書いてあるとすると、順番に読まなくてもあっち飛びこっち飛び読んでも、最後にはつながるようになる。私が自分のクラスやる時には、書いてあることが分かる段落、書いてあることがわからない段落を聞く。56年あたりで。条件としては、わからないと言えるクラスを作るということ。理屈ばっかり書いてあるところがわからないという方が多い。「分からない」というのと「面白くない」というのが重なることが多い。わからないというところはどんなことが書いてあるのかをグループで探って見る。そうやって一通り読んで終わる。そんなふうにすると説明文が嫌いという子はいなくなる。
・教科書に書いていることと、テレビのアナウンサーが言っていることの違いに子供が気が付くといいと思う。子供がかなり文章を意識しているということになる。映像は使えばいい。子供が全然知らないことはイメージにならないから。ビデオでも写真でもいい。あまたよりすぎると、子どもが文章を読むということから離れてしまう。頭の中にイメージしたことを言うのはそう簡単ではない。例えば雲。言えない子がいる。理由の一つは、雲が頭に浮かんでいない子。もう一つは頭に浮かんでいるけど言葉に言うことができない子。大人でもそう。例えば入道雲を言葉で表すなんていうのは難しい。言える子が限られてくる。その時に何種類かの雲の写真を出してあげて、あなたの頭に浮かんでいる雲はどれに近いと聞く。しかし国語なので、いつまでもそれでいいわけではない。頭に読み描くというのはこういうことなんだという意味で映像を使うのはいい。

2013年4月23日の活動報告です。
《小畑先生に教えていただいたこと》
・ビデオは前から撮影している。中には後ろからビデオを撮る人もいる。授業はどこから見るか。先生がどうしているかに興味がある人は後から見る。子どもたちがどうしているかに興味がある人はこういう角度から見る。こうしないと表情が見えない。こういう会ではこういう角度から撮す。
・授業の始まり、ちょっと待ちすぎてくたびれている。さっと始めるのが良い。
・先生がどの子のところへ行っているか。必要な子のところへ行っている。先生が意図を持って。早い時期にウロウロしなくてもいいようになればいい。
・声をそろえないで音読することについて。教材文に「・・・・・・」がある。間をとって読むところ。子供がどう感じるか。ゆったり読むかどうか人によって違う。声をそろえて読めない。
・この子よりこの子の方が早く読み終わるはずがない。読み方がいい加減だということになる。すらすら読むということで確実に言えるのは、ここに書かれている文字を声にするのが上手というだけ。書かれている様子が頭に浮かんでいるかどうかは別の問題。分かって読んでいるか。
・教材文中のこの言葉は誰が言ったのか。頭に浮かべるイメージによっていろいろある。文章は決めつけて読むとだめ。
・あの男の子が言いたい事が分かるか。あの子は影に入ると言っている。影のイメージ。影とはいろいろあって面白い。
・子供同士のつながりのポイント。つながりを作ろうと思うと、絶対にこの子の方を見ていないとだめ。この子らは見ている。これはねと言うと、ここを見てくれないと話は通じない。
・先生の動きの話。この子が発言するとき先生がここにいた。この子が発言している時先生はこのへんにいたに違いない。対角線に動こうとしている。この子が先生に向かってしゃべっていても、向きで言うと子供の方を見てしゃべっている。先生は最後この辺にいてしゃがめばいい。いけるようになってくれば先生はあまりウロウロしない。
・先生が何も働きかけをしないで、子供にさあ言ってごらんではない。種まきをしておく。4月は種まきの時期。子供から出てきたことに対応しながらこんなふうに文章に向かうんだよと言うふうに出してあげる。そして、だんだん引いていく。代表的なのがリボイス。どんどんやったらいい。他の子の言っていることを聞いていないというクラスではどんどんやったらいい。ただし、本人にリボイスしてはだめ。他の子に向けてリボイスする。聞いていたかと。聞けるようになったらやめる。
・課題はほかの子。どう入ってもらうか。入ったらいいなと思う子がたくさんいる。1回も手を挙げていない子。学びの中に入ってくれればなぁ。どの子も必ず入れる。
・手を挙げるのは男の子が多い。男の子ばかり発言するクラスはだめ。自然の発達から言うと女の子の方がいい。じっくり考えるのは女の子。この辺の子が出てきて、自分の思いを出すといい。全体の中でなくてもいい。
・手助けのいる子たちが、先生の近くにいる。すぐに行ける。これだったら先生が椅子を持っていって座って、この子が言ったのを、あなたはどう思うと言ってふる。そういう形で引っ張り込む。先生は振り役。そして子供がつながるようにする。1時間の中で全部しようとするのは無理。この時間はこの2組と言うように。そんなふうにしながら子供がつながるように。
・板書の話。必要があればすればいい。板書の話でいい加減なのがある。わたしが今こう書きましたが、書いている時皆さんがどうしていたか分からない。見ていたか見ていなかったか分からない。子供に背中を向けているから。授業を見てて、板書が多めの先生がいる。先生が板書を始めると、子どもは休憩の時間になっている。案外よくある。板書の話をよくする人は、子どもの具体的な話をする人はまずいない。板書の話をする人が子供を見ていない。大体後ろから先生と先生の板書を見ている。
・先生は、話してる人の方を見てよく聞きましょうと言う。先生と子供の関係が良いクラスは、先生が板書し始めたら板書を見る。子供が発言し始めて、その時先生が板書し始めたら、子供は黒板を見る。大方の子は発言している子供を見ない。先生は口で話している人の方を見なさいと言っているけど、実はそんなことを本気で思っていない。だから誰かが話している時に、平気で板書をする。先生と子供の関係が悪い学級は、板書も見ないし発言している子供も見ない。つまり遊んでいる。板書の話は要注意。
・教材文で、カギ括弧を子供が音読するとき、誰に言っているのかなとなげかけたらいい。これ、ポイント。誰が誰に言っているのか。①明らかに相手に言っている。②自分に言っている。・・・それは読み方に影響する。文学作品で一番多いのは、相手に言っているが実はより強く自分に言っている。これが多い。大造じいさんとガン・・・おおいガンよ・・・これは残雪に向かって言っているが、自分の決意を自分に言っている。カギ括弧があったら相手に向かって言っていると決めてはいけない。そんなことを考えると、どんな音読になるか。


2013年3月6日の活動報告です。
《小畑先生に教えていただいたこと。》
・欠席などで空席がある場合は、その時間だけでも座席を移動させればよい。その場合先生が座席を指定する。できる子同士がならぶようなことがないように。
・はじめに指名されたけど答えられなかった子がしょんぼりしていた。今は隣の子にちゃんと聞いて確認していた。ああいう時は当ててあげたらいい。小さい子はしょんぼりしてる時間が長引かないほうがいい。
・+αで入っている先生の動き。子どもや先生が前でしゃべっている時に、横につかない。また、先生と子ども一対一の対応のみは良くない。自分から友達に聞けるようにしていかないといけない。
・お隣と話をしない子どもは、違っていてもそのまま。しかし、先生が行かなくても、お隣と話をすればできるようになる。先生が行く必要がなくなる子。
・何回も黒板を見る子。極端に言えば一文字一文字写している。学力が低い。しかし、慎重派な子で何回も黒板を見る方はいる。逆に言うと、できるだけ黒板を見る回数を少なくして写してみようなんてやって見るのもいい。教科書を見る回数も同じ。
・あの緑の子を一人にしておくのはもったいない。(隣が欠席)
・学力が低い子でも、先生の言葉に反応して顔が上がる。隣の子に確認できる。そういう子はいい。またそういうふうにしていく。
・隣の子に聞くということができないところへ、先生が行ってアドバイスをする。だんだんできるようになっていく。
・国語の座席とか算数の座席とかいうふうに決めることもある。一日同じ席でできればいいし。こだわらなくてよい。

《新学期スタートに向けての話》
46日に行う宝塚の会。映像を入れて行う。映像を入れるのは、一番はイメージ。イメージというのは、あんなふうな子どもに、自分のクラスの子どもが育ってほしいとか。それが子ども同士のつながりであったり、表情であったりする。そういうふうに子どもが育っていくにはどうしたらいいかというのを考える。それも早い時期に、というのがポイント。始業式の日から授業をする。一年生の入学式の日に授業をした人がいる。そのビデオも4月の6日には出す。このビデオの中で、子どもが言ったことを子どもが聴いていて、それを先生が取り上げて一生懸命褒めている。大概先生は、子どもに人の話を聞けというが、実際はその人っていうのは先生のことである。先生の話を聞けというのが、大体の人が言うこと。友達同士で話しを聞けというのは、あんまり言わない。今度のビデオの中では、人の話を聞いている子どもを一生懸命褒めている。それはつまりそういう子になってくれと言っていること。そういうことを、早いうちに出すのがいい。早いうちは子どもも期待している。荒れている子ほど、実は期待している。4月。今度の先生はどんなんだ。去年までとおんなじだということになるとがっかりする。だんだん背中を向け始める。去年とは違うというのを事実で見せる必要がある。子どもは期待しているから、早いこと変わる。口で説明するのはだめ。事実でだす。事実で出すのが授業。始業式の日に、子どもに簡単に自己紹介をしてもらう。それを聴くと、前の年どんなかんじだったか大体分かる。前の年にうまくいってなかったと思う子は、ねらって当てる。まわりで、ワーワー言っている子はあまり当てなくてもよい。私は手をあげる暇を与えない。先に指名する。誰か読んでくれる、なんていうこと言わない。たどたどしく読んだり、間違ったりする子に、いいというコメントをする。初日から日記を書いてもらう。日記は年中書く。4月はとても大事。今度の先生はどんなんかと見ている間がチャンス。そして、やることの中身。やることが面白くないとだめ。

