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     第5節  科 学

1 科 学
 われわれが住んでいる世界には、無数の異なった現象が存在する。それらは不規則で、偶然で、相互に何の関連もないようにみえる。もしわれわれがこれらの現象を無秩序のままに放っておくならば、われわれはあまりにも多くの異なった現象を整理して理解することができず、正しい判断にたって世界に有効に働きかけることができないであろう。そこでわれわれは、これらの世界から無秩序を減少させ、世界を何とか秩序だったものとして理解しようとする。
 科学的研究は、まず事象の観察に始まる。観察とは、ある現象がどのようであるか、どのようにして生起するかということを、できるだけありのままに確認することである。対象についての多くの観察事実を集めて整理すると、いろいろな関係が見出される。何回も観察を繰り返し、その結果を論理的に構成することによって、われわれは無秩序にみえる自然の中に一定の秩序や規則性があることに気がつく。そこでわれわれは、これらの自然現象を説明しようとして、仮説を立てる。仮説はまた、必ずしも観測記録によらない理論的な考察等によっても立てられる。これらの仮説が実験によって検討され、科学的に実証されたときに、科学的な法則となる。実験によって検証され、実験結果を満足に説明することが確かめられた仮説が、科学的事実になるのである。法則のあるものは、多くの個々のできごとの観測から仮定された。またある法則は、別の法則から論理的に導かれた。そして別のある法則は、初めは経験の賜物であり、後に、論理的に導かれてできたものである。科学の最終的な目標は、全宇宙のたくさんのできごとを、できるだけ少ない法則で理解することである。
 科学というものは、人間が先験的にもっている、すべてのものには原因があり、すべての現象は相互に関わりあっているという信念の上に立ち、自然現象を何とか説明しようとする作用である。そこでは個々の出来事は、それと、それに先行した出来事とを関連づける、一般原理の一つの表れであると考えられている。われわれは雷という現象をみれば、雷がなぜ起こるのかを考える。このような疑問は、雷が常に他の何かと関係をもっており、その何かが起こることによって雷が起こるのだという考えを前提にしなければ、意味をもたない。われわれはすべてのものに原因があると考えて、雷の原因を考え、あれは雲と大地との間の放電現象ではないかと説明する。説明するというのは、一つの知識(雷)と他の知識(電気)との間にある種の関係を見つけだすことである。フランクリンは雷が電気であるという仮説を、有名なタコの実験によって実証した。このように雷という現象が正しく理解されれば、前もって雷の発生を予知したり、避雷針を立ててその災害から有効に逃れたりすることができる。
 こうして科学とは、感覚的知覚から出発し、すべての現象はお互いになんらかの仕方で関わりあっているという前提に立ち、ある現象と他の現象との間の正しい関係を見つけだす作用である。ある説明(仮説)が正しいかどうかの判断は、観察や実験の結果──感覚的知覚──と突き合わせて、論理的に検証される。言い替えるならば科学は、経験と論理とを組織的に突き合わせることによって、世界についての正しい知識を得ることができるという思想の上に成り立っている、ということができる。科学とは、感覚を通して得た情報の統一的な説明の仕方を発見しようという学問であり、このような方法で、世界についての確実な、そして有効な理論を形成することに成功したのである。
 もっとも、科学の知識というものは、論理的に説明されてまったく疑問の余地がないというものではない。このことは、科学的な真理というものがどのようにして確立されるかを考えると、理解できる。説明のために立てられた仮説は、実験によって検証される。もしもある仮説から論理的に導かれた結論が、実験によって否定された場合には、その仮説は最終的には修正されるか捨てられることになる。そうして仮説は、様々な面から検証を受け、その仮説が依然としてすべての実験結果を満足に説明できることが確認されている限り、生き残っていく。多数の実験は、その仮説の正しさの蓋然性を増しはするが、論理的に正しいと証明するわけではない。依然として仮説は仮説のままであり、一定数の実験によって実証されれば、その後の実験によってひっくり返される可能性がまったく無くなるというものではない。科学にも間違いはあり、後になって正しくないことがわかった仮説も、数多く見出される。かつての科学は、燃素(フロギストン)や熱素(カロリック)、光の媒体としてのエーテルの存在を仮定して自然現象を説明していたが、現在ではこれらの理論は完全に廃棄されている。科学的な法則はいつまでも、新たな理論や実験によって訂正されうる仮説なのである。
