K春1-05   天の森総合サイト
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西国三十三ヵ所巡拝 旅紀行

春の旅紀行 5


番外 東光山 花山院 (かざんいん) 菩提寺
真言宗 兵庫県三田市尼寺   2007.5.23

有馬富士や羽束山の近くに建つ 花山院

 5月23日、私たちは、巡拝ツアーバスを利用せずに、自家用車で、兵庫県三田市にある番外=花山院と、同加東市(旧加東郡社町)にある第25番札所=清水寺を参拝した。

 私たちは、国道176号線を北上して、JR宝塚線(福知山線)新三田駅の手前で右折して県立有馬富士公園前を経由し、志手原小学校前から篠山市方面へ続く県道37号線を走った。

 この辺りから、志手原の象徴ともいうべき羽束山(はつかさん)が見える。志手原交差点を左折すると、程なく阿弥陀峰山(標高418m) 山麓の神姫バス「花山院」バス停に着いた。

志手原の象徴 羽束山

 バス停から花山院山門までは急な坂道で、歩くと約25分かかるという。
 バス停側の駐車場にある案内を見ると、山門の近くにも駐車場があることがわかった。私たちは、そこまで車で上った。舗装された坂道は、道幅は広いが、車で上っても勾配はかなりきついことが実感できた。

 車などがなかった時代、巡礼者たちは、このきつい参道をハァハァとあえぎながら、西国巡礼の開祖=花山法皇に敬意を表すと共に、自らの巡礼の無事を願って参詣していた。
 聞くと、この参道には、巡礼者たちのために置かれた一丁毎に道標や小さい石仏が、残っているという。


花山法皇御廟所がある 小さな山寺

 上の駐車場から急な坂道を少し上ると、新緑の木々の中に、いかにも山寺らしい小さな山門が建っている。山門をくぐると、突き当たりの山肌の前に手水鉢と石の坐像がある。

 この横から、さらに石段を上がると、「花山法皇殿」の札がかかった本堂の前に出る。本堂には、木造の花山法皇像と共に、法皇が帰依した十一面観音像、弘法大師像が祀られている。

 本堂の右側には、薬師如来像を祀る「薬師堂」が建っている。本堂も薬師堂も小さいが、手入れの行き届いた新緑の境内によく調和していて、美しい。


新緑の中の山門

本堂(花山法皇殿)

薬師堂

 薬師堂は、堂内に入って参拝できる。薬師堂の外陣に立つと、広場の向こう正面に小さな十三仏像が並んでいる。

 また、薬師堂の右側に、祖父(舅)・祖母(姑)・父(夫)・母(妻)・子供の各地蔵と、結び地蔵、賢者地蔵と名付けられた大きな「幸せの七地蔵」が、参拝者との握手を求めるようにして立っている。
 七地蔵が立つ一角に、「幸せは、まず自分の心から。そして、家族、家庭の幸福が、社会の幸福への原点。まず、それぞれが役割を果たす自力と、生かされている事への感謝が、他力の呼び水になります。神仏の他力を頂戴するためには、自分が望む状態を心の中に明確に創り上げること、そしてその望みを持続させることです。」(要約)と記した銘板が、また、各地蔵には、家族の一員としての持分を記した札が設置されている。


十三仏像

握手できる七地蔵(一部)

銘板「幸せの七地蔵」


インドの法道仙人が創建 花山法皇の菩提寺

 紫雲山観音寺(今の花山院;番外札所)は、白雉2年(651)、念持仏と仏舎利、鉄鉢だけを持って、インドから紫雲に乗って渡来したとされる法道仙人(ほうどうせんにん)によって開かれ、かつては密教修行の聖地として栄えていた。本尊として、薬師瑠璃光如来像を祀っている。
 白雉(はくち)は、遣唐使が派遣されていた頃で、孝徳天皇の時代だった。

 法道仙人は、役行者と並ぶ法力を持った修験僧で、花山院も、その修行の聖地として開かれた。このほか、西国第25番札所=清水寺や、第26番札所=一乗寺なども創建したといわれている。

