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            曽我直子 (19051995)

                         


                      曽我直子のレコード

     本名、岡田田鶴(たづ

 曾我直子は東洋音楽学校声楽科出身で、本来、正統派の声楽家を志していたという。帝国劇場歌劇部の研究生を経て、帝劇女子管絃楽団でアルバイトとしてクラリネットを吹いていたが、昭和詩初期に歌手に転身。帝国劇場との契約上、本名の岡田田鶴の名が使用できないため、曽我直子という芸名で活動した。また、ほぼデビュー時からコロムビアとヒコーキレコードで浅香つる江の変名も用いている。
 昭和初期のニッポノホン、コロムビア系レーベルに旺盛に吹き込みをし、天野喜久代、井上起久子、河原喜久恵らとともに女声歌手のレギュラー陣となった。吹き込みは「ジャズソングの女王」と謳われた割りには少なく、昭和4年から5年にかけてヒット曲を連発したことで一気に人気が盛り上がったが、そのあとは関種子、丸山和歌子、渡邊光子、淡谷のり子ら女声陣の充実とともにいち早く消えていった。レコード歌手からの引退が比較的早かったためである。
 とりわけ同時期にデビューした東京音楽学校出身の河原喜久恵(*)は曽我と似通った個性を持っており、曽我よりもさらに安定した技巧とメリハリを有していた。昭和5年から6年にかけて、特に「ザッツ・O・K」の大ヒットを契機に曽我の人気は河原喜久恵に継承されたといってよい。
 曽我はソロでの吹き込みとともに川崎豊とのデュエットも残しており、なかでも「沓掛小唄」「蒲田行進曲」はヒット盤となった。独唱では「麗人の唄」「金のグラス」「明眸禍の唄」がヒットし、とりわけ「麗人の唄」はコロムビアに河原喜久恵盤があるにもかかわらず、ニッポノホンで曽我による2種類の吹き込み盤(うち1種は川崎とのデュエット)が作られるほどの人気を示した。
 曽我の歌唱は女性らしい繊細さと伸びの良さ、楽譜に忠実な点が特徴として挙げられる。晩年の藤山一郎氏に伺ったところ、「楽譜に忠実に歌われた方でした」という藤山氏らしいコメントを頂戴した。彼女の発声は、邦楽の素養が影響しているのではないかと思われるが、声に鼻にかかったか弱い色気があり、川崎豊の男性的な力強いテナーと好対照であった。写真を見てもすんなりした線の細い美人で、いかにも恋に思い悩む女の唄にふさわしい容姿である。
 一連のレパートリーの中でも叙情小曲の「忘れな草」は絶唱である。この歌曲には柴田秀子(創唱者)や三浦環など声楽家の録音もあるが、技巧的にはともかく情感の豊かさに於いて、通り一遍な物足りなさを感じさせる。三浦環などは歌詞が聞き取りにくく、しかもオペラティックに歌われると日本歌曲らしい楚々とした美しさが失われてしまう。
 曽我はオペラの舞台やクラシカルな曲目による独唱会の経験はないが、声質は叙情性に富んだリリコ・ソプラノであり、マイクロフォンを駆使したフレキシブルな感情表現も心得ていた。ほかの昭和初期の歌手にもいえることだが、これも先に触れたように邦楽の発声法を心得ていたからではないだろうか。
 筆者が筆頭に推す「忘れな草」や「金のグラス」、「女と恋」など曽我の一連のレコードは、同時代の天野喜久代、井上起久子、青木晴子らとはまた異なる魅力ある個性をうつしだしている。「忘れな草」と裏面の「明眸禍の唄」は、異なるアレンジによる2種類の録音が確認されており、それぞれに特色のある出来栄えになっている。初めのテイクでは素朴かつストレートだが押し付けがましくない歌唱が、胸に迫る効果を挙げている。一方、後のテイクではマンドリンなどを加えたより大きい編成をバックに、フレーズごとに強弱をつけてドラマティックに歌われている。テイクを重ねたのでかなり疲労したとみえて、声はよれよれとしてほとんど投げやりに歌っているようなところも見られる。それが真に迫っており、レコードとして成功している。最終フレーズで間を置くのも別テイクの特徴であるが、これはわざとらしく、やり過ぎの観がなくもない。
LP時代の復刻盤では後者が使われており、今日見かける盤も後のテイクの方が多いようである。

 ちょっと珍しい吹き込みとしては、昭和4年秋に日本でも封切られたフォックス映画「サニイ・サイド・アップ」”Sunny side up”のフィルムに、フォックス本社からの依嘱で内田栄一と曽我直子が唄をかぶせている。歌っているのはレコード化もされた「夢の恋人」”I’m a Dreamer aren’t we all?”で、これなどは日本公開のフィルムが残っていたら見てみたいものだ。

 曾我直子はもともと声楽家志望であったのだが、当時のクラシカルな声楽家の多くがそうであるように、流行歌吹き込みのアルバイトを余儀なくされた。曾我直子も経済的な理由からレコード歌手となり、ごく少量の歌曲によってのみ、その望みを果たすことが出来た。そのためか、割合に声楽家、オペラ歌手に知己が多かったようである。浅草オペラ出身の清水金太郎や、同じ東洋音楽学校出身の淡谷のり子と交流があったという。しばしばレコードで共演をした川崎豊もオペラ志望のテナー歌手で、留学費用を捻出するためにレコード吹き込みをしていた。このコンビのレコードは、昭和初期の洋楽壇の厳しさをうつしし出す鏡でもあるのだ。