 科学の法則のうち、ケプラーの3法則やニュートンの運動方程式のようなものは、科学の長年の歴史上における検証を経て、もはや仮説というには程遠いほど疑いえないものになっている。もちろん相対論や量子論の登場によって、これらの理論は現在では厳密に正しいものとは言えなくなっているのであるが、少なくともある条件を満たしている場面での近似としては、正しいと言える。ニュートン力学や重力の法則は、現在でも実用的な計算に用いられている。しかしながら、たとえば力の大統一理論や超ひも理論のような最先端の理論は、いまだ十分に検証されたとは言い難く、他の理論と調和しうること、反証がないこと、それにいくらかの間接的証拠があるといえるにすぎない状況にある。科学は、仮説のこのような確証と反証の繰り返しによって、次第に発展していくものなのである。
 さらに言うならば、科学が以上のようにして「正しい」理解に到達したとしても、それが将来に渡っても正しいとは限らない。科学によって発見された自然の規則性は、原理的に過去の経験に基づくものであり、結局のところ今まではそうであったということを意味するにすぎない。将来に渡って永遠にその規則性が持続するという、「論理的な」証明や保証は何もないのである。
 ところで、科学のうち、最も基本的なものは物理学である。物理学の研究の対象は個々の原子以下のレベルであり、その範囲はせいぜい原子が3個結合した分子にとどまる。多くの原子が結合してできた化合物を扱うのは化学の仕事であり、化学の基礎として必要なことは、現代の物理学ではほとんどわかっているということである。しかし現在のところ、これらの化合物の性質を、基本的な第一原理に基づいて完全に説明するまでには至っていない。化学で扱う化合物は、そのもっとも単純なものでも、素材の粒子からみるとあまりに複雑すぎるのである。まして、生物の細胞の中に含まれる複雑な化合物となると、なおさらである。その上の、生物学の範囲である細胞、有機体、人体になると、これらの基本原理の到底及ぶところではない。さらに人間の社会の分野の現象では、基本原理との関連性さえほとんど見出すことができない。宇宙は素粒子から社会まで非常に複雑な階層構造をとっており、現在のところこれらの分野は、お互いに深い関係をもちながらも、それぞれ独立した自然科学──物理学、化学、生物学として研究されているのである。

2 非科学・反科学・超科学
 雷の説明には、雲の上に太鼓をもった雷神がいて太鼓を打ち鳴らしているのである、というような説明の仕方もある。このような説明も、仮説としては一概に頭から非科学的であるとは言いきれない。ただ、自然科学の仮説は、既に検証されている他の事実と調和しうるものであり、かつ、その仮説から導かれる結論を事実に照らして検証しうるものでなければならない。さらに、仮説とはいまだ経験によってその真偽が確かめられていない説明であるから、その仮説から論理的に導かれた結論が経験によって否定された場合には、修正されるか否定されなければならない。科学では、厳密に検討された実験結果については、それがどんなに非常識であっても、それまでの科学の理論と矛盾していても、それが正しいと認められる。それだけに、仮説の検証には厳密さを要求する。もしこのような検証の手続きを経ないで、雷は雷神のせいだと主張するのであれば、そのような態度は非科学的であると言わざるをえない。科学的に正しくない説明では、雷の発生を予測したり、雷の災難から逃れるために自然界に対して有効な働きかけをすることができない。
 また、世の中には、世界の様々なことについて自信を持って断定的に語る、多くの人々がいる。その理論が、その人のわずかな体験や信念や思想を根拠とする、非常にあいまいなものであっても、自信ありげな態度やある種の権威等によって、大きな説得力をもつことがある。たとえば占い師の予言は、観察や実験によってその予言が反証されたとしても、その理論の体系のもつあいまいさのために、常に検証結果と矛盾しないように理論を再解釈して、言い抜けることができるようになっている。また、ある宗教の信者の幸福は信仰の賜物であり、不幸があればそれは信仰の足りないためである、というような説明の仕方もある。注意深い研究に基づいたものではない不明確な理論は、職業的占い師だけのものではない。科学的な装いをもった、単なる思い込みに基づく様々な理論や、根拠不明な信念に基づく様々な主張がある。科学的な理論は、少なくとも反証が可能である程度には明確・精密なものでなければならない。十分に明確でも精密でもない理論は、反証が不可能である。再解釈の余地を残すことによって反証から守られているような理論は、科学的なものとはいえないのである。