 観音寺は、弘治元年(1555)、荒木村重の反乱の時に兵火によって焼失したが、後に再建された。
 さらに、元禄期に、諸国を勧進した空遍が本堂などを再興した。これ以来、観音寺は、東光山菩提寺となり、法皇の院号=花山院は菩提寺の通称となった。

 その後の寛弘5年(1008)に41歳で一生を終えた花山法皇の遺詔に従って、かつて建っていた桜本坊の北(現在の花山院御廟所のある所)に、弟子たちが遺体を葬った。これ以来、花山法皇=花山院の菩提を弔う寺として、寺号を花山院菩提寺とした。 一般的に「花山院」と呼ばれている。

 花山法皇御廟所は、本堂前の広場を隔てた反対側の小高い所に設けられている。
 古色蒼然とした中に建つ御廟所は、積み上げた石垣の上に玉垣をめぐらし、規模も大きい。玉垣の中の宝篋印塔は苔むして、塔の傍に一本の古木が茂っている。

花山院御廟所

宝篋印塔と傍の古木


波瀾万丈 花山天皇(法皇)の生涯

 花山法皇は、西国観音霊場巡礼を再興したとして、人々の崇敬を集めている。第65代花山天皇は、京都の元慶寺(番外)で出家して法皇となった。だが、その出家は、真に望んだものではなかった。

 花山天皇は、心優しい人だったという。その優しさにつけ込まれ、藤原兼家らの権謀術策を受け、騙されて退位させられ、不本意な出家を強いられたという。
 悶々とする法皇は、元慶寺で出会った佛眼上人(ぶつげんしょうにん)の導きによって真の仏法帰依者となり、やがて西国観音霊場巡礼を再興したのだった。

 巡礼途中、法皇は、現在の花山院へ向った。この境内から左真近に見える有馬富士(約370m)、右に見える千丈寺湖、また、遠くに広がる六甲連山、播州平野や播磨灘、小豆島までを一望できる美しい景色に感銘した法王は、一生を終えるまで、ここに隠棲して修行に励んだ。


左真近に見える有馬富士

右方に見える千丈寺湖


謀略にはめられ 出家させられた花山天皇

 10世紀後半のこと。釈迦の教えが衰えて、戦乱や疫病、天災が起こるという末法思想が次第に広まって、人々は強い不安を感じていた。
 比叡山での修行僧=源信は、『往生要集』(おうじょうようしゅう)を著して、けがれたこの世を離れて、極楽浄土に往生する方法「穢土」(えど)を説いた。
 このような世相の中で、安和元年(968)に冷泉天皇の皇長子として生まれた花山天皇は、永観2年に17歳で皇位に就いて第65代天皇となった。


 この頃は、政治の実権を握って摂政政治を行っていた藤原氏の全盛時代だった。藤原氏は、一族の間で摂政や関白の地位をめぐって争いを続けていた。
 兼通と兼家の兄弟も、争った。争いに負けた弟=兼家は左遷されたが、兄の死後は右大臣にまで上った。そして、兼家は、摂政に就くため、天皇家の外戚になろう考えていた。
 だが、この時、即位していた花山天皇と兼家の間に外戚関係はなかった。兼家は、天皇家との外戚関係を作るため、花山天皇を退位させる謀略を練っていた。

 天皇が27歳の頃のこと。そうした中で、天皇の愛妃=弘徽殿女御(こきでんのにょご)は、子を身ごもったまま亡くなった。悲しみに沈む天皇は、この世のはかなさを深く感じ、出家しようと思い始めていた。


 寛和2年(986)の夜中のこと。天皇の側に仕えていた藤原兼家の息子=道兼は、父の謀略の一環として、天皇と共に出家しようと約束するなど、うまくいいくるめて天皇を宮中から連れ出した。

