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     第2節  科学的世界観の限界

1 科学的世界観の限界
 科学は、世界がどのようであるかを説明しはするが、なぜそうであるのかを示すことはしない。なぜ世界が存在するのか、宇宙に法則があるのはどうしてなのか。科学がわれわれに示すようなものとしてしか世界が存在しえないのは、どんな理由があるからなのか。──このような疑問に、科学は答ええない。というのも、感覚的知覚と論理とを組織的に突き合わせることによって、世界についての正しい知識を得ようとするのが科学的方法であり、これは当然に、世界は人間の感覚で知覚しうる客観性をもっている、という仮定(客観性の公準)の上に成り立っているからである。科学においては、世界は感覚的に知覚できる客観的なものとして存在している、と考えられている。つまり科学とは、目的論的な思考や、思弁や、超感覚的なひらめきによって、世界について正しい認識に到達できるとする考えを、否定しようとする体系なのである。理由や目的は、原理的に科学からは排除されている。こうして科学はただ、感覚的知覚を論理的にまとめあげて世界のあり方を説明するだけであり、理由を見つけるすべを初めから欠いているのである。
 また、世界観というものは通常、世界についての人間の主体的、実践的な態度を内に含むものである。世界や人生について考え、何が最高の価値かという価値観の基準を明確に示すことも、ある場合には世界観の一部と考えられている。人間はいつも、何らかの基準をもとにして判断したり行動したりしている。あるいは逆に、個々の判断や行動を積み重ねることによって、何らかの基準を示し、確立していく。世界観に求められているのは、どのような判断によって行動の選択をしていくかという価値の基準である。そして、価値観をもった自分が主体的に判断して行動するからこそ、人生が展開していくのである。人生を生きていくのに大事なことは、自分が人生の主人公であるという自覚である。自分の行動を、環境や遺伝子や物理法則のせいにするのではなく、自分の責任であると認めることである。人間が生きるということは、自分が日々の行動を主体的に選択していくことであって、行動の経過を因果的に説明することではないのである。
 ところがわれわれの科学的世界観は、世界の客観的な知的把握にすぎず、主体性というようなものを一切含まない。科学は、人間の行動も、物体の運動を運動方程式で説明するように客観的に考察し、あるいは大脳の電気化学的状態から、あるいは進化の過程でどのように動機づけられてきたかという見地から、それぞれ理解する。人間の行動は客観現象であり、人間が主体的に行動するという考えは、物質が主体的に運動するというのと同じで、科学的には意味のないことである。主体性というものは、本来的に客観性を公準とする科学とは、決して相容れないものである。したがって科学的世界観は、その枠に留まるかぎりは行動哲学とはなりえない。科学的世界観は、人生をどのように生きるかというような問題についてはまったく無力である。人生を生きるに当たっての明確な価値の基準を打ち立てて、人間の進むべき道を示したり、一定の行動を禁止したりすることはできないのである。人生の目的や善悪がないという前項の帰結は、世界は客観性を持つという、この科学的立場に立つ以上言わば当然の結果である。客観性の立場に立つならば、人間の主体的、実践的な態度というようなものを扱うことは、できないのである。科学のできることは、せいぜいが、ある目的や価値が与えられた場合に、どのような方法がそれがかなう途かを示すことである。
 仮に人間に主体性があると仮定しても、世界が物質の構成要素と法則とによって成り立っているのであれば、人間の生に何らの必然性がないことに変わりはない。人間が科学の法則に従って動くのではないとしても、それだけで直ちに何らかの使命や目的が与えられるわけではない。科学的な知識の適用によっては、人間の実践的な態度というものはついに生じえない。科学的な世界のなかで主体性を与えられた「私」は、地図も磁石もコンパスも渡されずに、見知らぬ土地に放り出された一人の人間である。価値や倫理は、原理的に科学から排除されており、科学に人間の生き方や価値の問題について回答を求めても、何も得ることはできない。科学的世界観の立場に立つならば、世界の中に自分の行動を正当化する命令や価値や指標を見つけることはできないのである。科学的な世界の中には、判断すべきななんらかの手段も拠り所も与えられてはいない。こうして、科学的世界観を受入れたうえで自分自身に主体性を認めるということは、置き去りにされ、見捨てられた自分自身を発見するということである。
 科学的世界観によれば、先験的・一般的な価値というものはない。したがってもし価値というものがありうるとすれば、それは一般的、抽象的な基準としてではなく、人間が個々の具体的な行動を通して選択したものとしての価値である。仮に人間に主体性があるとして、人間がいくつかの可能性の中から一つを選ぶということは、同時にそのものの価値を肯定することである。人間にとって価値とは、個々の行為を通して選んだというその意味以外のものではありえない。この意味での価値とは、人間の行為そのものに常についてまわるものであり、いわば人間のすべての行動が善である。科学的世界観の立場に立つならば、個々の行為を離れたところで抽象的、一般的に、人間の主体的、実践的な態度を問題とし、それによって立てられた基準で、人間の個々の行動の当否や善悪を判断するようなことは決してできないのである。
