母島沖村の「南洋踊り」の由来

 

母島ワントネ沖

    母島への南洋踊り伝搬ルートについて 
     
     戦前母島で実際に南洋踊りを踊っていらした方のおはなしです
  
     本土へ引き上げる前に、母島沖村で踊っていた「南洋踊り」(当時は土人踊りといっていた)の由来は、
    大正末期から昭和初期にかけて多数の小笠原島民が、南洋群島に開拓民として移住したが、その中の
    一人で父島から南洋に渡った浅沼国義氏が、現地人が踊っていた「土人おどり」を習得して、昭和7〜8
    年頃母島沖村に戻ってきた。
    国義氏はまれに見る芸達者で、グループの酒宴の席で「どじょう掬い」、「凧踊り」、「蛸踊り」ほか南洋で
    習得した「土人踊り」を披露して、酒宴を盛り上げたという。
    とりわけ「土人踊り」が好評で、、たちまち評判になり興味を持った中年の男子数十名が集まり、正式に
   踊りを教えてもらったのが、始まりである。
    国義氏が渡った南洋の島の住民は「夜明け前」は踊っていなかったようで、彼が習得した踊りは、「ウラメ」
   「ウワドロ」、「ギダイ」の3曲だった。
    当時、沖村では毎年11月1日から3日間、村を挙げて恒例の大神宮(月ヶ岡神社)の祭典が盛大に執行
   され、沖村の3大郷土芸能と言われていた「相撲甚句と奉納相撲」、「歌舞伎芝居」、小笠原太鼓」を披露し
   て村人を楽しませていた。
    こうした中で、昭和7〜8年の祭典から夜の部の「歌舞伎芝居」のプログラムに「土人踊り」が初めて組み
   込まれ、大衆の前に登場、大好評をを得て夜の部の人気番組になりました。
    昭和10年になり、長い間郷土芸能として楽しまれた、「歌舞伎芝居」が指導者の高齢化や後継者難で
   中止することになり、夜の部の芝居は青年団が主催し、「国定忠治」や「清水次郎長」など時代劇を演ずる
   ようになり、それに伴って、「土人踊り」も、昭和12年の祭典から青年層に引き継がれた。
    こうした中で、昭和13年に父島大村出身の藤川武男氏が営林署の母島出張所長として沖村に赴任した。
    藤川氏は若い頃、父島大村で「土人踊りを」踊った経験がある方でしたので、藤川氏の指導で「夜明け前」
   を伝授していただき、従来の3曲に「夜明け前」を加え4曲を披露するようになり、更に人気が高まり「土人
   踊り」を目当てに大神宮へ足を運ぶ人達も少なくなかった。
    それ故、村人を最後まで引きつける方策として、「土人踊り」は最後に演出するようプログラム編成に思考
   をこらした。
    こうした中で、昭和16年秋に渋谷中佐が率いる大部隊が母島へ駐屯、海軍基地も建設され、母島全土は
   たちまち軍事基地の島に変貌した。
    昭和17年11月1日から行われた大神宮の祭典には、駐屯軍本部から「祭典期間中は、兵士の外出門限
   を、午後9時まで延長するから、「土人踊り」をその時間内に演出してくれ。」との要望があり、急遽、プログ
   ラムを変更して兵隊さん達に喜ばれた。
    さらに、海軍部隊からの要請で、基地を慰安訪問して「土人踊り」を披露して大好評を得るなど、村の伝統
   芸能としての存在感を高めた。
    だが、昭和18年10月村の青壮年に教育招集令状が発せられ、ほとんどの青壮年は、現地部隊に3ヶ月
   間入隊したため、昭和18年から大神宮の祭典を中止、「土人踊り」も、昭和17年の祭典を最後に中断せざ
   るを得なくなった。
   
     
 

現在の母島沖港