 出家の手はずが整った元慶寺(がんけいじ)へ行く途中、天皇は大切にしていた妃の手紙のことを思い出して、これを取りに引き返そうとした。道兼は、これを厳しく諌めて、先に天皇の剃髪を終えさせた。道兼は、もとより剃髪する気はなく、天皇を残して都へ帰ってしまった。

 不本意に出家させられて法皇となった天皇の心は、癒されることはなかった。だが、仏眼上人と出会って、 まことの悟りを得たという。
 法皇は、徳道上人が中山寺に埋めた宝印を掘りだすと、これに従って、佛眼上人を導師として、また、性空上人(しょうくうしょうにん)や弁光僧正に案内されて西国三十三ヵ所巡礼巡礼し、西国観音霊場巡礼信仰の礎をつくった。


 巡礼途中のこと。法皇は、第25番札所=播州清水寺を参拝した後、心に引かれるところがあって、現在の花山院へ向った。この寺が気に入った法王は、寛弘5年(1008)に41歳で生涯を閉じるまでの約14年間、ここに隠棲して修行に励む生活を送った。




十二人の女官ではなく 妃と11人の女官

 花山院の山麓周辺には、花山法皇をめぐる女官たちの墓所や、女官たちに由来する地名やが残っている。

琴弾坂
 山麓のバス停から花山院へ続く参道を「琴弾坂」という。
 隠棲して修行する花山法皇を慕って、11人の女官たちが花山院を訪れたが、女人禁制のため参道を登ることができなかった。尼となって山麓に住んだ女官たちは、参道登り口の坂で琴を弾いて、その思いを伝えた。

尼寺
 花山院の山麓の地区を「尼寺」(にんじ)という。花山法皇を慕って、この地に来た女官たちが、庵を結んで尼僧となって生涯を送った場所だと伝えられている。

十二妃の墓
 山麓の花山院バス停から、花山院の参道とは逆の方角(南西の方向)へ200m程離れた所に、「十二妃の墓」がある。墓所の入り口には、「花山天皇 十二后之墓碑」の木札が付けられている。それは、まるで、花山天皇には12人の皇后がいたような表現になっているが、そうではない。
 花山法皇が出家する前、まだ天皇だった時に、寵愛されていたが早くして亡くなった皇后=弘徽殿女御(こきでんのにょご)と、花山院で隠棲生活を送っている花山法皇を慕って、京都を出て花山院の麓に尼寺を造り移り住んだ11人の女官たちの、計12人を指している。十二妃の墓は、この12人を弔った墓とされている。

 花山天皇は、元慶寺で出家してから、この花山院に隠棲するまでの間、修行に出ていたようだが、この間に何人かの女性を愛したという。この地に移り住んだのは、これらの女性ではないかという説もある。


 木立の中の墓所は、石碑が竹垣で囲まれた粗末なもので、中央には比較的大きな五輪塔(弘徽殿女御の墓碑)が、この周りに小さな五輪塔(女官たちの墓碑)が立っている。何か寂しく、うらぶれた不気味な雰囲気が漂っている。

琴引峠
 花山院バス停から300m程へ行った乙原(おちばら)寄りに「琴引峠」がある。





母子の悲話伝説を知って 大日堂を建てた花山法皇

 西国三十三ヵ所各霊場のご詠歌は、すべて花山法皇が作ったといわれている。次のご詠歌も、その一つ。
―― 有馬富士 ふもとの霧は海に似て 波かときけば 小野の松風 ――

 三田市の東部に、ご詠歌に出てくる「小野」という地区ある。

 はるか昔のこと、後に天智天皇となる中大兄皇子(626-671)が、中臣鎌足と共に、小野を訪れたという。これにまつわる母子(刈姫と美宇和王)の悲話伝説が残っている。
 後に、この話を知った花山法皇は、この母子を供養するために大日如来像を彫り、大日堂を建てて供養したという。




