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     第1節  「私」の存在

1 「私」の存在
 科学が、客観性を公準として世界について目覚ましい成果をあげてきたこと、そして科学的な考え方を論理的に突き詰めていくと、究極的には私の主体性が否定されかねないということは、既に述べたように確かである。一方、一人称単数現在の「私」が、自分には意識や感情があり、意志をもって主体的に判断し、行動していると、ハッキリ「感じている」こともまぎれもない事実である。私は、私自身について──私自身の感情や知覚や思考について、大脳のニューロンにおける電気化学的な現象とは全く異なった直接的な知覚をもっている。この点については、科学者の科学的活動でさえ例外ではないようにみえる。科学者は、実験を計画して実行し、その結果を評価するのは自分であると考えており、自らを自由で意識的な行動をしている主体であると考えているのである。
 まず実際問題として、自分の行動が素粒子とそれに働く力によって生じていると考えて、私は現に生きてきたのだろうか。本当にそのように考えて、今後の人生を送っていけるのだろうか。また人間にとって、原理的に主体性を扱えない科学に、どれほどの意味があるというのだろうか。宇宙の構造といったような問題は、人間にとって必ずしも第一義的な重要事項ではないように思われる。人生の各場面において、どのように生きるかということの方が人間にとってはより重要な問題と思えるのに、この点について科学的世界観はまったく無力である。科学というものが、人生に対する人間の実践的な態度というものを原理的に問題としえないものだからである。科学は、宇宙の起源と人間の起源を究めることはできるかも知れないが、人が何によって生きるかに答えることはできない。科学はまた、生命現象を説明したり、生物学的生命を延ばすことに寄与したりはするが、人間を人間として活かすところのものを提供することはできない。自分の意識や主体性を否定しようとする、このような科学的世界観は、もしかすると実際の人生とは関係のない机上の空論とでもいうべきものではないのだろうか。
 飢えて死にそうな人に、生物学的に飢えとは……と説明しても、これが何の助けになるだろう。人生の悩みごとを抱えたとき、悩みとは大脳のなかのある部位の介在ニューロンの……と説明しても何の救いにもならない。音楽を聴くときは、楽器という物質から出された空気の振動が、耳のなかの受容器ニューロンで捕らえられて電気パルスとして大脳に伝えられ……と考えるよりも、素直に感動することの方が大切ではないか。美術品をみたとき、目の受容器ニューロンに達する光の波動と粒子の二重性について考えるよりも、その美しさに見入った方がいいのではないだろうか。母親の自己犠牲的母性愛をみたとき、それが動物としての人間が進化の過程で得た動物としての形質であると考えるより、そのあり方に打たれる方がいいのではないか。人間の愛を生物学的に説明しても、それで一体何を理解したことになるのだろうか。
 また、科学は人生にどれほど有効だろうか。人生をどれほど深く理解し、どれほど詳しく説明したのか。確かに科学は、世界が物質の構成要素と基本的な力で成り立っていることを原理的には説明した。しかし、人間の営みをどれほど有効に深く説明し、理解したといえるだろうか。雷と避雷針の場合には、科学は確かにその有効性を示すことができる。人間が望むことをかなえる確実な方法を提供することができるというのが、科学の有効性の持つ意味である。しかし、われわれが他の人間と良い関係を結びたいとか、社会の中で望む結果を得たいと考えたとき、科学はどれほど有効な方法を提供することができるのだろうか。素粒子と基本的な力は、この点に関してはあまりにも無力であると思えてならない。予測できる近い将来に、それができるようになるという見込もあるようには思われない。
 さらによく考えてみれば、客観世界が存在するというのは、それが人間によって知覚されるということを根拠とする。そうだとすると、まず知覚する主体の存在が確かにあって、次に知覚があり、知覚を通して客観世界の存在が確認される。初めに存在するのは知覚をする主体であって、客観世界は、単に感覚からその存在を推測されるというにすぎないものではないだろうか。そうだとすれば、知覚する意識が客観世界に論理的に先行することになる。こうして、確実に存在するといえるのはむしろ意識の方である。仮に科学のいう客観世界が存在するとしても、それは知覚する主体の存在に依存する。科学は、実証の名において心的作用に依存しつつ、それに依存して形成された理論体系からこの心的作用を排除しようとする。主体によって知覚される客体のなかで得られた知識と理論を主体に適用し、ついには主体の存在自体を否定しようとするのは、本末転倒の議論ではないだろうか。
