桜
さわださんちが天皇の事績を中心に日本書紀・古事記を訳した頁です

 お願いと注意事項
・このページは、下文にもありますように、天皇の名前をご覧になられた時の参考にと思って作った、天皇の事績を中心に日本書紀を訳したものです
・ご要望があり、古事記を追加することになりました。古事記の方が簡単明瞭な筋立てですから、古事記の記事を最初に載せました
・そのため、注釈が後になっている箇所がたくさんあります。記紀は一応一緒にお読みください
・古事記を追加している間に、紀の誤りをたくさん見つけました。そこで、古事記は原文を載せましたので、訳がおかしいと思われる場合の参考にしてください。 なお、そのとき気づいたのですが、記紀では、同時代に記されたものなのに、同じ字を違う読みにしているようです。多分
・完成までに相当な期間が必要でしたので、文体が変化しているところもあります。ご容赦ください。
・個人的なものですから、全く何の保障を致しません



 このページの内容は、大変大雑把なもので、正確ではありません。奈良には神社佛閣・古墳がたくさんあります。神社佛閣を参拝したとき、或いは、古墳で天皇の名を見られたときに、全く知識がなく見るよりも、少しは「あ、そうか」と何かを感じる方がおもしろいのでは、と勝手に思って作りました。間違っているにしても、大きくは外れていないと思います(多分)ので、何かのお役に立てば幸いです。
 原文を記載している部分がありますが、原文は漢字の羅列で、句読点がありません。そこで、句読点に相当と思われる箇所に空白を入れています。
 原文は日本文学電子図書館に在ります。(別画面になります)

・内容については、日本書紀を基にしていますが、その内容をすべて含んでいる訳ではありません。偏見と独断でいろいろと勝手な解釈をしたり、省略をしています。
 ご承知のように、日本書紀の内容は、同時期に作成された古事記と内容が異なっていますし、寺院の縁起、風土記等との内容とも異なっています。
 本文の次に、小さな字で、或る本に云はく……  と記載されている箇所があります。そもそも日本書紀はいろいろな家伝を寄せ集めたようなものですから、異説があります。その異説を記載したものだと思います。
 更に、外国の歴史書を参考にしていると思われる記事もあります。
例えば、繼体天皇25年の条では、
 繼体二十五年の春二月に、天皇、病甚し。丁未に天皇磐余玉穗宮に崩りましぬ。時に年八十二。
 冬十二月の丙申の朔庚子に、藍野陵に葬りまつる。 或本(あるふみ)に云はく、天皇、二十八年歳次甲寅(きのえ とら のとし)に崩(かむあが)りましぬといふ。而(しか)るを此(ここ)に二十五年歳次辛亥(かのと ゐ のとし)に崩りましぬと云へるは、百濟本記(くだらほんき)を取りて文(ふみ)を為(つく)れるなり。其の文に云へらく、太歳辛亥の三月に、軍(いくさ)進(すす)みて安羅(あら)に至(いた)りて、乞乇城(こつとくのさし)を營(つく)る。其(こ)の月に、高麗(こま)、其の王安(こしき あん)を弑(ころ)す。又聞く、日本(やまと)の天皇及び太子(ひつぎのみこ)・皇子(みこ)、倶(とも)に崩薨(かむさ)りましぬといへり。此(これ)に由(よ)りて言へば、辛亥の歳は、二十五年に當(あた)る。後に勘校(かむが)へむ者(ひと)、知らむ
(訳については、繼体25年の条を見てください)

 お寺の名前は時代によって変わっていることがありますし、都を遷えた時にお寺そのものを引越しさせることもありますので、ご注意ください。
例えば、百濟大寺(舒明紀=北葛城郡広陵町百濟) → 大安寺(奈良市大安寺町)、法興寺(現、飛鳥寺)(推古紀=明日香村) → 元興寺(奈良市中院町一帯)

 日本書紀には当然神話的な物語が含まれています。これは間違いとはいえません。しかし、日本書紀自身の記述についても矛盾する点がいくつもあります。
 仲哀天皇は父(日本武尊)の死後36年目に誕生しています。これは記録間違いや写し間違いとは考えにくいものです。
 日本武尊の誕生年は、熊襲征伐時の年齢と死亡時の年齢から推計したのとでは、2年の差が生じます。(景行27年の条参照)

 月の記載が落ちているところがあります。月を補わないと日付の順番が合いません。これは、記載ミスか写し間違いでしょう。ままある間違いです。(敏達4年(575年)二月の条参照)