 以上のように、科学的世界観は世界についての客観的な理解であり、それ以上の新しい何かをもたらすということはない。世界観という言葉が、単に世界に対する客観的な見方というだけではなく、人間的な価値についての主張の表明をも意味するとするならば、科学的な世界観は完全な世界観とは言えない。この、論理と客観性によって構成された人工の構築物は、その論理と客観性の名において、人生を考える土台となり、前提となり、出発点となるのに十分な確実性を持ってはいる。しかしながらそれは、それだけのことである。それが個々の問題に指標を与えたり、個々の行為に自信と勇気を与えたりすることはない。人生を豊かにもしないし、実りあるものにするわけでもない。科学的世界観においては、そのような発想そのものが否定されているのである。人生においては主体性というものが大事であるとしても、この科学の網の目からはそれがスッポリと抜け落ちてしまうのである。
 そこでもし、世界に対する実践的な態度を含まなければ世界観として不十分であると考えるならば、客観性の立場に留まることはできない。科学を離れ、宗教や神学に入っていくことによってはじめて、一般的な価値や道徳、善悪について語ることができるようになるのである。例えば、絶対的な目標というものを打ちたて、なんらかの秩序や義務を自分に課せられたものとして無条件に設定するならば、人間の主体的な態度というものについて述べることができるようになるであろう。世界を目的論的なものと考えるならば、目的にそうものが価値であり、阻害するものが悪である。例えばマルクス主義者や原理主義者には、そのような傾向が見受けられるように思われる。絶対的な価値や目的を打ち立てて決して疑うということをしなければ、ある意味で判断や行動は楽である。しかしながら、そのような絶対的な価値や目的や善悪は、決して客観的なものではありえない。宗教や形而上学の解釈は、世界に対する客観性を放棄する要素を含んでおり、客観性の公準こそ科学そのものなのである。

2 反科学的世界観
 以上の検討で明らかなように、科学の身上は客観性にあり、科学的世界観の限界もまたその客観性にある。客観性の公準こそ科学の本質であり、科学は原理的にこの枠を超ええない。一旦客観性を公準として採用してしまえば、目的や価値、主体性について、以上に述べた結論しか出しようがないのである。もちろん科学は、人間が感覚を通してしか世界を知る能力をもたないとか、感覚的に知覚できないものが存在しないと積極的に主張するものではない。科学的方法は、それらの可能性を無視したところから始まるのである。こうして、科学のもつこの客観性の前提は、科学的方法が暗黙のうちに原理として承認しているというだけのものであるから、これと異なった前提に立つことが決してできないというものではない。そこでこの前提を捨て去るならば、科学的世界観とは異なった、まったく別の世界観を構成することが可能となるのである。
 客観性の原理を部分的に、人間界についてだけ放棄する考え方の例が、心実在説である。この考え方によれば、物質界は確かに客観性をもち、感覚を通して得た情報を論理的にまとめあげることによって説明することができるが、人間界はそうではない。人間には意識や意思や主体性があり、これを物質的に説明することは原理的に誤りであるので、これを理解するためには、主体性の原理あるいは「こころ」の原理が必要であるとする。これを拡大して、客観性を生物界についても放棄する考え方の例が生気説である。生物には確かに生気あるいは合目的性というものがあり、それを科学的な方法によって理解することはできないので、客観性の公準のほかに生命をもつものの中だけで働く特別な原理──合目的性の原理を認めることが必要になる。生物は法則にではなく目的に支配されており、生命現象は客観的思考によっては決して理解できないというのである。
 さらに、普遍的な合目的性の原理というものを仮定し、客観性の原理を全面的に放棄する考え方もある。それによると、合目的性の原理は生物界ばかりでなく、宇宙全体を支配しており、生物界の中ではより精密かつ強烈に現われているにすぎない。宇宙はある終局の目的に向かって進化しており、生物の進化はこの目的に導かれたものである。そしてその到達点こそ人類である。したがって、個々の現象をいくら客観的に考察してみても、宇宙のこの普遍的目的というものを把握することなしには、ついに真理に到達することはできないというのである。この理論によれば、人類の歴史は生物の進化の延長であり、生物の進化は宇宙の進化の一部をなしている。しかも、宇宙は終局の目的に向かって進化しているのであるから、人類の宇宙における地位は必然的に最高のものとなり、そして、自分が常に進歩を約束されているという確信を抱くことができるのである。
 かつての人間は、現在以上にきわめて特別な存在であった。人間は、物質はもとより、他の動物や植物とも違って、それらの上に君臨する最高の被造物であり、世界の中心という特権的な場所に住んでいた。自分の国の中心的な都市が人間世界の中心であり、そして地球が宇宙の中心であった。数世紀前までの人類は、地球は世界の中心で、その形においても位置においても唯一のものだと信じていた。科学は、以上のような人間の伝統的な価値体系に結果として次々と挑戦し、人間が物質や生物や自分自身に対してもっていた常識を、次々に覆してきた。コペルニクスは地球を、世界の中心である太陽の周りを回る、9個の惑星のうちの一つの地位に落としたし、ガリレオの進化論は、人間が動物と歴史的につながっていることを示した。今では、広大な宇宙には太陽系のような世界が無数にあって、そこには人類より優れた知的生物が住んでいる可能性もあると考えられている。人類が科学的研究を始めてからたった数百年で、生物や人間の地位の特別性は急速に、そして加速度的に失われてきた。