2013年1月25日の活動報告です。
《小畑先生に教えていただいたこと。》
・以前より子供達良くなっている。この子たちがやることから逃げていない。その気になっている。いい感じなので、この後どうなるか。前半に引っ張りすぎないかどうか。
・この子なんかは机を寄せて先生が行った時に本気になっている。とりあえず行かなくてもいいところが増えてきている。まだ行ってやった方がいいところはあるけれども、1時間で全部は行けない。
・子供はワーワー言っているけど、始まる時になったらすぐに座ってすぐに始められる。あれいいなあと思う。ワーワー言ってても、さっと座ったら、挨拶しようなんて言わなくてもすぐに始められる。ああいうのっていい。こうするために何かしたの? こういうのは、授業が始まってこの後の事が面白いとか、先生の話に聴いてみようというような魅力があるとか、そういうことがないとこうならない。そういうことがない人は怒るわけ。怒ることでそうやらせようとする。子供らがその気になっているので、それだけでも子供はよくなっている。
・あの辺でチャイムが鳴ってちょうどよかった。説明のないようがほとんど同じになる。あの後何人かが続けて説明すると、子供は絶対に退屈する。そうなりそうな時には、1人言う。そうしたら、今のどうだいと聞いて、あとはいい。あとは子供を前に出さないで、お隣同士で説明させればいい。この子はこの子に言う、この子はこの子に言う、そしておしまいにしてもいい。色んな話が出てくるような課題ではないから。課題はもう少し難しくてもよかった。
・問題の紙に、一応一の位・十の位・百の位と書いてはあるけれども、□の大きさがそれほど違うわけではないので。“10”が一つの扱いと“1”が一つの扱いとが同じになってしまう。一の位は□をちっちゃく書いて、十の位はその10倍。だんだん大きくしていくといい。
・授業の終わりの時間。子供が乗って、もっとやろうという感じになっているクラスはいい。だけど、先生の都合でだらだら伸ばしているクラスもある。そういうクラスは、始まりもだらだらしている。子供が。チャイムが鳴った時にピッとならない。終わりもきっちりしてあげることだね。時には、子供のほうが面白がって、チャイムが鳴っているのが聞こえているのかなというのがある。
・授業の始まりのチャイムが鳴る前から子供が座ろうとするというのは、先生との関係や先生の雰囲気による。先生がそろそろ始めようかとする雰囲気を察知する。それグーッと席の方に行って、チャイムが鳴るときには席の近くまで行っている。そういう雰囲気になる。時計を見てる子や見てない子もいる。先日行った学校で、少し始まりの時刻よりも早めに教室に行った。5分ぐらい前にその教室に入った。その先生は、じゃあ始めようかといって、すっと始める。そしたら子供もその気である。すっと始められる。印象深かった。子供がその気になっていないと、5分前に先生が始めようかと言っても、えーとなる。
・座席はコの字型がということがあるけれども、いろいろ考えないといけないことがある。ある学校で、私が初めて行った時に全学級コの字形になっていた。だけど、後で何のためにコの字形にしているのかと言った。あれだったら全部前を向いていても一つも変わらない。むしろ全部前を向いている方が黒板が見やすいからいいというぐらいのもの。要するに、何のためにコの字形にしているのかということが全くない。とにかくコの字形にすればいいという発想があるが、それは違う。小さい子供が安定するかどうかという第1条件は先生との関係。一年生なんて先生との関係がうまくいかないと、落ち着かない。だから、隣と話してって言ってもまともな話はしない。そうすると、先生との関係を第一に考えると例えばこんな形。または、扇形みたいな形。先生の方を皆向いている。全員前を向いていると端っこの方の子は前を見たら先生はいない。この子らは、先生との関係をまず求めている状態にあるだろう。落ち着いてきたら今度は子供同士の関係をということでコの字形にする。一年中これでやる必要はない。その時々の子供の育ち様によって変えていけばいい。1時間の中でもいろいろある。最初の5分は前向きで、あとは形を変える。あるいは最初からグループの形にしている時もある。要するに固定的に考えないほうがいい。
・小人数は、やった方がいいという話ではなくて、必ずやらなければならない。そう思っていた方がいい。最初の頃はグループ10分を2回入れようなんてなかなか難しい時もある。それも考えながら、できるだけ長く行けるようになればいい。
〈ミニセミナー〉
・本の紹介(詳細は省略)
・この本を買おうかなと思った理由は以下のようなことである。算数では答えが一つということがよくあるが、その場合次のような問題を生む。①なるべく早く答えを出そうとする。②簡単に答えを出せる方法を重んじる。③答えを出すマニュアルを覚えたがる。・・・というようなことが書いてあったから。 授業でもそういうのがよくある。つまり考えないのですと。私の言い方で言うと、できるだけ考えないで済むようにしようとするのですと。例えば学力という面から見て、①②③は明らかに A 領域偏重の考え方である。基本ができるかどうか、できればいいという。日本の子供の中で学力がと問題になっているのは B 領域である。それから事実の問題として、子供はB領域から伸びる。A領域はそれにつられるように伸びる。①②③は絶対にいらないとは言わないけれども、ここを重視したらだめ。
・たくさん正解があるという方が数学的であるとも書いてある。問題のレベルが高い方がいいということがあるが、数学的にレベルが高いということが重要。理科とか社会でも。理科なんか、科学的にレベルが高いというもの。
6年生なんかだったら、3学期の算数はすることがあまりない。復習みたいなことばっかりで。面白くないから。こんなのやってると面白いよ。卒業するんだから、最後に面白かったなという感じの算数をやってあげるのもいい。

2012年11月30日の活動報告です。
《小畑先生に教えていただいたこと。》
・今手を挙げている子の中で誰を指名したいですか。読みが遅そうなので私はこの子を当てたいと思う。物語を読むときに、どう読んでくれるかというのは大事なところ。だから、誰を当ててもいいということではない。
・今ここで3組、6人に読みました。どの子の読みが一番先生としては良さそうですか。全体としては読みは速い。すらすら読むというのは、そこに書いてある文字を上手に言葉にすることができること。だけど、中身をイメージして読んでいるかどうかは全然別の問題。これはむしろ、すらすら読む方がいいイメージができてないと思った方がいい。今日も、読みの後書いてというふうにしていたクラスがいくつかありましたが、読みの遅い子の方がよく書いていたりする。これはそうなるんですよ。子供の読みが速いと思ったら、子供の読みにコメントをしてやる必要がある。具体的に、ここのところこんなふうに読んでくれてとてもよかったよとか。特に詰まったところなんかは、それはだめなんじゃなくて、そういうところは読みにくかったり中身が分かりにくかったりするところが多いわけだから、よくぞ間違ってくれたというような感じで、そこを出してあげるのがいい。
・グループで、少人数でやるというのはとても良いというよりやらなきゃだめだと思う。例えばこの子なんかは、グループで話をするより他の子の話を聞いた方がいい。この子なんかはグループでもっと思いを出してさ。この子なんかはいっぱい聞いた方がいい。向こうの男の子も人の話をもっと聞いた方がいい。聞いて受け取った方がいい。だから、グループを見るときですけど、よく話をしているからいいということにはならない。ぼそぼそと語るような子が語って、あとは放っておいてもしゃべるという子は聞く側に回った方がいい。この子なんかも思いを出せたらいい。とてもとても大ざっぱな言い方をすると、子供によって違うけれど、女の子がものを言って男の子は聞いていた方がいい。
・今おもにこことここがしゃべってます。これなんかは逆で、こことここの方がいかにもよく考えそう。だから、ここところが話してこことここが聞き役に回る方がいい。この子なんか絶対に聞かないといけない。なぜかというとさっきめいめい読んだ時に一番早く座っていた子だから。こういう子は人の話を聞いた方がいい。全体としては雰囲気は悪くない。
