『忘れざる日々―日大闘争の記録 Vol.1』 のお詫びと訂正  

 
   (2011.2.26更新)  
       【 お詫びと訂正 】

 『日大闘争の記録Vol.1−忘れざる日々』に重大な誤りがありました。
 誤りは、編集作業上の誤操作によって生じたものです。この誤りにより、「日大闘争文集−忘れざる日々」にあるP.70<
N氏>「私が覗いた日大闘争」、P.125<I氏>「1968・1969」の両論文を不十分なまま掲載してしまいました。とりわけI氏>の論文には多くの欠落が生じており、執筆いただいたI氏>の意志を損なった内容での掲載になってしまいました。(欠落部分は下の正誤表下部をご覧下さい)
 誤りが生じましたことを、N氏>、I氏>のご両人をはじめみなさま方に心よりお詫びするとともに、次号より同じ誤りが発生しないよう編集態勢を整えたいと思います。
 
尚、完全な形で掲載できなかったN氏>「私が覗いた日大闘争」、<I氏>「1968・1969」の両論文については、『日大闘争の記録Vol.2』において全文をあらためて掲載させていただきます。
 併せて、ほかにも幾つかの「誤り」がありましたので、ここにお詫びすると同時に「正誤表」にある通り訂正させていただきますので、よろしくお願い申し上げます。

     
【 読者の皆さまへ 】

 『日大闘争の記録Vol.1−忘れざる日々』をお読みいただき、ありがとうございます。
 上記の【お詫びと訂正】にあるとおり、<
N氏>、I氏>の論文に、重大な誤りが生じてしまいました。「正誤表」をご参照いただき、執筆いただいた両氏の思いを損なうことなく正確にお読みいただくよう、よろしくお願い致します。
   
  
 
  2011年2月 日大闘争の記録制作実行委員会・編集担当   
   (なお、Web上では、両氏のお名前はイニシャルとします)  
 
 <正誤表>
 
 
 
P.2 (見返し) 【お断りとお願い】の1行目  誤 : 1980年発行 → 正 : 1978年発行

P.5 (目次) 日大闘争文集―忘れざる日々 4・大和魂としての全共斗魂の筆者名
        誤 : 山崎晴久 → 正 : 山ア晴久

P.18 (公開座談会) 下段13行目の人名    誤 : もとえ → 正 : 元枝

P.26 (公開座談会) 下段13行目の人名    誤 : 芸闘委山崎さん → 正 : 芸闘委山アさん

P.69 (中トビラ) 日大闘争文集―忘れざる日々 4・大和魂としての全共斗魂の筆者名
        誤 : 山崎晴久 → 正 : 山ア晴久

P.70 (日大闘争文集―忘れざる日々)  1・私が覗いた日大闘争の上段・
文頭に追加


はじめに

 
1968年が自分にとってどのような意味を持つ年であったのか、考えてみた。自分の人生にとって大変重要な意味を持っているのではないかと思ってみたり、それほどでもないと考えてみたり色々であった。
 今回、「『日大闘争の記録』刊行を企画している。書いてみないか」と言われ、筆を執ってみたが、結局書いてみると1968年の思い出になっていた。


P.97 (日大闘争文集―忘れざる日々) 4・大和魂としての全共斗魂)の筆者名
       誤 : 山崎晴久 → 正 : 山ア晴久

P.106  (日大闘争文集―忘れざる日々) 4・大和魂としての全共斗魂の文中図
 
 
 
P.128  (日大闘争文集―忘れざる日々) 7・1968・1969の文中
下段 左端の括弧内に記されている内容→(G・Sのゴールデン・カップスはここからデビューする)は、筆者<氏>の記憶違いだったとのことで、<氏>の申し出により、削除
 
 
P.133  (日大闘争文集―忘れざる日々) 7・1968・1969の下段・
文末 
削除


おわりに

 1968年が自分にとってどのような意味を持つ年であったのか、考えてみた。自分の人生にとって大変重要な意味を持っているのではないかと思ってみたり、それほどでもないと考えてみたり色々であった。
 今回、「『日大闘争の記録』刊行を企画している。書いてみないか」と言われ、筆を執ってみたが、結局書いてみると1968年の思い出になっていた。