 こうして、一人称単数現在の「私」は、まず主体の方を第一義的なものものと判断する。世界の存在を確認し、そこに科学的世界観と呼ばれる見方を与えるのは、「私」である。「私」は客観世界を知覚する主体として確かに存在する。私は、世界を知覚し、思考し、そのあり方を理解し、そして主体的に世界に働きかける。私とは、主体であり、意識であり、意志であり、心である。こうして、客観世界の存在の前に、私という一個の心が存在する。

2 存在する「私」
 われわれはここで、存在する私というものがどのようなものであるかを、もう一度確認しなければならない。それには、心は実在しないと結論した第3章の議論を、もう一度振り返る必要がある。
 そこでは次のような議論が行われた。──人間は、自分自身について語るとき、考えてみると実に不思議な言い方をする。たとえば、「私はこう考える」とか、「私は文章を書く」というとき、何か特別な本質的な「私」というものが自分の体の中に存在すると考えて話をしている。つまりわれわれは自分のことになると、自分というものの実体が体の中に住んでいると仮定して話すのである。私とは私の肉体のことではない。私の肉体に命令し、本を読ませたりを書かせたりするのが私である。私は目を使ってものを見るが、目は私の目であって私ではない。同様に、私は頭を使ってものを考えるが、頭は私の頭であって私ではない。私の肉体は物質からできており、自然のエネルギーを取り入れて消費し、科学の法則に従っているが、「私」はそうではない。物質的な、言い換えれば科学的な自然の法則に拘束されずに、ものごとを主体的にそして自由に選択し、喜んだり悲しんだりする──このようなものが「私」なのである。
 私とは、主体性をもった一人の人間である。私の意識は、単なる客観的な物理現象以上の何かである。私の大脳の介在ニューロンの回路を走り回る電気パルスのパターンが、そのまま私の意識なのではない。そこでは、今までは特に問題とならなかった喜びや悲しみ、不安や焦りなどの感情の内容が、ある特別な意味をもつようになる。そして、私は自由意思をもつ。もはや私の行動は物理化学の法則によっては決定されない。私の行動を決定する権利は、私自身がもっているのである。
 整理すると、私とは次のようなものである。──私にはまず、飢え、渇き、性欲、睡眠欲といった生理的欲求や、好奇心とか、自己実現や認知欲求等の内的・社会的欲求がある。次に私は、客観的な外的世界がどのようであるかを感覚を通して知覚する主体である。感覚には視覚、聴覚、嗅覚、触覚、味覚の他に、平衡感覚や内臓感覚のような自分の身体についての感覚もある。そして私は外的世界を見て、あるいは私の内部の働きにより、楽しいとか、悲しいとか、嬉しいとか、寂しいとかいう感情あるいは快不快の気持ちをもつ。心の動きには、素晴らしいとか、美しいとかいう感動と呼ばれるものもある。また私は、好きか嫌いかという好嫌の感情や、よいか悪いかという善悪の判断、重要か否か、大切か否かという価値の判断をする主体である。さらに、論理的な思考によって正しいか否か、矛盾していないかどうかという判断をする。そしてそれらの欲求や判断の下に意思と呼ばれる行動の選択作用をして、それに基づいて外的世界に働きかけ、意志あるいは意欲をもってそれをやりとげようとする。最後に、以上の行動は意識されており、私は、自分がどんな状況なのか、今何をやっているのかを意識している。そしてそれは記憶される。
 今や私は、このような意味で、私が、そして心が存在すると考える。このことは当然に、客観的に知覚できるものが世界のすべてではないということを意味している。客観的な世界のほかに私という主体的な世界があり、「私」という確実な存在を前にして、科学の客観性の公準は制限される。それはもはや世界のすべてに当てはまる原理ではない。世界には、客観世界のほかに、客観性の公準が適用できない私という存在がある。客観性の公準だけで世界の全体を理解しつくすことはできず、それに加えて、主体的世界で通用するもう一つ別の原理が必要になってくる。それを客観性の公準との対比において、「主体性の公準」と呼ぶことにしよう。

3 「私」と客観世界との調和の試み
 第4章までの「科学的世界観」において、必ずしも明確には述べてこなかったが、科学的世界観には実はもう一つの公準がある。それは、世界の現象について二つの異なった説明、二つの矛盾した法則、二つの論理的に相容れない理解があった場合には、少なくとも一方は正しくないという原理である。世界は、論理的に一貫した理論によって説明されるべきである、世界は統一的に説明されるべきである、そして、できれば簡明に、美しく説明されるべきであるという要請が、科学にはある。これを、「統一性の公準」と名づけることにしよう。こうして、われわれは今や、客観性、主体性、統一性という三つの公準をもつことになった。