・ムードだけ、このことこの子あたりが、今は難しいと思うけど、自分の思いを出せるといいかな。ただし雰囲気があるから、今当てても違う感じでしゃべるかもしれない。この子なんかいい感じと思う。それは、あっちこっちの学校へいくと、提案授業や中心授業になるような授業には指導案がついてくる。指導案に多いのは、子供の様子が書いてあるときに、自分のクラスの子供は自信をもって話せる方が少ないと。だから、できるだけ多くの子供に自信を持って発言してほしいので・・・というような書きぶりがよくある。それにくっついてくるのが、だから、朝の会でスピーチの練習をしていると。だから、その発想自体を変えていかないと具合が悪い。学びにならないという意味で。なぜかというと、自信を持ってしゃべれということは、先生の思いのそれにくっついてくるのはね、分かったことか前もって思っていることを言えという発想。これ、くっついているんです。そうすると、朝の会のスピーチなんて言うのはその通りでしょう。これ、前もって考えたことを言えと言っているわけでしょう。でもそれは学びじゃなくて、分からこととか自信のないことを出せる、そこから学びが起こる。だから自信をもって言えというのじゃなくて、自信のないことが出せるようなクラスの雰囲気がいいわけ。そういう雰囲気になってくると、この子なんか実施のないことをポソポソと、ただ今当てたらそうなるかというとそんな事は言えないけど。佐藤さんの言い方を借りると、話し合いと学び合いの違いなんです。話し合いというのは基本的に分かったことや前もって考えたことを言えという発想。
・子供は何でこうなんだろうとか、どうしてこうなんだろうとか言うことがある。先生はそれを本人に問い返していて、よかったと思う。子供は何でと言うが、8割か9割がたは、自分なりに思っていることがある。それを何でっていう形で言うので。だからまず本人に聞いてみるのがいい。中身によっては、本人に聞いたら本人はそれなりのことを思っていると。じゃあそれでおしまいというふうにしてもいいようななんでが多いわけ。みんなに広げてどうこうというものではないと。すぐに何で何でとしたがるのよ。それはあまり好ましいことではないので。物語を読んでいてなんでとかどうしてとかで進めていってろくなことはない。物語を味わうということから離れていくことが多い。
・私が退職してからどこかのクラスで授業をする時には、当てて言えなければその時間のうちに必ずもう1回当てます。言えるように。それは、担任の先生とは違うので。担任の先生の場合は毎日授業があるわけだから。次の時間の別の教科の時でもいいわけ。次の日でも構わない。そこでまた言ってくれたらいいわけ。
・この子は何かーとかぼそっと考えながら物を言う。ああいうのはいい感じなの。この子のすぐ後にしゃべった男の子は断定的にしゃべる。しゃべり方の問題がある。言葉にならないというのは大事なことなんです。しゃべれしゃべれって言うけど、あんまり簡単に考えすぎじゃないかと思う。大人の人に話す時によく言うんですけど、海外でも国内でもどこでもいいんですけど旅行に行ったとする。すごいいい風景に出会ったとする。その風景を帰って来てから、誰かに伝える。写真でもなく絵でもなく言葉で伝えようとしたら、無茶苦茶難しいはずです。大人でも。だから思い描いた情景を言えなんて、とんでもなく難しいことを子供にやってるわけで、言葉にならないというのはむしろ当たり前ぐらいに思っていていいわけ。そうするとベラベラしゃべるのは何だということになる。だいたいベラベラとしゃべるのは決まりきったことで、どの教室でもそれは誰かが言うよというようなことをわーっと言っているということが多い。
・はじめの読みと授業の終わり頃の読みとの違い。一番分かりやすいのは読むスピード。例えば最初の6人は全体的には速い。読みの違いを意識して見たいなと思ったら、最初に当てた子をもう1回当てる。別に必ず違う子に当てないといけないということはない。同じ子がその日に23回と当たってもどうということはない。最初に読んだ子にまた当ててみるというのはこれは分かりやすい。
・この子とこの子を当てたよね。その時にこの子なんかに今のどう思う?ということぐらいは聞いておきたい。聴いてそれをどう受け取ったかを聞いてみたらいい。それをどうつなげようとまでは考えなくていい。それから断定的にものを言う子なんかにもどう思う?と振ってみたい気がする。
・(資料について)長い解説なんですが前後を省略しています。宮沢賢治の解説はなんていうのは山ほどあるんです。その中で私がそれを抜いているということは私もそう思うということです。(途中省略)要するに楽しんで読めばいい。犬が一度死んでまた生き返りますよね。何もせずに読むと、一度死んだ犬が生き返るとはこれはなぜだとかどうしてだとか、そんな話になるわけ。そんなことを1時間やってる授業もある。つまり、宮沢賢治はそんなことがあるようで仕方がないということを書いている。だから、犬が生き返っても何の不思議もないんです。宮沢賢治の世界では。これを理屈っぽくやると、夢だということになる。そうするとその夢でまた、犬が死んだところが夢だと。逆で、犬が死んだのが現実だと。それから死ぬところも生き返るところも全部夢だという話になったり。そんなことやめた方がいいという話になる。そんなことがあるようで仕方がないということを宮沢賢治は書いている。だから、書いてあることをそっくりそのまま受け止めて味わえばいい。子供から出てきたことをつなぐということは考えなくていい。せいぜい今のどう思うというぐらい。そんなふうにすると宮沢賢治は結構楽しめる。やまなしなんかもそうです。あれは何かわかろうと思って読むと、全然だめ。わかろうと思って読むという読み方自体が違っている。あれは色の世界を楽しんで読む。特に青の世界。最初から2枚の青い幻燈ですと書いてあるんだから。青の加減をイメージしながら読めるといい。
・今日見て面白かったのは、さっきのなぜ。2年のかさこじぞうで。どうして題名がかさこじぞうとなっているのという。その先生が言った本人にあなたはどう思うと聞いた。そしたらその子は、すげで作った傘をおじいさんにかぶせてあげたんだと。だからだと思うと、それだけのことを言う。そうしたらどうして題名がかさこじぞうというのなんていうのはどこから出てくるのというのがあるわけ。子供が言うなぜとかどうしてはそういう意味であてにならない。書き込みなんかをする時に、何を書いてもいいよと、分からないことを書いてもいいよなんて言ったら、なぜどうしてのオンパレードになる。書くことがないな。なぜこれはこうなんだろうとか、そんなことばっかりやたら付けているというのがある。子供がなぜとか言ってもあまり気にすることはない。本人に返せば大体8割~9割は考えている。
・手を挙げてない子も入れながら進めるといいよね。手を挙げている子を中心に進めると男の子が多くなる。中身のいいところが出てきにくいというとことになる。

2012年10月17日の活動報告です。
《小畑先生に教えていただいたこと。》
・教室の後ろに貼ってある絵を見て分かることは、漫画っぽい絵を描く子は形式的なパターンがあって、リアルに書く子は感覚がいい。習字でいうと、どのようなバランスで字を書いているか、感覚の問題が大きい。
・5の場面を読むんですね今から。どの子に当てたいですか。今読んだ子はスピードが速い。もう一つは文章に向き合っているという感じの読み方ではない。たどたどしく読んでくれる子の方がいい。
・今4人しゃべったけど、最初の2人と後の2人は話し方が違う。最初の2人は書いたのを読んでいる。話すと読むは違う。この子がちょっと話してる感じになった。この子はノートを見ながら言っているが話している感じがある。その方が子供の反応がある。気をつけないといけないのは、「書き込み」をすると、すぐに「書いたのを言って」というふうにするけど、そうすると子供は言うんじゃなくて読む。そうすると他の子には伝わらなくて反応が出にくい。書き込みはものを言わせるために書かせているのではない。根本的に。
・子供達が話し合ったり聴き合ったりして高まっていけば一番いい。だけど前提として、大前提としてポイントになる子がいる。この子なんかがグループに入れるかという問題がまずある。大体の子が話をしているからといって、グループから外れてしまう子がいるとそれはもうだめなんです。なぜかというと第1条件として、小人数を何のためにやっているかというと、一人一人の学びを保証するためにやっている。だから、その段階でもう何人かがグループからはぐれているというと、もう全然だめと言っていいぐらい。あとがどんなにいい話をしていても。というのが一番の基本ライン。授業の中でよくやっている子の話ばっかりするわけ。だけどその陰で入り込めなくて・・・、大前提でそういう子を作ってはならない。各自でめいめい読みをした時に座るのが遅い子、ゆったり読んでいる子はいいんです。だからこの子に思いを出してほしい。どれぐらい出してくれるかな。