文末に追加


1968年

 1968年度入学の1年生だった私は普通なら体育会に入り遊びもソコソコに4年間過ごしたであろうが、バリストで行く必要もないため(その頃大学の置かれている状況には興味もなかった)家にも帰らず夜どうし遊びまくった、しかしそれが大きく私の生き方を変える原因でもあった。
 リズム&ブルース[ソール(魂)ミュージック]を通じて知り合った横田基地の黒人のG・I達、彼らからJ・Bの踊りを教わったり基地やホームパーティに呼ばれたり日本人なのに黒人の仲間だと言ってくれた。「日本は良いネどの店に入ってもバスに乗ってもゲラアウト(出てけ)と言われない、皆同じネ!」……でもベトナム戦争が激しくなってくると後方勤務だった兵隊が特に黒人達から前線に転属させられていく、私の友人達も同様だった。別れには涙を出して抱き合った、戦争さえなければと、そう思った。
 夏が終わり…日大闘争が激化していく中、親は大学から遠ざけたかったのか横浜の山王ホテルでバイトしながら免許を取れとホテル経営者の松本さんのところに私を預ける、それが増々生き方を変える原因となる。
 中華街での色々な出来事、そして友人になった港湾労務者、朝鮮人、中国人、ジャンキー、娼婦、ヤクザ、泥棒、ワケの分からない外人……そして戦場に帰るG・I達、普通に大学に通っていれば見ることも触れることも話すことも、ましてや付き合うことも無かったと思う、だけどまさに私の知らない様々なことに見て触れて話した、心の奥で何かが起き始めていた。
 東京に帰り授業再開と共に大学を良くしようと良い子ぶって活動を始めた。…が半端な考えには気がつかなかったが、私の心はそんな事では埋められない所まできていた、ましてや金を貰ってあたかも「大学の為に赤と闘っているんだ」と正義面して大学に飼われている奴らを見ていると、一昔前なら見て見ぬふりをしていただろうが、この時はもう許すことができなくなっていた。
 短大闘争委員会の〇〇と話し合っている内に心のモヤモヤがハッキリしてきた、世の中の人々に対する理不尽な行為(搾取、差別、戦争、権力者たちの都合の良い世界、そして嘘・・・・)、自分が育ち生活し生きていく所、そこで理不尽な権力に屈することなく闘わなければいけないこと、それは黒人のソールミュージックやダンスも権力者たちに対する反権力の表現、何もしないで見過ごすことは権力者たちの犬になったも同然、闘う意思を見せなければいけないと気付く・・・。
 1969年4月28日 私は日大全共闘に連帯し共に闘う事を決意した、とにかく奪還闘争(日大闘争)だけでなくあらゆる闘いに参加した。アスパック、大阪反博、国際反戦デー(10.21)・・・そんなある日、「お前もこっち側の人間になったのかよ!」とMLのヘルメットを被った奴が声をかけてきた、1968.6.11に日大経済学部前で言い合った奴だった。
 そして1969・1970・1971・1972・1973年と、日大全学共闘会議 経済学部闘争委員会の一人として、またソール(魂)ダンサーとして闘う。

2008年
     
 2008年10月17日強度の腹痛のため都立府中病院(現在、東京都立多摩総合医療センター)に緊急入院、30日間の完全絶食、検査の結果、結腸癌と右肺に転移した癌細胞を発見、ステージレベル5。11月17日、まず結腸癌を取り除くため開腹手術(腹腔鏡手術ではなく全開手術)。28日に退院(41日間入院)、抗癌剤を服用しながら体力の回復を待ち……2009年3月10日再入院、12日に右肺開胸手術(全開手術)、三分の一切除3月21日退院。その後、2週間ごとに3日間抗癌剤を点滴で投与それを1年間続け再発が見られないので投与を中止、現在に至る。
 突然の癌の宣告、それもステージでレベル5、それを宣告されたとき一瞬ボ〜としたが時間が経つにつれて40年前の怖かったがワクワクそしてドキドキする似た感情が出てきた、今度は癌と闘うのだ。
 90%の確率で再発の可能性があると言われ、いつ再発しても不思議ではない、そんな日々を送るある日、矢崎さんに会う、日大闘争の記録 刊行の趣旨と寄稿・協力のお願いをしながら当時の人達に会って話を聞き歩いていると言う、一周遅れのランナーだと言いながら生き生きとしている、彼を見ているうちに1973年以降40年間封印したあの日を少し語り合いたくなった。
 1968年いや1969年以降、私としては反権力として生きていこうとしたし、これからも死ぬまでそうしたい。1968年、日大闘争がなければ今の生き方は無かっただろう。(2010年10月21日 記)
  
 
     
   (以上)