武蔵増戸〜大悲願寺(東京市町村)  ルート評価:B
見所 ハイキングコース、史跡、公園
所要時間 4.5時間 歩行距離 約8.3Km
コスト 安い 起伏 一部、急傾斜
シーズン ツツジとサクラの季節 迷子度 なりやすい
土産・食事 不便 見学日 2006年12月16日
参考文献 東京都の歴史散歩(下)(山川出版社)、多摩あるくマップ(けやき出版)、日本城郭大系5(新人物往来社)、多摩丘陵の古城址(田中祥彦著:有峰書店新社)、中世城郭事典1(新人物往来社)、郷土あれこれ第9号(旧五日市町郷土館)、あきる野市観光協会ホームページ
コメント 中世の下層武士群として郷土史に名を残す武州南一揆に纏わる旧跡を追うハイキングコースである。
このコースにおいては、弁天山公園から網代城址(城山)を経由して、高尾神社までは山中を歩くが、城山から高尾神社間はかなりきついアップダウンがあるので、それを想定した装備で訪問すること。
歩行距離以上に疲労を感じると思うので、この場合、小峰公園から路線バスで帰路につくのも一考である(この場合の歩行距離は、約5.0km)。
道中、店舗はほとんどないので、事前準備は必須である。


網代弁天山公園(お勧め度:★☆☆)

【交通】 JR五日市線「武蔵増戸」駅から徒歩25分
【入場料】 無料
【見学時間】 散策がてら20分
【コメント】 武蔵増戸駅を背にして、右手に延びる道を進むと都道185号と交差するので、左折して道なりに進みます。
「山田交差点」を渡り、そのまま直進すると右手に「旅館網代」へと向う大看板があるので、それに従い、右折して道なりに進みます。
やがて分岐路に至りますが、弁天公園への道案内標識に従います。
進路に赤鳥居が見えてきたら、これを潜り、山頂へと向います。
このあたりはなだらかな斜面で、足元の心配はさほどいりません。

弁天山は網代地区と高尾地区に連なる低山の最も東に位置しているピークを指し示します。
頂上は岩場になっていますが、展望はすこぶる優れ、眼下に秋川谷が一望できます。
また、この山の斜面はムラサキツツジの名所としても知られ、4月下旬には一斉に花をつけ彩りを増します。

弁天山の東斜面には、市杵嶋姫命を祀る貴志嶋神社が鎮座しています。
こちらに納められている文明9年(1477)銘の石造大黒天は地元の伊奈産の石を原料としており、市文化財に指定されています。
恐らく武州南一揆も手を合わせたであろう石仏です。
この日は境内のカエデが綺麗でした。

貴志嶋神社から少し登ったところの斜面に網代弁天洞穴(奥の院)があります。
かつては修行場にでも使われたような洞窟で、上記の石造大黒天はもともとこちらに安置されていました。
弁天山登山口貴志嶋神社
網代弁天洞穴弁天山頂上

mapion所在地地図



網代城址(お勧め度:★☆☆)

【交通】 網代弁天山公園から徒歩12分
【入場料】 無料
【見学時間】 展望と休憩含めて15分
【コメント】 弁天山頂上付近に城山へと向う道案内標識があるので、これに従います。
弁天山公園から網代城址までもなだらかな尾根道です。

網代城について、江戸時代末期の地誌「新編武蔵国風土記稿」には、「城山 弁天の窟より西の方三町余にあり 頂きに四方十間余の平地あり、頂を下ること数十歩四方にから堀を構ふ 古へ戦争の頃遠見の場所にもなりしやと土人の伝へり」という記述と、「大平山 頂上延眺甚よし 土人この山を城山と云、某由来は天正の頃北条家の臣青木内記と云ふもの 二千石を領してこの地にありしと」という二つの記述が掲載されています。
また同じく地誌の「武蔵名所図会」では、小田原北条氏の家臣である貴志氏および高尾氏の城砦跡としています。

