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西国三十三ヵ所巡拝 旅紀行

冬の旅紀行 1


第22番札所 補陀洛山 総持寺  (そうじじ)
真言宗 大阪府茨木市総持寺   2007.12.15

小高い丘の上に立つ 総持寺

 今回は、マイカーで第22番札所=総持寺と第23番札所=勝尾寺の2ヵ寺を参拝した。

 私たちは、名神高速道の茨木ICから国道171号線へ出て、東へ走る。約1.5kmほどの所にある西河原交差点を右折し、JR東海道線をくぐって左折する。すぐ近くに建つ清風会病院の手前を右折すると総持寺の山門前に着く。

 総持寺は、大阪府の北東部に位置する茨木市にあり、住宅街の道路から少し石段を登った小高い丘の上に建っている。この辺りは、都会でありながら寺の周囲には田舎の風情が残っている。
 総持寺から約200mという近くに、阪急京都線総持寺駅がある。西国巡礼者の他、気軽に訪れる観光客や地域住民が散歩がてらに立ち寄る。

 また、総持寺は、寺を開いた藤原政朝(=藤原山蔭)が山蔭(やまかげ)流包丁式の開祖であるため、全国各地から料理人も参拝に訪れる。

丘の上に建つ山門


伝説「亀の恩返し」がある 総持寺

 亀に乗った観音として有名な総持寺は、平安時代に山蔭中納言政朝(藤原政朝=藤原山蔭)によって開かれた。

 総持寺には、藤原政朝と亀にまつわる、次の伝説「亀の恩返し」がある。この話は、「今昔物語」や「源平盛衰記」などにも紹介されている。


●総持寺の伝説  亀の恩返し

 承和年間(834-847)、高房は、任地の太宰府に向かう途中、猟師たちが一匹の大亀を捕らえているのに出会った。高房は、自分の着物と交換して、大亀を川に放してやった。

 翌朝、息子の政朝は、継母によって船から落とされてしまった。驚いた高房は、観音に祈った。すると、大きな亀が息子を乗せて浮かび上がった。

 この奇跡を見て、喜んだ高房は、信仰する観音菩薩の慈悲だと感謝して、この恩に報いるために観音菩薩像を刻むことにした。そして、唐人に観音像を刻む香木を探してくるように頼んだ。数十年後、『高房卿の求めに応じて海を渡す』と刻まれた香木が流れ着いた。

 中納言になっていた政朝は、父=高房の遺志を継ぐべく、この香木を持って都に行き、仏師を探した。だが、優れた仏師を見つけられなかった。そこで、長谷寺に行って観音菩薩に祈ったところ、夢の中に童子が現れて、政朝に告げた。山蔭は、お告げに従って、香木を材とし、千日間かけて亀に乗った千手観音像を刻んだ。

カメが泳ぐ池

 その千日間、政朝は自ら料理した。この料理は「中納言の千圓料理」といわれ、総持寺は、料理の寺としても知られるようになった。

 仁和2年(886)=寛平2年(890)、政朝は、亀の背中に乗った千手観世音菩薩像を本尊として祀った。これが、総持寺の創始と伝えられている。


神仙思想と亀

 神仙思想は、中国から伝わった不老長寿の仙人を目指す思想で、『史記』によると、遠い海のかなたに三つの神山(三神山)があり、ここには神仙人が住み、不老不死の霊薬があって、この薬を飲むと未来永劫の繁栄が約束されるという。
 中国の神話に亀が天地を支えているという話が多くある。2世紀頃に中国で生まれた道教では、亀は竜と共に神聖な生物とされており、三神山の一つ「蓬莱山」(ほうらいさん)は、亀の背中に乗っているといわれる。



 平安時代には、東西5丁、南北6丁にも及ぶ境内に、山蔭の子孫たちによって多くの堂塔が建てられ、総持寺は大寺として盛隆を極めた。
 これらの堂塔は、元亀年間(1570-72)に、織田信長の兵火によって焼失した。明治に入って、総持寺の寺領も小さくなった。


日本包丁道元祖=山蔭中納言(藤原政朝)と 庖丁塚

 山門をくぐると、左手の池の傍に『日本包丁道元祖山蔭中納言』の額のかかった開山堂が建っている。 また、本堂の左側裏手に「庖丁塚」がある。
 総持寺を開基した藤原政朝は、平安時代の役人=民部卿で、京都の吉田神社の創建者であると共に歌人でもあり、料理の名人としても名を残した。