・今もチャンスだけれど、もっと早く文章に戻る、文章を読む。今は文の話をしている。子供から文の話が出てくるというのはいい。その時は絶対に戻してあげる。別に先生の読みを言う必要はないが、今子供たちが言っているのは、子供達がそれぞれここで浮かべているイメージ。似てるよとか違うなというのがありますか。(参加者に問う)先生は先生で文章を読んで先生は先生でイメージを持っていないと、子供の話が受け取れない。先生が持っているイメージと子供のイメージとが違っている場合でもいろいろある。場合によっては子供の言っていることの方がいいということはよくある。自分が思っているよりも。だけど、子供の事なので読み違いをすることもある。なので先生がその時々で判断して文章に戻すということが必要になってくる。
・加助が振り返った時にびくっとなって小さくなっているよね。ここはお念仏。文は少ないけど時間は長い。それで、帰りに影ぼうしを踏み踏みになるんです。男の子が途中で、「行きと帰りで違う」と言った。これなぜなんだという・・・あまり「なぜ」とは言って欲しくないんだけど、話としてはいい。できたらなぜじゃなくて、行きと帰りと様子が違うと。あれは「どこで変わったんだろう」なんて言ってくれると私なんか大喜び。まあ子供のことだからなぜでもいい。そうするとどこで変わったかという、このイメージがないと。特に「ふみふみ」なんか。兵十の後ろに隠れて、そうっとついて行くというイメージを言っている子がいる。先生方のこの「ふみふみ」はどうですかということになる。ちょっと「ルンルン」という感じに思っている人いない?私はそっちの方ですけど。隠れてじゃなしに。お念仏の間は井戸の間にしゃがんでいたんです。それ以上のことは書いていない。だけど、じっと長いこと待っているので。しかも帰りもついていこうとするわけ。話を聞きたいと思っている。ただどうなるか聞きたいじゃなくて、ここでごんは、栗や松茸をやっているのは俺だと思っている。だからごんは井戸のそばにしゃがみながら、帰りは、必ず俺の名前が出るはずだと思っている。私の読みですけど。そんなこと有り得ないのにね。それがごんと兵十のすれ違うところ。今度はしかも見つかってもいいという。「俺だよ」というふうなこと。可愛らしいでしょ。そのように私は読んでいる。だから「神様」だったらがっかりする。子供がどう思ってくれるか。こういうところを何回も読みたい。そうしたらかげ帽子を踏み踏みというところをどう読むかで感じが違ってくる。音読というのは文字を音にするだけの話ではない。何回も読んでみたい。どういうイメージ・感じがするのか。違うふうに思っている人いない?(参加者に問いかける)〈授業者・・・私は、聞きたいという気持ちがもちろんあって、お念仏を待っている間、もしかしたらという気持ちもあったと思うけど、「かげをふみふみ」のところは、加助がいても兵十の事しか頭になくて、兵十にちょっと気を許しているような気持ちでかなり近い距離で追いかけていっていたのかなと思いました。〉兵十に気を許しているなんてその通りだと思う。もっと前から兵十には親しみを持っていると思う。
・この前の男の子の・・・「今のどう?」と振らないとおそらく伝わっていない。授業記録で言うと、「加助と兵十が言っていたことでなくて、そう思われていたことがつまらない」は、伝わっていない。だから「今のどう?」なんて。そうすると首をひねったりする子が出てくる。「もう1回言ってみてくれる?」なんて聞いておいて、それから「どう?」なんて振ってみる。次々聞いていくのが良いわけでもない。やっぱり子供同士が言ったら伝わってほしい。もっとしょっちゅう言ってもいい。「今のどう?」と。その方が子供がつながるから。ただし、目指すところは、「今のどう?」といちいち言わなくてもつながるのが一番いい。だけど、そうしてあげないとなかなかつながらないというところが現実問題としてある。できるだけ早くそれもやめようというつもりでする。
・授業の最後に振り返りを書くとか思ったことを書くとか。私は時間がある時は、書き終わるまで最後まで見ている。どの子はいっぱい書いて時間がかかりそうか。どの子は2,3行で終わってしまうんじゃないかと。それからこの子はなかなか書けなくて時間がかかるんじゃないかと、いうふうなことをみる。私は、もしこのあと自分がこのクラスの担任になったらどうするかと思って見る。書き始めるのが遅い子がいるが、書くときの時間というのは大事。書き始めるのが遅い子は考えている。とても良いこと。なのに先生が5分でなんていうことを言うから。そういう実例はいっぱいある。先生が5分で切ったら、そういう子は絶対に書き終わらない。時間設定も考えた方がいい。書くということはものすごく大事なことだから、時間設定をちゃんとしてあげて。だけど「書くということは大事だから毎時間取り入れよう」なんて言うだけ言って、時間は5分しか取らないというのは、それは書くことを大事にしていることにならない。
・(先生や子供の声の大きさについて)声は、問題は聞こえているかどうか、伝わっているかどうか。大きさの問題ではない。子供の声だけど、ビデオで見てあれぐらい入っていれば、絶対聞こえている。教室では、間違いなく。あれで十分。いけます。先生の声がどうだったかというと、この辺(後方)の子が反応していれば聞こえているわけ。それで声が小さくて聞こえなかったという大人がいたとすれば、本気で聞いていないわけ。子供に伝わっていたか、子供が反応していたかが大事である。
・グループを構成する時はくじ引きでいいという人もいる。くじ引きで構わない。だけど、それはある程度目指すところの話であって、自分のクラスを思い浮かべて見ると、4月の早い時期からくじ引きで決めていいかというのがある。どう決めたって、始めは先生の手助けがいる。けど、適当に決めて先生が行かなければいけないところがたくさんあると、手が回らない。先生が手助けに行かなければいけないグループがあったっていい。けど数が少なくなければ行けない。そうなると先生が決めた方がいいだろう。目指すところは、どの組み合わせでもいいようになること。コの字型を始めて間がないということもあって、子供同士のつながりはまだこれからである。最初の方は先生の口癖のように、「今のどう?」「今のどう?」と言う。国語の三つの口癖。「今のどう?」と「どこからそう思う?」と「そこ読んでみて。」
・例えばこの子が言ったとする。「どこからそう思う?」とこの子に聞く。何ページの何行目とか出てくる。「そこ読んでみて」だけど、その時はこの子に読ませる必要はない。〇〇さん、「今のところ読んでみてくれる」と。授業の中に入ってきにくい子とか、気が散りそうな子がいる。そういう子は今のような形で当てればいい。そうしたら、とりあえず最初苦しい子でも、あなたの考えを言えと言っているのではないので、読んでみてと言っているわけだから入ってきやすい。
・手の上がる数の少ない子の方がいい。面白い。手の上がる回数が多い子は、もうちょっとよく聞いてほしい。ポツポツしゃべる子の方が中身が良かったりする。発言の回数が多いということは決していいことではない。

《「書き込み」について》
・物を言わせるために書くのではないということが重大なポイント。だけど、大概はものを言わせるためにやらせている。だから私はそういうのを見たらそれは書き込みではなくメモ書きという。二つの意味でメモ書きである。分量が圧倒的に少ない。 B4一枚くらいに本文が書いてあって、そこへ書いていって、2行か3行しか書いてない子がゴロゴロいる。私のイメージではそういうのは書き込みとは言わない。それからも一つは、話をさせるために書かせているのはメモ書き。「学ぶ」とはどういうことかということがあって、要するに対話である。①対象(教材)②他の人③自分自身との対話。特に「書き込み」というのはこれ。(①教材との対話)教材と自分とが向き合って、自分がそれとどう対話するか。それを書いて行く。これが書き込み。だからあとで物を言うために書くのではない。自分はどう読むか。それで、まず1人でやることもあり、そしてグループでやることもあり、そして全体でやることもあるが、そんな順番があるわけではない。私は最初のころは1人で書くなんて絶対に言いません。最初のときは、グループが先にあって、話しをする。それから書くということになったり、一斉が先にあって、それから書き込みというのが、それが普通で、つまり①教材との対話②他者との対話を同時進行にさせている。だから、人と話しながらやればよい。書き込みは。
