(5)捕虜ハセヌ方針(南京戦史)


『神は沈黙せず』批判 総合メニュー
『神は沈黙せず』批判(まえがき)
(1)南京論争登場
(2)否定論を理解しているか?
(3)本当に処刑されたのか?
(4)捕虜ハセヌ方針(東中野説)
(5)捕虜ハセヌ方針(南京戦史)
(6)トンデモ国際法
(7)便衣兵摘発の状況
(8)形勢不利なのはどっち?
(9)石射史料に虐殺の記述なし
(10)なぜ数が問題になるのか
(11)虚構の上に論を重ねた虐殺説
「あとがき」のようなもの


中島日記に関して(その三)


 『神は沈黙せず』山本弘著 角川書店
 P58−P64(順次抜粋)

 真田はまったく動じず、せせら笑った。そんな下級兵士の証言など信用できない。どうせ左翼文化人のでっちあげに違いない。たとえば第一六師団長の中島今朝吾中将の日記には、虐殺行為などまったく記されていない。それどころか、「大体捕虜ハセヌ方針ナレバ」とあって、当時の日本軍が中国兵を捕虜にせず、武装解除して解放していたことが分かる・・・・・・。

「あくはと」は即座に反証を挙げた。中島今朝吾中将の日記には、真田が引用した箇所のわずか数行後に、十二月十三日に捕虜にした中国兵の処分について、次のような記述があるのだ。

「此七八千人、之ヲ片付クルニハ相当大ナル壕ヲ要シ中々見当ラズ一案トシテハ百二百二分割シタル後適当ノケ[カ]処に誘キテ処理スル予定ナリ」

 この文章の意味が理解できない者はいないだろう。武装解除して解放するだけなのに、なぜ「大ナル壕」が必要なのか? つまり先の「大体捕虜ハセヌ方針ナレバ」というのは、捕虜はすべて殺して埋めてしまう方針のことなのだ。結局、何万人も埋める「大ナル壕」が用意できなかったので、揚子江岸で殺害して死体を河に流すことにしたのだろう。
 真田はこうした事実を知らなかったらしい。どうやら中島中将の日記を実際に読んだわけではなく、「なかった」派の書いた本の歪曲された解説を鵜呑みにしていたようだ。


 

 山本さんの設定した否定論が「現実世界のレベルよりもかなり低い」という事は前のページで十分にお分かりいただけと思いますので、ここでは日本軍の方針について、山本さんも参考資料とした『南京戦史』及び『南京戦史資料集』から引用したいと思います。
 





捕虜は殺害する方針だったのか?


 飯沼日記

飯沼守少将 上海派遣軍参謀課長日記抜粋

十月九日
参謀長に訓示指示の後すべき事項
(略)
歩戦協同不十分なり(敵の夜襲に追踉する夜襲)俘虜を作る如くす 敵動揺の兆あるに乗し来る者は捕虜とすへし
彼等は日本軍に捕らわれは殺さると宣伝しあり之を是正すること
(略)
『南京戦史資料集』P142

飯沼守少将 上海派遣軍参謀課長日記抜粋
十二月二十一日 大体晴

 荻州部隊山田支隊の捕虜一万数千は逐次銃剣によって処分しありし処、何日かに相当多数を同時に同一場所に連行せる為、彼らに騒がれ遂に機関銃の射撃を為し、我が将校以下若干も共に射殺相当多数に逃げられたとの噂あ上海に送りて労役に就かしむる為、榊原参謀連絡に行きしが(昨日)遂に要領を得ずして帰りしは此不始末の為なるべし。

『南京戦史資料集』P222

 見ての通り、派遣軍の方針は殺害ではありません。




次官通牒
陸支密第一七七二号昭和十二年十一月四日
交戦法規ノ適用三関スル件

一、現下ノ情勢ニ於テ日支両国ハ未夕国際法上ノ戦争状態二入りアラサルヲ以テ「陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約其ノ他交戦法規ニ関スル諸条約」ノ具体的事項ヲ悉ク適用シテ行動スルコトハ適当ナラス

