鎌 倉 散 歩 (第12回)                                                          

                           鎌倉秋映ー明月院紅葉模様
                               2006年11月29日(水) 
鎌倉有情
2004年5月に日蓮の足跡を辿ってから足掛け3年、今回で12回目となる散策である。
突然のことながら、この同好会は、文字通り支柱である先生のご事情により今回をもって散会の止むなきに至ったと幹事から説明があった。
思えば、全く人気の無い昼なお暗い切り通し道などを入念に下見の上、十分な下調べの資料を基に、懇切丁寧かつ興味をそそる説明をして、会員を鎌倉の歴史・文学に誘(イザナ)ってくれた先生であった。
もっと色々なことを学べたのに、という思いは、随分以前に小学校でだったかドーデの「最後の授業」を聞いたときに似ている気がした。
そんな想いから、閉会とは理解しないで”休会”と解釈しておくこととする。またいつかこの鎌倉をご一緒したいと念じている。
本日のコース(10:00から16:00)

 JR大船駅南口 → 駅前バス停 → 常楽寺前 → 常楽寺 → 熊野神社 → 多聞院 → 六国見山 → 明月院 →  JR北鎌倉駅 

紅葉考
 紅葉とは、五箇の景物、紅葉山文庫、紅葉狩、紅葉と文学、楓(フウ)を詠んだ漢詩、誹風柳多留「紅葉狩」、紅葉と絵画など紅葉に関わる
 事柄を並べてみました。

                                                     参照:「紅葉考」       
      
コース 縁起など
粟船山(ぞくせんざん)常楽寺 鎌倉の北西を守護する位置にあり、鎌倉幕府第三代の執権北条泰時公と、建長寺開山大覚禅師(蘭渓道隆)ゆかりの古刹である。

大船の地名はこの「粟船」(あわふね)にちなむとされる。

『大覚録』(巻上)によると、翌 建長元年正月「常楽寺に一百の来僧あり」といわれるほど、宗僧蘭渓道隆に参禅求道しようとする多くの僧が当寺の門をたたいたため、同年四月には、寺地を広げて僧堂が建立されている。


趣のある鎌倉市指定文化財山門

このお寺には鎌倉三名鐘の一つがある。
建長寺円覚寺の国宝の大鐘と並んでいるこの寺の梵鐘は現在鎌倉国宝館に展示されている。


本尊阿弥陀三尊像(右写真)を安置する仏殿は神奈川県指定の重要文化財である。
棟木銘や本尊厨子張出柱の銘によって、元禄四年(1691年)五月に建立されたことが明らかで、方三間(約5m)の小形ながら、鎌倉地方の近世禅宗様仏殿の代表的な建物である。

素木の鏡天井には、狩野雪信筆の力強い『雲竜』が描かれている。
雪信筆の天井絵は鎌倉地方にはほかにないので、特筆される作品といえるし、かたつむり型の花押も興味がもたれる。



粟船山の中腹に木曽塚・姫宮塚がある。
木曽義高と泰時公の女の霊を祀ったとつたえ、寛政三年(1791年)の当寺境内図にも描かれている。
『鎌倉攬勝考』によると、義高の首実検後、木曽免と言うところの田圃に塚を築いて埋葬したが、その後延宝八年(1680年)二月、田の持ち主石井某が掘り出して当寺に移し、塚を封じて木曽塚と称したと伝える。
サイト「鎌倉シニア通信」常楽寺

蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)

北條泰時

「日本の名将鑑」(版画・月岡芳年画)
泰時略歴
・1183年生,1242年7月14日(仁治3年6月15日)没

北条義時の長男、幼名、金剛 通称、江馬太郎
 常楽寺殿
・法名、観阿
・1194(建久5)年 元服 烏帽子親は源頼朝
・1221年7月7日(承久3年6月16日)〜1224年7月5日(元仁元年6月17日) 六波羅探題北方
・1224年7月16日(貞応3年6月28日)〜1242年7月14日(仁治3年6月15日) 鎌倉幕府第3代執権
・1225年 評定衆を設置し合議体制とする
・1232(貞永元)年 御成敗式目(貞永式目)を制定し、武家政権を確立
・公武双方から名政治家として評価された



















乙護童子にまつわる伝説
宗僧蘭渓道隆を心から尊崇した江ノ島弁財天は、師の給仕役である乙護童子を美女に変身させてからかったというのである。
それとは知らない童子は、いつものようにせっせと師に仕えていたが、傍目には道隆が美女をはべらせて寵愛しているようにしか見えない。
当然、土地の人々の口はうるさくなり、美女と道隆の話でもちきりとなった。
ことの由を知った童子は、身の潔白を示そうとして、 にわかに白蛇と化し、仏殿前の銀杏樹を七まわり半めぐり、同じく仏殿のかたわらにある色天無熱池を尾でたたいた、というのである。