ここに登場する青木氏や貴志氏、高尾氏はいずれも中世の土豪連合である武州南一揆の構成メンバーと考えられており、平時は麓の秋川谷周辺で生活を営み、戦乱時にはこのような城砦にたてこもり、山岳戦を展開したと想定されています。
また、武州南一揆が小田原北条氏の配下に組み込まれた後は、小田原北条氏は土豪達を城番衆として交替に警備につかせ、甲斐武田氏の侵攻に備えたという事も語られています。
特に網代城は、戸倉城と戸吹城(または高月城)を結ぶ中間位置にあり、烽火台が設置されていた可能性が示唆されています。

網代城は、秋川と川口川に挟まれた比高160mの山頂にあります。
中近世に宿場として賑わった伊奈宿から離れた場所に位置しているのが、この城の一つの特殊性になっています。
山頂の遺構は経年変化もあるものの、全般的に小規模かつあまり明瞭ではなく、見所という点では欠ける印象があるのが正直なところです。
もともと長期の篭城線など想定しない簡素な設計でもあったのでしょう。
山頂からの展望も弁天山のほうが視界が開け、優れています。

さて、城山から高尾神社へと道案内標識に従って向うにあたり、幾つかのピークを過ぎていきますが、そのいずれのピークも人工的に削平されていることに気がつきます。
また西に進むに従い、ロープを使わなければ下りられないほどの急崖も存在していますが、その急崖を見下ろすピークは網代城同様に数段に削平されており、そのピークも砦であった可能性が高いものと考えています。
以上から、個人的な認識では、網代地区と高尾地区に連なる低山のピークの集合体を広義の「網代城」と考えており、「新編武蔵国風土記稿」に登場する「城山」と「大平山」は別のピークを指すのではないかとも想定しています。

参考:大悲願寺遺跡


城山山頂にある解説標識による網代城の縄張図(構造図)。クリックすると拡大する。図を見た限りでは、それとなく遺構は残っているように映るが、実際には各パーツの規模は小さい。 東側(弁天山方向)から城山山頂に向う道筋は、数段に渡って削平され、意識的にルートを蛇行させて、敵兵の進行を妨げている。戸倉城などでも見られる比較的、単純な虎口構造である。
城山山頂は、東西に2つの郭が連なっており、その周囲を腰郭が取り巻いている。解説標識の立っている場所は城山の最高地点で、恐らく城の中心部だったと思われる。展望は弁天山の方が良。 尾根続きを遮断して、敵兵の侵入を防止するための堀切。本来、堀切は切断面を垂直に広く深く掘り下げることが肝心なのだが、網代城の場合は、ラクダの背のように弧状をしている。
中世の下層武士群の実像〜武州南一揆

「一揆」というと、農民が鋤や鍬などの農具を片手に豪商宅を打ち壊しにいく絵を想像しがちだが、もともとの語意は「はかりごとを一にする」ということらしいので、これに限った話ではない。
むしろ、中世においての「一揆」とは、武士の連合体を指し示すケースが多い。
特に鎌倉公方・足利持氏の暴走によって一足早く戦国時代に突入した関東地方では、戦乱による荒廃から我が身を守るため小規模な村落領主や地侍達は結託して自衛集団をつくった。
そしてその集団は「運命共同体」として、やがて広範囲な組織となり、施政者の側から無視できなくなったほど強大な力を有するようになったものが少なくない。
その代表例として、武州南一揆という存在が知られる。

武州南一揆は、武蔵国(現在の東京都、埼玉県、横浜市、川崎市)南部に位置する小規模豪族集団の総称で、現在のあきる野市にある秋川谷、八王子市にある川口谷、恩方谷を拠点とする平山氏(後の檜原城主)、小宮氏、梶原氏、師岡氏(後の勝沼城代)、川口氏、由井氏らをリーダー的存在にした組織であった。
これに、あきる野市在住の土豪として、貴志、高尾、網野、私市、青木らが加わっていた(ちなみに武州北一揆というものもあり、これは埼玉県の川越を中心とした地侍集団である)。