 舞台での公演活動についてはあまり詳らかではないが、全盛期に全国を巡演したほか、戦時中には軍の慰問にも加わったという。中国大陸で慰問を行ない、原子爆弾が投下される直前の広島でも慰問活動を行なったそうである。
戦後は保母さんのようなことをしながら、音楽を教える道を選んだ。晩年まで個人経営の音楽教室で歌やピアノを教え、音楽家として生き抜いたのであった。
1995年7月24日歿。



 岡田田鶴さんについては、ラジオとネットのご縁からご遺族の岡田様より種々、情報をご教示頂きました。ここに深く感謝申し上げます。


       * 河原喜久恵は厳密にいえば流行歌手ではなく、オペラ志向の歌手であった。
        昭和5年には山田耕筰のオペラ「堕ちたる天女」に参加し、JOAKの放送オペラの
        メンバーでもあった。

      ディスコグラフィ
        ○レコード番号・発売年月・マトリックスナンバーは省略してあります。

タイトル 作詩 作曲 編曲 レーベル
月は冴ゆれど
”Lonesome in the Moonlight”
未記載 未記載 未記載 ニッポノホン
夜の柴笛   未記載 未記載 未記載 ニッポノホン
マダム 堀内敬三 未記載 堀内敬三 ニッポノホン
浜唄  未記載 未記載 未記載 ニッポノホン
空中行進曲 北原白秋 諸井三郎 未記載 ニッポノホン
祭り唄 未記載 未記載 未記載 ニッポノホン
ヴェニスの舟唄 後藤紫雲・宮島郁芳 後藤紫雲・宮島郁芳 未記載 ニッポノホン
隊長さん(ジャズ民謡) 未記載 未記載 未記載 ニッポノホン
麗人の唄 サトウハチロー 堀内敬三 未記載 ニッポノホン
尖端的だわね 松竹蒲田音楽部 松竹蒲田音楽部 未記載 ニッポノホン
麗人の唄(w.川崎豊) サトウハチロー 堀内敬三 未記載 ニッポノホン
浅草行進曲 多蛾谷素一 塩尻精八 未記載 ニッポノホン
夢の家"Dream House"
(w.天野喜久代)
未記載 未記載 未記載 コロムビア
沓掛小唄(w.川崎豊) 長谷川伸 奥山貞吉 奥山貞吉 コロムビア
金のグラス 小野行人 石津豊 堀内敬三 コロムビア
乳姉妹の唄 川村花菱 堀内敬三 未記載 コロムビア
空中行進曲(w.川崎豊) 北原白秋 諸井三郎 未記載 コロムビア
蒲田行進曲(w.川崎豊) 堀内敬三 R.フリムル 堀内敬三 コロムビア
明眸禍の唄 吉井勇 杉山長谷夫 未記載 コロムビア
忘れな草 勝田香月 杉山長谷夫 未記載 コロムビア
みなと行進曲 堀内敬三 堀内敬三 未記載 コロムビア
新潟小唄 北原白秋 町田嘉章 未記載 コロムビア
尖端的だわね 松竹蒲田音楽部 松竹蒲田音楽部 未記載 コロムビア
第九回極東大会の歌 足立賢治 陸軍戸山学校軍楽隊 未記載 コロムビア
淀君小唄 三上於兎吉 奥山貞吉 未記載 コロムビア
恋と女 三上於兎吉 奥山貞吉 未記載 コロムビア
名古屋音頭 関本とめ 松浦まこと 未記載 コロムビア
北投小唄 栗原白也 町田嘉章 未記載 コロムビア
由比ガ浜小唄 久米正雄 町田嘉章 未記載 コロムビア
夢の恋人
“I’m a Dreamer aren’t we all?”
未記載 未記載 未記載 コロムビア
オール箱根ソング
(ヘッチョイ節)
野口柾夫 杉山長谷夫 未記載 コロムビア
月の沙漠 加藤まさを 佐々木すぐる 未記載 ヒコーキ
椰子の実 加藤まさを 佐々木すぐる 未記載 ヒコーキ
夢がほんとになればよい 未記載 未記載 未記載 ヒコーキ
唐人お吉 神田日活文藝部 神田日活文藝部 未記載 ヒコーキ
青い鳥 法月花客 佐々木すぐる 未記載 ヒコーキ
ねんねのお里 北原白秋 佐々木すぐる 未記載 ヒコーキ
忘れな草 勝田香月 杉山長谷夫 未記載 ヒコーキ
出船 勝田香月 杉山長谷夫 未記載 ヒコーキ
祭り唄 未記載 未記載 未記載 リーガル
ヴェニスの船唄 後藤紫雲・宮島郁芳 後藤紫雲・宮島郁芳 未記載 リーガル




 <参考文献>
  故森本敏克氏「
SPレコードのアーティスト」(六甲出版)
   「歌の花籠」(昭和15年)
   コロムビア各種ディスコグラフィ
   レコード