ハンガリー滞在記(プロローグ)
続プロローグ
暖房釜による火傷
免許取得
ハンガリー人のマナー
マウンテンバイク盗まれる
ハンガリー人の恋人
ハンガリー滞在中のパリ滞在記
ハンガリー滞在中のセルビア滞在記
ハンガリー滞在記試練編
1992年4月17日一行はスイス・チューリヒを経由して、中央ヨーロッパハンガリーのブダペスト・フェリヘジ空港に降り立った。
コーヒーの香りと蒸れた靴下とガソリンが混じったような、すっぱさと香ばしさの混じったなんとも形容しがたい匂い。暗い空港。これからいったいどんな生活が待っているのか・・・不安と期待の入り混じった第一日目の始まりであった。
出迎えてくれたのは、そばかす顔にふくよかな唇、金髪の長い髪をなびかせたカタリンさん。日本語をちょっとたどたどしく話す。でも十分魅力的な女性。
私はといえば、小学校3年になる末っ子(男子)、5年生になる長男、日本では中学生になるはずだった長女と3人も連れて、向う見ずにも
大胆に海外赴任を実行しようとしていた。勤めていた児童劇団の営業の仕事をやめ、夫一人を東京に残して。
「ぜひ子供たちを異文化圏で」という夫の希望を汲み取って、(お言葉に甘えて)渡りに船とばかりに、このチャンスを逃さなかった。
今にして思えば、なんとあさはかで勇気のあったことか・・・
さくらんぼ ・・・日本とハンガリーの文化交流を目的として、1991年に設立された。ハンガリー人数名と学識者など20名ほどの日本人とで歩き出したばかりだった。どこからも資金援助を受けていないため、文化交流の経済的基盤を確保するため、ハンガリーに現地法人として、有限会社を設立することとなった。何をするか。ブダペストと南の地方都市、文化の香りの高いペーチに不動産を確保していた。
そのペーチにある美術館を市が提供するという。日本の文化を紹介できるレストランを経営してはどうか・・・ということに話はまとまりかけていた。できればブダペストにも日本レストランを。夢は膨らむ。
しかし、問題がある。私も、もう一人の同僚も、子連れなのだ。レストランとなると、子供をどうするの?

従業員を雇いましょうか?
資金は十分あるのでしょうか?
内装は?
営業許可は?
採算がとれるの?
しょっぱなから不安材料が山積み・・・
物件を何箇所かあたったが、レストランに改装するには、かなり手を加えないと不可能。
賃料は?
えっつ、そんなに?
出鼻をくじかれ、意気消沈
ああ、こんなはずじゃなかった・・・
そんなうまい話があるわけない。
追い討ちをかけるように、ペーチから連絡
美術館は公的歴史的文化的建造物のため、県議会で協議中。おそらくレストランに活用は無理だろうと。
ハンガリーは体制が1989年に変わったばかりで、何もかも過度期だった。
美術館の管轄が市から県に移管したばかりだった。
法律がめまぐるしく変わった時期だった。
「どうする?」私と同僚の顔から笑顔が消えた。
こうして波乱万丈のハンガリー滞在が始まったのだった。


伊那の田楽座のメンバー。センテンドレでパフォーマンス。(落ち着く間もなく行った文化交流)

