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     は じ め に


 われわれの住むこの宇宙は、どのようにして始まったのであろうか。そのなかで生命はどのようにして生まれ、人類はどのようにして誕生したのか。自分はどこから来てどこへ行くのだろう。自分の生きているこの世界はどのようなものであり、そして自分とは何なのか。人生の目的や意味はどこにあるのだろうか。運命のようなものですべてのことが決定されているのだろうか。……。
 人によっては日々の暮らしに満ち足りて、このような問題を気にかけることはないのかもしれない。多くの人々はさしたる疑問をもつこともなく、もしもったとしても大きな注意を払おうとはせず、疑問を疑問のまま路傍に置き忘れて、ともかくもその一生を平穏に送っていくことができるようにもみえる。

 私がここで試みたのは、科学的な知識や事実をもとにした、世界の統一的な把握である。私はここで、科学的な知識を一定の方針のもとに収集し、それをある枠組みを使って整理し、集約し、体系化し、そうすることによって世界についての包括的・体系的な理解を得ようと試みた。
 科学的な知識の収集は、世界の統一的な理解という目的に従って行なわれた。目に付いたものを手当たり次第に全て収集したというわけではないし、科学にとって重要であると考えられる全ての事項を網羅したというのでもない。たとえば、科学によって理解される化学反応というものは無数にあるであろう。それらの化学反応についての個々の知識は、それを技術として活用し、それによって一定の成果を得ようとする場合には重要なものである。しかしながら、世界の首尾一貫した体系的な理解という観点からは、必ずしも全ての知識が必要とされるわけではない。世界には化学反応というものがあること、それらの数が膨大なものであること、それがある一定の原理に従ったものであること、その原理がどのようなものであるかということ、それらのことが十分理解できさえすれば、世界の統一的な理解にとっては十分である。
 また、科学的な知識というものは単に膨大というばかりではなく、極めて詳細なものである。しかしながら私がここで目的としたのは、科学的な知識の正確で詳細な専門的な記述ではない。ここで述べられている各項目は、それぞれがそれだけで何冊かの本になりうるほどの内容をもっている。私はそれを極めて大胆に要約した。たとえば相対性理論や量子力学に当てられたスペースも、僅か数ページである。それぞれを詳細に記述することは、世界の包括的・体系的な理解という目的には必ずしも合致しない。可能な限りに広い範囲のことを、全体的な見通しを失わないように、できるだけ少ないスペースで記述するのが一つの目標である。少なくとも、全体としての世界について理解を得るのに必要な程度には正確で、そして具体的なイメージを描くに足るくらいには詳細に記述したつもりである。世界についての体系的な理解が得られたうえで、さらに一つの分野について正確で詳しい知識を得たいのであれば、改めてその分野の本を読めばいいのである。ここで行なった試みは、科学的知識の百科事典的な収集ではないのである。
 そうして集められた科学的な知識の整理は、ある作業仮説のもとに分類して整理された。それは、世界は大きく三つにわけられるという仮定である。私は世界全体を、物質界、生物界、人間界という三つの小世界に分け、科学的知識をそれぞれの小世界に分類して整理した。しかしながらこの分類は、世界がそのような分類に対応するような構造を原理的にもっているという前提で立てられたものではない。このような分類は整理の便宜のために行なわれたものであって、何ら世界の本質を示すものではない。科学的な知識は、たとえば宇宙の時間の経過に従って、時系列的にも整理されうるものであることがやがて述べられる。
   現代の科学は、様々な個別科学に分化して研究されている。細かく分化することによって、それぞれの科学はより深く、より精密になってきた。しかしながらその結果として、その間の連絡は疎遠になり、世界の体系的理解からは次第に遠ざかってきた。個別科学が、その対象とする領域でいかに精密な理解に到達したとしても、個々の分野を理解するだけでは、世界全体を相互に関連した整合性のあるものと理解することはできず、世界観として不十分である。細かく分けられたそれぞれの分野で得られた個々の知識を統合することによって、はじめて、世界の全体としての統一的な理解が可能となるであろう。三つの小世界についての科学的な知識の集約は、科学的知識の単なる要約には留まらず、やがてわれわれをある総合的・統一的な世界の理解へと導く。それぞれの個別科学のもつ意味や意義は、世界の全体についての首尾一貫した見方を持ったうえで評価するのでなければ、正しく理解されたことにはならないであろう。そして世界についての統一的な理解は、われわれにある一定の帰結をもたらす。
 最後にわれわれは、そのようにして得られた世界についての体系的・統一的な理解とその帰結とが、どのような意味をもち、どのような根拠によって正しいのかを検討する。科学的世界観の正当性を検討するために、そこでは「科学的知識に基づいた理解」という枠組みが取り払われる。世界についての統一的な理解は、最後には科学的な知識によるという制約からも自由になる。そのようにして批判的に検討されることによって、科学的世界観はより一層広い地平に立つものとなるであろう。