・「書き込み」を何のためにやるかというと、(資料を見ながら)学習、今で言うと学びは面白いと思う。これが一番。だから書き込みをして、それを面白いと思わなければ書き込みではないと思う。2番目に、自分なりの思いが持てる。3番目に人の話が聞ける。まず一番は学ぶことが面白いと思う。対象と対話して、面白いなあと思う、そのためにやっている。だから子供達にはいっぱい対話してもらいたい。面白いと思ってもらいたい。やると子供たちは書き込みを気に入って、好きなんですよ子供らは。まず間違いなく好きになる。だけど、書け書けと言ってもそれは書けない。だから最初はこんなサンプルを出す。わりによくするのが、教科書の一番最初の物語文。あれ、だいたいどの会社もどの学年も中身はつまらない。楽しく読もうという感じ。友達と仲良くしようというそんな趣旨で書いてあるので、内容的には質が低い。だから、あんなの全文ねちねちやる必要はない。音読はするとして、部分だけ7行でも8行でも10行でも部分だけ選んで私は書き込みの練習に使う。黒板に書いたり印刷物を作ったりして、すごい間を空けておく。だからせいぜい10行ぐらいが限度。それで一斉にやる。その時は私は一生懸命板書をする。後でわかりやすいように①番と書いたり。名前も書いてやる。「今のどう?」なんて振る。その時は子供同士がつながるなんていうことは考えていない。そのときはいい。②番・・・・・(名前) 言ってくれた事を一生懸命書くんです。そうしておいて、自分で思った事なんかを間に書いていく。こういうのを「書き込み」と言うんだよというふうに言う。最初ですから私が聞くこともあります。例えば「雲」なんかだと、頭に浮かんでいるくもはどんな雲と。子供が、にゅうどう雲だとか綿雲だとか出たら書く。子どもたちにも同じものを印刷しておいて、今から書き込みをしてみようと。まず初めてだから、出た中で、自分もそうだと思うというのがあったらそれ書いてと。場合によったらそれをそのまま写してもいいし、自分の言い方に書き換えても全然構わない。全部写せとは言わない。自分もそうだと思うというのを選んで写せと言う。と言っても、書けない子がいる。それはそのこの側へ行く。そして、「①番、あれどう思う?」なんて聞く。「②番はどう?」うんうんと言ったら「それを書き」という。そして、「ここに書いてないことが書けるといいねえ」と必ず言う。何でそんなことをするかというと、私はどの子も書けなければだめだと思っている。クラスの中の全員が。だから、必ず全員が書けるようにする。(資料説明)→自分で書くとなると何かきっかけがないと書けないという子がこのクラスで10人はいる。ここで、この子たちがどうなるかがこの授業での最大のポイントである。ここで、余計に学習嫌いにさせたり劣等感を持たせてしまうことは許されない。これが私の基本的な立場。書ける子は書けるけれども書けない子は書けないという事態には絶対にしない。
・この資料は学力が低いナンバーワンナンバーツーを争っている子だったのですが、それでもこれぐらいは書かせたい。子供って、分量が書けるということが大事。この子は、「前の勉強とは違って、自分がノートにこんなに書けたとは思えない。」と書いている。「前の」とは前の学年のこと。つまり、自分でこんだけ書けるとは思っていない。少なくとも学年の早い時期にこれくらいは書いてもらいたい。(資料)そうすると、書いたことを言ってみてなんて言うとどれを言ったらいいのとなる。だから書いたことを言ってなんて言わない。教材と対話する。
・国語の場合割と多くて、授業の最後に「振り返り」をする。私はしたことがない。ただし、「書き込み」で終わるというのはしょっちゅうある。子どもたちはほうっておいても書き込みをしてというふうになる。だから、その教材が終わる頃になるとノートが真っ黒けになる。
・今日は「ごんぎつね」でしたけど、4年生を持った時には、4月からごんぎつねをやるというそのつもりでいく。だから、書き込みもそのつもりで、ごんぎつねをやるときにはこれくらいはというつもりでやる。ごんぎつねをやるときには、ごんぎつねとしてのノートが1冊いる。だけど、今は土曜日も休みになっているし、他にたくさんしなければいけないことがあるし、時間的に難しい。これぐらい書かそうと思ったら、今はできません。時間的に。それで、そういうことがあるから書き込みをする人におすすめしているのは、全文をすることはない。ここというふうに選んだところで徹底的にやってみる。部分を。だから、ごんぎつねならごんぎつねで、最初から最後までやると大変。一部分について、自分が教材と対話するとはこういうことなんだというのを徹底して。それからもう一つはさっきから言っている、自分も書けるんだという、そういう思いを持ってもらいたい。そのようにやられるといいと思う。書いたことを言ってみてというのは言わないこと。書いたことを言う子があってもそれは構わない。でもこっちからは絶対に書いたことを言ってとは言わない。子供はやりだすと、いっぱい書けるようになって好きになる。子供を苦しめない。子供の感想に、「こんなに楽しく書き込みをしたのは初めてだ」というのがある。前は苦手だったと書いている。「学ぶ」ことが楽しいと思うんだけれど、「書き込み」をすることも同時に楽しいと思わなければ。
・本当は「詩」なんていうのはぐちゃぐちゃ書き込みをしない方がいいんです。理屈っぽくなるので。それは避けたほうがいい。ただし、教材として使うのは教育の目的なので、何かの時にというのはある。さっき言った、「島」。これは、これだけの詩だが、ぐちゃぐちゃ書かない方がいいですが、ちょっと書き込みをやってみようかなあという時には、これは材料としていい。どうしてかというと、これだけの詩なんだけれども、ストーリーがある。これだけで一つの物語である。詩でしかも言葉数が少ない。こちらが想像できることがいっぱいある。これで B4一枚に間を空けて印刷して書いたら、 B4一枚隙間なくぐらいは書ける。だからといって、詩を何でもかんでもというふうにしない方がいい。これは書き込みの教材としてその時使ったということ。
・「ごんぎつね」私面白いなと思っているのは、どこをやったらいいですかという相談があると、一番に紹介するのは今から言うところ。ごんがイワシを放り込むところ。その前あたりから。3の場面?。少し前に行った学校で、授業が23分余して終わりそうだった。チャンスとばかりに、ちょっと時間をもらった。そして子供らに聞いてみた。ようけ出ました。何かというと、放り込んで償いをするでしょう。「ごんは、償いをしようと思ったのはいつなんだろうね。」と。いつだと思います?先生が問いかけをするときに、どんな問いかけがいいかというと、できるだけ問いかけない方がいいという前提で、だけど子供から出たことに乗っかったりして、子供達が文章の目の付けどころが分からなくて困っている時に聞いたらいい、そのポイントは、第1条件はそれを聞いたら、子供がふっと文章に戻る問いかけ。先生が問いかけたら文を見もしないで即座に何人もが手を挙げるというのは、そんな問いかけはやめる。それは問いではない。だって、文章を読まなくてもいけるわけだから。そんなのは国語の問いではない。それで、今のは子供は必ず文章を見る。大人でも見るでしょう。これが一番。物語によってそういうのがいっぱいありますから、探してください。ところでいつやと思う?(参加者から)→「俺と同じ1人ぼっちの兵十か」「同じです」「穴の中」「いわしの安売りだよ」「やっぱり、いわし売りの声がするというところ」今良かったね。今、人のを聞いて、さっきは違う考えだった。そういうのはいいわけ。で、「えっ、えっ」と思ってまた読みなおす。何べんも文章に戻れる。本当だったら時間があればそこ読んでみてと。その周辺を読んでもらう。そうしたら、またあっちこっち何回も読むことになる。子供も一番早く言うのは穴の中ですよ。「ちょっ、あんないたずらしなけりゃよかった」と。これ随分早いでしょ。それから赤い井戸。それから俺と同じ1人ぼっちの兵十。それからお葬式のとき。それからいわしは必ず出るけれども、2通りのいわし。いわし売りの声。もう一つ、ちょっとごんたそうなの男の子が、担任の先生にとってもその子がものを言う事自体珍しいことだったそうですが、「いわし屋が、弥助の家に入った時」、つまり、どういう状況かというと無人のいわしの箱がある。置いてあるという、この状況の時に思いついたとその子は言う。いっぱい出てそのたびにあちこち読む。というふうになると子供は何べんも読むし、よく考えて面白い。読みについても、いわし売りの声なんていうのも重要。なぜかというと、声がするからすぐそっちに飛んで行ったなんていうとすごく軽薄な感じがする。そしてハイライトは、後で担任の先生に聞いたのだが、そのクラスで一番低学力の男の子が、あとの方で「穴の中」と言ったが、その時に「ちょっ、あんないたずらしなけりゃよかった」というその周辺を、ちゃんと全部読んで、たどたどしくね、で、こう言った時と言っているわけで、これはいいぞと思った。しかも言い方が、文章をあげて。すらすら読めるわけじゃないのに、一生懸命読んで。逆に、よく定番でやられるラストの場面。あそこはごちゃごちゃ言わんと、しっとり音読をして終わるぐらいのつもりでやった方がいい。


2012年9月11日の活動報告です。
《小畑先生・佐藤先生に教えていただいたこと。》
・写真を提示したことについて。思いを描いてほしいなんていう雲の写真を何種類か用意してて、あなたの頭の中に浮かんでいる雲はどれに近いですかと、最初はすることがある。いつまでもしません。そうしてあげないとものを言えない子は言えない。しかし、自分のイメージがこうだからといって写真を見せることはありません。
・空の山羊追いって、岡田さんは「山羊追い」で一つの言葉と決めてしまっていますね。「空の山羊 追い」だったらだめなんですか。空の山羊を追っかけて。どうして「ヤギ追い」でひとかたまりのように考えるかというと、七五調だから。子供の発言を見ていたらヤギを追っかけてと受け取っている子供もいるようです。
・教師がこう読ませたい、こう読んでもらいたい、という話が出ましたけど、教師がこう読ませたい・こう読んでもらいたいと思っている時にはその読み自体がとんでもないんです。そういう人はくだらない読みをしてますよ。だから、そう引っ張ってもらったら子供が迷惑する。