ニ、但シ左ノ件ヲ実施スルハ現下ノ状況ニ於テ当然ノ措置トシテ差支ナシ
 
1、自衛上必要ノ限度二於テ敵性ヲ有スル支那側動産不動産ヲ押収没収破壊シ或ハ適宜処分(例へハ危険性アルモノ、長期ノ保存ニ堪へサルモノ押収後之力保管二多大ノ経費、労カヲ要スルモノ等ヲ換価叉ハ棄却スル等)スルコト
「但シ土地建物等ノ不動産及私有財産(市、区、町、村二属スル財産ヲ含ム)ハ之ヲ軍ニ於テ没収スルコトハ適当ナラス
2、自衛ノ為叉ハ地方良民等ノ福祉ノ為緊急己ムヲ得サル場合ニ於テ前項ノ物件等ヲ利用スルコト

三、右述ノ外日支兵干戎ノ間二相見ユルノ急迫セル事態ニ直面シ全面戦争ヘノ移行転移必スシモ明確ニ判別シ難キ現状ニ於テ自衛上前記条約ノ精神二準拠シ実情ニ即シ機ヲ失セス所要ノ措置ヲ取ルニ遺漏ナキヲ期ス

四、軍ノ本件三関スル行動ノ準拠前述ノ如シト雛帝国カ常ニ人類ノ平和ヲ愛好シ戦闘二伴フ惨害ヲ極力減殺センコトヲ顧念シアルモノナルカ故ニ此等ノ目的二副フ如ク前述「陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約其ノ他交戦法規二関スル諸条約」中害敵手段ノ選用等二関シ之力規定ヲ努メテ尊重スヘク叉帝国現下ノ国策ハ努メテ目支全面戦ニ陥ルヲ避ケントスルニ在ルヲ以テ日支全面戦ヲ相手側ニ先ンシテ決心セリト見ラルルカ如キ言動(例へハ戦利品俘虜等ノ名称ノ使用或ハ軍自ラ交戦法規ヲ其ノ儘適用セルト公称シ其ノ他必要己ムヲ得サルニ非サル二諸外国ノ神経ヲ刺戟スルカ如キ言動)ハ努メテ之ヲ避ケ叉現地ニ於ケル外国人ノ生命、財産ノ保護、駐屯外国軍隊ニ対スル応待等ニ関シテハ勉メテ適法的ニ処理シ以テ第三国ノ紛糾ヲ避クルノミナラス皇軍ニ対シテ信頼ヲ抱カシムル如クスルモノトス

五、地方ノ行政治安維持其ノ他官公署等ノ動産不動産ノ保護等ニ関シテモ軍政ヲ布キ或ハ軍自ラ進ンテ之ニ関与スルヲ避ケ前述ノ趣旨ニ鑑ミ軍ハ必要ナル内面的援助ヲ与へ其ノ実ヲ挙クルヲ可トス叉支那側ノ神社仏閣等ノ保護二就テハ勉メテ注意アリ度

六、右諸件ノ実施ニ方リテハ機ヲ失セス之カ具体的報告ヲ提出スルモノトス


『南京戦史』P339

 簡単に要約すると、現時点において日中間の関係は、国際法上の戦争ではないので、日本側から戦争を決意したと思われるような言動は避けろと。「戦利品」や「俘虜」という名称は戦争を連想させるから極力使うなよ。と、いうことです。基本的にはハーグ条約の遵守が通牒されていますから、日本軍が最初から「捕虜を殺害する方針」で戦ったという解釈は無理です。
 



『南京戦史』より
捕虜はせぬ方針について
 『南京戦史』P341-345

三 中島師団長の「捕虜ハセヌ方針ナレバ」について

 中島師団長の十二月十三目の日記には「捕虜ハセヌ方針ナレバ片端ヨリ片付クルコトトナシ・・・・・・」とある。この方針が次官通達の「捕虜と呼ぶな」を「捕虜を取るな処分せよ」と誤って解釈したものか、或は師団長の独自の見解をもって決心したものかは判然としない。