 私は科学者でもなければ哲学者でもない、一介の市井の素人にすぎない。以上の試みは、専門的な高度の知識を前提とはしないで行なわれた。私がこの試みを開始するに当たって初めからもっていた知識は、それほど多くはなく、また高度なものでもなかった。そのような素人の状態から出発し、自分自身のために、自分自身が納得できるということを基準として、すべての思考や記述を行なってきたのであるから、ここで述べられていることは、科学や哲学の専門家ではない普通の人々に容易に理解できるものであると考えている。もしこの試みにそれほど大きな誤りがないとしたなら、この試みの記録は、専門家ではない一般の人に、科学的な知識の概観と世界を体系的に理解する一つの仕方を提案する、という意味をもつであろう。専門家は自分の専門分野以外について発言することには慎重であろうから、素粒子から社会に至るすべてについて総合的に理解しようというこのような試みは、あまり例のないものかもしれない。しかしながら、この試みの結果がどの程度正しいものであるのか、どれほど成功しているのか、ということを判断する基準は私にはない。
 ここに述べられている科学的な事実や理論のどれ一つとして、私が発見したり考えだしたりしたものではない。それらの素材はすべて、出版されている多くの本に依存している。その主要なものは別項の参考図書にあげたとおりである。同じ分野についてもただ一冊の本によるのではなく、複数の本に当たることによって、できるかぎり客観的に正しい理解が得られるように努力はした。さらには、そのようにして得られた理解を補足し、あるいは批判的に検討する視点を得るため、参考図書にはあげられていない、より広い分野の本を参考とした。検討と補足と修正を何回も繰り返すことによって、ようやく情報の収集活動が新しい視点や発想をほとんどもたらさないところまで来た。その意味では、私のやり方に大きな片寄りがないとするならば、世界の科学的な理解に必要な論点は、おおよそ網羅していると言っても差し支えないと考えている。
 しかしながらそれにもかかわらず、ここで述べられた科学的知識というものが、必ずしも正しく理解されたものであるという保証はない。誤った理解の仕方をしているところが決してないとはいえない。たとえばここには、宇宙の誕生は約150億年前であるというような、科学的な意味をもついくつかの数字が出てくる。それらの数字のすべてが、私の読んだすべての本で同じ数値とはなっていなかった。そのような場合、私はそのなかから一つの数値のみを採用したのであるが、それは、それを採用する確かな基準が私にあったからではない。(* 宇宙マイクロ波背景放射(CMB)の温度揺らぎの観測結果と、標準的な理論モデルによる最新の宇宙論の潮流では、現在の宇宙の年齢は137億歳ということに収束してきたようです。) さらに私は、単に科学的な知識や理論を収集して整理しただけではない。それらを解釈し、選択し、要約し、位置づけ、発展させ、そして補足した。そこから一定の帰結を導き、それを批判的に検討し、そのもつ意味を評価することさえした。私が科学の理論をどれだけ正しく深く理解しえたのか、どれだけ妥当性のある選択や位置づけをしたのか、そこから一定の帰結をどれだけ正しく導き出すことができたのか、そしてそれらの理論のもつ意味をどれだけ正しく評価しえたのか、それらを判断する基準を私は持っていないのである。
 この試みは、世界についての科学的な知識や見方を、現時点までに私が理解できた限りにおいて整理し、集約し、検討したものである。私のこの「科学的世界観」は、広い批判を必要としている。独りよがりを免れるためにも、読者からの建設的な批評・批判を期待したい。
 私の手元には、20年近く前に書かれた、手書きの「科学的世界観」の初稿が残っている。これと比較してみると、現在までに相当大幅な枠組みの変更、内容の修正、書換え、加筆が行われている。科学的な知識や事実に基づくという本書の性質上、10年後、20年後にも、やはり同様な状況になるものと思われる。読者とともに、内容を深化・発展させ、完成度を高めていくことができれば、望外の喜びである。
(1995. 9)

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