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     第3節  人間の二重性

1 合目的性
 人間は、世界に対する客観的観察者である前に、進化の過程を生き延びてきた一個の生物である。すでに述べたように、進化の本質は動機や目的がないことである。ところが、進化というものをよく考えてみると、動機や目的がないことを本旨とするまさにその進化によって、生物が動機づけられ、目的をもたされ、価値の基準ができてくることになる、ということに気がつくであろう。遺伝的な進化にしろ文化的な進化にしろ、生物がその環境のなかで生き残るのには必然的な厳しい基準があり、この基準にそぐわないものは死滅せざるを得ない。したがって、人間も含め、進化の過程を生き残ってきたすべての生物は、この基準にそったある性質をもっていなければならない。自明のことだが、生物は生きるものとしてしか存在しえないし、子孫を残さない種はありえない。すべての生物は、自然の傾向として生命を維持し、それを拡大させようとするメカニズムをもっている。なにはともあれ、生物はすべて無前提に生きようとする。言葉を変えれば、そのように動機づけられている、またはそのような目的をもたされている、ということができる。
 進化の強力な圧力は、人間に様々な性質を付与している。──人間の大脳が生存に不利なものを快く受入れるようにできていては不都合であるから、快、不快の感情は生存に役立つようにできていなくてはならない。またたとえば、草や虫それ自体は善でも悪でもないが、生存に不可欠な食料の生産という観点から、おのずから農作物と雑草、益鳥と害鳥の区別が生じる。こうして、人間と関係をもつすべての事物には、生きるという目的に照らして歓迎すべきものと、避けるべきものとの区別が生じる。人類の生存に役に立つものが価値であり、われわれが価値のあるものを実現しようとして行動するとき目差されるのが、目的なのである。したがってすべての目的は、その目的をどこまでも追っていくならば、最後には生命を維持し、発展させていこうとする、生物としての自然の傾向に行き着くことになるわけである。
 もちろん人間のすべての傾向が、ただちに人類の生存に役立ち、常に繁栄を約束するとは限らない。たとえば、イギリスにおける伝統を大切にしようとする傾向、インドにおける牛を貴ぶ習慣、あるいは、人口の増加が深刻な社会問題になっている地域における子どもの数は多い方がいいという考え方が、現在でも人類の繁栄に直接役立っているとは、一概には言いえない。進化とは、その時点その時点において、全体として生存に有効な性質をもつものが繁栄し、そうでないものは淘汰されていくという過程である。生物のもつすべての性質が、必ずしも常に直接生存に役立つ必要があるわけではなく、時間の経過とともに要求される性質も変化するからである。また、価値や目的の具体的内容は極めて文化的なものであるから、固定的・画一的なものではなく、時により所により違い、また個人差もある。しかしながら目的や価値の発想そのものは、生物としての人類の普遍の性質なのである。
 こうして、人間が価値の基準をもち、広い意味で目的に従った行動をとっているということが示された。ここで、この項における人間の合目的性の結論が、前に述べた人間の無目的性の主張と何ら矛盾するものではない、ということを理解する必要がある。人間の存在は、何らかの目的に導かれたものではなく、本質的な偶然によるというのが前者の主張であり、その本質的な偶然が、生物学の必然的な基準をくぐり抜けて淘汰される結果、合目的性という性質を獲得するというのが本項の結論である。人間の存在自体は本来無目的なものであるが、その存在が性質としてもつ方向性を称して合目的性といっているのである。人間の合目的性や価値は、当の人間を離れたところに存在するものではないから、その価値は人間を裁く基準とはなりえないし、目的はその目的から人間を批判する基準となりうるものではない。その人間の傾向を指して合目的といい、価値といっているのであるから、一旦その人間を離れてしまえば、相変わらず人間の存在は無価値であり、人生の目的を見つけることはできないのである。
 もっとも、一定の範囲の人間の目的なり価値なりを最大公約数的に抽出し、あたかも客観的であるかのように擬制して、一つの基準とすることはできよう。多くの人に認められた社会的な価値や目的、道徳やイデオロギーは、このような操作によっても形成されるものと思われる。民主主義や人道主義が人類普遍の原理であると言われるのは、一つにはこのような理由によるものと思われる。

2 合目的性と合理性
