渋沢~県立秦野戸川公園(神奈川)  ルート評価:B
見所 記念館、公園、史跡
所要時間 4.5時間 歩行距離 約9.2Km
コスト 安い 起伏 一部、緩傾斜
シーズン 一年中 迷子度 普通
土産・食事 やや不便 見学日 2007年11月3日
参考文献 神奈川県の歴史散歩(上)(山川出版社)、るるぶ神奈川(JTB)、公園への小さな旅(首都圏みどりのネットワーク)、家族でおでかけ 関東周辺(昭文社)、秦野の城郭(秦野市教育委員会)、日本城郭大系6(新人物往来社)、「前田夕暮と明星派展」レジメ(秦野市立図書館)、秦野市観光協会ホームページ
コメント 渋沢駅から東丹沢の表玄関にあたる自然豊かな県立秦野戸川公園へと向かうコース。
前半は秦野の郷土史を彩ってきた史跡群をハシゴするが、やや地味な分、かえって秦野戸川公園の開放的な清々しさが引き立つとも言える。
このコースにおいては、渋沢駅前を除けば外食店は至って少ないので、コンビニエンスストアで弁当を調達して秦野戸川公園で広げるのがよい。
なお、帰路の路線バスは休日であればそれなりに本数が発着しているので、安心して時を過ごせる。

参考: 渋沢~県立秦野戸川公園 ルートマップ

前田夕暮記念室(秦野市立図書館)(お勧め度:★☆☆)

【交通】 小田急小田原線「渋沢」駅から徒歩27分
【入場料】 無料
【見学時間】 15分
【コメント】 秦野市立図書館の2階に前田夕暮記念室があります。
前田夕暮(詳細は「秦野の生んだ近代歌人・前田夕暮の足跡」を参照)は秦野が故郷で、このため市内の至る所にその歌碑が建立されています。
この記念室では夕暮の足跡を辿りつつ、短冊や遺愛品などが展示されています。
記念室の窓からは丹沢の山並みが一望できるのもなかなかポイント高いです。
私が訪問した折は、「前田夕暮と明星派展」(2007年7月1日~12月28日)を開催中でした。
このような郷土で生まれた先人の業績を紹介する場として、図書館を使用するケースが最近、とみに増えてきたように見受けられます。

○開館時間:9:00~17:00、休館日:月曜、祝日の翌日、資料整理休館日等
秦野市立図書館

秦野が生んだ近代歌人・前田夕暮の足跡

前田夕暮(本名:洋造)は、明治16年(1883)に現在の秦野市南矢名で生まれた。
生家は豊かな豪農で、父は村長や県会議員も務めた地元の名士でもあった。
この父は厳格な性格で、生来、腺病質の夕暮は父に怒られるたびに家出を繰り返していた。
このような不安定な精神状態から、夕暮は地元の中郡共立学校(現在の秦野高等学校)に進学したものの神経衰弱によって退学せざるを得なくなった。
傷心の夕暮は、気晴らしのために各地に放浪の旅に出かけた。
そして、明治35年(1902)の東北旅行の際に携行した与謝野晶子の歌集「みだれ髪」に心酔し、文学者を目指すことを決意することになる。

帰京後、新聞や雑誌などに自作の小説や短歌の投稿を重ねるようになり、これが縁で歌人・尾上柴舟に師事することになる。
これより本格的な文学修業を開始し、やがて雑誌「向日葵」および歌集「哀楽」などに作品を発表するに至った。
創作活動が軌道に乗り始めたのは明治40年代で、明治43年(1910)には処女歌集「収穫」を発表した。
この当時の夕暮の作風は「自然主義短歌」と呼ばれ、日常の生活感情をあるがままに詠むものであった。
夕暮は兄弟弟子にあたる若山牧水とともにこの自然主義短歌の一翼を担い、高い評価を受けた。
私生活も順調で、同じ歌人である栢野繁子と結婚したのも同じ年の出来事でもあった。
そして翌年には雑誌「詩歌」を創刊した。
この雑誌には、若山牧水、齊藤茂吉、高村光太郎、室生犀星、萩原朔太郎などの著名な歌人・詩人が競うように作品を投稿し、与謝野鉄幹・晶子夫婦の「明星」と並ぶ高い人気を博すようになった。