 また、日本書紀の編者はある意識を持って編纂したはずです。そのため、その意識に合うように歴史を編纂したと考えるのが妥当でしょう。正しく読み解くためには、その意識を理解したうえで、記述内容からその意識による修飾的な文を取り除いて理解する必要があります。これはなかなか厄介な作業です。

 欠史八代天皇と云う問題もあります。
 どれが正しいかは、ご自身でお考えください。

・一口録  日本書紀の編纂は、天武天皇の頃から始まったと思われ、養老四年(720年)に成立した日本最古の勅撰の正史です。
 続日本紀巻第八の元正天皇養老四年五月癸酉(21日)の記事に「一品舍人親王奉勅 修日本紀 至是功成奏上 紀卅巻系図一巻」とあり、「舍人親王(とねりのみこ)勅(みことのり)を奉(う)けたまわりて、日本紀を修(あ)む。是(ここ)に至(いた)りて功(こう)成(な)りて奏上(たてまつる)。紀卅巻(30巻)、系図一巻」と訓めます。この日本紀が今日の日本書紀だといわれています。このように、日本書紀の続編とされる続日本紀(しょくにほんき)に日本書紀との表記はなく「日本紀」と書かれているので、正しくは日本紀ではないか、と云う説があります。
 日本書紀の原本は残念ながら残っていません。写本は何種類かありますが、全てが同じではありません。その為、このHPの内容と違うかもしれませんがご了承ください。

・年月日の読み方
  例えば、推古天皇紀のはじめに聖德太子の攝政を表す文が有ります。
 夏四月庚午朔己卯 立厩戸豐聰耳皇子 為皇太子 仍録攝政 以萬機悉委焉
 この文の前に、元年正月十五日に、佛舎利を法興寺の塔に納めた、という記述がありますので、
  ・夏四月=推古元年四月です。
  ・日は、庚午朔己卯(かのえうまのついたちつちのとう) とありますので、十日です。
   この意味は、「庚午朔=かのえ うま (の) ついたち=その月(この場合は四月)一日は庚午であり、その日は己卯=つちのと う =に当たる日である」と云うことです。
   即ち、庚午から数えて、己卯に相当する日が経っている(庚午・辛未・壬申・癸酉・甲戌・乙亥・丙子・丁丑・戊寅・己卯)ので、十日になります。
   この順番は、こちらを参照してください。

全文では、
  四月十日に、厩戸豐聰耳皇子(うまや と の とよ と みみ の み こ、「の」に相当する漢字はありません)をお立てになり、皇太子(ひつぎのみこ)とした。総ての(録)政(まつりごと)を司らせ、総ての(萬)執行権限(機=政と同意)をことごとく(悉)お任せになった。

 太陰暦では、正月(むつき)・二月(きさらぎ)・三月(やよひ)が春、四月(うづき)・五月(さつき)・六月(みなづき)が夏、七月(ふみづき)・八月(はつき)・九月(ながづき)が秋、十月(かむなづき)・十一月(しもつき)・十二月(しはす)が冬です。
 よって、仲秋の名月は八月十五日の月です。
 このHPでは四季の字句を省略しました。

 日本書紀に使われたと思われる暦については、こちらをご覧ください。
 なお、西暦は太陽暦(1年≒365日)、和年號は太陰暦(1年≒354日)を基準にしています。そのため、年末年始では1年ずれる場合がありますので注意してください。

・日付については、その日に記載内容がすべて行われたということではありませんので、ご注意ください。
このHPの内容は、あくまでも、日本書紀の記載を簡略にして写したものです(省略した記事はたくさんあります)から、内容によりその辺を推測してください。
例えば、「崇仁7年 七月七日 野見宿禰(のみのすくね)と当摩蹶速(たぎまのくえはや)とが埆力(すもう=相撲)を取る(相撲の起源)」
とありますが、日本書紀の記載内容としては、
 七月七日、側近の一人が当摩蹶速と云う力自慢の男がいて、生死に拘わらず力比べをしたいと言っていますと、天皇に申し上げた。天皇が「私も当摩蹶速が力持ちだと聞いている。これに匹敵するような者はいないか」とお尋ねになると、別の家臣が「出雲の国に野見宿禰と云う力自慢がいると聞いたことがあります」と申し上げたので、そこで、使者を出雲の国に送り、野見宿禰が出雲の国からやって来て、野見宿禰と当摩蹶速とが相撲を取った。
 ということが書かれています。
 記載上は、七月七日の日付のところに、この内容がすべて書かれていますので、実際に相撲を取った日は判りません。考えてみると、冒頭の会話が七月七日だとすると、相撲を取ったのは、それから2~3か月は経っていると思います。
 七月七日に相撲を取って、その経緯を書いている、とも解されます
 この為、最初は日を省略していましたが、ご要望により日を付けました。内容により、一日の出来事ではないと、直ぐに判る記載もありますが、日付の欄に書かれている内容とご理解ください