 それにもかかわらず、多くの人々の生命観や人間観は、昔とほとんど変わっていないように見える。彼らは、個々の科学的知識を表面的にだけ受け入れ、他と関連をもたない特別に仕切られた場所に棚上げしたまま、相変わらず非科学的な迷信にしがみついている。科学的知識との整合性を考慮することもなく、超感覚的知覚や占いや霊といったあやしげな考えに今でも魅力を感じて続けている。われわれの祖先が真実と考えていた昨日までの神話は、科学によって既にはっきりと崩壊させられているのに、多くの人々はそれに気がつかない振りをして、相変わらず昔からの伝説を深く信じ込んでいるように見えるのである。科学的世界観は、少なくとも部分的にしか受け入れられてはいない。科学的世界観がこんなにも受け入れがたいのは、どんな理由があるからなのであろうか。

3 科学的世界観の正当性
 われわれはあらゆる時代を通じて、われわれ自身が必然的、不可避的、整合的であってほしいと望んでいる。かけがえのない大切なものであると、思いたがっている。われわれには、自分は特別である、自分たちは特別であるという考えをもとうとする、生物学的な傾向がある。だれもが、自分がまったくの偶然や意図をもたない淘汰の産物であるとは考えたがらない。われわれは、自分の人生が何の目的もなく、何の価値もないものであると認めることには耐えられない。何とかして、自分の生きることの意味を与えてくれる絶対的な根拠を求めようとする。そこで、あらゆる宗教と、ほとんどあらゆる哲学と、科学の一部までもが自分自身の偶然性を、したがって無目的性と無価値性を必死に否定しようとしてきた。人間は自分の存在の消滅(死)の恐怖を鎮めるために、年月が経っても朽ち落ちない文化的信念の体系をつくってきた。人間がどんな時代にも望んでいるのは、自分自身の運命を超越する方法であり、人間は、ある種の絶対的な無限の持続性が保証されることをいつも望んできた。それらのすべては、事物の生成変化を目的の見地から説明し、世界は一つの目的に支配されていると考え、すべてがある終局の目的に向かって進んでいくという考えを内に含んでいるようにみえる。
 われわれがどのような考え方を選択するかは、われわれ自身のニューロンの電気化学的状態が決めることであり、それ以外の何物も、われわれにある一つの考えを持つことを強制することはできない。したがって、客観性の公準を採用するかどうかも、われわれ自身の大脳の決めることではある。しかしながら、客観性を公準とする科学が、世界についての驚くべき有効な理論を形成してきたことを忘れることはできない。論理的にはどちらの立場に立つこともできるというだけの理由で、科学の前提を否定してしまうには、科学が産みだしてきた成果はあまりにも大きい。
 もしも世界が、人間の感覚を通しては知ることのできない本質をもち、何らかの目的に支配されていると考えるならば、たとえば、避雷針を立てても有効に雷の被害を避けることができるとは言えず、車のアクセルをふかしても確実にスピードが増すと考えるわけにはいかない。雷や車は、それ自身の本質や目的に従って活動するか、あるいはまったく偶然に不確定な動作をするであろうから、われわれのできることは、期待する結果が出るようにお祈りしたり、水ごりやお百度参りをしたりすることだけである。自然は客観性をもち、法則に従っていると考えるからこそ、われわれは自信をもって避雷針を立て、安心して車に乗ることができるのである。
 こうして、世界の非常に多くの部分について成功してきた科学のさまざまな成果は、科学の前提が、少なくとも世界の相当部分については正しいということをハッキリ示している。世界には客観性があると考えても、それは全く理由のないことではない。論理的に証明されたという意味ではなく、科学の有効な理論活動を可能にする──科学の理論を支える起点として使用することができるという意味で、科学の前提は正しいのだといって差し支えないと思われるのである。
 もっとも、正しいことをとるかどうかも、われわれの大脳の問題である。われわれは深く突き詰めることをしないで、漠然と常識的な考えを鵜呑みにしたり、また、論理的には誤っていることを知りながら、お互いに矛盾した二つの考えを同時に信じていたりすることができる。そのような態度は、論理的に一貫しない欺瞞的なものには違いないが、欺瞞的であってはならないという理由は何もないのである。繰り返しになるが、どのような世界観をとるかは結局のところわれわれ自身の大脳の決めることであり、ニューロンの機構に、矛盾した結論を許さないという決まりはない。こうしてわれわれは、科学の驚くべき有効性を目の当たりにしても、ある場合にだけ科学的思考をとり、別なときには目的論的な、あるいは宗教的な考え方をしたりすることができるのである。いまでも少数の聖書根本主義者は進化論に異議を唱えて「創造科学」を主張し、すべての生物は進化によってではなく、全能の創造主によって現在の形に造られたと考えている。地球は平らであると主張する会の人々は、地球が丸いということにさえ反対している。もっと多くの人々が、霊能力者に興味を示し、根拠不明な占いを気にしている。

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