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第4節 意識及び意志
1 意識の操作
われわれの大脳の活動の相当部分は、無意識のうちに行われている。眠っている間も神経系によって複雑な代謝がちゃんと調節されているのは、意識しないでもニューロンの作用が行われているからである。非常にうるさいところでも眠れるのに、自分の子どもがちょっとでも泣きだすと母親は目を覚ます。意識的な活動といわれる思考でも、介在ニューロンのすべての活動が常に意識されているとは限らない。ものを考える過程の大部分は無意識のうちに進行し、その一部が、ほんの時々意識にのぼるにすぎない。それで、ニューロンのなかでは連続的であった一連の思考過程の結果を、突然思い出したり、急に考えついたもののように感じるのである。
受容器からの入力信号や大脳皮質のニューロンの活動がある程度以上になると、副側路を通じて、脳幹網様体というところにパルスが送られる。網様体には、脳全体の活動の程度を高めたり抑制したりする働きがある。ここで意識のスイッチをオンにする信号がつくられ、この信号が大脳に達すると、その人は意識ある状態になる。網様体を壊すと、その動物はすっかり意識を失って、つついてもたたいても反応しなくなる。病気や麻酔によって信号がなくなったときも同様である。
感情や感覚は、脳の一定部位に生じる電気化学的現象によって引き起こされる。言い換えれば、脳の一定の場所で一定の電気化学的活動のパターンが生じれば、一定の感情が生じることとなるのである。種々の操作によって、この電気化学的活動を引き起こすことができる。大脳皮質の知覚領に針金を差し込んで電流を流してやると、その人は刺激された場所に対応する身体の部分がヒリヒリ痛むと訴える。聴覚領を電気的に刺激するとガランガランという音の感覚が生じ、視覚領を刺激すると火花が見える。また、脳幹の食欲中枢の適当な場所に電極を差し込んで電気パルスを送ってやると、動物は食欲を示して食べ続け、逆に満腹中枢を刺激すると、まったく食欲を失って飢え死にする。サルの脳幹にある不快中枢を刺激すると激しい怒りの感情を表わし、毛を逆立ててうなり声をあげ、歯をむき出しにして近づくものに見境なく噛みつき、ひっかく。ネズミの快楽中枢に電極をうずめ、一種の電鍵でネズミが自分で刺激できるようにしてやると、ネズミは一時間に何千回もそれを押し続け、1日でも2日でも押し続ける。人間の場合も、脳内のある場所を刺激すると、恐れ、怒り、不安、弛緩、恍惚などの感情が起こる。スチモシーバーという脳波送受信機によって快楽中枢に電気刺激を受けた女性は、医師の手をつかんで、「あなたが好き」と訴え、また別の女性は、「スペインは美しい。スペイン男は魅力的。結婚したい。」と叫んだという。
また、脳のある部分を刺激すると、一連の記憶がよみがえることがある。それは電圧を切ると突然終わってしまうが、スイッチを再び入れると、巻き戻されたテープレコーダーのように、記憶は何度でももう一度最初からスタートする。また、記憶の移植ということも行われている。ネズミを訓練して一定の作業を記憶させ、その際に合成されたある種の物質を、訓練されていないネズミの脳に移植すると、訓練の成果つまり記憶が写しかえられる。(* このネズミの実験は、現在では誤りとして否定されているのかもしれない。)
薬によるコントロールもある。おとなしいネズミの脳の視床下部の側面に細い管を差し込んで、カーバコールまたはネオスチグミンという薬を流し込むと、途端に形相もすさまじく、隣のハツカネズミの首に噛み付くようになる。また、狂暴なネズミにメアルアトロピンという薬を与えると、すっかりおとなしくなって他のネズミに飛びかからなくなる。人間でこのような実験をすることはできないが、アルコール、マリファナ、興奮剤等によって、感情や気分を変えることができるのは承知のとおりである。麻酔剤や、精神安定剤、幻覚剤として脳に効くものの多くは、シナプスでやり取りされている神経伝達物質と化学的に近い性質をもつ物質である。
一時期、頭蓋骨に穴をあけて前頭葉を切り取る、ロボトミーという手術が分裂病などの患者になされたことがある。前頭葉を切り取られると、自発性や創造性を失い、意欲のない無気力な人間になってしまう。目の奥の眼窩脳をほんの少し吸い取る手術をすれば、死にまつわる悩みが消える。自殺癖のある人もこの手術をすればとまり、脳腫瘍でここを犯された人は、死が近づくのを恐れずにほがらかに死を待つ。また、脳の中に腫瘍ができて脳の怒りの座が刺激されたために、子供好きの優しい青年が突然殺人鬼と化して、15人を殺害した事件がある。脳卒中による出血や梗塞で脳の一定部位に疾患を受けた人には、それに対応する一定の精神障害や心理症状が生じることはよく知られている。
以上のように、電気刺激、薬、手術等の方法によって、人間の感情や心理や精神活動は容易に操作し、破壊することができる。この操作には確実性があって、これに反抗することはできない。この意味では人間は、思いのままに変えられる電気化学方程式であると言える。
2 意識というもの