 政朝は、膳部料理の山蔭流(四条流)庖丁式の開祖とされ、日本料理の中興の祖ともいわれる。
 山蔭流庖丁式は、食材の魚には直接手を触れずに、箸と庖丁だけでさばく儀式料理の技。毎年4月18日、全国から多くの板前たちが集まって、古式ゆかしい装束の料理人が儀式料理の技を披露する。


開山堂

庖丁塚

開山堂


山門と 本堂

山 門

 石段を上がると、堂々とした三層の楼門様式の山門が建っている。
 山門をくぐると、すぐ左手に小さな池があり、亀と関係がある本尊と関連があるのか、多くの亀が泳いでいる。

本堂と 本尊

 境内奥の正面に、豊臣秀頼が再建したといわれる本堂が建っている。屋根の曲線が美しい本堂には、風格が漂う 。

 秘仏の本尊は、織田信長の焼き討ちに遭った時、その下半身は焼け焦げたが、上半身は焼けずに金色に輝いていたという。このことから、以後、「火伏観音」と呼ばれ崇敬を集めたといわれている。
 本尊の観音像は、蓮弁の上ではなく亀の背の上に立っているといわれている。そのことから、他に類を見ない珍しい様式の仏像とされている。


山 門

本 堂

東 門


総持寺の堂塔

 境内には、本堂や金堂の他、水掛地蔵、弘法大師堂、普悲観音堂、鎮守社、経堂、荒神社、不動明王堂、稲荷社、地蔵堂、閻魔堂など、多くの堂塔が建っている。

1 金 堂  本堂の西側に、薬師如来像を安置している金堂が建っている。
 普通、金堂は本堂をさすが、総持寺には、本堂と金堂の両方がある。
2 大師堂  本堂の東側に、弘法大師を祀る「大師堂」がある。
 年末が近いとあって、私たちが参拝した日は堂内を清掃していた。
3 普悲観音堂  本堂の裏に、普悲観音堂がある。
 堂の入口中央に、大きなぼけ封じ観音の「普悲観音像」が安置されている。この普悲観音像を囲むようにして、堂内の壁面に西国三十三ヶ所と四国八十八ヶ所の各札所の本尊を刻んだ小さな石仏像が、ずらりと並んでいる。
4 閼伽井  本堂の右に、閼伽井(あかい)がある。閼伽井は、仏に供える水(閼伽水)をくむ井戸。


閼伽井

金 堂

弘法大師堂


普悲観音像

普悲観音堂の内部

普悲観音堂

 本堂左手前の境内に、賓頭盧尊者(びんずるそんじゃ)像が安置されている。賓頭盧尊者像は、普通、本堂などの外陣の隅に野ざらし状態にして置かれるが、総持寺では境内に特別の拝所を造って祀っている。

5 賓頭盧
  尊者像
 本堂手前の境内に賓頭盧尊者像がある。賓頭盧尊者像は、撫で仏として、よく知られている。
6 地蔵堂  開山堂の奥に、地蔵堂がある。従来はなかった地蔵菩薩像が、堂の前に新たに安置されている。
7 鎮守社  本堂裏の普悲観音堂の左に、大黒天・弁財天・青面金剛(しょうめんこんごう)を祀る鎮守社がある。
 青面金剛は、インド由来の尊像ではなく、中国の道教思想に由来し、日本の民間信仰の中で独自に発展した尊像で、庚申講の本尊として知られる。


賓頭盧尊者

地蔵堂

鎮守社



第23番札所 応頂山 勝尾寺 (かつおうじ)
真言宗 大阪府箕面市粟生間谷   2007.12.15

明治の森・箕面国定公園の一角にある 勝尾寺

 私たちは、第22番札所=総持寺への参拝を終え、来た道を引き返して、西河原交差点を左折、国道171号線へ出て西へ走る。茨木ICの北で名神高速道をくぐり抜け、豊川1丁目交差点を右折して171号線から府道へ入り、大阪モノレール彩都線ををくぐって西北の箕野の山間部へ向かう。

 細川ガラシャに因んだガラシャ病院前を走り、茨木市と箕野市の市境近くにあるクリーンセンターの手前で右折して第23番札所=勝尾寺をめざす。ここから約6km進むと、勝尾寺の山門前に着く。