2年生の「お手紙」という教材の中で、登場人物のかえるくんの気持ちはとか、がまくんの気持ちはという先生の読みはとても雑で、それは読みとは言えないという話をさしてもらいました。大体そういうことになるんです。だからあまり先生の読みはということは言わないほうがいい。
・今日の公開で先生は「ゆっくりと」とか「どこで間を取るか」とか言っていました。それはいいんですがただし、先生が気をつけないといけないのはさっき言った、七五調とか五七調とかいうのは、言葉数でリズムができますよね。だから、どこで間合いを取るかは難しいです。子供の読みにコメントをしていますけど、子供の七五調の中での間合いを具体的に意識してコメントしてあげないと、こういう言葉の数でリズムが決まっているやつというのはなかなか行きにくい。
・岡田さんの教室の子供たちの表情が清潔なんだよね。それはどうしてああいうふうになれるのかなって思う。子供はすっきり学びに向かえている。それは多分いつも考えさせているからだと思うんです。そういうことをいつも丁寧にやられていると思う。それだけでも素敵です。いいなあというふうに思いました。
・あとこの詩なんだけど結構難しいよね。何が難しいかというと、分かったらもおしまいっていうところがあってこの詩は。謎が解けたらなんかおしまいというようなね。だから、空の山羊おいが風で、山羊が雲だということに気が付いて、あっそうかという。やっぱりもう中盤ぐらいで子供たちはそれに気づいて、あとどうしたらいいんだっていう話でしょう。20分で終わりゃあいいんじゃないのという。こういうのはある種の瞬間芸なんですね。雲の向こう側にあるある種の牧歌的なイメージの世界というのがあって、それでまあ、しゃんしゃんという話でしょ。そういう詩はもちろんていいんです。
・今日は金子みすゞの詩でしたが、これ仮に暮鳥の詩だとまた違ってくるんです。なぜかというと、暮鳥の詩というのは全部キリスト教なんです。だから、この山羊っていうのは違った意味を持ってくるでしょう。
・金子みすずっていう人は、詩の才能に恵まれながら苦しんだ人ですね。絶えず寂しさと憂鬱とを抱えている。だから優しくなってくる。逆に言うとそれ以上花が開かなかった。
・それで、難しいのは今日の詩は分かったらおしまいというのがあって、情景を思い描いたらそれでおしまい。だから、あんまり引っ張らない方がいい。にもかかわらず、ちょっと工夫があってもいいなと思うのは、子供はその先を行こうと一生懸命頑張っているが、時間が同じかどうかとかね、2連目と4連目のね。ただこれも、決め手がないんだよね。多分同じなんだけどね。
・これがなぜ詩になっているかというのが二つあって、山羊追いと山羊との関係が雲と風との関係になっている。その関係がポンと跳躍している。それが詩のスタイルですね。現実とイメージ、目に見えるものと見えないもの。その繋がりが詩なけですね。もう一つは、形式的に言うと、「空の山羊おい目に見えぬ」がリフレインになっていて、その間にちょっとトーンの違うものが二つ。この形だよね。
・最初に、その形がどうなってるって聞いてもいいね。最後に、山羊が夕日にそまるころ、前半部分ですよ。授業の前半部分でね。押さえておいていいと思うのは、山羊が夕日に染まるころ遠くで笛をならしている、これ主語がないよね。笛を鳴らしているのは何?、誰?。ていうぐらいのことを一つ押さえておいてもいいかなと思う。その方が、子供ははっきりと読めると思うよね。この主語は一番最初に戻ってくるんです。空の山羊追いなんだよ。空の山羊追いという冒頭の言葉が最後まで主語になっている。そういうことが最初にわかっているといい。それぐらいだね、工夫は。遠くで笛を鳴らしているのは誰が鳴らしてるのと聞いてみて、それじゃもう1回読んでみようとか
・岡田さんは、引っ張ってるんじゃないかとかしゃべりすぎてるんじゃないかとか、これは気にしないことじゃないの。そういう時もあるっていう感じで。たっぷり聞ける時もあれば先生がしゃべってしまうときもある。もっともっと奥行きがある詩、味わいがある詩ならもっとたっぷりと聞けると思う。それはその時取り上げる教材との関係だからさ。というより、この子供の表情から学びたいね。こういう子供たちをどうやって育てるのか。そういうことを僕らは学ぶ必要があるね。素的な子たちですよ。ありがとう。

2012年7月23日の活動報告です。
《小畑先生に教えていただいたこと。》
・このクラスは先生と子どもの関係がいい。今、めいめいで音読しましたけど、まずまずいい感じかなと思って見ていました。もしも読みがいい加減なクラスであれば、めいめい読ましていても、特に男の子は、いい加減な子どもたちがバタバタと早く終わる。ある学校で、めいめい読ませて早く座った男の子たちが、書き込みをした時に書けなかったんです。なんでかというと、読みがいいかげんだから。文章とちゃんと向き合っていないから書けない。そんな感じのする子らがゆったりと読んでいるというのはまずいいんです。
・どの教科でも一人で考えるとか1人で書くとかやっているけどこれはちょっと考えた方がいい。なんでかというともしそれをするのであれば、1人でできない子らをどうするかを考えておかなければいけない。先生はよくウロウロとして書いている子どものを見にいくことがある。書けていない子はほとんどほったらかしという状態がある。なんで書いている子を見にいくかというと、それは後で使おうと思っているから。だけど、問題は書けない子でしょ。書けない子をどうするのかということを考えておかないとだめ。そういう子がたくさんいる場合は先生が回るのは無理。すると1人で書く必要はない。話をしながら書けばいい。(いい雰囲気のペアをいくつか示す。)もし、後で書いた子どもの話ばかりを聞くと、書けない子は書かなくていいと思ってしまう。だから書けと言った以上は、絶対に全員に書かさなければいけない。大原則。見ていると、お隣と一緒に話をしながら書けそうなペアがいっぱいある。ただし、後で言いますが、「考えや気持ちを考える」と言っているが、これには問題がある。
・雰囲気は良さそうですが、少人数にする理由です。最初は一人一人の学びを保証する。どの子も学びの中に入れる。(数名の子を指して)この子らが学びに入っているかがポイントです。この辺がはぐれていたらもうグループをやっていることにならない。次は話の中身です。ここは話をしているが、どうも違う話をしているんじゃないかな。
・ただ、「気持ち」とか「考え」を聞いてますからね。最初ちょっちょっと話したらもう終わりなんですよこれ。大した中身がないんですよそんなこと聞いたら。だから、ちょっと話をしたら後は遊び話になるかな。それから、書いてないことを言ってもいいとは言っていましたが、最初にこんな事を書いたよと出せと言っていましたよね。そうすると、ほとんど書けてない子は出せないですよね。だから、基本的に書くことに対する考え方か違うんだけど、要するに話をするために書くのではないということ。書くというのはね。ということなんですが、それはちょっと置いとくとして。雰囲気はいい。
・手を挙げていない子の方がよく当たっているでしょ、これはとても良いと思う。手を挙げていない子の方が気になるのは普通じゃないでしょうか。
・1学期が終わったが、今後どうしていくつもりなのか。どういうところを目指していくのかということが大きな課題になる。「おずおずと」とか「じゃまくさい」という発言があったが、最初にグループで話をした時にどうしてその事が出てこなかったのか。出てきてたらこの子なんかが答えてますよ。そしてやりとりができる。しかし、線を引いたところを出し合っているだけ。しかも出していない子もいる。だからグループ内でやりとりがないんですよ。話しているように見えるけどね。グループの中でのやりとりがないというのはグループでの学びとは違う。だから、どうしていきたいかというのはそこなんです。グループの中でやりとりがあって、そこで学びがある、そういうふうにしていきたいのかどうかということなんです。
・一番のポイントは先生の「どんな子どもに育って欲しいのか」という願いである。例えば子どもが自然に話ができるようになれば、先生は動かなくていいようになる。先生が動かなくていいようなクラスになって欲しいとかね。だけど最初はそうはいかないから、教育にはタブーはないんです。先生が動いた方がいいか動かない方がいいかなんていう一般的な話ではだめなんです。子どもの様子を見て、動かなければいけないなら動いたらいい。だから今、自分が動いているのは動かなくてもいいような子どもになって欲しいから動いている。それは当然ですけど期間限定です。その発想がどうもないんですよ。
・リボイスについても、聞ける子どもになって欲しいという願いを持ってリボイスをする。ただし期間限定である。聞けるようになったらリボイスはやめる。
・だから、子ども同士の話ですけど、これも願いがあって、6月の後半ぐらいから、どう組んでも話ができるような子どもになって欲しい。これは願い。ウロウロしているのがだめだと言われるのはつまり目的がないんです。ただ見回りみたいにしてウロウロしている。これは全然だめ。この子とこの子が話ができるようにしようというような目的がなくてただ動いているだけというのはだめ。目的があって動いていると、その目的がなくなると当然動かなくなる。4月の始めなんか、この4人を集めたら絶対に話をしないだろうなあと思う子どもを集めることがある。そこは私が行くということが前提条件になっている。最初は均等なんていうことは頭にない。