 主体性の公準の採用が、そのまま客観性の公準の放棄を直ちに意味するとは限らない。主体性と客観性は本質的に統一不可能な、お互いに矛盾した二つのものだろうか。もし「私」の存在と、科学の示す客観世界との間を調和させる試みが成功すれば、矛盾はなくなるわけである。この試みは当然なされるべきである。科学は、物質の運動を説明するために引力というものの存在をを仮定する。DNAの構造も働きも知られていなかった時代に、科学は遺伝子というものを仮定して遺伝現象を説明した。心の存在も、精神現象を説明するための科学的仮説として受け入れることはできないだろうか。
 先の議論はさらに続く。──もちろん、心が実在すると考えてすべてがうまく説明できるのであれば、そのように考えてはいけないという理由はない。しかしながら、心という実在を仮定する説明からは、次のような難しい問題が生じてくる。まず、受精から出生、成人に至るどの過程で心が人間の体に住みつくのか、人間に住みつく以前の心はどこでどうしていたのか、そして、人間の死後はどうなるのか。さらに、心は何億年という進化の過程のどの時点で生じたのか、どのような方法で人間の肉体や思考や感情を支配するようになったのか。人類が誕生する以前には、心はどこで何をしていたのか。サルには心があるか、もっと下等な動物はどうか、それらの心の機能の相違は何に基づくのか。また、心という非物質的な司令官が存在するにもかかわらず、睡眠薬やアルコール、大脳に差し込まれた電極などの物質的な作用を避けることができなかったり、虫歯一本痛むだけで思考や意志の働きが大きく乱されるのはどうしてなのか。タバコは有害であると知りながら、何度禁煙しようとしても、その度にニコチンの強い誘惑に勝てなかったり、赤くならないようにと思えば思うほど赤くなってしまうのはなぜなのか。
──以上のような問いに解答を与えることができなければ、心という非物質的なものによって精神現象が生じているという仮説は、極めて不十分な疑わしいものになってしまう。心が実在するという仮定に立ってこれらのことを説明するのには、非常な困難が伴う。心と科学的知識との間を統一的に矛盾なく説明することは、ほとんど不可能のようににみえる。結局のところ、客観性や論理を放棄しなければ説明できないものと思われる。
 なんとか、客観性と論理的統一性を放棄しないまま、「私」の存在を調和させることはできないだろうか。
 まず、私の心が、薬や電気的刺激によって作用を受けること、そして物質的なものを基礎とし、それに大きく依存していることは認めなければなるまい。それを認めた上で、たとえば物質の構造によって心を考えてはどうだろうか。物質が複雑に構成されていって、ある限界点が来ると心が発生すると考えるのである。それは比喩的には、水素と酸素の原子が化合して全く新しい性質を持った水の分子が生じるように、飛躍的な転化が起きて心が生じると考える。あるいは、氷に温度を加えていくとある時点で液体になるというような、程度の変化が非連続的な結果を生む液化や昇華の現象と同じようなものと考える。そうしてできた心は、もちろん物質に深く依存したものではあるが、それはもう物質とは違う別の法則──主体性の法則、合目的な法則、価値の法則によって活動する。そして、心を生じさせたこの微妙な構造が破壊されたとき、心は消滅すると考える。構造の複雑さの程度が下がっていくと、ある時点で心は物質に凍結されるのである。
 このような説明が正しければ、個体発生や進化における心の発生・消滅の問題はクリアされたと言って差し支えないであろう。そして、私と同じ物質構造をもつものには当然心があるはずであるから、他の人間にも自分と同じ心があると考えなければならない。それではサルはどうか。サルは人類と進化上で類縁関係にあり、その構造も似ているので、サルにも心はあると考えざるを得ない。しかしサルの心は、その基礎となる構造がより単純であるから、人間より単純である。より下等な動物にはより下等な心があると考える。そして、単純な動物になるにつれて心の存在は希薄になり、ついには完全に消滅する。植物には感覚機能がなく、世界を知覚するという機能や意識がないようにみえるので、心はないと考える。
 それでは、より単純な心、より下等な心、あるいはより希薄な心とはどのようなものであろうか。たとえば素粒子には、質量の大きいもの、より小さいものと言った区別がある。心の区別もそのようなものであろうか。しかしながら、質量とは素粒子の属性であって、素粒子の存在そのものではない。質量が大きくても小さくてもそれが素粒子であることに変わりはないし、さらには質量のない粒子さえある。ところが、心についての上記の区別は心の属性というようなものではなく、心そのもののあり方の表現のようにみえる。希薄な心とは、心の存在そのものが希薄であるという意味のように思われるのである。
