武田信玄




1511年 甲斐の国(かいのくに 山梨県)の守護の武田信虎(たけだのぶとら)の
      長男として生まれる。幼名(ようみょう)は太郎。

1533年 上杉朝興(うえすぎともおき)の娘と結婚する。

1536年 16才で元服(げんぷく 成人すること)し、晴信(はるのぶ)と名のる。

1541年 武田信玄が父の武田信虎を駿河の国(するがのくに 静岡県)に追放する。
            ↓
      以後、駿河の国(するがのくに 静岡県)の大名の今川義元(いまがわよしもと)
      が武田信虎の身をあずかる。

1542年 武田信玄が信濃の国(しなののくに 長野県)の豪族(ごうぞく)の諏訪頼重
      (すわよりしげ)を滅ぼす。

1547年 武田信玄が「信玄家法(しんげんかほう)」を決める。
      ※ 甲州法度(こうしゅうはっと)ともいう。

1550年 武田信玄が信濃の国(しなののくに)の豪族の小笠原長時(おがさわらながとき)
      をやぶる。

1553年 武田信玄が信濃の国(しなののくに)の豪族の村上義清(むらかみよしきよ)
      をやぶる。
             ↓
      小笠原長時(おがさわらながとき)、村上義清(むらかみよしきよ)が越後の国
      (えちごのくに 新潟県)の大名の上杉謙信(うえすぎけんしん)をたよって逃げる。
             ↓
      武田信玄と上杉謙信が川中島(かわなかじま)で戦う。 第一次川中島の合戦

1554年 大名の武田信玄、今川義元(いまがわよしもと)、北条氏康(ほうじょううじやす)の
      3人が同盟を結ぶ。(三国同盟)

1555年 武田信玄と上杉謙信が川中島(かわなかじま)で戦う。 川中島の合戦

1559年 武田信玄が出家(しゅっけ 僧になること)して「信玄」となる。

1560年 桶狭間(おけはざま)の戦いがおこる。
      織田信長(おだ のぶなが)に今川義元が討たれ、三国同盟がくずれる。

1561年 武田信玄と上杉謙信が川中島(かわなかじま)で戦う。 第四次川中島の合戦
      この戦いの最中 武田信玄と上杉謙信との一騎打ち(いっきうち)がおこる。
             ↓
      上杉謙信と武田信玄との戦いに決着はつかなかったが、
       武田信玄が甲斐の国と信濃の国の2カ国をほぼ支配する。

1568年 武田信玄が今川義元の子の今川氏真(いまがわうじざね)を破り、駿河の国
      (するがのくに 静岡県)を支配する。

1572年 武田信玄が足利義昭(あしかがよしあき)の命令で3万の兵を指揮して
      上洛(じょうらく 京都へ向かうこと)を開始する。
             ↓
      三方原の戦い(みかたがはらたたかい)
      武田信玄が織田信長(おだのぶなが)、徳川家康(とくがわいえやす)の
      連合軍を打ち破る。
             ↓
1573年 上洛(じょうらく 京都に向かうこと)の途中で病死する。(53才)

武田信玄は、戦国時代の名政治家であり、名将軍であるといえる。後に江戸幕府を開くこと
になる徳川家康(とくがわいえやす)も敵である武田信玄を尊敬し、武田信玄の生み出した
制度や戦術、兵法などをそのまま利用している点がある。武田信玄が53才で病死することなく、
京都への上洛を果たしていたら、たぶん、後の世は大きく変わっていたであろう。残念なことに
武田氏は武田信玄の死後、子の武田勝頼(たけだかつより)の代に滅びることになる。1582年
のことであった。


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