大正7年(1918)、父の死を切欠に「詩歌」を休刊し、家業を継いだ。
しかし、歌人の本能という衝動を抑えることはできず、4年後に奥秩父の自然やそこで労働する人々を題材にした短歌を発表して、文壇に電撃的に復帰した。
夕暮は、偶然出会って知遇になった北原白秋とともに、大正13年(1923)に雑誌「日光」を立ち上げた。
この「日光」が昭和2年(1927)に廃刊になったことに伴い、昭和3年に「詩歌」を復刊した。
この頃の夕暮の作風は、「現実を直視して自分がいま生きている社会を、そこでの現実生活の実態を歌う」(「前田夕暮と明星派展」レジメより)もので口語自由律短歌と呼ばれた。
しかし、この作風は第二次世界大戦に直面した時代背景からも束縛が多く、まもなく旧来の文語定型短歌に復帰している。
夕暮は、第二次世界大戦の空襲を避けるため、および新境地を開くため、奥秩父の原生林に移転するが、皮肉なことにそこでも過酷な生活で健康を損なってしまった。
それでも創作活動は継続し続けたが、力尽きるように昭和26年(1951)4月20日、69歳で死去した。

このトピックスは、「前田夕暮と明星派展」のレジメをもとに編集しました。

mapion所在地地図


舟つなぎの松(お勧め度:☆☆☆)

【交通】 前田夕暮記念室から徒歩6分
【入場料】 無料
【見学時間】 5分
【コメント】 秦野市中央運動公園の北西隅に石碑が立っています。
このあたりの水無川の河畔に、昭和の初めまで大きな松の木が立っていたようです。
水無川はかつて川幅がもっと広く水量も豊かだったので、川の往来には渡し船を使い、その船が流されないようにこの松に繋いでいたようです。

さて、盆地である秦野市内は独特の地質になっています。
すなわち、丹沢山塊に降り注いだ雨は市内中央部では地下水として伏流して流れ、市内南部の平沢や今泉で湧水となって噴出しています。
このため、水利の悪い市内中央部には古代遺跡が極めて少ないという特徴があります。
この水無川も降雨が続くと伏流水が地上にも流れ、水量が豊かになりますが、乾季になると水が涸れます。
そのため、弘法大師に纏わる次のような伝説も生まれました。
大師が、渡し船の船頭に「船に乗せてほしい」と懇願しましたが、貧しい身なりをみた船頭は無視して立ち去りました。
これをみた弘法大師は持っていた杖で川の中をかきまわしました。
すると川の水が干されてしまい、以後、水無川と呼ばれるようになったというものです。
舟つなぎの松水無川

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桜土手古墳公園(お勧め度:★☆☆)

【交通】 舟つなぎの松から徒歩15分
【入場料】 無料
【見学時間】 30分
【コメント】 桜土手古墳群は、秦野市の中央部を流れる水無川の河畔にある円墳群です。
東西500m×南北300mの範囲に現在まで35基の古墳の存在が確認されました。
配置の特徴として、大きな円墳は古墳群からやや離れて存在しており、直径15m、高さ2m、周溝2mという小型のものは密集して存在していることが挙げられます。
いずれも石室入口は南側に面し、1号墳と7号墳では珍しい石組も見つかりました。
古墳が築造されたのは、7世紀後半から8世紀ごろで、密集度は県内では最大規模とされています。
上記したように水利の悪い市内中央部に古代遺跡が極めて少ない中で、異色の存在ですが、「神奈川県の歴史散歩」では「鉄製農具の普及が畑作農業の生産力を高め、盆地内に集落が増えた」ためと解説しています。

桜土手古墳の多くの円墳が開発の過程で破壊され、現在12基のみ現存しています。
そのうち、平成2年(1999)に公園として整備された桜土手古墳公園には、保存古墳6基(26号、28号、29号、30号、31号、32号)と最大の大きさをもっていた1号墳を復原したレプリカがあります。
また、園内には出土した須恵器、土師器、耳環、勾玉、切子玉、管玉、ガラス玉などの装飾品、直刀、鉄鏃、馬具などが展示されている展示館もあり、古墳の作り方や古代人の生活なども子どもたちにもわかりやすいアニメにて解説されています。
また、市内の遺跡について紹介するミニシアターもあります。
ちなみに私はこの日、こちらで開催されていた「鎌倉幕府御家人の館」という企画展(2007年9月22日~11月26日)を鑑賞するため、訪問しました。

○開園時間:9:00~20:00、休園日:年中無休
○古墳展示館開館時間:9:00~17:00、休館日:月曜(月曜祝日の場合は開園で、翌日休園)、年末年始
古墳展示館*展示館内装
32号墳**1号墳(復元)

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戸川陣屋跡(お勧め度:☆☆☆)

【交通】 桜土手古墳公園から徒歩13分
【入場料】 無料
【見学時間】 5分
【コメント】 秦野市戸川738番地から794番地にかけて、「御屋敷」という小字が残されています(約192m×108mの方形区画)。
この「御屋敷」は、江戸時代の地誌「新編相模国風土記稿」に記されている「慶安時代(1648~1651)の地頭・戸田庄右衛門の屋敷跡」と目されています。
「秦野の城郭」では、この戸田庄右衛門について「寛政重修諸家譜」に記されている戸田正次と同一人物視しており、正次が元和10年(1624)に相模国大住郡にて700石を知行した領地の管理を司るために設置した役所跡と考察しています。
現在、周辺は宅地化が進み、解説標識もないので往時を偲べるものは何もありません。
戸川陣屋比定地東南部