 以上のように、人間は内部に合目的性というものをもっている。これは人間に限ったことではなく、生物一般がもつ普遍の性質である。ところが、人間にはもう一つ別な性質がある。人間が進化史上偉大な成果をおさめたわけは、その異常に発達した大脳にある。人間の脳の進化は、古いものはそのままにして、それをそっくり新しい脳で包み込むというような形で進化してきた。人間の脳では、進化の各段階に生じた爬虫類脳(中脳)、旧哺乳類脳(大脳辺縁系)、新哺乳類脳(大脳皮質)という三つの脳が、層状に包みこまれるように共存しており、それぞれが働きを異にしている。新皮質は人類の進化史上、短期間のうちに劇的な発達を遂げたものである。この大脳の発達によって、人間は知的探求心という新しい動機付けをもつことになった。人類は、進化の過程でそのような動機付け──知的衝動を得たがゆえに、近年におけるこの科学技術の高度な発展をみたのである。
 人類のこの知的性向は、無目的と無動機を旨とする進化の過程で生じたものであるから、それ自体は本質的に盲目的なものである。科学を押し進めてきたこの力は、人類の文化的進化を一層推進しようとか、よりよい生存に役立てようとかいう目的のために生じたものではなく、いわば一種の生物としての衝動にすぎないものである。したがってその衝動が産みだすものが、すべて常に生存に有利なものばかりとは限らない。科学の作り出したものが生存に不利であるため、自然淘汰の力が働いて人類が滅亡するというような事態には、幸いにして現在のところまだ至っていないが、人間のこの合理性は、そのもう一つの性質であるところの合目的性と、調和することを予定されて形成されたものではないのである。
 むしろ、価値と主体性を旨とする合目的性と、事実と客観性を旨とする合理性との間には、本質的に相容れないところがある。思惟する作用、真実を追及する作用としての合理性にとって、客観性は不可欠な条件であり、合理的判断は事実以外の価値を排除する。他方価値は、人間の存在を離れては存在しえない本質的に非客観的なものであるから、永久に合理性の領域から排除されている。こうして合目的性と合理性との間には、ハッキリした断絶があるのである。
 人間はある場合には客観よりも主観を大事にする。たとえば人の言葉を判断するとき、われわれは常にそれが正しいのかどうか、事実かどうかを判断しようとするとは限らない。むしろ、その言葉が自信ありげに話されたか、あるいは悪意をもってなされたか善意によってかに関心を払う。そうして、その言葉が自分の大切にしている考えと一致すると感じたときは、確かめもしないで信じ込む。あるいは、それが客観的には破滅に向かう道であると分かっていても、友情や信義を重んじて、それに従うことがある。逆に、自分が大切にしているものを損なう恐れがあると感じたときは、それが正しいか否かには関わりなく、頭から受け付けようとしないこともあるのである。
 またある場合には、人間は合理性を主体性に優先させる。医学が合理性の作用であるかぎり、病気とは人体という物質系の故障にすぎず、したがってどんな手段を使っても修理すればよく、治療の効率のために家族との面会を許さず、結果として病人を孤独に死なせることになっても、やむを得ないと考える。人間の対象化・客観化の結果、病気が当人の苦しみであり、家族の悲しみであるという人間の主体的な面は、ともすれば忘れがちになるのである。
 こうして人間の内部には、根元的な合目的性と根元的な合理性とが同居しており、このお互いに対立する二つのもののどちらからも逃れることができない。人間は、事実と価値、客観と主観、合理と合目的という二つの世界に同時に存在しており、このような二元論によって引き裂かれているのである。人間は、感性と知性、情熱と理性、信念と論理がいつも対立し、相争うことに悩む。人間のこの二つの傾向の対立は、多くの人々に矛盾と混乱を与えることになるのである。

3 科学と主体性
 科学は、世界のすべてを客観的に考察しなくてはならない。この客観性の要請は、当然に主体と客体の分離を予定している。というのは、考察する主体の存在なしにはどんな考察もありえないから、主体の存在は、科学的考察──客観性の公準に論理的に先行するものであり、主体に客観性を適用するというのは矛盾だからである。こうして科学においては、主体と客体が同一であるということはありえない。しかも主体となるのは人間をおいてほかにはないから、人間を科学的に考察するためには、どうしても人間自体を主体と客体に分離する必要がある。極端な場合、科学は主体を研究者一個人に局限し、それ以外の人間をすべて客体として考えることになる。ところが、こうして考察された人間は原理的に客観現象でしかなく、主体自身の認識や意志や感情などの主体的活動は、科学的方法によってはついにみることができない。