第25番札所 御嶽山 清水寺 (きよみずでら)
天台宗 兵庫県加東市清水寺   2007.5.16

東条湖近くに建つ 山寺

 番外=花山院への参拝を終え、もと来た道を引き返してJR宝塚線新三田駅前に出た。駅南のガード下をくぐって、JR宝塚線に並行する県道141号線を北上して篠山市今田町木津で左折、東条川を渡って県道311号線へ入る。

 やがて、「西国第25番札所清水寺」の案内標識が出る。ここを右折すると、昭和50年に開通した清水寺専用の有料道路がある。この専用道路を利用すると、山門前の駐車場まで一気に登れる。

 専用道路の料金所下にも、駐車場がある。ここから「表坂十八町」といわれた約2kmの旧参道を40分程歩いて登ることもできる。
 私たちは、大分迷ったが、結局は車で上った。

清水東条湖兵庫県立自然公園

 清水寺の近くに東条湖があって、清水東条湖兵庫県立自然公園となっている。参拝後、東条湖岸の道路をドライブしながら帰路についた。


伝承が惑わす 清水寺の縁起

 推古天皇35年(627)に推古天皇が根本中堂を建立し、神亀2年(725)、聖武天皇の勅命によって、行基が千手千眼菩薩を造立し、両脇に毘沙門・地蔵の両像を配して大講堂を建立した。これ以来、清水寺は、講経道場として栄えたという。

 保元2年(1157)、平清盛の生母とされる祇園女御は、大塔は建立して、五智如来を祀った。

 花山法皇が西国巡拝をした時、大講堂に詣でたことで、西国霊場第25番札所となった。

 明治40年(1907)と大正2年(1913)の火災によって、清水寺は全焼した。大正12年(1923)に再建されたが、昭和40年(1965)の台風で大破した。


私たちを大いに惑わす インドから来た法道仙人

 清水寺の寺伝は、すべて法道仙人の為せることにして縁起を語っている。この伝承が、私たちを大いに惑わす。

 寺伝から計算すると、法道仙人は、清水寺を創建してから根本中堂を建立した時(西暦627年)まででも、およそ560年余も生きていたことになる。さすが、仙人だけのことはあり、恐れ入る。


法道仙人像
[ 清水寺の寺伝 ]

 約1,800年前の第12代景行天皇の時代に、紫の雲に乗ってインドから中国・朝鮮を経て日本へ渡来した法道仙人は、この地を訪れて鎮護国家や豊作を祈願し、清水寺を開創したという。
 その後、法道仙人は、第29代欽明天皇の頃に伽藍(がらん)を建てたそうだ。

 そして、推古天皇35年(627)、第33代推古天皇の勅願によって、法道仙人は根本中堂を建立し、一刀三礼して刻んだ秘仏の十一面観千手観世音菩薩像と共に、脇士として昆沙門天像と吉祥天女像を安置した。これが、清水寺の創始とされている。

 さらに、この地は、もともと水に乏しかったが、法道仙人が水神に祈ると霊泉が湧き出したという。
 清水寺の寺号は、このことに由来している。


画像の出典;フリー百科事典『ウィキペディア』(Wikipedia)


清水寺の寺伝を 検証する!

 西暦538年、百済の聖王が仏教と経論を日本へ送った。記述は異なるが、『法王帝説』は538年のこととし、『日本書紀』は552年のこととしている。いずれにしても、仏教が朝鮮半島から日本へ公式に伝来(公伝)したのは6世紀のこと。
 寺伝のいう「1,800年前」は、古墳時代。仏教公伝以前の遥か昔であって、寺伝は、あくまで伝承にすぎない。

 寺伝に登場する各天皇の生存期間・在位期間は、次のとおり。 
 このことから、法道仙人が清水寺にかかわった期間が推定できる。と共に、法道の生存期間も推定できる。

・ 第12代景行天皇(けいこうてんのう) BC13-130 在位期間:71-130
・ 第29代欽明天皇(きんめいてんのう) 509-571 在位期間:539-571
・ 第33代推古天皇(すいこてんのう;女帝) 554-628 在位期間:592-628