・ポイントは、人と話をしてグループをやって良かったなあと思えるようになること。そうしないと自分たちでできるようにならない。
・課題ですけど、ジャンプの課題とかいいますけど、教科によって違うので、少なくとも物語(文学作品)を読むというのは、だいたい課題解決学習ではないので、ジャンプの課題がどうこうというのは考えなくていいんです。それを考えるのは他の教科。算数とか理科とか社会とか。文学作品では話をするんですが、よく指導案を見ると話し合い話し合いと書いてあるんですが、根本的に違うんです。話はするんですが、何のために話をするのかというと、文章を読むために話をする。読んで話をするのではなくて、読むために話をする。だから音読に戻すというのは絶対に必要なんです。やらなければいけない。そのために話をしているわけだから。だから読んどいて話をして終わったなんていうのは違うんです。それは物語を読む授業ではないんです。授業のあり方そのものが。話をしたら読む。だってそのために話をするんだから。だから当然今日は音読が足りないです全然。魔法とか言ってますけど、耳が良くなる魔法と書いてあるじゃないですか。で、それを読むために魔法という話が出てくる。隠れた魔法もあるかもしれませんけどね、ファンタジーですから。音読は、何か子どもから話が出るたびに「どこから」そう思う、「どこで」そう思う。「なぜ」そう思うではないんですよ。聞いて、聞いたら必ずそこを読む。ちょっと範囲を広げて。一文だけ読むんじゃなくて。必ず読む。言ったら読ませる、言ったら読ませる。話し合うということを中心に考えていると音読に戻すという発想になる。違うんです。音読が中心で間に話を挟むんです。
・グループでのやりとりがあって、グループの中で音読をしてもいい。そこで、その段階で学びを高めていく。これからの問題で、グループでやっていて、そして全体になった時に線を引いたころを言ってみてというでしょ。おんなじこと2回言えと言ってるわけです。よくあるんですよ。さっき言ったことをもう一度言えということになる。グループをやってどうだったというのが全体でしょう。同じことを2回言えという発想でやってはだめ。
・書き込みはものを言うためにやるんじゃないんです。書き込みについての資料、私が担任の時にしていた書き込みの資料を次出してみようかなと思います。ちょっとだけいっときますけど、どの子も書けるように。分量で、中身を。書くのが苦手な子ほど、分量を書けるということは大事です。書くのが苦手とか書くのが嫌いと言っている子が、分量を書けるとものすごい喜ぶんです。だんだん書くのが好きになっていく。だから絶対書かせないといけない。ほっといても書く子はほっといてもいい。
・さっき時間がなくてグループをやる時間がなかったねと言いましたが、私の発想は逆で、時間がなかったから全体をやる時間がなかったねということになる。去年のセミナーでも言いましたが、基本的には学びはグループが中心で、その間に全体を入れていく。全体もいるんです。4人でやると人数が少ないので、たまたま4人の思いが一致してしまうと、広がりがない。そんな時全体にして聞くことも必要。こんなこと思いもしなかったというのが出てくる。そうするとそれを元にしてまたグループをすればいい。私がグループをやっている時にはよくグループを止めます。面白いことを言っているな、他のグループでは言っていないなというとき。のことを全体の場で言ってもらって、「どう」なんて聞く。そのことも頭に入れてまたグループで話してご覧と言う。だからしょっちゅうグループを止めます。
・それから・・・このゆうすげ村の小さな旅館に来て働いていた娘は、「通い」だったんでしょうか「住み込み」だったんでしょうか。何でこんな事を聞いたかというと、もし通いだとすればエプロンは毎日外しているはず。ところがこの日は特別な外し方になる。それがおずおずと。今日はエプロンの外し方が違うわけですね。
・グループで音読をすると、聞いている子が何らかの感想なりを言ってくれることがよくある。全体の場ではなかなかそうはいかない。ループで話している中で、そこ読んでみてというような声が出るようになって欲しい。じゃ読んでみるわと。そういうグループにしたいんです。したいからそういうふうに対応するんです。子どもたち自身が、じゃ読んでみようかというようになるようなグループにしたい。また他のグループでは話をしていてもいい。どっこも同じようにする必要は全くない。
・「考え」や「気持ち」を読もうと言っているクラスは、読み方が雑。気持ちがかなり直接的に書いてあるところばかりを読む。そうじゃないところにあまり目がいかない。結局読んでることにならない。そしてだんだん文章から離れていく。一般的にはこう考えるだろうなんていうのが入ってくる。だから「気持ち」と「なぜ」「どうして」はやめたほうがいい。子どもがいう「なぜ」「どうして」は本当は自分でもわかっていることの方が多い。本当に分からなくて分からなくてと言うのはほとんどない。だいたい無理にひねり出している。子どもがもし「なぜ」「どうして」と言ったら、あなたどう思うと聞いてみたほうがいい。
・気持ちではなくて、「登場人物の動」きと「情景」です。(「大造じいさんとがん」の授業を例に挙げて・・・(省略)気持ちを聞いていると、このときおとりのガンがどう動いてハヤブサがどう動いて残雪がどう動いたっていうような情景が全くうかばない。大造じいさんの気持ちはどうだったかと問うと、常識的な答えがポロポロと出るだけ。先生が文章を読めていないと言うことになる。気持ちを聞きたがる先生はそう。

2012年6月20日の活動報告です。
《小畑先生に教えていただいたこと。》
・座席はどうやって決めているのか。この座席はよくない。分からなかったら人に聞けというが、聞ける雰囲気ではない。分からなかったら隣に聞くということが想定されていない席がたくさんある。どう見ても女の子の方がしっかりしているが、男の子同士座っているのは理解できない。
・この子は女の子の中でも早く読める子である。だから男の子の中でこの子より早く座るというのは具合が悪い。それはちゃんと読んでいないということ。ただ、そういう子どもたちを意図的に後で指名していたことは良かった。
・今音読した子。今この学級の雰囲気からいうとあの子はベタ誉めしないといけない。みんなあれぐらいの速さで読むんだということを子どもたちに伝えたい。この子はめいめい読んでいる時よりも指名されて読んだときのほうが良い。「それがあなたの読みなんだね、めいめい読むときもそのように読むんだよ」と早いうちに言ってあげる。めいめい読みがなぜいいかというと、それぞれがめいめい自分の思いで読むから。
・グループを作るときのポイントははぐれる子がいないこと。また、4人いたうちの誰か1人を中心に話が回っているというのはだめなんです。極端に言えば13になっている。それはグループにはなっていない。4人グループでよくあるのがびちゃっと机をくっつけるやり方。しかしグループによってばこれでも距離が遠いなあというのがあるんです。その場合机二つで子ども4人ということもできる。これは距離が近くなる。もっと極端に言ったら、机一つを4人で囲む。机なしで椅子だけで囲ってしまうのもいい。一つの教室で全部同じにする必要はない。
・グループとでいろいろ出し合った後に出てきた意見が今のようなものであるなら話し合いが軽いと思う。人が言ったことを受け取って重ねていったということにならない。一人でも言えるようなこと。その原因は読み。(いくつかの文章を例にあげて)こんなところにこだわって読む。そうしないと、ほわっとしたものになる。ではどうしてそういう言葉に注目してもらうかというと、ポイントはまず子どもの音読。子どもの読みに対する先生のコメント。それにはたどたどしく読んでくれる子ってとてもありがたい。読みにくいところって絶対に詰まってくれる。そして読みにくいところってきっと何かある。それは、実は他の子どもたちにもこの言葉に注目してって言っていること。
・私(小畑先生)は、書き込みはしょっちゅうやっていた。私が子どもにさせる書き込みは、今日はここ今日はここじゃない。全文を出して、読んで、指名読みもして、私のコメントもして、それだけで1時間か2時間かかるけれども、その後書き込みをするんですが、どこからでもどうぞと。全文のね。そうすると、一番代表的なのが「ごんぎつね」なんだけど、子どもはどこから書き始めるかというと、最後の場面から書き始める子ども、それから前のところへ戻って書いてまた後のところへ戻って書いたりと、行きつ戻りつして子どもって書き込みをする。子どもが一番心を惹かれるのは山場と言われるところだ。常に一番心を惹かれるところと繋がりながら読んでいくわけ。
・最後に振りかえりということをよくするが、私なんかは国語の最後の時間は書き込みで終わる。今日それぞれ思ったことを出し合ったり聴き合ったりして、そのうえであなたは教材文とどう向き合うのという、書き込みで終わるのが私の常だった。
