庄覚坊の房総つれづれ

生誕の地に建った上原良司の碑

          写真は北アルプスと安曇野を背景にした良司の碑              

上原良司と記念碑の建立

昨秋のそろそろ日本アルプスに初冠雪があろうと思うころ、「上原良司の碑をつくる会」から大型封筒が届いた。開けてみると、写真入で綺麗に印刷された上原良司の碑の建設報告書であった。別に碑をつくる会の代表師岡昭二氏の御礼の挨拶文と良司の記念切手シートが同封されていた。

上原良司は、自由こそが勝利すると書いて、嘉手納湾(かでなわん)のアメリカ機動部隊に突入して散った学徒特攻隊員である。出撃に当たって書かれた「所感」と題される遺稿は「きけわだつみのこえ・日本戦没学生の手記」(岩波文庫)の巻頭に掲げられ、やはり同中に納められている遺書や日記と共に最も輝きを放っている。

良司は池田町に生まれ安曇野市有明に育った。彼が逝った3ヵ月後には終戦となったが、それから還暦を経たこの頃になって、地元有志の方々が、今次大戦の惨禍と、この戦に駆り出されて散っていった若者たちの無言の声を忘れないためにと、良司の記念碑を建てて後世に遺すことを提唱し、ついには池田町をも巻き込んでその運動を安曇・松本平に拡大推進してきたのであった。

碑の建立を最初に言い出したのは明科町(現安曇野市)に住む曽根原昭夫・鈴美ご夫妻だったが、直ぐに出生地池田町の高山忠志さん高山鈞さんなどが協力し、合わせて7人でこの「碑をつくる会」を発足させたという。

昨年の夏初め、東京での同期会の折に、友人の中藤照美君からこの趣旨に賛同してもらえまいかとお話があった。実業家である彼は永年我々の世話役をやってくれているが池田町のご出身である。また、たまたま奥さんが良司の下の妹さんと女学校の同級生とのことであった。

大変佳いお話なので早速入会し、心ばかりの募金をお送りした。

報告書によると、2年間の啓蒙運動の後、昨年1月に池田町町内各自治会をはじめ広く一般会員獲得を目指して募金を始めたが、9月には1100人を越える方々のご協力で、五百万円超が集まったとあり、募金者名も記載されていた。

碑は「所感」の抄文を記したドーム型の主碑と良司の略歴碑、建立の趣意碑の3基からなり、有明山・北アルプスを背景にして安曇野が展望できる場所に並べて建てられた。

碑の除幕式は同年10月22日に行なわれたが、350人もの出席があって大変盛大だったとのことである。実はその前にご丁重な案内状を頂いていたが残念ながら出席できなかった。

この場所は、良司の生家があった鵜山近くの、クラフトパーク内とのことで、切手シートの窓に載っている写真を見てもその眺望は誠に素晴らしい。

良司は出撃前に、死ねば龍兄さんや道(きょうこ)ちゃんのいる天国へ行くから靖国神社には行かないよと言っていたというが、この場所なら天国から遊びに来るときの拠りどころとしても、きっと気に入ってくれる場所ではないかと思った。

龍兄さんとは次兄の龍男のことである。龍男は軍医で、良司が慶応予科を終え本科経済学部に


入学した昭和18年10月(注1)、南方ニューヘブリデス諸島の沖で潜水艦と共に戦死している。26歳であった。道(きょうこ)ちゃんとは、彼の遠縁で初恋の人である。彼女は彼の思いを知らないまま結婚するが、良司にとってはそれでも純粋に終生の恋人であった。彼女は結婚後、不幸にも半年で急逝してしまうが、良司はそれを出撃の一ヶ月ほど前に妹さんの手紙で知ったという。(注1 戦時繰り上げで、半年早く予科を卒業して10月に本科に入った)

良司の略歴碑には次のように記されている。

1922・9・27  北安曇郡池田町鵜山(旧七貴村)に医師上原寅太郎の3男として出生、穂高町有明に育つ

1941・4       松本中学校を経て慶応義塾大学経済学部に入学

1943・12.1   学生徴兵猶予停止により松本50連隊に入学

1944・2・9    特別操縦見習士官として熊谷陸軍飛行学校へ入校

1945・3・6    特攻要請をうける

1945・5・10   出撃前夜、報道班員に所感を託す

1945・5・11   陸軍特別攻撃隊員として知覧を離陸 沖縄島西北方海域に突入  22歳  

主碑の抄文には次の言葉が刻まれた。良司が遺した「所感」の一節である

自由の勝利は明白な事だと思います

明日は自由主義者が一人この世から去ってゆきます

唯願はくは愛する日本を偉大ならしめられんことを

国民の方々にお願いするのみです

建立の趣意碑には次のように書かれた。

今から60余年前の第二次世界大戦において、多数の国民が戦争に駆り出され、祖国・故郷、家族のためと信じつつ自由で平和な時代の到来を願いながら戦い、無言で逝った。

その多くの戦没者の思いを代弁したとも言うべき、突撃前夜に上原良司が書き残した「所感」の一節をここに刻み、そのメッセージを次代に伝えるべく生誕地・池田町にこの碑を建立する    