オススメハンガリー観光ルート

<私がハンガリーに興味を持ったわけ>

この質問をよく受ける。
滞在記の話を進める前に、このことに触れようと思う。
第2次世界大戦後、ソ連に占領されたハンガリー。
第1次世界大戦でハンガリーは領土を3分の2失い、ハプスブルグ帝国と決別し、共和国が誕生する。
しかし、失った領土を回復しようとしてハンガリーは、第2次世界大戦では、枢軸国側として参戦した。
しかし、連合国側と和平交渉をもったことが原因で、ナチスドイツに占領される。
結局ソ連に解放され終戦を迎えるが、ここからがハンガリーの試練の歴史の始まりだった。
1956年ソ連の圧政に民衆が蜂起。いわゆる”ハンガリー事件”が起きる。多くの血がここで流される。
チェコの”プラハの春”同様、この国に大変興味を持ち始めたのはこんな歴史を知ってからだった。
1990年ハンガリーは平和的に複数政党性をしき、民主国家の仲間入りをした。
その翌年にはハンガリー行きの話が持ち上がっていた。
もうひとつ私がハンガリーに興味をもったわけ。
私の3人の子供たちが通った保育園は、ハンガリーが生んだ大作曲家コダーイ・ゾルターン(1882−1967) の 音楽教育理念に基づいて保育を行う公立保育園だった。(コダーイについてはアンダーライン部分をクリックしてください)
”歌うことが本質”と言う考えのコダーイは、人間が生きていくうえで音楽は欠かせないものという基本理念にたって、独自の教育法を生み出した。
バルトークと共同で、農民から民謡を採譜し、国民音楽として、普及に努める。
五音音階(ペンタトニック)のハンガリー民謡は日本民謡にも共通している。
ハンガリーでは就学前教育に力を入れている。小学校の教師には簡単になれても、幼稚園の先生にはそう簡単にはなれない。
一人一人の個性が尊重され、子供たちは一定のルールさえ守れば、自由が保障される。遊びでもなんでも決して強制されない。
子供たちの情緒は安定し、大人への信頼、友達への信頼を深める。私は子供たちを通して、保育園を通してコダーイの理念に関心をもち、そしてますますハンガリーという国に関心を持つようになる。
娘が1年生のとき、ピアノを習いたいと言い出した。コダーイと親交のあった加勢るり子先生を出版社のかたに紹介していただき、迷わず彼女の門戸をたたいた。
1990年頃勤めていた職場には古くからハンガリーに関係してきた仕事仲間がいた。
ハンガリー人や日本人とともに文化交流を目的とした団体を立ち上げようとしていた。私はしばらく考えた後、仲間に加えていただき、一緒に活動することとなったのである。
ハンガリー人の名前は日本と同じように姓が先、名があとにくる。
ハンガリー民族(マジャル民族)はもともとフィン・ウゴル族として、黒海北岸ウラルアルタイ地方から遊牧生活をしながら、途中でフィンランド方面とカルパチア盆地方面に別れ、896年に現在の地に安住の地を見つける。
ハンガリー人の赤ちゃんのおしりには蒙古班が見られる。日本人と、祖先は近かった可能性は高い。

コダーイ・ゾルターン

<こどもたち現地校へ>

ブダペスト到着後すぐに加勢るり子先生の知り合いから連絡が入った。
ブダペストで心理学を勉強し、今は日本料理店を営んでいるSM夫人。
タクシーに乗って、ブダの高級住宅地”バラが丘”に向かう。
ブダペストでの暮らし方を教えていただく。
加勢先生から、コダーイの弟子だったショプソン・フェレンツJrが開いている音楽学校の情報を得ていた。
娘が通う学校としてどうか。
SM夫人も「あの学校なら」とおっしゃる。
電話をしてみたら、面接と試験をやるのできてくださいという返事。
ハンガリー南部での文化交流のイベントの合間に、コダーイ・ゾルタン・コールシュ・イシュコラに娘を伴い行ってみる。
ショプソン・フェレンツはハンガリーで有名な指揮者、その息子が学校を設立した。
プライヴェートスクールなので、校舎は公立の学校の校舎の一部を間借りしていた。
レッスン室に案内される。
ショプソン先生は灰色の目で、私たち母子に笑いかける。まなざしは人を包み込むように優しい。
カトリックの信者らしい。
まず先生のピアノに合わせて、リズム感のテスト。
娘絵美は、ピアノに合わせて手拍子をうったり、歩いたり、止まったりを繰り返す。
その後はピアノの演奏。
次に好きな歌を歌ってごらんという。
「はい、明日からいらっしゃい」とても簡単なテストだった。
まず、娘の学校が決まった。
次は住居の決定である。
早速”エクスプレス”という新聞を買う。
部屋貸しますの広告、あった、あった。
なるべく娘の学校に近いところ。
地図で場所を確かめてから、まず電話。
「英語を話しますか?」「はい」と言う答えが返ってきたら、そこから交渉が始まる。
ハンガリー語は挨拶しかできなかった。
何軒かあたってみる。
すぐ部屋をみにいらっしゃいという。
右も左もわからないが、とにかく出かけてみる。
せっかく行ったのに、アラ残念ね、今決まったばかり。
なんて大家もいたりして。
ベルを鳴らしても、でてこなかったり。
へこたれそうになるのをなんとか気持ちを維持しながら、ようやく親切な大家さんに出会う。
ブダ側の高級住宅地というわけにはいかないが、ペスト側だけど、静かで、環境はとても良い。
会社までも路面電車と地下鉄を乗り継いで30分くらい。娘の学校までも路面電車で30分以内。
リビングのほかに大きな寝室がひとつと小さな部屋がひとつ。63屬△襦
家賃は2万5000フォリント(当時のレートは1フォリント1.7円だった)つまり約40000円というわけ。
物価は日本の10分の1と聞いていたが、とんでもない。
そのまま計算したら40万円のアパートということになるではないか。
でもこちらが外国人だからといって、ふっかける風もなく、その大家さんコンドルご夫妻は快く、私たちにアパートを提供してくれることになった。
コンドル家総出で、壁を真っ白にペンキ塗り。
コンドルさんは年齢35歳くらい。
シャッター(ブラインド)の会社をやっている(修理が中心。)
奥さんは聡明そうな美人。
双子の男の子がいる。
通訳はもっぱら奥さん。
英語学校に通っているらしい。
アパートから歩いても7,8分くらいのところに自宅があるのに、いつも車でくる。
なんだかおかしかった。
引越しを無事終えて(荷物なんてほとんどない)さて、娘の学校からピアノを借りることになった。
届いてみてびっくり。
なんて大きいグランドピアノであることよ。
ピアノをベッドにして、眠れそう。月500フォリントで貸してもらうこととなった。
不足している家具をイケアや北欧の家具を売っているデパートで購入する。
白木でできたダブルベッドの上に思いっきりはしゃしで倒れこんだ娘。
”バキッツ!”届いたばかりのベッドを親切に組み立ててくれていたコンドル氏は苦笑い。
北欧の家具ってみてくれはいいけど、きゃしゃなのねえ。
ダブルベッド二つ。
ここに母子4人が寝ようというわけ。
勉強机も入れて、部屋らしくなった。