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宝泉院(お勧め度:★☆☆)

【交通】 戸川陣屋跡から徒歩5分
【入場料】 無料
【見学時間】 5分
【コメント】 戸川陣屋跡にほど近い宝泉院には、市重要文化財の木造大日如来坐像が安置されています。
この像は、高さ84.8cmの寄木造の木像で、南北時代末期から室町時代の初めにかけて製作されたものと推定されています。
宝泉院

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蔵林寺(お勧め度:★☆☆)

【交通】 宝泉院から徒歩32分
【入場料】 無料
【見学時間】 5分
【コメント】 室町時代の享徳年間(1452~55)に市内の堀山下に創建された曹洞宗の寺院で、文明年間(1469~87)に現在地へ移転しました。
慶安2年(1649)に徳川幕府から朱印15石を拝領し、寛文13年(1673)には旗本・米倉丹後守昌尹が中興し、米倉氏の菩提寺としました。
本堂向って左手の高台にある墓地には、この昌尹を始めとする米倉氏代々の墓地(市重要文化財)があります。
さらに米倉昌尹の木像や米倉氏の系図などが寺宝として保管されています。

米倉氏は、源義家の弟・新羅三郎義光の曾孫・義行を祖とし、その孫・信継が甲斐国八代郡米倉郷に住み、米倉を姓としました。
戦国時代には甲斐武田氏に仕え、当時の当主・米倉重継は長篠合戦で討ち死にしています。
重継の跡を継いだ忠継は、武田氏滅亡寺に徳川氏に仕え、以後その旗本になっています。
忠継の2代後の清継の代に秦野市内の堀山下村200石を知行しました。
米倉氏が著しく発展したのは、次代の昌純の時代で、4代将軍・家綱、5代将軍綱吉に仕え、 江戸城大番組頭として重きをなし、知行600石に加増されました。
さらにその子である昌尹は、綱吉の信任が篤く、上野寛永寺の再建や御囲普請の功績に手腕を発揮しました。
その功績が認められ、元禄3年(1690)には丹後守に任じられ、元禄9年(1696)には若年寄に就任し、所領も武蔵・相模・上野に合わせて1万石をもつ大名になりました。
さらに元禄12年(1699)には、1万5000石に加増され、下野皆川に移っています。
時代は下り、昌尹の孫・忠仰は、享保8年(1722)に下野皆川から武蔵国金沢に陣屋を移し、金沢藩を開設しました(陣屋は金沢文庫駅西方の谷戸内に置かれていました)。
場所柄、幕末の黒船来航時は海岸御固大名として湾岸警備に活躍しています。
さらに明治4年(1871)の廃藩置県の際、当主の昌言は六浦県知事に任じされています。
米倉昌尹墓地

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県立秦野戸川公園(お勧め度:★★☆)

【交通】 蔵林寺から徒歩11分(「渋沢」駅行神奈中バス「大倉」停留所に隣接)
【入場料】 無料
【見学時間】 60分
【コメント】 丹沢山塊の麓を流れる水無川の流域を造園した県立の自然公園。
丹沢の山並を借景としており、水無川での川遊びやバーべキュー、自然観察などが楽しめるほか、少年野球場、ゲートボール場、多目的グラウンドなどのスポーツ施設もあり、休日を活動的に過ごすことができます。
敷地を南北に分割するよう水無川が流れ、それを接続するように長さ267m、高さ35mの「風の吊り橋」が結び、公園のシンボルとなっています。
敷地内には、「ファミリーレクリエーションゾーン」、「川遊びソーン」、 「森の自然観察ゾーン」などの6つのエリアがあり、 それぞれの目的に応じた楽しみ方ができます。
また、エントランスには、ビジターセンターがあり、丹沢の自然や登山案内などについて詳細な解説がなされています。
また、丹沢にあった木材運搬用の森林鉄道の紹介などもユニークです。

見所を2つばかり紹介しておきましょう。
山岳スポーツセンターの背後にクライミングウォールがあり、休日にはロッククライムに興じる人々の姿を眼にすることができます。
なかなか本格的な施設ですが、高所恐怖症の方からすれば、膝が震える心地になってきます。
また、その山岳スポーツセンターの南麓に茶室「おおすみ山居」があります。
ここでは日本庭園を見ながらお茶を喫することができますが、クッキー付きのコーヒーが300円、主菓子付きの抹茶が500円となかなかリーズナブルなところが嬉しいところです。

○パークセンター開館時間:9:00~16:30、休館日:年末年始
○茶室営業時間:9:00~16:00、休業日:月曜、祝祭日の翌日、年末年始
風の吊り橋*ビジターセンター
日本庭園**
クライミングウォール

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