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     ま と め


 世界には始まりがあり、そしておそらくは終わりもある。宇宙は約150億年前のビッグバンによって始まった。ある相対論的な「無」の時空の揺らぎから、クォークと反クォークの対が発生し、次々と相転移による自発的な対象性の破れを経て、対消滅した過剰なクォークの残りから物質が生じるとともに、一方では四つの基本的な力を担うゲージ粒子が分化して、宇宙の歴史が開始された。こうしてできた物質の構成要素は、強い相互作用の力によって陽子や中性子等の素粒子を形成し、素粒子からさらに原子核が形成され、電磁力により原子や分子ができてきた。初めに存在した原子は水素とヘリウムだけであり、それ以外の元素は恒星の内部での核融合反応と超新星爆発によって生じた。宇宙で生じたそれらの物質が重力で集まることにより、約46億年前に地球ができ、地球上での物質進化、生化学進化を経て、約30億年前に単細胞生物が誕生した。生物進化の歴史により最初の人類が誕生したのは約400万年前である。そして人類は、文化的・社会的進化という新しい方法によって発展を遂げてきた。
 そのような歴史を経て現在に至った宇宙は、クォークから素粒子、原子、分子、物質、恒星、太陽系、銀河系、銀河団、超銀河団というように次々と積み上げられており、また、高分子、細胞、器官、器官系、生物体、社会というような階層的な構造もできてきた。それぞれの階層のレベルは、それを対象とする科学によって、その構成要素と相互作用によって理解される。科学のうちでもっとも基本的な物理化学は、クォークや分子を対象とする。生物学は、有機化合物や生物個体、生物の群れや生態系を対象とし、人間のレベルを研究するのが大脳生理学や心理学、社会学である。世界は、基本的には物質の構成要素と四つの基本的な力による相互作用によって理解できるのであるが、構成要素が非常にたくさんある系は扱いきれないという技術的な制約が科学にはあって、生物や社会という複雑な構造物を、基本的な原理に基づいて統一的に説明できるまでには至っていない。しかしながら、生命現象や精神現象も自然現象の一態様であって、超自然的な特別の力や実体を仮定しなければ、原理的に説明できないというわけではない。世界のすべての現象が、科学的な法則によって原理的には理解できる。また、物質とエネルギーは一定の割合で変換可能であり、時間と空間は互いに関係しあって4次元の時空と呼ばれる構造をつくっている。物質の構成要素は粒子であるとともに波動でもあり、そしてそこには不確定性原理というものがある。世界の現象は原理的に確率的なものであって、古典的・機械論的な意味では、決定論的な予測をすることはできない。
 論理と数学とによって感覚的知覚を組織的に突き合わせると、現在のところ、世界は以上のようなものであると考えることができる。しかしながら科学は、どうして世界はそのようなものとして存在するのか、という問いには答えられない。世界をそのようなものとして理解し、予測し、行動すると、概ねうまくいくということは確かであるが、世界がそのようなものとして確かに存在するのかどうかということも、必ずしも自明ではない。そして、科学とは人間の営みであり、人間は科学をする前に一個の動物であって、人間のあり方によって科学は一定の制約を受けている。
 以上が、世界の科学的な説明の、極めて大雑把な概要である。もし世界観というものが、その見方に対応するような形で世界が存在すると主張するものでなければならないとするならば、以上の見方はそれだけでは世界観とは言えない。なぜなら、そこには世界の「実在」について何の主張も含まれていないからである。科学はそのような形で世界が「存在」しているとは主張しないのである。以上のような説明を受け入れたうえで、世界の存在について何らかの主張をするものが、科学的世界観である。したがって、以上のような世界の科学的説明は、科学的世界観の中核と呼ぶことができる。これを受け入れたものが科学的世界観であり、それには様々な形態がありうる。
 唯物論的な科学的世界観は、科学の示すように考えると単にうまくいくというだけではなく、科学によって説明されるような形で、客観的な世界が、そしてそれのみが存在すると主張する。そこでは、世界は客観的なものとして確かに存在し、人間の感覚的知覚はその存在を正しく認識することができると考えられている。第4章までに述べられた科学的世界観の様々な帰結は、世界の科学的な説明そのものからではなく、主として、存在についてのそのような仮定から導かれたものである。
 われわれは、科学的世界観の当然の帰結として次のように述べてきた。──人間はサルの一種であって、人類の文化的遺産と遺伝子に支配されている。精神現象というものは、人間の動物としての器官である大脳が示す電気化学的な現象である。人間も、ビッグバンによって始まり、自然法則に従う宇宙の一部である。心や自由意志というようなものは存在しない。人間の存在に特別の価値があるわけではなく、人間の一生には、自然現象以上の意味もないし目的もない。──しかしこれらの帰結は、科学的世界観の当然の帰結ではなく、世界は感覚を通して正しく認識できるような実体を持っているという仮定(あるいは恣意的な思い込み)から導かれたものである。それは世界の科学的説明からではなく、世界の存在についての、科学的に証明することのできないある仮定(客観性の公準)から導かれたものなのである。世界のすべてが客観的なものであるとするこのような前提から出発すれば、人間の主体的・実践的な態度というものを問題とすることはついにできないのである。その意味では、唯物論的な科学的世界観は世界観としては不十分であるということもできる。
 一方、唯心論的な科学的世界観は、人間の心のみが存在すると主張する。そこでは、客観的な世界は存在していない。存在するのは、科学的な説明に対応した客観世界ではなくて、そのような認識をする人間の心である。世界の科学的な見方というものは、人間の主観的な認識の反映にすぎない。また、世界の科学的説明を受け入れたうえで、世界に存在するのは神であると主張するのが宗教的な科学的世界観である。これによれば、客観世界や心は存在しないか、仮に存在するとしても、それは神が造ったものである。そして、世界に存在するものは一つではないと考えれば、物と心の両方が存在するという二元論や、三元論になる。
 唯物論は、世界についての正しい認識に達する方法は感覚的知覚(と論理)であると考えている。唯心論にとっての方法は内的知覚であり、宗教にとっては信仰である。以上の三つの世界観の異なる点は、世界の存在と、それを正しく把握する方法についての主張である。そしてこれらのどの立場も、それが採用している存在の認識方法が論理的に正しいものであるとする、確かな根拠や証明をを持っているわけではない。どの方法にも正しいという根拠がないのであるから、世界の存在についてはついに正しい認識を得ることはできないと考えたり、そもそも世界には何も存在しないと考える世界観もありうる。これらの世界観は、いずれも世界の科学的説明が有効であることを認めるものである限り、すべて科学的であるという点においては同等である。世界についての科学的説明を認めるすべての世界観が科学的世界観である。こうして、唯一絶対で完璧な科学的世界観というようなものは存在しないのである。科学によって、世界の存在に関する絶対で完全な真実を発見し、その真実を完全な体系にまとめ上げることはできない。

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