 寺伝では、法道が清水寺を開創したのは景行天皇の時代。景行天皇が即位した時だと仮定すれば、清水寺の開創は西暦71年。
 もっぱら、景行天皇の生存期間は143年で、現在においても、まずありえない程の長寿。在位期間も、84歳で即位して以来71年もの長期間の在位となる。共に、普通ではない。

 寺伝では、伽藍を建てたのは欽明天皇の頃。欽明天皇が即位した時だと仮定すれば、清水寺の伽藍建立は西暦539年。清水寺の開創から468年後のことになり、この時点で、法道仙人は468歳+αの高齢者となっている。

 寺伝では、根本中堂を建てたのは推古天皇35年(627)。欽明天皇が伽藍を建てから、88年後のことになり、この時点で、法道仙人は、さらに年齢を重ねて556歳+αの高齢者となっている。



山門から薬師堂へ

 山上の駐車場前に、朱塗りの鮮やかな山門がある。楼門様式の山門で、以前は表坂からの参道にあったが、焼失。再建されたが、今度は台風で倒壊した。現在の山門は、昭和55年(1980)に再建された。

 山門の右側に、山号と寺号が彫られた石碑が建っている。播州・清水寺は、京都の清水寺と坂東三十三ヵ所第32番札所=清水寺と合わせて、日本三清水寺といわれている。京都の清水寺と区別するため、一般に「播州清水寺」と呼ばれているが、この石碑には「播州」の文字は入っていない。

 山門をくぐりと、すぐの所にある土産物屋の前を通って参道を進むと、左手に昭和59年に再建された真新しい薬師堂が見える。創建は、平清盛の義母=池の禅尼だそうだ。薬師堂内の壁に、薬師如来像を取り囲むように十二神将が掲げられている。

 薬師堂前の放生池の向こうに、大講堂(観音堂)が建っている。


山門

薬師堂

薬師堂の本尊「薬師如来像」

薬師堂の十二神将(一部)

薬師堂の十二神将(一部)


大講堂

 大講堂の正面に、風雨にさらされて色あせた「寺号額」がかかっている。


大講堂の色あせた「寺号額」

 大講堂には、札所の本尊=十一面千手観世音菩薩像が祀られている。以前の大講堂は大正2年(1913)の山火事で焼失したが、大正6年(1917)に再建された。


大講堂(正面)

大講堂(右側面)

大講堂から見た薬師堂

大講堂(中陣)

大講堂本尊の「お前立ち」


根本中堂

 大講堂東側の石段を上がると、正面に根本中堂がある。以前の根本中堂は、他の堂塔と同様、大正2年に焼失した。大正6年に再建された。

 厨子の中に、根本中堂の本尊=十一面観世音菩薩像が祀られている。厨子の前に、本尊のお前立ちが安置されている。本尊は、秘仏で30年に一度公開されるという。


根本中堂への石段

根本中堂(正面)

根本中堂から外を見る


境内散策

 切腹石  山門から大講堂に向かう参道途中の右側に、切腹石が置いてある。ここで、赤松氏範らが赤松義則らに攻められて自害したという。
 鐘 楼  大講堂右側の石段途中に、鐘楼が建っている。元の鐘楼は、大正2年(1913)の山火事で焼失。現在の鐘楼は、大正9年(1920)に再建された。
おかげの井戸
 おかげの井戸  根本中堂の左から裏へ50mほど行くと「おかげの井戸」と呼ばれる湧水がある。
 この湧水は、寺伝では「法道仙人が水神に祈りを捧げた結果、湧き出した霊泉」とされている。
 宝篋印塔  根本中堂の前を右へ進むと、宝篋印塔が建っている。ここは、かつて護摩堂のあった所といわれている。この宝篋印塔には、昭和9年(1934)に般若心経の写経3333巻が納められたという。
 大塔跡  宝篋印塔東側の小高い場所には、かつて大塔(多宝塔)が建っていた。

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