 以下中島師団長の決心にもとづく隷下指揮官の対応をうかがうこととする。
 歩兵第三十旅団長(佐々木到一少将)の十二月十四日の城内掃蕩命令には「各隊ハ師団ノ指示アル迄捕虜ヲ受付クルヲ許サズ」とあり、師団長の「捕虜ハセヌ方針ナレバ」を裏付けるとも思われる命令文を下達している。しかし命令文には「処分セヨ」という字句は見当らない。
 また、歩兵第三十旅団隷下の歩三八聯隊副官・児玉義雄氏33期は十二月十二、十三日頃の回想記事として次のように記されている。
 「南京一〜ニキロ近くまで近接して、彼我入り乱れて混戦していた頃、師団副官から師団命令として『支那兵の降伏を受け入れるな、処置せよ』と電話で伝えられ、とんでもないことだと大きなショックをうけた。師団長中島今朝吾中将は豪快な将軍で好ましいお人柄と思っておりますが、この命令だけは何としても納得できないと思っております。部隊としては実に驚き困却しましたが、命令止むを得ず各大隊に下達しましたが、各大隊からはその後何ひとつ報告はありませんでした。」
 これに依れば口頭ではあるが、 「処置せよ」と指示されているのである。しかし、この歩三八の戦闘詳報によれば、隷下の第十中隊は十二月十四日千二百人の投降兵を武装解除して捕虜として収容し、後日南京城内(第一監
獄所)へ護送しているのである。いうなれぼ、師団長の方針、命令に違反して捕虜として収容したことになる。そして後日、何のとがめもなかった。

 それどころではない。ここに捕虜を上司に内緒で使っているのを中島師団長に見られ、危険だと叱責されたが逆に師団長に気に入られ賞賛された証言がある。証言者第十六師団司令部経理部・金丸主計軍曹によれば、十二月二十日ごろ、師団長が突然下関の倉庫の視察に来、捕虜三百名を使っているのを見られてしまったという。倉庫の中には武装解除して取り上げた兵器も無雑作に積み上げてあり「もし、反抗したらどうするんだ」と叱責されたが、軍司令官主催の新年年賀の席で、師団長は「私の部隊の一主計軍曹で無腰のままで三百名の捕虜を自由に使っている大胆不敵な奴が居りまして大した働きをしております」と自慢したという。

 この事実は『捕虜ハセヌ方針ナレバ』ということと、如何なる関係にあるのであろうか。師団長の方針に反していた一主計下士官が、師団長に気に入られ除隊後までもその交際は続いたという。中島師団長の本心は今となっては知るべくもない。




四 第一線部隊の困惑 

 華中戦線の日本軍全軍としてみれば、 「捕虜とも呼ぶな」との次官通牒は受けているものの「捕虜を処分せよ、殺せ」とは、誰も決めていないし、誰も命令を下してはいない。ただ兵団毎に、その部隊長、参謀らの考えによって指導されたというのが実情であった。


 『南京戦史』は山本さんも「神は沈黙せず」の参考資料としてあげていますし、該当箇所は、本編の論考ですから見落とされることは考え難いと思います。



 山本さんは本当に『南京戦史』を読んだのでしょうか。読んだ上で「日本軍は捕虜を殺害する方針だった」というトンデモな解釈に至ったのでしょうか?。謎はさらに深まるのでした。


 





中島日記より「捕虜ハセヌ方針」について
(グース解釈)

 児玉証言によれば南京から一キロほどの場所で混戦していた頃、つまり南京攻防戦の最中に、『支那兵の降伏を受け入れるな、処置せよ』と電話で伝えられたとあります。この命令が下された状況が不明ですが、先行する中島師団の佐々木支隊は10数キロに亘って伸張している状況で、しかも各所で激戦中であったと佐々木私記に記されています。また、後方部隊も12日、13日と襲撃をうけており、特に13日夕方派遣軍本部が襲撃を受け「あわや」という事態に陥った事は広く知られています。  派遣軍本部の戦力は予備歩兵大隊と高射砲一門、付近には野戦照空隊がいる程度の脆弱なものでした。この時司令部一同は覚悟を決め、大西参謀は斬り死にを覚悟し拳銃を手にしたということです。
 戦線が延びた状況で、一部の部隊が敵兵の投降を受け入れ停止すると、その部分で戦線が分断され、先行部隊が孤立し包囲され全滅する可能性が想定されます。また同様に後方本部が孤立する場合もあります。本部が襲撃されている状態であれば救援が最優先であり、捕虜を収容するどころではありません。撃ち払って救援に向かわねば背後から襲撃される可能性もあります。こういった戦況を考慮すると、軍事上の必要から戦闘が一段落するまで部隊の判断で勝手に戦闘を停止するな。支那兵の投降を受け入れるな。という命令が出されたのはむしろ必然なのではないかと思えます。