 次に、科学的であるためには、論理的でもなければならない。たとえばある人が、人間とチンパンジーが同一の祖先をもっているなどと考えるのは嫌であり、感情的に到底受け入れることはできないから、信じないと言ったとしよう。信じる信じないはその人の自由である。しかしこのような態度は、事実と論理に従っていないから、科学的であると言うことはできない。われわれは、常にはっきりとした理にかなった考え方によって物事を判断するとは限らず、偏見や利害関係によって偏った判断をしがちである。人間には、問題が解決されるということよりも、自分が望む結果が出ることを期待し、漠然とそうなるだろうと信じてしまう傾向がある。真理をみないで、幻影や虚偽や希望的見解で満足してしまうことも多いのである。そして、ある事象に対して一つの見方を得ると、その見方による説明だけが可能であり、それだけが正しいと思い込みがちである。
 また人間には、自分に与えられた信条をそのまま繰り返して、物事を正しく判断しているのだと信じ込む場合もある。われわれは、家族や友人の見解を鵜呑みにし、常識的な判断と矛盾することはすべて無視することもできる。常識というのは、ほとんどの人がそれを認めていることによって、検証を要求されずに主張できる知識である。地動説がとなえられたとき、当時の人々はこれを一顧だにしなかったばかりか、世を惑わす異端の思想であるとして処罰した。われわれは時には単なる思い込みによって、あるいはそれまでの習慣的な判断によって、物事を処理してしまうものである。事実だから常識となるのではなく、常識だから事実としてしまうのである。われわれの思考や行動は、自然や社会についてもっている数多くの実際的な知識(常識)によって行われており、常識は、われわれが育ってきた社会の思考習慣と実際的な経験的知識とから成り立っている。そうした実際的な経験法則の背後にはいくつかのことが仮定されているが、それらの仮定の存在や、それらが相互に整合的であるのかどうかは、必ずしも意識されてはいない。しかしながら、二つの仮定や理論が相互に矛盾したものである場合、少なくともどちらか一方は誤っている。科学も経験から出発したものではあるが、科学の体系は、そうした仮定や理論の整合性を徹底的に追及した結果として形成されている。科学は、少数の仮定を用いて経験的知識を統合することを目標としており、体系的であるという点においても常識とは異なっている。
 もちろん、われわれは必ずしも常に科学的である必要はなく、論理的でなければならないいわれはない。自然を超越する力を信じたり、物質のほかに霊魂が実在すると考えたり、言葉の綾や自分の日常的な実感によって物事を処理することもできよう。誰もそのようであってはならないと非難したり否定したりすることはできない。科学はただ、事実と論理に従うなら、このように考えざるをえないということ示すにすぎない。そして、科学的思考によらずして、この世の中で確実な、そして有効な行動を取ることはできないのである。
 ところで、科学技術に基づく人類社会の発展や工業生産が、大気を汚染し、環境を破壊して生命を脅かし、人間疎外を引き起こしたのである。したがって科学は有害なものであり、それに反対することが人間の正しい道である、というような議論がある。このような反科学主義というものは、誤解に基づいている。科学は単に世界の理解の仕方や、自然に働きかける場合の有効な方法を示すものにすぎない。世界はこのようなものである、世界に対してこのようにすればこうなる、そのようにしたいのなら、目的を有効に達成する方法はこれであるということを示すだけである。何をどのようにするかの判断は、科学の範囲外のものである。人類を一瞬にして滅亡させうる原子爆弾を製造し、自らの利益のために環境を破壊するのは、科学ではなくて科学的知識を利用する人間社会であり、政治であり、利潤追及の経済のメカニズムであり、そのような道を選ぶ人間自身である。科学者も一人の人間として、この選択の責任の重要な一端を担っているのはもちろんである。一方で、生物・科学兵器を無害なものに分解して廃棄する方法や、破壊された環境を可能な限り復元する方法を与えるのも、科学である。基本的に、科学が人間に指図することはなく、科学の知識を活用して何をするか、何をしないかを判断するのは、科学ではなくて人間の社会の問題である。ただし、人間社会に科学を制御する充分な力があるのかどうかは、また別の問題である。
 また、科学は万能ではない、科学以外にそれよりも重要なことがたくさんあるとして、科学を批判する人もいる。しかしながら、科学自体は科学が万能であると主張しているものではない。科学で分かっていることや予測できることには明らかに限界があるのであって、技術としての科学が万能ではないのはむしろ当然である。そうではあるが、世界のあり方を客観的に理解する手段として、科学以上のものをわれわれがもっていないというのもまた、明確な事実なのである。