・表記については、こちらをご覧ください。「メモ0101を参照」

・歴史的かなづかひ(歴史的かなづかい)について
 現在のかなづかいは、1946年(昭和21年)の「現代かなづかい」が始まりで、それ以降改定されたものです。即ち、1946年を境にして、仮名遣いが変わっています。これは何を意味するかといえば、1946年以降の仮名遣いで学んだ人は、それ以前の文章を読めなくなると云うことです。例えば、平成の人は夏目漱石・森鴎外等の作品を原書では読めなくなっています。今出版されているこの方々の作品は、「歴史的かなづかひ」を「現代かなづかい」に翻訳(変換)したものです
 それはさておき、1946年以前のかなづかいが、「歴史的かなづかひ」です。さらに遡って、記紀が編纂された時代、奈良時代の仮名遣いが「上代特殊仮名遣い」です

 日本書紀の内容は、性質上、固有名詞・名詞の表記をできるだけ歴史的かなづかひにしています。古語辞典を引くときには、歴史的かなづかひで調べる必要がありますので、読みづらいと思いますが、慣れてみてください

 尾は「お」と表記しますが、「を」が歴史的かなづかひです。「を」には小さい・かわいらしい・小さくこんもりしたもの、と云う意味があります。尾はお尻に付いている小さくかわいらしいもの、と云う意味です
 早乙女「さおとめ」は、「さをとめ」です。「さ」は神稲を表す接頭語。「をと」は小さい・若い、と云う意味で、「め」は女性です。よって、田植えをする若い女性、と云う意味になります
 ここからお分かりのように、浦島太郎に出てくる「おとひめ」様は今でいう名前ではなく、「長女ではない姫」と云うことになります
ふりかなを振る際に、発音の「おもい」は、表記では「おもい」=重、「おもひ」=想となります

 日本書紀が成立した時代「上代特殊仮名遣い」では、母音が8つほど、音節(母音+子音=区別されていた発音)は80~90ほどあったそうです。 音節を区別するためには、表記(=文字)も変える必要がありますので、当然80~90ほどの文字でそれを表していたことになります。このことについては、こちらをごらんください

 今は46音節です。少し前までは、イロハ47文字でした。このため、今では「なら いく」という音を「なら いく」と表記しています。 即ち、衣(e)と江(ye)は音節も文字も違っていたのですが、今ではこの「ye」に充てる単独のかな文字はありません。少し前までは「ゑ」があったのですが
 逆に、「へ」は場合によって、「へ」と「え」の2つの音節に発音しなければなりません
 また、「ゴリラ」と「りんご」の「ご」の発音は違うといわれています。しかし、今ではその違いを日本語で表記することはできません
 英語を初等教育に取り入れることには賛成ですが、日本語教育を更に充実させることにも、最大限の努力をお願いしたいものです

 また、送り仮名については、送りすぎないようにしていますので、ご注意ください

 文末に句点「。」を省略している箇所があります。「。」は、文末を示し、正しく文と文との切断箇所を明示するものです。故に、明らかに以下の続きがない箇所には不要なものです

 外国の地名・人名の訓みについて
 単に音読みにしているだけですので、全く保障の限りではありません。無責任そのものです。ご了承ください
<大いなる余談>
 北京を中国で「ぺきん」と発音していては全く通じません。「ぺいじん」と発音しているようです。 毛沢東さんも「もうたくとう」では全く通じません。「まおつぉーとん」と発音しているようですし、2013年の中国主席、習近平主席は「しゅう きんぺい」ではなく「シー ジンピン」主席です。韓国大統領、朴大統領は、「ぼく」ではなく「パク」大統領です。
 そろそろ、音読みの発音を止めて、現地の発音に切り替えないと、世界には通用しないですよ

 古代朝鮮半島の訓みを少しだけ集めました。何かの参考にしてください。但し、保証の限りではありません
 
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