 南京陥落後12月14日の掃討命令についてですが、この日は司令部が襲撃された翌日になります。佐々木支隊からは独立軽装甲車第八中隊が軍司令官直轄部隊として派遣されています。佐々木少将発令の城内掃蕩命令には「各隊ハ師団ノ指示アル迄捕虜ヲ受付クルヲ許サズ」とありますが、これも前日の本部襲撃を考慮した命令で、「作戦上の都合があるから勝手に捕虜を収容するな、投降兵の扱いについては師団に連絡せよ」という意味と考えられます。つまり師団の指示があれば捕虜を受け付けてよいという意味の命令と理解されます。
 そもそも最初から殺害するのが日本軍の方針であればこういった命令は必要ないのですから、「捕虜を受け付けるな」というのが特殊な命令である事は確かと言えるでしょう。

 以上のように状況を含めて考察すると「捕虜を受け入れるな」という命令の意図が見えてくるのではないでしょうか。常に捕虜を受け入れるな、投降を認めるな、という意味合いではなく、ある限定された状況下においては「勝手に戦闘を停止して投降兵を収容するな、なぜならば軍全体が危機に陥る可能性があるからだ」という内容であることが推察されるわけです。

 以上を踏まえて私が個人的に中島日記を意訳するとこうなります。
「軍の方針は、捕虜とは呼ぶな、尋問が終わったら適時解放せよというものだが、一万人もの敵兵が投降してくるとは誰も想定していなかったではないか。武装解除もままならないのでこのままでは釈放もできないし、収容といっても場所、食料の問題もあり大変だ。取り敢えず部隊を増派して野外で監視しているが、このまま延々置いておくわけにもいかない。7千人となると処刑も大変だ。大きな壕があればまとめて放り込んで処刑できるかも知れないが平地だとそうもいかない。数十人単位に小分けして処刑したほうがよいか。どうしたものか」
 という感じになると思います。

 中島中将個人としては処刑の方向で考えていたようですが、その後戦場が一段落し捕虜の収容が可能と判断されたので、仙鶴門付近の捕虜約7000人は南京城内に護送され収容されたと考えられます。中島中将が捕虜を使役している状況を見て叱責したのは「銃器の管理が杜撰であり危険だ」という意味での叱責であり、捕虜を使役した行為についてはむしろ賞賛していることからも、ことごとく全ての捕虜を殺害する方針ではなかったと考えられます。

 中島中将が7千人の捕虜を殺害しようと考えたことは衝撃的ですが、当時の認識としては「戦争なんだから捕虜が殺されるのは有る程度しょうがない」という考え方のほうがむしろ一般的だったようです。例えば1937年12月17日の東京朝日(福島版)では、山田支隊が捕虜1万5000人を確保したという記事の中では「思い切って一人残らず殴殺してやればよいのに」などと書かれています。時代背景の違いから、現代の人道主義とはかなり感覚の差があったことは事実のようです。



 ちなみに中国側も日本軍の捕虜(搭乗員)を殺害していますから、日中両国とも捕虜の扱いについては反省すべき点があったと言えます。第二次世界大戦においては米英軍を含めて捕虜を殺害した例は数多くありますから、捕虜を人道的に扱うという理想を実現するのは大変だったようです。日露戦争ではロシア側の捕虜を優遇しすぎた面もありましたが、結果的に日本軍の国際的評価を高めることになりました。捕虜を人道的に扱うということが、戦場のある部分では作戦上不利になっても最終的には自国の利益になるということは重要な事実だと思います。
 




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