平成18年9月27日     生誕地・池田町に上原良司の碑をつくる会建立

上原良司の遺書と遺稿

良司がひときわ耀いているのは、特攻で確実に死に行く自分の思いと信念を、包み隠さず遺書と遺稿に書き残した点である。彼は若いながら既に確固たる史的世界観に立ち、信念を持った教養人であった。遺書の中で良司は、現実に物質文明が優位な世界で、精神第一主義は誠に危うく、そのことに指導者が気付いていれば、今度の戦争は無かったであろうと悔やんでいる。その上で自由主義こそが国を永久ならしむる主義であるとしていた。自由主義は人間の本性に合った自然の主義であり、如何なる主義よりも強固なものであると言い切って、そうならなかった日本に失望しつつも、明日の日本の自由独立のために命を捧げると書き綴った。当時の日本にあっては、自由主義を擁護する言辞は絶対の禁句であった。激しい言論・思想統制の中にあって、特攻隊員であったから、また良司だったからこそ書き残し得たものであろう。

彼は学徒飛行兵の仲間内でも熱心な自由主義者だと思われていたらしい。良司は死の前年の昭和19年7月11日の日記に、人間味豊かで喜びに満ち、そこに何等不安無く、真に自由という人間性に満ち溢れた時代が近づきつつある。それは自由主義の勝利によってのみ得られると、既に日本が負けることを予言していた。また自由主義の国家は競争があるために進歩が著しい。国家は先ず自由な個人があって、そこに成り立つものでなければならないと言っている。冒頭の自由主義観には理想化されすぎた部分もあるが、全体では誠に核心を突いており、自由主義社会というものを現実に経験したことの無い22歳の青年が、しかも兵舎の中で書いたものとして目を見張らせる。

また同年11月19日の日記には、軍人の精神教育は理不尽で表裏があり、矛盾に満ちて個人を抑圧しているとし、如何なる手立てをもってしても人間の本性である自由なる心を抑えることは出来ないと書いた。その後、特攻隊員となったとき(日付け不明、20年3月か)には、悠久の大義(注2)はどうでもよい、私はあくまで日本を愛し、祖国のため、その独立自由のために闘う(死ぬ)のだと書いている。(注2 当時は天皇のために生き、天皇のために死ぬことが道義とされていた)

良司が出撃前夜に書いて、陸軍報道班員の朝日新聞記者高木俊郎氏に託した「所感」は、建前やてらいなどの一切の狭雑物の無い透明な、素直な思いの発露であった。それ以前に書いた遺書は、恐らく特攻隊員が全員で書き上げて上官に託したものであろう。このような場合、その中身にはどうしても建前が入り、世間体や、万一の家族に対する世間の仕打ちなども考慮するものであろう。本音は語りたくとも出来ないことであったし、しばしば本音以外の作りがたりも入れたりする。良司の遺書にも、若しこの戦いに米英が勝ったとしても彼らは必ず敗れる日が来ることを知るでしょう。若し敗れないにしても、幾年後かには、地球の破裂により粉になるのだと思うと、痛快ですと入れている。この部分は意識したつくり語りであろう。その筋の喜びそうな言辞を真実の声に付け足して、文言への抵抗を和らげようとした心理が働いていたと思はれる。

靖国神社に参拝に行くと、必ず若い軍人兵士の遺書が掲示されているが、私はいつもそこに書かれた文言の裏に隠されている真実の声を感じて涙を禁じえない。

出陣前日、高木報道班員に会えたことは、良司にとって、そして家族や我々にとっても不幸中の幸であった。戦いに死に行く若者の、偽らざる気持ちが解ったのである。これは極めて稀有なことと言ってよい。高木報道班員は、前夜良司と肝胆相照す(かんたんあいてらす)信頼関係を築くことに成功した。良司は、高木氏を信頼し、密かに信州の実家へ「所感」と題する真の思いを託したのである。良司も嬉しかったに違いない。良司は限られた時間の中で、思いのたけを父母と祖国に書き遺すことが出来た。