お休み処「花の茶屋」

 この辺りは、紅葉で名高い観光名所「明治の森・箕面国定公園」で、勝尾寺は、この中に建っている。山門前の道路を隔てて、有料駐車場がある。

 平成8年(1996)に修復を終えた山門のすぐ隣に、お休み処「花の茶屋」がある。『応頂山』の額を掲げた楼門様式の山門は閉鎖されていて、茶屋の左端に設けられた参拝入口から境内へ入る。山門近くは工事中で、弁天池は一部の水が抜かれて、大きな石橋の整備が行われていた。


山門前の寺号碑

山 門

山門脇の弁天池


王である天皇に勝った 勝尾寺

 天平時代の神亀4年(727)、摂津国守の藤原敦房を父にもつ双子の兄弟、藤原善仲と善算が、庵を結んで修行していた(開基)。この時、兄弟は、山中で一人の修行者に出会った。この修行者は、光仁天皇の子=開成皇子(かいじょうおうじ)だった。

 神護元年(765)、開成皇子は、善仲と善算の弟子となった。兄弟は、般若経の書写を開成皇子に託して、相次いで世を去った。

 開成皇子は、二人の遺志を継いで、宝亀6年(775)に書写を完成して大般若経六百巻を埋め、その上に堂を建てて「弥勒寺」と名付けた。これが、弥勒寺(勝尾寺)の始まりとされている(開山)。

 また、開成皇子が、その堂に祀るための像を彫る仏師を捜していると、「妙観」という比丘(観音の化身)と十八人の童子が現れ、8尺の十一面千手観音像を白檀の香木で1ヵ月かけて刻み終えたといわれている。

 その後、第56代清和天皇が病気になり、「都に来て、その病気平癒を祈願せよ。」との命が下った。だが、第6代座主=行巡(ぎょうじゅん)上人は都へ行かず、弥勒寺で天皇の病気平癒の祈願をしたところ、天皇の病が癒えた。
 天皇は、「弥勒寺は、珍の力が及ばぬ寺だ。弥勒寺の法力が、王である天皇に勝った。」ということで、「勝王寺」の名を与えた。だが、弥勒寺側は余りにも畏れ多いとして「王」を「尾」に変え、「勝尾寺」と改号したと伝えられている。

 このことによって、源氏や足利氏などを初めとする有力武将らが、勝ち運(戦勝)を祈願した。だが、源平の合戦(1184)では、勝尾寺は、その堂塔のほとんどを焼失した。後になって、源頼朝などによって再興された。

 以来、勝尾寺は、人生すべてに勝つ「勝運の寺」として信仰を集め、今では勝尾寺の名にちなんで、「勝ち達磨」が有名になっている。


力強い読経の声が聞える 参道

 茶屋の左端に設けられた参拝入口から境内へ入ると、本堂などの堂塔が建つ応頂山の中腹へ通じる長い参道が続いている。
 晩秋には、この参道の両側の楓が見事に紅葉するとのことだが、私たちが参拝したのは、12月15日。風に吹き寄せらた楓の落ち葉が、参道を埋めていた。

 勝尾寺の境内は、山寺とは思えないほど広々としており、参道脇の斜面を見ると、楓を初めとして、桜、シャクナゲ、アジサイ、寒椿など四季折々の花が植えられていた。


参道の灯篭(山門奥)

参道奥の多宝塔

参道途中の観音像

 参道を進んで行くと、境内全体に、般若心経や観音経を読経する力強い声が響き渡った。私たちは、これまでに四国八十八ヵ所巡拝の旅を終えたし、この西国三十三ヵ所巡拝の旅も、あと2ヵ寺を残すのみとなり、3月には結願・満願となる。読経の声を聞くと、般若心経や観音経の区別ができる。
 境内全体に響き渡る般若心経や観音経を読経に併せて打ち鳴らされる太鼓の音が、いっそう読経の声を力強くしている。

 この力強い読経の声に誘われるようにして、本堂へ通じる長い参道を一気に上った。読経の生の声は、本堂の中から聞こえてくる。ここでの読経が、境内全体に放送されている。
 勝尾寺本堂の読経は、参拝者の求めに応じた祈願の読経で、平日は開門の午前8時以降から受付て、午前8時30分から閉門時まで30分毎に行っているという。