 ところで、世界についての科学的説明に満足せず、科学では説明できないものの存在を主張する人たちもいる。彼らは例えばテレパシーやテレキネシスなどというものを、科学を超越するという意味で、超能力などと呼んでいる。世の中には「超能力者」や「霊能力者」がいて、一定の人気を集めている。現代科学ではまだ説明できない現象があるというのはその通りである。しかし、世界にはどうしても科学では説明のつかない現象があるというのであれば、問題である。コウモリは、真っ暗闇の洞窟の中を岩にぶつからずに飛ぶことができる。ある意味では、コウモリのこの能力を超能力と呼ぶことができるであろう。しかし科学は、超音波という概念を使って、この能力を説明することができる。また、自然界にはそのものに触れずに物を動かすことのできる、磁石という不思議な物体がある。しかし磁石を、科学を超越したものであるという人はあるまい。これらの人たちは、一定の確かめられた事実があるから信念を持つのではなく、先に信念があるから事実を生じてしまっているように見える。テレパシーやテレキネシスなどの超能力とよばれる現象が仮にあったとしても、そのことがただちに、科学の説明できない現象があるということを意味するわけではない。科学はそれらの現象を研究し、やがては科学的に説明できるようになると考えることができる。
 われわれ人間には、相反する二つの傾向がある。一つは、われわれの経験する世界のできごとはお互いに関わりあっており、すべてのものには原因があるという考え方である。科学はこの立場にたち、世界についての有効な理論を形成した。一方、われわれにはもう一つの別な傾向がある。それは、自然界には人間のどうしても理解できない神秘がある、という考え方である。宗教や神学はこの立場に立ち、感覚的知覚や人間の思考を排して、真の実在は直接的な内的体験によってのみ把握されるとする。われわれの祖先は、すべてのものに霊魂があると考えていた。川の深みや山の頂には霊妙な魂がすんでおり、岩にも、嵐にも、太陽にも魂が宿っていた。火山の活動や雷、日食などは神の怒りと恐れられ、雨や風、地震や星の動きはすべて人智を超えた天の力と考えられていた。しかしこれらは、科学によって、重力、力学、熱力学、電気などの働きとして次々に解明されてきた。現在までに、実に多種多様な事柄が科学で理解できるようになり、人間の世界への働きかけに利用されている。
 もちろん科学が、感覚的知覚と思考とによって、世界を完全に理解できたというわけではないし、理解できることを実証したというのでもない。世界のどこを捜しても、科学的方法では理解できない現象が存在してはいないということを証明できる、どんな実験も考えることはできない。しかし一方では、自然の中に科学的方法になじまない非論理的なもの──たとえば、幽霊や霊魂のようなもの──が存在するということが証明されているわけでもない。感覚的に知覚できないものである以上、こちらも科学的には実証不可能なものである。こうして、科学と神秘主義は、どちらが正しいということも証明できない、相反する前提に立つ二つのものなのである。科学は世界の相当部分について、あまりにも有効な理論を形成した。もし科学が世界のあり方を正しく反映したものではないとするならば、科学のもつ確実性や有効性の説明はつかなくなるであろう。われわれの科学的世界観は、第一の立場に立つものである。

3 社会科学
 何を対象とするかによって、科学を自然科学、社会科学、および人文科学に三分する分類の仕方がある。これまでに述べてきた科学は、この分け方によれば自然科学に当たるものであろう。文学、歴史学等の人文科学は、われわれが既にみてきた科学とは、ほとんど関連性さえ見出すことができないもののようにみえる。文学を、われわれの科学の概念に含めることはとてもできそうにない。文学を含めた意味でのこの場合の科学とは、単に学問、理論あるいは人間の知的な営みという意味に過ぎないと考えるべきであろう。われわれの科学の概念は、もっと限定された確かな意味を持つものである。それでは、社会科学と呼ばれているものは、われわれの科学の概念に当てはまるものだろうか。
 たとえば、経済学にも仮説や理論というものはある。経済学の理論は、景気の動向や経済成長についてある予測をする。しかしながらそれらの理論は、統一された唯一の理論としてではなく、互いに矛盾した異なる予測をする様々な理論の一つとして併存している。しかもそれらの理論の予測は、結果的に当たらないことも多い。経済成長率や国際収支の経常黒字の拡大・縮小、株価や円のレートの高騰・低迷に関して、常に正しい予測ができる経済理論はないようである。既に起こったことに対して、なぜそれが起こったかを事後的に説明することはできても、未来を予測することは苦手なようである。既に検討してきたところによれば、科学的な理論というものは、経験によって否定された場合には修正されるか捨てられなければならない。ところが経済学の理論は、たとえその理論から導き出された結論を否定する結果が出ても、あまりその理論の価値には影響せず、そのままの形で生き延びていくようにみえる。経済の理論は、必ずしも事実によって検証可能なものとは考えられておらず、確証されたり反証されたりすることを予定していないようにさえみえることがあるのである。これまでにみてきたわれわれの科学の概念によれば、反証されることのない仮説というのは、それだけで科学的な仮説とはいえない。そのような意味では、社会科学は科学ではないといえるのかもしれない。