個々の土豪としては吹いて飛ぶような存在ながら、結集することによって巨大な組織に成長した武州南一揆は、戦乱下において極めて自由な立場であって、時にはある勢力に加担して恩賞を受けたかと思えば、形勢不利になれば、いち早く対抗勢力に寝返り、昨日までの「主君」を攻撃した。
その好例なのが、上杉禅秀の乱時の動向である。
応永23年(1416)、足利持氏と対立した関東管領・上杉氏憲(禅秀)が鎌倉で挙兵した際に、南一揆は当初、氏憲について戦い、数々の戦功をあげた。
しかし、氏憲の形勢不利を悟るとさっさと足利持氏に寝返り、その結果、氏憲は滅亡した。

現在、あきる野市内には、足利持氏が、南一揆にあてた書状が14通残されているという。
内容としては戦略の指示や恩賞の下賜などで、鎌倉公方からしても南一揆を無視できなかった状況が思い起こされるものである。
南一揆は、永享10年(1438)に永享の乱が勃発した際にも、足利持氏と関東管領・上杉憲実の力関係を計算した上で、憲実につくという鮮やかな立ち回りを見せた。

しかし、小田原北条氏の進出による関東地方統一化の進行によって、南一揆は次第に勢力を弱め、個々に解体されて北条氏家臣団に組み込まれていったのである。

あきる野市内には、先の書状の他、南一揆に纏わる城砦、そして南一揆の活動期にあたる応永3年(1396)から明応3年(1494)までの約200基の板碑が現在し、戦乱の中でたくましく生きた彼らの時代を現在に伝えてくれている。

mapion所在地地図



小峰公園(お勧め度:★★☆)

【交通】 網代城址から徒歩40分(八王子駅行西東京バス「小峰公園」停留所に隣接)
【入場料】 無料
【見学時間】 散策がてら40分
【コメント】  城山から高尾神社へと向う道案内標識に従ってハイキングコースを進みます。
途中、ロープを伝わって昇り降りするようなかなりアップダウンがきつい場所があり、しかも道案内標識がどの道を示しているのかわかりづらい箇所もあるので注意して歩きましょう(私は山中を彷徨いました)。
いくつかのピークを過ぎ、最西端の高尾神社上社までたどり着くのに約30分要します(なお、城山からは小峰公園へと直接向う道も延びています)。
そこから麓に下りると高尾神社下社に至りますが、目前の道を左に折れ、橋を渡り、次の交差点で左折します。
すぐ右手に小峰公園のエントランスが見えてきます。

小峰公園はスギやヒノキの密生する丘陵に囲まれた谷戸の自然をそのまま活かした都立の自然公園です。
珍しいのは、園内のほぼ中央を東西に縦断するように一本の支尾根(桜の尾根)が延びていることで、この尾根上には、かつて五日市から八王子へ通じる峠道が延びていました。
その歴史を物語るように桜の尾根先端には八坂神社が鎮座し、道中安全を兼ねた石造物もこの尾根上に点在しています。
この桜の尾根は、その名が示すように古よりヤマザクラの名所で、現在でも春には花見客で賑わいます。

園内はこの他、冒険広場、ふれあい広場、湿生植物園、梅林などのフィールドがあり、野草観察、バードウォッチング、ハイキングなどの屋外活動に適したレイアウトになっています。
また、園内からは金剛の滝へと向うハイキングコースも延びています。

エントランスにあるビジターセンターでは、公園内に生息する動植物の展示や各種イベントの主催を行っています。

○ビジターセンター開館時間:9:30〜16:30、休館日:月曜、年末年始
センター内観ふれあい広場
湿生植物園*桜尾根

mapion所在地地図



大光寺(お勧め度:★☆☆)