木曽塚
熊野神社 方角的には常楽寺から東へ向かう。5分ほどで山間の住宅地にある熊野神社に到着する。
大船の鎮守で、祭神は日本武尊(やまとたけるのみこと)。天正7年(1579年)、玉縄城の北条氏の家臣であった甘糟長俊が木造神像とともに勧請したのがはじまりと伝える。末社に金刀比羅宮、神明社がある。境内には神楽殿がある。隣の多聞院が別当寺であった。
     
多聞院 門前の右手に3基の庚申塔が建っている。
庚申信仰って何?

天衛山福寿寺と号して南介僧都(なんかいそうず)が開山。 文明年間(1469〜87)に開創されたといわれている。当初は観蓮寺といい 山ノ内の瓜ガ谷にあった。のちに現在地に移築して改名し、隣にある「熊野神社」の別当職になっていたという。

本尊は多聞天ともいわれる毘沙門天。
脇には岡野観音ともいわれる十一面観音がある。
鎌倉の由井(由比)の長者・染屋太郎時忠の3歳の娘が鷲にさらわれて食べられ、 岡野のあたりに骨が散っていたので、時忠が骨を納めて観音を造立させ、 のちに運慶が造り直したと伝えられている。
     
           
六国見山 一旦元来た道を少し戻り、六国見山へ向かう。
「高野台」のバス停の近く、大船高校の敷地のフェンスが途切れる辺りで住宅地の中に入っていくと登山口の階段がある。

山道をものの10分も行くと、小高く盛り上がった六国見山(ろっこくけんざん)の山頂が見える。

六国見山は、鎌倉を取りまく峰峰の最も外側に位置するため、遠くに見える海の手前に、幾重にも尾根が連なって見える。相模、武蔵、安房、上総、下総、伊豆の六国が見えたので六国見山という名前がついた。現在は木が茂り、北側の景色は見ることができない。

山頂を後に、しばらく山道を歩くと、やがて道は明月谷に通じる。
ほどなく”山ノ内”に出た。

登山口を示す標識が何ともほほ笑ましい。














































山道の途中、ふっと
人麻呂の万葉歌・巻2-0133
 「
小竹の葉はみ山もさやにさやげど
 も我れは妹思ふ別れ来ぬれば」
が過ぎった。
サヤギとは、異世界の無秩序さ、精霊のざわめきを意味することばだそうだ。
人麻呂が感じた「小竹(ささ)の葉」のサヤギに、異世界にあることの不安と怖れを想った。

明月院 明月庵の名で永歴元年(1160)に、平治の乱で戦死した首藤俊道の子の首藤經俊が父の供養の為に創建。その後、北条時頼が康元元年(1256)に持仏堂として最明寺を、この地に開く。時頼没後に子の時宗が禅興寺として再興。そして室町幕府関東管領上杉憲方が禅興寺の中に密室守厳を開山に塔頭明月院を復興。明治初年に禅興寺は廃寺、明月院のみを残し今日に至っている。あじさい寺として有名。

 総門(受付ところ)

総門を抜けた左の茶室・月笑庵を過ぎたところにある五代執権北條時頼の墓所


6月には紫陽花が両脇に咲き乱れる山門への石畳が見える。

方丈(本堂・紫陽堂)の丸窓から垣間見る後庭園の紅葉、いい風情である。

本堂のところに木版があり、「生死事大 無常迅速」と書かれていた。
あたら無駄に過ごしてはならぬとか・・・・。




後庭園内から丸窓を・・・・


開山堂(宗猷堂(そうゆうどう))
このお堂は禅興寺隆盛時代(1380年頃)明月院境内の中に建立された宗猷堂を後に開山堂にしたもの。
この左奥には、鎌倉市現存のでは最大級の「やぐら」がある。
また。手前右側には、鎌倉十井のひとつ今も使われている「瓶の井」がある。
明月院
















 







北條時頼

































後庭園は、花菖蒲と紅葉の見頃のときだけ特別公開される。
この庭園は、「明月院絵図(紙本淡彩(南北朝時代)重要文化財)」を基本に、整備が進行中である。


























































いつもの喫茶店入りではなく、明月院出てすぐのお店「甘味処 山里」に入って歓談休憩をとった。 山里
帰途 北鎌倉駅から帰途についた。学校帰りの学生が多く混んでいた。
今年ももうじきに師走を迎えるというのに、歩いているとじっとりと汗ばむ日和であった。しかし、流石に日が落ちるとともに冷気が身に沁みてきた。
     

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