次のような議論がありうる。一般に、意識のいろいろなあり方について、何らかの大脳生理学的な説明はあるかもしれない。しかし、その電気化学的なプロセスのどこにも意識という言葉は出てこない。それにもかかわらず、そのプロセスの結果が安易に意識だといわれてしまう。たとえばわれわれが何かものをみて、それが赤いと意識したり、何かに触れて痛いと感じたりするとき、受容器ニューロンから大脳皮質に至る神経生理的なプロセスの、どこをどうたどってみても赤いという色は見当らないし、痛みの説明はどこにもでてこない。このプロセスの結果は、大脳皮質における物理化学的な変化にすぎないのであって、それをそのまま意識と呼ぶのには飛躍がある。この二つのものの関係は、そのような説明にもかかわらず、相変わらず納得のいかない不合理なものである。
以上の議論は、どういう意味でわからないといっているのであろうか。それ以上何を要求しているのであろうか。以上のような論法でいけば、意識についてどんな科学的説明がつけられても、それでもまだ説明にはなっていないと言い続けることになるであろう。逆にいうと、どんなに科学が進歩しても科学には絶対に説明のつかないものがあって、それが意識だという、神秘主義の主張と同じになってしまう。
少なくとも次のことはハッキリしている。自分でいろいろなことを考えたり感じたりする意識というものが初めにあって、それが物理的過程となって反映されるのではなく、物理的な過程が大脳の中で起こるために、意識が生じるのである。前項で示した数々の実験は、自然の法則に従った電気化学的変化が大脳の中で起きて初めて、意識という働きが生じることを明確に示している。意識という何か特別な力があって、それが物理的な変化を起こさせるのではないのである。
大脳の物理的な状態と意識との間にハッキリした法則性があるということがわかっても、それだけでは意識の説明としては不十分である、意識とは何か、どうして意識があるのかなどということは依然として不明ではないか、という疑問が残ることもありうる。しかし、この点は物質、質量、電気、引力などという科学的な概念も同じである。引力とは何か、なぜ電荷が存在するのかというような問いは、本質的に科学の範囲外である。この事情は、たとえば引力を空間の歪みやグラビトンによる相互作用として説明したとしても、変わりはしない。今度は空間の歪みやグラビトンの存在理由の説明が必要になってきて、どこまでいってもきりがない。われわれは放電の実験をして、こういうメカニズムで雷が起きるのだと説明されたとき、それがどうして雷になるのだと問いはしない。意識というものがいかに不思議なものであっても、意識を科学の対象としてはならないという理由にはならないのである。
ところで、意識の一番重要な点は、それが本質的に主観的なものだということにある。この点で、われわれが一般の物理現象を把握する仕方と、自分の意識を把握する仕方の間には本質的な違いがある。もちろん、科学は主観的な認識から出発するものである。しかし普通の物理的なものの場合には、客観的な存在というものがあって、誰にでも観察できるということが前提になっている。ところが意識の場合には、その辺の事情がだいぶ異なっている。意識とはまったくの内的な経験であって、公に観察のできる現象ではない。もちろん、表情や様子からその存在を推定したり内容を推測したりすることはできるが、それは表現されたものを通した間接的なものでしかありえない。他人の主観的な意識を直接確認したり、内容を測定したりすることはできない。これができるのはせいぜい研究者本人の意識だけであり、そして、他人が自分と同じ意識の構造をもっているという保証は、結局のところは何もないのである。
科学は感覚的知覚から出発する。感覚的に知覚できない他人の主観的な意識は、本来的に科学の対象とすることができない。自分の意識も、それが他人に知覚できないものである以上、科学という人類共通の認識を構成するための資料としては、不十分である。大脳皮質における電気化学的変化は科学的方法によって理解できるが、主観的な心の世界は通常の科学的な方法が妥当しない世界である。客体である大脳の現象と主観である心理現象との間には、科学的方法によっては決して埋めることのできない溝があるのである。したがって、これ以上主観的な意識の存在や内容について議論することは、無意味である。しかし幸いなことに、意識は受動的なものである。大脳のある特定の部位の現象と、ある特定の主観的な心理現象との間にはハッキリとした対応関係があり、その対応関係はいつも一つの方向を向いている。物理学的なプロセスの結果生じるのが意識であって、主観的な意識の存在は物理的な過程に何ら影響しない。言い替えると、人間の構造や機能は物理化学だけで説明でき、主観的な意識とは関係がないのである。したがって、観察できることだけを問題とし、場合によっては、大脳の電気化学的反応をそのまま意識と考えるだけで十分なのである。
われわれはスチモシーバーのような機械を使って、大脳の各部位の電気化学的な活動を直接観察することができる。そこで網様体から一定の信号が送り出されているのが観察されたとき、われわれはその人が意識ある状態にいると判断する。怒りの座が一定のパターンを示すとき、その人は怒っていると考える。一定のパターンが観測されたにもかかわらず、それに対応する表情や行動が表われないとき、われわれは大脳の別の個所の電気化学的状態を調べて、怒りの信号が別の信号によって抑制され、怒りの表情を表わす顔の作動体ニューロンに伝えられないからだと理解する。また悲しみの表情があるにもかかわらず、それに対応する電気化学的変化が大脳の中に見当らないとき、われわれは別の個所の電気化学的活動を調べて、彼女は演技をしていると判断するのである。以上のように、意識を大脳の介在ニューロンにおける電気化学的活動として理解することによって、主観的な意識というものを問題にしなくとも、意識について多くを理解することができるのである。