 2007年3月27・28日、私たちは、四国八十八ヵ所発心の道場(阿波国=徳島県)再訪の旅に出て、第6番札所=安楽寺の宿坊に泊まった。5人の僧侶と共に200人近い宿泊者が一堂に会して、夜の勤行を行った。200人近い宿泊者の読経の声に併せて、僧侶たちは鉦や太鼓を打ち鳴らして読経した。
 勝尾寺の本堂の中から聞こえてくる読経と太鼓の音を聞いていると、あの時の感動がよみがえってくる。


関連記事   阿波の国 安楽寺再訪 (四国巡拝の旅 SP 2)

勝ちダルマ

 本堂への参道石段を上がって行くと、鎮守社の手前に大小いろいろなダルマを数多く納めた「勝ちダルマ奉納所」がある。

 私たちが参拝した12月15日は、年末も近いため、境内は迎春準備中だった。本堂周辺には、年越し参拝者の行列を整理する簡易ハウスや、臨時の勝ちダルマ奉納所・販売所が設けられていた。本堂前の奉納所のダルマは、どれもみな新品で、とても参拝者が奉納したものとは思えない。
 勝ち運をもたらすと勝尾寺が宣伝に力を入れている勝ちダルマは、奉納所以外にも、白壁塀の屋根の上や、観音像の前など境内のあちこちに置かれていて、勝尾寺のたくましい商魂を感じさせる。

本堂前の勝ちダルマ奉納所

勝尾寺の堂塔

 参道を登りきると、緑濃い山腹に、本堂を初めとして、開山堂、弘法大師堂、薬師堂、不動堂、鐘楼、二階堂、鎮守社、荒神堂、多宝塔など、多くの堂塔が立ち並んでいる。

 本堂は、慶長8年(1603)に豊臣秀頼によって再建され、平成11年(1999)に修復を終えた。
 本堂には、1.5mの本尊「十一面千手観音菩薩木像」が安置されている。


本 堂(正面)

本堂(右側)

鐘 楼

1 鎮守堂  本堂の西側通路の少し上に、開山堂がある。開山堂には、善仲と善算、開成皇子の像が安置されている。
2 荒神社  日本最初の荒神社。この荒神の崇拝によって、江戸時代の延宝5年(1677)、旗本=菅沼隠越中守の娘の白髪が黒髪となったという。
3 薬師堂  本堂西側の奥に、古色蒼然とした薬師堂が建っている。
 現存の薬師堂は、勝尾寺の中で最古の建物で、弥勒寺といわれていた時代の薬師堂は、源頼朝が建立したといわれる金堂だった。
 開成皇子の作と伝えられる「薬師如来像と脇侍像の月光・月光菩薩」(薬師如来三尊像)は、薬師堂の本尊として安置されていたという(重要文化財)。この薬師如来三尊像は秘仏で、現在、「宝物館」に保存されている。


鎮守堂

荒神社

薬師堂

1 開山堂  本堂の左側通路の少し上に、開山堂がある。開山堂には、善仲と善算、開成皇子の像が安置されている。
2 大師堂  本堂の左隣に弘法大師堂が建っていて、ここに四国八十八ヶ所のお砂踏みもある。
3 不動堂  本堂の右側に、一願不動堂がある。
4 多宝塔  二階堂の下に、金剛界大日如来を祀る多宝塔が建っている。昭和62年(1987)に修復が完了して、朱塗りも鮮やか。


開山堂

弘法大師堂

一願不動堂


本堂前広場から見た境内

多宝塔


法然が身を寄せた 二階堂


二階堂
 山腹の多宝塔右側の木立の陰に、法然が過ごしたとされる二階堂が、ひっそりと建っている。現在の二階堂は比較的新しく、法然上人二十五霊場第五番の寺院となっている。

 勝尾寺は、真言宗の寺だが、浄土宗の開祖とされる法然上人と深い関係がある。
 専修念仏を説いた法然上人は、既成の宗教集団から迫害を受けて四国に流された。だが、有力な帰依者が多かったために、約1年で配流(はいる)が解かれた。それでも、すぐには京に戻ることは許されなかった。その法然を、宗旨の違う勝尾寺は受入れた。
 建暦元年(1211)、法然は許されて、4年間を過ごした勝尾寺を去って京へ戻った。その翌年、79才で他界したという。


冬の旅資料篇1   専修念仏の 円空大師法然

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