「所感」には、人間の本性たる自由を滅ぼすことは出来ません。権力主義・全体主義の国家は一時的に隆盛でも必ず最後には敗れることが明白です。その真理は、今次大戦の枢軸(すうじく)国家に見ることが出来ます。ファッシズムのイタリヤも、ナチズムのドイツも敗れています。私のこの信念は正しかったのです。このことは祖国にとっては恐るべきことでしょうが、それを信じてきたことが証明されて、その限りでは自分の正しかったことが解っただけは嬉しいことです。

日本をかっての大英帝国のような国にしたいという私の野望はついに空しくなりました。真に日本を愛する者を指導者にしていたら、日本は現在の状態に追い込まれることは無かったと思います。

特攻隊のパイロットは機械の一部でしかないと友人が言っておりました。そこには人格も感情も勿論理性もありません。敵の航空母艦にただ磁石のように吸いつく鉄の一分子に過ぎません。これは理性をもっては考えられないことで、彼ら(註・敵国)が言う自殺者とでも言いましょうか。精神の国日本だから見られることでしょう。一機械である私には何も言う権利はありませんが、ただ願はくば愛する日本を偉大ならしめられん事を国民の方々にお願いするのみです。偽りの無い心境は以上の通りです。明日は自由主義者が一人この世から去ってゆきます。と綴られている。

自分の亡きあとの日本を、自由主義(民主主義)によって大きく育てて下さいと訴え散った人を私は他に知らない。このことこそ彼の偉大さと云えよう。

良司は、1年半前に戦死した次兄の龍男と、そしてつい最近亡くなった初恋の人石川道(きょうこ)さんに天国で会えることを喜びとして、それが故に死を怖れないと遺書と遺稿に書いている。死はその時の良司にとっては、天国への経過点でしかなかった。彼は愛する人に死なれたときに自分も精神的には死んだと言っている。それほど彼の初恋は純粋でしかも強いものであった。愛する兄もいる天国は良司には信ぜずには居れない存在だったのであろう。それのみが彼の救いであった。

良司は、兄2人妹2人の5人兄弟で育っている。優しい父母のもと兄弟は夜になると全員で本を読み合うほどに仲が良かったという。良司の長兄良春も軍医としてすでに出征していたが、良司が逝って4ヶ月後の20年9月に、ビルマで戦病死している。30歳であった。終戦後とはいえ、ビルマやヒィリピンなど広範な前線ではまだ戦中の悲惨な状況が続いていた。上原家はこれで2年の間に男の子3人全てを国に捧げたのであった。

因みに上原家はその後、二人の妹さんが結婚して共に医家を継ぎ、姉の清子さんは有明の実家に、妹の登志子さんは千葉県にお達者で過ごされている。この度の良司の碑建立には、お二人から終始多大のご協力を賜ったと伺う。

今こそ良司の願いを受け止めよう

自由の尊さを我々は今こそ再確認しなくてはならないと思う。昨今何処までが防衛かの憲法解釈や改憲の動きなど日本は重大な岐路に差し掛かっている。昨年は郵政民営化の反対者が、およそ民主政治では考えられない形で党員資格を剥奪され、選挙では見苦しい仕打ちを受けた。自民党はむかしから開かれた党として、左から右までの考えを持つものが同居していたが、最近は、談論風発の雰囲気がなくなり、物言えば唇寒しの空気が支配していると聞く。小選挙区制の結果が党中央の権限を強大にし、相対的には政治家個々の存在は小さくなってしまった。声の大きな者たちの主導によって党議が決められ、それを云々することは許されないという。このようなことは今まで無かったと大新聞にも書かれている。

政党に自由な発言がなくなったら、むかしの大政翼賛会と同じである。その行く先にわれわれは大戦争が待っていた貴重な体験をしている。みんなで自由に論議して決めようと歩みだした戦後日本の自由主義・民主主義はまだ確かと定着していなかったのであろうか。昨今は自由な論議より力―つまり権力こそが絶対になってしまっている。日本人の心はかってないほどに荒廃し、政治家、役人から一般市民に至るまで、あらゆるところにその弊害が目立っている。格差が拡大して勝者敗者がくっきりと色分けされ、道徳は姿を消して心にも巷にもゴミがいっぱいに捨てられるようになった。今こそ日本人は、世界に誇れる心豊な国を目指して、一人ひとりが自制ある真の自由心を取り戻さなくてはならない。いい国にするための近道なんてあり得ないが、世界に尊敬される日本を作って下さいと命を投げ出して逝った良司たちの思いを、我々は改めて受け止め、この国のこれからが如何あるべきかを真剣に考えなければならない時を迎えている。

本稿について読者の皆さんのご意見、ご指導をお願いしたい。[H19/1/11]    

       冬の山ふところ深く声返す     万亀