3 自由意志
大脳の機能について以上のような立場に立つならば、自由意志の問題は明白である。物理化学の法則に支配された宇宙の中に、自由の存在する余地はないと思われる。すなわち、自由意志などというものは存在しない。心あるいは精神現象と呼ばれるものも、大脳における一種の物理現象であり、物理現象には一定の法則がある。われわれの選択や判断は大脳の複雑に配線された介在ニューロンの電気回路で自動的に行われ、自由意志の介入する余地はどこにもない。この点に関しては、コンピュータによる工場の自動制御と本質的な差異はないのである。
既に述べたように、人間には物事を何とかうまく説明しようとする自然の傾向がある。われわれの言葉そのものが、原因の後に結果が続くような話し方をするようにできている。簡単な現象の場合は原因をすぐに見つけて、現象をうまく説明することができる。しかし、その当時の知識をもってしてはどうしても正しい説明のできない現象もある。その場合に人間は、知識が豊富になって説明ができるようになるのを待つことをせず、勝手に原因を発明してしまう。電気というものを知らない間、人間は雷を説明するために雲の上に雷神がいるという説明を受け入れてきた。同じように、生きているものと生きていないものとの違いは、生命あるいは生気が存在するという仮定のうえに立って説明された。そして生命を持っているもののなかでも、人間のように意識を持って意図的に行動するものとそうでないものとの違いがあるので、この違いは説明されなければならない。こうして、人間の行動の説明原理として、自由意志というものが発明されたのである。
こういう説明の仕方は、白いものと赤いものを比べて、赤いものは赤い色を持っているのだと説明する仕方に似ている。ものが赤いのは、「赤い色」の素があるからではなく、ある一定の振動数の光をそのものが反射するからである。「赤い色」などという特別なものを仮定しなくともものが赤いのを説明できるように、また、雷神などというものを特別に仮定しなくとも雷が説明できるように、生命や生気などという特別の実体を仮定しなくとも、生命現象を十分理解できることは既にみてきた。精神現象についても同様である。人間の行動は大脳の電気化学的現象の反映であり、大脳の構造とその電気化学的状態、身体各部から送られてくる電気パルス、及び外部から得られる感覚情報を検討することによって、原理的には科学的に説明しうるのである。
もちろん人間がある決定をするとき、外部の力によって決定が強制されるというのではない。決定は、その人のもつ遺伝的特性や、記憶、経験、習慣、その他が関係して行われる。しかしそのことをもって、ただちに人間には自由意志があるということはできない。そのことは、現在の入力情報だけではなく、その人の何億というニューロンがどのようにして現在の配線をもつに至ったか、過去の入力によってどのような状態に置かれてきたかということによって、決定が左右されるということを意味するにすぎない。
人間の身体を構成する粒子と外部の粒子との間に根本的な差異はなく、その間には物質交代ということが行われている。また、人間の身体を構成する物質に働く法則と、外部の法則との間にも何ら違いはない。外部の物質の物理的作用も、大脳のニューロンの電気パターンも、強制力をもつという点において大きな違いはない。したがって人間の行動が、それに関わる物質の構造と、その活動状態だけでは決まらないというのが自由意志の主張であるとするならば、自由意志の関与する余地はまったくないということになる。われわれの思考や行動は、惑星の運動や雷などの自然現象と同様に、基本的には、物質粒子に自然の力が作用することによって生じているのである。自由意志というような非物理的な作用で、思考や行動が制御されるというようなことはありえない。
それにもかかわらずわれわれは、自分が行った行為について、その行為は自分の意志によってなされたのだと考える。どうしてそう思うのだろうか。それは実は、そのように思うようにわれわれの脳が造られているからである。人間の脳は、並行して働く互いにある程度独立した機能をもつ、多数のモジュールが共存して働くように構成されている。そして、脳のそれぞれのモジュールによって造り出された行動は、別のモジュールによって絶えず自分が造り出した行動だと解釈されている。脳の解釈のモジュールは、すべての行動の首尾一貫性という感覚を維持するべく、どうしてそれらの行動が起こったのかについて解釈を行う。つまり人間の脳には、自分の行為の原因を推測する機構があって、その機構が働いて、自分の行為の原因は自分の意志であるという解釈を造り出すのである。同時にその機構は、自分(心)という観念を造り上げる。その機構によって、人間の個人の自己存在意識と自分の意志という観念が形成される。
こうしてわれわれは、自然の法則に従った当然の結果を、あたかも自分の意志でそうしたかのように思い込んでいるのである。
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