写真館にもう1枚反対から写した写真があります。

今度は二人の息子たちの学校さがし。
しかし、時はもう6月。
ハンガリーもほかの国と同じ、6月で学年は終了する。
後は長い夏の休暇がまっている。
そして9月から新学期。
近くの学校に一校あったてみるが、欠員がないのでだめという。
学校の数は多い。
みな小規模校だ。
地区ごとに音楽小学校もある。
体育学校もまれにある。
1クラスの人数は20人前後。
教えるには理想的な数。
学校が決まらないまま、いたずらに時が過ぎていく。
9月から学校に通わせよう、と腹を決めた。
なぜなら言葉を知らない。
現地語を学ばなければならない。
娘はもうすっかり学校になじみ、友達もでき、つきっきりの友達の指導でハンガリー語はめきめき上達していった。
近くに数学コンテストで、ブダペスト1になった児童のいるヨージェフ・アッティラという小学校があった。
私たちの友達、マリアンさんの案内で、学校を訪ねてみる。
校長先生に面談。英語の先生で音楽の先生でもあるエーヴァネーニ(エーヴァおばさんという意味)が通訳。
今子供たちはキャンプに行っていていない。入学OKという。外国人はほかにベトナム人がいる。日本での成績表をハンガリー語に翻訳したものをもってこいという。
アパートから歩いて10分くらい。
ヨージェフ・アッティラとはハンガリーのとても有名な詩人。
どんな学校かよくわからないが、とにかく行くところが決まってほっとする。
さて、長い夏休みをどうやって過ごそうか。
通訳のカタリンさんの紹介で、ユダヤ系ハンガリー人のケレメン一家を訪ねる。
お母さんのシャーリは、ブダペスト大学でロシア文学を教える人。(後に解雇にあう)
ハンガリー語のレッスンが始まる。娘と同じくらいの女の子と長男と同じくらいの男の子がいて、遊ぶのにもちょうど良かった。子供は遊びから自然に言葉を覚える。
それと平行して、日本人で日本語教師のWSさんが、会社にハンガリー語を教えに来られ、その紹介で、日本語がかなり話せるGさんからハンガリー語を学ぶこととなった。
私と一緒にハンガリーに来たナターリア(ニックネーム)とナターリアの娘、なほちゃんも一緒に、ことば遊びをまじえながらアブラク(窓)<Aで始まる>からジラーフ(シマウマ)<Zで始まる>まで、レッスンが開始された。
二人の息子たちは、学校がないものだから、毎日家事をよく手伝ってくれた。
息子たちはよく喧嘩をしたが、私にはとても優しかった。
わずか2ヶ月くらいの間、私は至福の時を過ごした。
つづく


長男のクラス・担任は体育の先生/学年末の記念写真(1993年5月)5年生。ハンガリーでは必ずしも6歳で小学校に行かない。身体が弱かったりすると、親の判断で、入学を遅らせる。したがって、いろんな年齢の子供たちで構成される。

<ショプソン・フェレンツJr先生のこと>

ハンガリー人の友人は、ハンガリーの現代の作曲家による合唱曲のひとつがとても好きで、何とかしてその曲を生でききたかった。彼は面識のないショプソン先生に電話した。この人なら、情報を知っているかもしれない。この曲をきくチャンスはないものかと質問した。今度私の生徒たちがコンサートで歌いますという返事。(ハンガリーでは結構名のある合唱団)。「住所を教えてください。あなたにチケットをプレゼントします」といわれたという。ショプソン先生は友人の熱意に感動し、チケットをプレゼントした。私はこの話を最近になって友人からきいて、ショプソン先生がますます好きになった。残念ながら娘は考えるところあって1年半でコールシュイシュコラをやめたが、そのときもショプソン先生は大変残念がった。

続プロローグ

暖房釜による火傷

番外編免許取得

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パプリカ通信



挿入曲:モンティ作曲「チャールダッシュ」(チャールダッシュとはハンガリーに伝わる民族舞曲)