 さらには、社会科学は常識との距離が非常に近い。われわれは、自分がその中で生きている社会について、日常の生活経験を通して多かれ少なかれ見方や判断をもっている。社会科学の研究はこのような常識を手がかりとし、出発点としてなされており、そこからそれほど多くは出ていないようにみえる。物理学や化学と違って、社会現象では仮説を繰り返し実験して検証することができない。現象を観察して記録し、そこに直感を働かせて想像をたくましくし、思弁的に結論を出す以上の道はないようにみえる。常識と社会科学との間に、ハッキリした一線を画することは難しい。先に常識と科学との違いを述べたが、社会科学と常識との間には、自然科学のようには明快な限界がないように思われる。
 また、自然科学が明確な人類愛に根ざした活動であったことも、かつてはあったのかもしれないが、今日ではすっかり違っている。現在の自然科学にも人間に役立つ技術としての側面がないわけではないが、それから全く離れたところでも自然科学は成立しうる。たとえば、物質の究極の構成要素や宇宙の創成についての最先端の研究は、少なくとも現在のところ、単に知るために知るという、世界の客観的認識以上のものではない。これに対し社会科学は、人間社会の正確な記述ということ以上の、ある目的や意味をもっているようにみえる。政治学や経済学や法律学には、どのようにして社会の秩序を守り、問題を解決し、社会正義を実現し、社会を豊かにしていくかという、人間的価値の視点が常に抜きがたくつきまとっている。したがって、ある社会関係が自分に有利である人間とそうでない人間とでは、社会についての認識において対立しうる。社会科学の研究には、研究者個人の利害関係、感情や意志、ものの見方や立場が終始つきまとっている。社会科学は、社会に対する人間の態度に大きく制約された、客観性の乏しいものになりやすい要素を、常に含んでいるのである。
 ところで、社会科学は世界(社会)の構成要素(アトム)として、独立した人間をおいているようにみえる。この場合の人間とは、構造を持たず、それ以上分解することができない、自由意志を持つ人間である。そして自由意志を持つ人間とは、法則に従うのではなく、自由に判断して行動する人間ということである。法則に従わない人間によって構成された社会が、全体としては法則に従うと考えるのは、無理のある納得できない考え方である。構成要素である人間の態度が法則性をもたずに変わっていくものであるとするならば、社会をいくら精密に分析してみても、そこに普遍的な法則を見つけだそうとする試みは、結局のところ失敗せざるを得ないのではなかろうか。
 人間の社会は歴史的に変化し発展する。社会は普遍性をもった唯一のものではなく、本来的に地域的・歴史的・民族的・文化的に異なった様々な形態をとるものである。したがって、それらは一つの立場や原理によってすべてを理解できるものではなく、本来的に様々な視点から研究されるべきものである。社会科学というものをこのように考えるならば、社会科学における法則のもつ意味が、自然科学とは異なるのだということを理解することができる。社会科学の法則とは、そもそも自然科学におけるそれように、普遍性のある厳密なものとは考えられていないのである。それは法則というような厳密なものではなく、もともと法則に従わないものである人間で構成された、ある時代ある地域の社会の現象を、ある立場、ある視点からみた場合の、いわば法則性・傾向性とでもいうべきものなのである。そして、その理論の予測が当たるかどうかは、結局のところ、本来的に予測できない人間の態度や行動に依存する。したがって、矛盾した理論がいくつもあることは何ら問題ではなく、それらはもともと厳密な検証を予定して立てられたものではないともいえるのである。社会科学の理論は、仮にそれらが検証されるとしても、漠然とした検証やあいまいな反証が待っているにすぎないもののようである。
 以上の議論は、社会科学の存在を否定するものではない。既にみたように、自然科学には明確な制限がある。個々の構成要素が厳密に基本法則に従っているとしても、扱おうとする系が非常に多数の要素から構成されている場合には、基本法則によって系全体を扱えるものではないのである。そのために、人間の行動を物理学の基本的な第一原理に基づいて説明することは、少なくとも今のところはできていない。そうである以上、社会現象を研究するためには、独立した人間の存在を仮定せざるを得ないであろう。そして人間の社会に、個々の個人の考えや行動を超えた、全体としての法則性があるというのも否定できない事実である。そうであるならば、社会をそのような形で研究することは無意味とはいえない。社会科学の理論や法則が厳密なものではないとしても、それはやむを得ないことと考えられるのである。われわれはそのような仕方でしか、社会を研究することができないからである。

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