佐々紅華 1886(明治1)1961(昭和36)
二村定一を生み出したのは佐々紅華といって過言でない。
佐々と二村の関係というと、まず佐々の大ヒット曲を二村定一が歌った「君恋し」「浪花小唄」や、お伽歌劇の代名詞といえる「茶目子の一日」が思い浮かぶ。だが二人の関わりは作曲家と歌手という範疇に留まるものではなく、冒頭の言葉であらわすのが最適だと考えられる。

佐々紅華(本名:一郎)は明治19715日、東京都台東区に生まれた。紅華が四歳のとき一家で横浜に転居。横浜小学校、神奈川第一中学校を経て、東京高等工業学校(工業図案科)に進学した。小学校時代からの音楽好きが嵩じてはじめは東京音楽学校を受験したが、試験には受かったものの父親の意見で東工に行ったのだという。

東工卒業後、印刷会社に就職するものの其処でもコーラス部を作るなどしており、音楽業界を志してか明治43年、日本蓄音器商会(ニッポノホン)図案室に入社した。ニッポノホンではポスターやジャケットの図案などを手掛けたほか、レコード化された長唄の採譜をした。大正2年、日蓄の広告部長だった米山正を常務取締役にいただく東京蓄音器株式会社が新たに設立され、佐々は文芸部長に招聘された。ここで彼は「目無し達磨」をはじめとするお伽歌劇という独自のジャンルを確立し、東京蓄での仕事を足がかりにして、浅草オペラと密接な関わりを持つようになっていった。
大正期、佐々は浅草オペラのめまぐるしい転変の渦中にあって、プロデューサー、舞台監督、作曲家として活躍した。そしてその一方で、興行界の人脈によるレコード活動を行なった。彼の才能は作曲に限られず、神田小川町で喫茶店「ビクター」を開業したり、自分で自宅を設計したりと創造意欲のはなはだ旺盛な人物であったが、上述のプロデューサーとしての手腕が芸術的天分と相助けて大正・昭和の興とレコード界を華々しく彩ったのである。そのなかにあって二村定一は、佐々が関東大震災後に見い出した新しい興味の対象で、森歌劇団、五彩会の舞台や東北・北海道方面への巡業を通して重用したほか、レコードでも新進歌手として積極的に売り出した。二村は、同時代の歌手たちの誰にも似ていない声を持ち、口跡が明瞭で声量もあったのでアコースティック録音でも独特な存在感があった。アンサンブルだと目立ってしようがない声を佐々はユニークな役付けで活用し、これは筆者の推測だが二村を一人のタレントとして養成しようと考えたのである。
大正14年以降、二村は佐々の作曲によるお伽歌劇だけではなく、欧米のノヴェルティーソングを翻案した〈流行小唄〉を幾つも吹き込んでおり、そこにも佐々の意向が働いている可能性が強い。佐々は明らかに二村を、レコード上で活躍する新しい種類のスター、レコードアーティストとして育もうとしていた。二村自身の希望もあったであろうが、多彩な吹き込み曲種には、歌い手の可能性を試みようという意図がうかがえる。また自身の芸術心もレコードには強く投影されていて、高井や二村といったお気に入りの歌手に吹き込ませた〈新流行歌〉〈現代小唄〉、喜歌劇に挿入したメロディーなどを、昭和に入ってから新たにレコード化している。既存の楽曲が昭和に入って再生産されるこのような例は佐々に限らないとはいうものの、大正と昭和の流行歌をつなぐキーパーソンの一人が佐々紅華であるのは間違いない。
しかし自分の能力をよく知悉する人でもあって、(おそらく)佐々が二村に植えつけた欧米ポピュラーソングの路線は、まもなくジャズの専門家である井田一郎にすんなりと受け渡された。佐々の作品でジャズソングとして発売されたものの多くは井田のアレンジによっており、そうした作品の裏面では同曲の二三吉による小唄調バージョンが配されるのが常であったから、ことさらに佐々がジャズソング流行の路を開いたとはいえない。これは近藤十九二や鳥取春陽など大正と昭和をつなぐ他の作曲家にもいえることである。
佐々のジャズ方面での仕事というと、かろうじてビクターに「君よさらば」
 のアレンジを残しているが、定石的で新味のある出来ではない。これ一曲を取り上げれば、やや旧式なアレンジで纏められたのどかな味が悪くはないが、アレンジャーである井田やカアイとはやはりジャズ的センス・技量の差が目立つ。

昭和2年12月、日本ビクターが創設されるのと同時に佐々はビクターと契約を結び、昭和5年までジャズソング、映画主題歌、新民謡、お伽歌劇などの分野で旺盛な作曲活動を繰り広げた。この間にレコードとしてヒットした作品は「新銀座行進曲」「当世銀座節」「笑い薬」「君恋し」「浪花小唄」「神田小唄」「祇園小唄」「モダン節」「唐人お吉小唄」などである。瀬川昌久氏は、佐々作品の魅力を著書「ジャズで踊って」(サイマル出版)で「佐々の曲には、題名からも察せられるように日本調の旋律の香りがするが、けっして乞食節的なところがないので、不思議とフォックス・トロットに編曲すると、唄とリズムがよく合うのであった。オペレッタを書くような音楽的素養のなせる業であろう。」と的確に説明している。その雰囲気は、高畠華宵の華やかにして艶めかしい挿絵に通ずるものがあるのではないだろうか。

昭和5年、佐々と時雨音羽は文芸部長の米山正に誘われて日本ビクターから日本コロムビアに移籍した。このとき二村も佐々と行動を共にしている。
(ガードナーが二村の発声を嫌ったため、契約を打ち切ったのだという。) コロムビアでの佐々は映画主題歌や流行歌、新民謡などを多く手掛けたものの、会社の期待に反してビクター時代ほどはヒット曲を頻発しなかった。
昭和10年代は舞踊小唄や長唄の管弦楽伴奏への編曲、邦楽研究など舞台を邦楽曲にうつして、安定した創作が戦後まで続いた。

二村は昭和5年以降、コロムビアとサブレーベルのニッポノホン、ヒコーキに昭和8年まで吹き込んでいる。他方でオデオン、パーロホン、ポリドール、フタミ、太陽、タイヘイ、ニットーなどにも吹き込みをしており、レコード歌手としての全盛時代をビクターに続いて味わった。その間、コロムビア時代の昭和8年をもって佐々との十三年にわたるレコード上の関係は終わりを迎えた。もっともそれ以降も二村と佐々が接触を持つ機会は幾度もあったであろうし、昭和14年から田谷力三など浅草オペラ系の歌手と仕事をするようになったのも、佐々の引き立てがあったのかもしれない。その辺りの消息は未詳であり、今後の調査が待たれる。


                 参考文献: 「日本のオペラ」(増井敬二 民音音楽資料館)
                         「日本ミュージカル事始め」(清島利典 刊行社)


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