【交通】 小峰公園から徒歩10分
【入場料】 無料
【見学時間】 5分
【コメント】 大光寺は高尾神社下社に隣接しているので、小峰公園から来た道を引き返します。

大光寺は真言宗豊山派に属する寺院で、本尊に十一面観世音菩薩を祀っています。
文亀2年(1502)、武州南一揆の中心的人物であった平山氏の菩提寺として創建されたと伝えられています。
このあたりは古くから梅の里として知られ、境内にも四季折々の花をつける草木が栽培されています。
小さいながらもなかなか寺観が整った寺院です。
大光寺

mapion所在地地図



舘谷の塁址(お勧め度:☆☆☆)

【交通】 大光寺から徒歩4分
【入場料】 無料
【見学時間】 5分
【コメント】 大光寺の前の道を北上し、道なりに進み、高尾橋を渡ります。
渡り終えたら正面に正光寺が見えますが、舘谷の塁はこのあたりを中心に存在していたと想定されています。

舘谷地区は地図をみるとわかるように秋川が東南西の三方を蛇行して流れ、北側にはその支流の三内川が流れるという天然の要害になっています。
「多摩丘陵の古城址」では、かつてこの舘谷地区の各所に土塁の残欠があり、一部には堀も存在していたとしています。
ただし、同書ではそれが直接的に武士の館に繋がるものとは言及していません。
現在は明らかにそれとわかる土塁状のものは確認できません。

なお、正光寺は鎌倉時代嘉元3年(1305)の創建で、現在は時宗に属しています。
江戸時代に武田松姫の縁で、寺領16石5斗を幕府から拝領したというので、松姫の逃避行の際、援助をしたのでしょう(参考:信松院)。
再三の火災によって記録等を失っていますが、境内には正和4年(1315)銘の板碑が安置されています。
舘谷八幡神社

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大悲願寺(お勧め度:★★☆)

【交通】 舘谷の塁址から徒歩10分(JR五日市線「武蔵増戸」駅まで徒歩10分)
【入場料】 無料
【見学時間】 15分
【コメント】 正光寺に隣接して東西に走る五日市街道(都道7号)を「五日市橋」交差点で横断し、北東方向に坂を登っていく脇道を進みます。
次の信号があるところに大悲願寺へと進む道案内標識があるので、それに従って進むと左手に大悲願寺の仁王門が見えてきます。

真言宗・大悲願寺は、建久2年(1191)、源頼朝の命により平山李重が創建しました。
室町時代文和3年(1354)には、鎌倉公方である足利基氏・氏満父子から寺領20石を与えられて保護され、江戸時代には壇林(僧の教育機関)としての位置付けを有していました。

このように古来より多摩地区を代表する寺院の一つですが、大悲願寺には数多の有形文化財とともに1万点を超える多数の古文書(大悲願寺文書:都文化財)が伝承されていることが極めて貴重なことで、これは中世以来の武州南一揆の興亡等、郷土史を紐解く重要な記録になっています。

建造物としては、安政6年(1859)に再建された仁王門(市指定文化財)、その仁王門に描かれた格天井絵(市指定文化財)、極楽と地獄の彫刻が施され、内部には木造伝阿弥陀如来三尊像(国重文:4月21日開帳)が安置されている観音堂、元禄8年(1695)に建立された方丈系書院造の本堂(都有形文化財)、寛文12年(1672)鋳造の梵鐘(市指定文化財)、安永9年(1790)に再建された朱雀門(市指定文化財)などが文化財指定されています。

また経典や古文書の中では、治承5年(1181)の奥書がある大般若経写本や伊達政宗書状の所蔵が広く知られています。
後者は、異母弟の秀雄が大悲願寺の15世住職を務めた関係で、元和9年(1623)に仙台藩主・伊達政宗が鮎漁かたがた訪問した際、本堂前庭に咲く白萩の美しさに見入られ、譲渡を希望した内容になっています。
この経緯からも、この寺院は白萩の名所としても知られ、9月上旬から9月下旬にかけて花見客で賑わいます。

なお、境内および背後の丘陵は大悲願寺遺跡の埋蔵文化財指定地となっています。

大悲願寺を見学し終えたら線路に沿って東へと向うと武蔵増戸の駅に戻ることができます。
仁王門***仁王門天井絵
観音堂***本堂

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