与太話その38

負の遺産

1895年にレントゲン博士がX線を発見して、そのすぐ後から『自家製』の透視装置を作って医療だけでなくさまざまな領域で放射線が用いられ始めました(レントゲン博士の論文自筆の原稿がネットで公開されています)。

そしてその後すぐに、X線を使うことで難治性の皮膚障害が出ることが知られるようになり、放射線による障害が認識され始めました(1896年以降の主な被曝事例のリスト)。同時期、透視の画像を改善しようと研究、試作をしていたのがエジソン(のち、General Electric社を創設)ですが、その研究の助手でガラス吹き工であるClarence Madison Dally (1865-1904) が、1900年ごろから難治性の放射線皮膚炎に悩み、1902年に左の手首に皮膚癌が発生して皮膚移植をするも奏効せず左手切断、さらに右手に潰瘍が発生し4本の指を切断した。しかし、さらに両腕切断によっても癌の進行は抑止できず、縦隔への転移により死亡したそうです。これによりエジソンはX線管の開発を断念したそうで、以後、エジソンは『X-ray』という単語自体を忌み嫌ったと伝えられています。

この黎明期の放射線の取り扱いは非常に無防備で、防護の観念はまったく感じられません。靴を合わせるために放射線を用いた商売があったことは有名ですし(1930年-1940年)、ラジウムを時計の文字盤に塗る女工が多数放射線障害に苦しんだことも知られています(後述)。これと同時期、医療用として手術中に用いる簡易型の透視装置別のサイトでも紹介されています)が販売されていて、今考えると、なんとも恐ろしいことをしています。

放射線治療は1896年(X線の発見の翌年)には開始されたとされており、その適応もさまざまなものだったようです。放射線のエネルギーが低いため、治療対象は表在性の病変が主体であり、頭部白癬なども治療対象とされていました。この様子に関してはThe British Society For the History of Radiologyに写真があります。

もちろん、その後、放射線を使用する際に厳格な基準が設けられ、リスクとベネフィットを勘案した医療行為が求められるようになりました。それでも、いまだに手痛い『エビデンス』は存在します。たとえば、心臓カテーテル検査などで長時間の透視による重篤な皮膚障害の事例がFDAから写真つきで報告されています。

放射線にしろ、抗生物質、抗癌剤などなど、すべては病気を克服し普通の生活をもたらすための手段です。極論すれば、カプセル一個服用すれば、生まれてすぐくらいのまっさらな身体にもどるような薬ができたらいいのに。。。と思います。医療は本来、必要ないほうがみんなにとって幸せなのです。結果的に医療者が職を失ったとしても(^^;)。ですが、ほんのわずかの可能性のために、わざわざ被曝を伴う検査を要求したり、高額な検査や治療を受けることが最善と勘違いしている一般の人も多いと思います。医療被曝だけでもあきたらず、自然放射線の多い地域で『静養』することがブームになっていたりする面もあります(放射線ホルミシスに関しては、ICRPにも記載がありますが、まだ議論されている状況です)。我々は、こういった『負の遺産』を生かしているのでしょうか?専門家から見ても、正当性が無い検査が夢の検診手段としてマスメディアがこぞって煽り立てる風潮、これをレントゲン博士は、空の上でどう考えているでしょうか?ちなみに、レントゲン博士は、あれだけ高名であるにも関わらず、ほとんど講演会を開かず、特許をとったらいいという声にも耳をかさず、晩年は貧困の中で放射線障害も加わり苦しいものだったそうです。

 <補足>

Radium Girls(ラジウム・ガール):(Wikipedia, the free encyclopediaより抜粋

ラジウム・ガール(Radium Girls)は1917年頃ニュージャージ州の米国のラジウム会社の工場で被曝した女性をさす。

U.S. Radium Corporation (1917-1926)

U.S. Radium Corporationは発光塗料としてカーノット鉱石からラジウムを抽出・精製し、'Undark'という登録商標で販売していた。防衛関係の請負業者として、U.S. Radiumは軍への放射発光時計の主要な供給業者であった。ニュージャージの工場ではラジウムで光る時計の文字盤や機器を塗装するために、おもに女性が100名以上働いていた。

放射線被曝

U.S. Radium Corporationでは経営者や科学者は被曝の危険を認識して、鉛遮蔽を用い、マスクをし、直に手で触れないように自分たちは配慮しながら、従業員に対してはリスクを知らせることなくさまざまな業務を課していた。ラジウムでの時計文字盤塗装には米国とカナダで4,000名が労働していたと推計されている。

ラジウム・ガールたちは水とラジウム粉末を糊に混ぜ、ラクダの毛の刷毛で時計の文字盤に塗った。一日あたり文字盤250個を塗装して、一個塗装あたりの賃金が1.5ペニーが相場だった。刷毛は何回か使えば形が変わるため、U.S. Radiumの監督者は労働者に、刷毛の形を整えるために唇や舌を使うように指導した。彼女らは面白半分で男友達を驚かせようとラジウム・ガールたちは自分の爪や歯、顔に危険な塗料を塗ったりもしたという。

放射線障害

これらの女性の多くは後に貧血、骨折や顎骨壊死をきたした。当初は企業責任を認めていなかったが、個々の賠償金$10,000の支払いとなった。 

もっといろんなラジウム・ガール関連の写真はこちら

実際の作業風景(カラー写真)

YuoTubeにあったインタビュー

<補足2>

世界で最初の放射線被曝に対する判例(1896年。X線の発見の翌年)

1896年にはX線被曝による持続性の障害に対する最初の医療過誤裁判が起こされた。放射線による検査の結果、足首の皮膚に潰瘍を伴う火傷が発生したとして、シカゴの労働者がX線を用いた医師を訴えたものである。足首の骨折に対して35-40分におよぶ不必要な放射線曝露をなさしめ、最終的に皮膚障害のため切断を余儀なくさせられた。この障害に対して$10,000の賠償金の支払いが命じられた。

Berlin L. Radiation-induced skin injuries and fluoroscopy. AJR Am J Roentgenol. 2001 Jul;177(1):21-5.より

PDFファイルがフリーでダウンロードできます。

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参考資料

放射性物質が混入された製品(昔の市販品):Radioactive Products and Other Sources Of Radiation

最初の放射線治療:Emil Grubbe (1875-1960):Brief Biography of Emil Grubbe (Chicago Radiological Societyサイト)

放射線の歴史のスライド(Emil Grubbeの写真もあります):The History of Radiology

Mihran Kassabian (1870-1910)

世界で一番有名な手かもしれません 写真はThe History of Medicine Lecture Seriesより

 

与太話その39へ続く