・そろそろグループの本格的な活動に取り組まなければいけない。グループにする一番の理由は子どもを鍛えるため。発言する子には後の3人に自分の思いを思いっきり伝えてみろ。聞いている子はその発言をめいっぱい受け止めなさい、という課題がある。そうやって鍛えていくのが一番のねらいなんですよ。べちゃべちゃしゃべってればいいというのではない。


2012年5
24日の活動報告です。

《小畑先生に教えていただいたこと。》
・よく授業を見ていると、先生が子どもに対して姿勢を正しくしなさいと説教することがよくあるが、姿勢が悪くても子どもたちは先生の方を見ている、プリントが配られたらすぐにそちらを見る、そういう子たちは大丈夫です。
・子どもがよく育っている。先生が行かなければいけないというペアが少ない。
2学期3学期と進んでいくにつれて、誰とでも話ができるようになって欲しい。この子は後ろをよく見て話をしていたがやはり隣りの子と話ができるようになって欲しい。
・現状では子どもが立ち歩くのはあまり感心しない。子どもが立ち歩いてできる子のところへ集まるというのはあまり良いことではない。答えを見に行っているということではあまり良くない。立って子どもが動くということになると、他の教科でも考えておかなければいけないことは、例えば外国語の学習の時に男の子は男の子同士、女の子は女の子同士で話をするということを見たことがある。こんなことをしてはだめなんです。好きにどこでもいきなさいということはそういう学級ではまだしてはいけない。そういう学級では必ず隣としなさいと言う。
・板書は子どもとやりとりをしながら書いた方がいい。特に小さい子は。板書は基本的に子どもが見ていないといけない。
・グループやペアはあまり長い時間やってはだめ。止めてちょっと子ども達の話を聞いてまたやればいい。では止める目安は何かというと、お話が終わって崩れかけているグループやペアがあると一度止める。子どもの気持ちが一度崩れてしまうと後立ち直らせるのが難しい。グループやペアを止めにくいのは、考え方の問題で、この後一斉授業をするんだというふうに思ってやっている人はグループを止めにくい。しかし、一旦止めて何人かに言ってもらってまたグループで話をしてみてというふうにすると途中でグループを止めることができる。1年生や2年生はペアがいいが、1回のペアの時間は短く、回数は多く。
・子どもの手の挙がり方。もっと早くペアを止めて聞いていたらもっと挙がっていたと思う。子どもがくたびれてきている。手を挙げている子を当てるとすればどの子を当てるか。私は手を挙げていなくても関係なく当てるが、関係なく当てるとすればどの子を当てるか。ビデオはそんなふうに考えながら見ると面白いですよ。
・この4人の中で当てたい子は誰か。また逆に当てない子は誰か。あの子は一番話をよくしていた。私はこういう子は当てたくない。さっき当てられたけど答えられなかった子がいました。私はこういう子はこの時間内にもう一度必ず当てたい。当てたのに言わないまま終わるということがないように。
・子どもが前に出て何かを話しだしたときには、先生は後ろに行くということは重要なポイントです。前に行っている子は先生を意識してしゃべるので、後ろを見てしゃべることになる。この間に子ども達がいる。すると子どもたちに話が通じやすい。今先生がしゃがんでいるが、これはもっといい。先生がしゃがむと話している子どもの目線も下がる。自然に友だちの方を向いてしゃべるようになる。
・○○君は、「48-15」と言った。(正解は「45-18」)
・全ての事に前提、条件がある。それが抜けるんですよ。すると方法ややり方の話ばっかりになる。さっきペアが長すぎると言いました。じゃ、どうしてもっているかというと、先生と子どもの関係なんですよ。1年生なんかは、先生との関係がうまくいかないとそこが安心できる居場所ではないので、お隣と話をしてみてって言ったってろくな話ができないんです。前提と言ったのは、先生と子どもの関係という前提を抜きに、ペアをやったらうまくいくなんていうことはない。
・待つという事が出ました。待つということにも前提や条件があるんです。それは子ども達が本気になって話していること。どこも崩れずに。そういう状況の時は待っていい。だけど、もうおしまいということで、無駄話をし始めているところがあると待ってはいけない。崩れるだけだから。
・本気になって話し始めた時の子どもの表情はとてもいい。1人の子が3人の子に説明をしている時があったが、その説明をしている子と聞いている3人の子の表情はとても良かった。
・先生が時々納得できたかいと子どもに手を挙げさせたのは、聞いていたかいという意味で時々やればいい。しかし納得していないが手を挙げている子がいるということも考えておかなければならない。
・具体物はいると思います。タイルが1人分で足りなければ2人分や3人分合わしたって構わない。
・いい授業悪い授業とよく言われるんですが、そういうふうに考えないほうがいい。一般的に言うと、いい授業というのは良く見せたい授業と言ったほうが良い。そういうときに活躍するのは、よくできる子がものを言う。先生が言って欲しいようなことを言う。先生が大喜びで板書をする。そしてクラスでこんなふうに考えがまとまったなんていうふうになる。しかしその授業に実質的に参加しない子がいる。そこにいて我慢しているだけ。大体そういうのがいい授業と言われている。今まで言われていたいい授業というのは100%近く取り残されている子がいます。その子が騒がないだけ。どの子の学びも保障しようと思ったら今言ったような感じの授業にはならない。その辺がポイントになってくるのであまりいい授業というふうには考えないほうがいい。
・全児童或いはよく使うのはみんなという言葉。あれ99%嘘ですから。例えばみんなで読みましょうと先生が言う。ところが読んでない子が必ずいるんです。固有名詞のある授業をしましょう。繰り下がりのある引き算をできるようになって欲しい。どの子に? みんななんていう曖昧な言い方はない。あなたはどの子にこれがわかって欲しいんですかということがいる。或いはどの子にこそ読んで欲しいんですかというのがある。よく読める子が何らかの理由でたまたま読んでなくてもそれは構わない。よく読めるんだから。ところがA ちゃんにこそ読んでもらいたいという子がいるはず。この子が読んでいないのは大問題なんです。
・学力というのはどういうところで身についていくか。大体はやさしいところから順番に積み重ねていってだんだん難しくなって、それで学力がつくのだというのがあって、そうすると一時間の授業が違ってくるんです。ところがそういうやり方で実際に学力が上がっていくのはできる子なんです。できない子ほど難しいのをやりたがる。そして難しいのをやる過程でそれまでのことを身に付けていく。
・今まで積み重ねでやってきて、この結果が今のこぼれている子じゃないですか。そのことに対する振り返りがない。積み重ねでやってきた結果落ちこぼれている子がいるんです。これまで間違いなく積み重ねでやってきたんだから。じゃあ低学力と言われている子にどうやって学力を身に付けてもらうか。それは学び合いでありレベルの高い課題であり、というのが出てきた。

2012年4月18日の活動の報告です。

《小畑先生に教えていただいたこと。》
・この子にこそお隣の子と話をすることが必要な子がいるはず。特にどの子のために2人(ペア)が必要なのか。黙っている子がいたら当然先生が行かなきゃいけない。
・新学期が始まってから5日も1週間も経っているのにどうして席替えをしないのか。早く席替えをしているクラスは雰囲気がいい。45月はしょっちゅう席替えをすればいい。
・手を挙げている子、或いは手を挙げていない子それぞれ誰を当てたいか。それと当てる順番。早いうちに当てるといい子、後の方で当てたらいい子がいる。そんな事を考える。
・ペア(グループ)での話し合いがやかましくなってきたと思ったら、早めに止めたほうがいい。良くなってきたと思ったら続けたらいい。
・手を挙げてない子への当て時がある。
・音読は子どもが何かを言うたびに、「そのイメージで読んでみて」とするのが良い。
・「リボイス」について・・・リボイスはすれば良いと思うけれど、ただし期間限定で。リボイスをするには理由がある。普通は会話の中では相手の話をいちいち繰り返しはしない。
リボイスをする理由は子ども達が話を聞いていないとき。他の子達に向かってやるのが聞かせるためのリボイスです。大事なのは聞いてる子。
・今見せてもらっている「書き込み」は、その後物を言わせるための書き込みに近い。学びというのは基本的に三つ。一つは教材との対話。それから人との対話。もう一つは自分自身との対話。「書き込み」は何のためにしているかというと1番と3番です。
1年生では入学式の次の日から授業をします。やることはブラックボックス。中に入ってるのは何かと聞くと自転車とかね。面白いですよ。入学式の時から子どもの様子を見ながら、あの子とあの子は当てると決めている。初日から第1回目の授業研究をやる。そうやって子どもと先生との関係を作る。小さい子程先生との関係が命です。子どもにとって話を聞いてくれる先生がいい・・・・など、ここには書ききれない話を聞かせていただきました。