 こうして科学以前のところで──客観性の公準以前のところで、世界は主体と客体──私自身と私以外のものに分離してしまう。二元論は、不統一と矛盾から逃れられない。そこで世界を統一的に理解しようとするならば、私自身についての理解を私以外のものにも適用していくか、私以外のものについての理解を私自身にも適用していくかしなくてはならない。第一の方法による世界観が、合目的的世界観である。世界についての目的論的解釈は、人間が自分自身の合目的的な働きについて抱いている意識を、他人に、そして生物に、ついには無生物にも投影していくことによって生じてくる。言い換えれば合目的的世界観とは、自分自身の主観的・意識的で目的をもった活動と同様な方法で、自然の活動を説明できるし、また説明しなくてはならないとする仮説なのである。
 自分についての主観的な理解をどこまで推し拡げていくかによって、合目的的世界観をいくつかの段階に分けることができる。まず、これを人間全体に拡張したのが心実在説の主張である。他人にも自分と同じ主体性を与えることによって、すべての人間は人体という物質系の単なる物理現象ではなく、自分と同じ意識をち、主体的・意図的に行動するものとなり、人間の分裂は統一される。しかしながらこの段階に留まっていたのでは、人間以外のものは相変わらず物理現象でしかないから、要するに物と心の二元論であり、世界を統一的に説明したことにはならない。続いて、この考えを生物のところまで適用するとき、生気説が誕生する。この説によれば、もはや生物も単なる客観現象ではなく、特別な意味をもった意図的なものとなる。すべて生物は自ら生きようとし、生きるために様々な活動を行い、死んでも子孫を残す。それらの活動が物理現象としてではなく、生命自身の意図的な活動として行われるのである。ところが、これも生命と物質の二元論であり、統一的な世界観という要請を満たしてはいない。
 最後に、この考えを物質にまで投影したとき、一元的な超科学的世界観、ないしは形而上学的世界観が登場する。この立場によれば、魂をもたないものは不可解であるから、事実そんなものは存在しない。虫にも、花にも、岩や川、嵐、そして星にも心が存在する。心や魂は言葉を換えて、精や霊でも、またはイデアや目的因でも構わない。とにかく自然界のすべてのものが目的をもち、意図的に存在し、かつ活動しているというのがこの立場なのである。
 以上のような世界についての合目的的解釈の芽生えは、少なくとも人類の初期以前からのものであり、おそらくは人類出現以前からのものである。ところが、合理性という進化史上まったく新しい種類の性質をもつ生物──人類が誕生したとき、世界についての合目的的解釈に対する浸食作用が始まった。人類の歴史は、世界についての目的論的解釈に対する人間の合理性の侵略の歴史である。
 合目的的解釈の領土は、大要、先に述べた段階を逆にたどって縮小していった。まずニュートンに代表される古典物理学が確立され、運動方程式が偉大な成果をおさめると、自然現象を力学的・機械論的に理解しようとする力学的世界観が誕生して一世を風靡した。この時点で、自然現象を意図的・目的論的に理解しようとする考えは、ハッキリと否定されたのである。続いて、生物の存在や活動を意図的・目的論的に理解しようという考えが進化論によって大きな痛手を受け、近年の分子生物学の目覚ましい発達によって決定的な打撃を受けた。さらに、大脳生理学の発展とコンピュータの登場は、人間の活動は意図的・主体的なものであるという思想に、重大な脅威をもたらした。
 もちろん、科学が人間の主体性を論理的に否定したというのではない。既に述べたように、主体に科学的方法を適用するというのは矛盾であるから、一人称単数現在の「私」についてはついに科学は何も言うことができない。しかしながら、物質、生物、人間についての科学の偉大な成果を前に、素直に科学の結論に耳を傾けるならば、自分の主体性はまったく孤立無援の、風前の燈火であることに気づかないではいられないであろう。
 こうして、人類の歴史はある意味では自己否定の歴史である。世界についての客観的解釈は、自然を、生物を、そして自分以外の人間を着々と理解してきたまさにその方法でもって、自分自身をも理解しようとする試みなのである。客観性を公準とした科学の偉大な成果を前に、ついには自分自身の主体性をも否定しようとする体系なのである。現代の科学ないし科学的考え方というものが、何か人間離れしたものとして、一部の人間よって拒絶反応が示されることがあるのは、科学がまさに人間の主体性を阻害するという、この点にあるのであろう。
 どこまでも彼らは主張するであろう。科学が何と言おうとも私は生きている。感情をもち、目的をもち、主体的に活動していると。私が主体であり、私の周りにこそ世界があるのだと。

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