 また、物質が複雑に構成された結果現われるものは、一般に現象、作用ないしは働きといわれるものであって、普通には存在とはみなされない。酸素と水素が化合してできるのは水という物質であって、水の性質や水が示す現象ではない。タンパク質のような高分子化合物は複雑な構造をもち、酵素と呼ばれる働きをする。その時われわれは、酵素と言われるまったく別の実体が存在するようになったとは考えない。また車という複雑な構造物を見て、そこに速さあるいは運搬というような実体をみるのでもない。心というものは、まさしくそういう意味での働きの定義にピッタリしたもののようである。物質が複雑に構成されていってできるのは大脳であり、いくら大脳が複雑な構造物であるからといって、そこに新たな実体が生じると考えるのは、説得力の乏しいもののようのにみえる。
 それでは、第二の方法として次のように考えてはどうだろうか。人間の過去の行動を説明するときには因果的な説明が妥当する。しかし将来に向かっての人間の行動は、動機や理由によって説明されるべきものである。人間の主体性は将来に向かっての現在の「私」にあり、これが私の行動の動機や理由になる。因果の系列とは、私の主体的な行動を単に後から解釈し、因果的に説明し直すにすぎないものである。将来に向かっての私の行動は私の主体性によって起こるものであり、人間の科学的説明は、それを時間的な順序に配列して因果的に解釈するものにすぎない。
 しかしながら、人間の将来の行動を科学が予測できないのは、それがその構成要素からみるとあまりに複雑であって、知られている素粒子の基本法則から説明することができないこと、その人間の現在の状況を的確に把握することができないこと、全体としての人間を対象とした場合にはそこに厳密な法則性を見つけることができないこと、等の理由によっている。これらの事情は人間に特有なものというわけではない。たとえば、地球全体の気象は同じような理由で厳密に予測することができない。さらに、薬という化学物質や人間の大脳に差し込まれた電極等により、人間の将来の行動を因果的に操作可能であるという事実もある。この場合の人間の行動を、動機や理由などの主体的なものによって生じたものと考えることはできない。したがって、この方法も妥当なものとは言えない。
 また、第1章において述べたように、クォークや素粒子は、その本来の性質として粒子性と波動性を同時に持っており、この二重性こそ自然界の本来的な姿である。科学の理論では素粒子が示す現象を、ある場合には粒子の性質から説明し、別の場合には波動の性質として理解するにもかかわらず、そこに矛盾があるとは考えられていない。同じように、主体性と客観性は同時に人間が持つ二つの性質であり、人間とはそのような二重性を本来持つものであると考えてはどうだろうか。因果的な説明と理由や動機からの説明は、同じ現象を別な発想に基づいて説明するものとして両立し、それらはお互いに一方が他方の説明を否定するものではないし、なんら矛盾していないと考えるのである。これが第三の方法である。
 しかしながら、物と心は別の二つの存在である。第1項においてわれわれは、客観世界の存在の前に主体性を持った「私」という心が存在すると結論したのであり、ここで求められている説明は、私の存在と客観世界との調和である。この第三の説明は、人間の行動という「現象」の理解の仕方について述べてたものにすぎず、私の「存在」については全く触れていない。現象とは観察されるものであり、結局のところ客体であって主体ではない。この方法で人間の行動は説明できるかもしれないが、私の感覚や感情、判断や意思、意識、そしてその根底にある「私」の存在については、何の説明にもなってはいない。素粒子は、ある場合には粒子性を示し別の場合には波動性を示す、一つの存在である。一方、世界には知覚される客体と、知覚し、判断し、行動し、そしてそれを意識する主体との二つの存在があり、ここで問題になっているのはこの二つの存在の間の調和なのである。
 こうして、このような説明は調和というには程遠く、極めて不十分、不徹底で、あまりにも納得できない考え方である。統一性の公準によって、このような説明は論理的に正しくないと排斥せざるをえない。以上のような説明以外に、私と客観世界の存在を統一的に調和させようという説明は見当らない。いくら考えてみても、納得できる議論で私と客観世界との折合をつけることは、どうやら無理のようだと判断せざるをえない。感覚的に知覚できるものは存在するという客観性の公準と、「私」という主体が存在するという主体性の公準は、お互いに矛盾した二つのものなのである。

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