中野文庫 王公族

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制度概説

 西暦1392年に李成桂が高麗王朝に替わって朝鮮王朝(いわゆる「李氏朝鮮」)を建てて国王(太祖)となって五百年、第26代国王高宗の妃である閔妃(明成皇后)が暗殺された後、明治29年(1896年)1月に「建陽」の元号を建て、翌30年(1897年)8月に「光武」と改元、同10月には国号を「朝鮮」から「大韓帝国」に改め、高宗は「国王」から「皇帝」となった。明治40年(1907年)にハーグ密使事件によって高宗が退位させられ、その皇太子(純宗)が即位し、「隆」と改元した。

 明治43年の韓国併合(韓国併合ニ関スル条約(明治43年条約第4号)による)に伴い、韓国併合ノ詔により「前韓国皇帝ヲ冊シテ王ト為シ昌徳宮李王ト称」し、皇太子を「王世子」とした。国号も「韓国」から「朝鮮」に再び改めた(韓国ノ国号ヲ改メ朝鮮ト称スルノ件) 。旧大韓帝国前皇帝・高宗(徳寿宮李太王熈)を含めて純宗皇帝の家族は「王族」、その近親者は「公族」と位置付けられ、王公家軌範(大正15年皇族令17号)により身分が規正され、礼遇上は皇族の礼を受けて「殿下」と呼ばれた。

 純宗皇帝(昌徳宮李王せき)の弟である「大韓帝国皇太子」英親王垠は「王世子」となり、大正15年(1926年)の純宗の薨去によって、李王家を継承して「昌徳宮李王垠」となり、皇室典範の増補を行って梨本宮方子女王と結婚、陸軍中将として軍務に就いた。

 王公族の事務を掌るため京城(ソウル)に李王職(李王職官制)が置かれ、朝鮮総督が監督した。王公族は京城に本邸を置き、東京に別邸を置いた。王公族の子女は学習院または女子学習院に就学。また皇族男子と同様、王公族男子は満18歳に達したのちに陸海軍の軍人となった。

 王公族は朝鮮貴族および華族制度とともに戦後廃止された。

 王公族の班位は皇族に次ぎ、以下の順であった(王公家軌範40条ないし50条)。括弧内は叙勲基準。

  1.  (満15歳に達したのちに大勲位菊花大綬章を賜る)
  2. 王妃 (結婚の礼を行う当日に勲一等宝冠章を賜る)
  3. 太王
  4. 太王妃
  5. 王世子 (満15歳に達したのち勲一等旭日桐花大綬章を賜る)
  6. 王世子妃 (結婚の礼を行う当日に勲二等宝冠章を賜る)
  7. 王世孫 (満15歳に達したのち勲一等旭日桐花大綬章を賜る)
  8. 王世孫妃 (結婚の礼を行う当日に勲二等宝冠章を賜る)
  9.  (満15歳に達したのち勲一等旭日桐花大綬章を賜る)
  10. 公妃 (結婚の礼を行う当日に勲二等宝冠章を賜る)


王 族

 王族とは、王(昌徳宮李王せき=純宗皇帝、昌徳宮李王垠=皇太子英親王垠)、王妃(昌徳宮李王せき妃=純貞孝皇后、昌徳宮李王垠妃=梨本宮方子女王)、太王(徳寿宮李太王熈=高宗皇帝)、太王妃、王世子(王の世嗣たる子)、王世子妃、王世孫(王の世嗣たる孫)、王世孫妃、王の長子孫の系統にある者及びその子、並びにその配偶者を指す。

 「徳寿宮」や「昌徳宮」は宮殿の名前であり、皇族の宮号である「梨本宮」や「高松宮」とは異なって、「昌徳宮殿下」とは言わず、「李王垠殿下」のように名前で呼んだ。

 王族は、公族と同じく満20歳が成年である(天皇、皇太子および皇太孫の成年は満18歳)。

 皇族は皇室典範によって皇族または華族(中でも旧摂家クラス)と婚姻できる旨の規定はあったものの、王公族との婚姻は当初予定されていなかったので規定がなかった。韓国併合により、王公族が創立された後、内鮮一体の象徴として、昌徳宮李王垠と梨本宮方子女王との婚姻がなされることとなり、大正7年に皇室典範を「増補」(典範は現在と異なって単なる法律ではなく、大日本帝国憲法と同格だったので「改正」とはいわない)して、「皇族女子ハ王族又ハ公族ニ嫁スルコトヲ得」の一文を追加した。

 李太王(高宗)は、大正8年1月に67歳で薨去、同3月3日に国葬が行われ、洪陵に葬られた。毒殺されたとの噂も手伝って、三・一独立運動が起こったのは周知のとおりである。その子、李王せき(純宗)は、大正15年4月25日に京城の昌徳宮で薨去(享年52歳)、同6月10日に国葬が行われ、裕陵に葬られた。この際にも高宗の時と同じく、独立運動が起きた。

 朝鮮に対する統治権喪失により、王公族は特権とともに日本国籍も失い、韓国への帰国を希望したが諸事情により日本にとどまらざるを得なかった。昭和38年の朴正熙政権下で李王垠は韓国籍を回復して方子妃とともに帰国した。同45年に死去し、「大韓帝国皇太子英親王垠」として国葬を受け金谷陵内に葬られた。方子妃も「李方子」として韓国で身障者施設を運営するなど夫君の遺業を継承、平成元年に死去し同じく金谷陵内に葬られた。


公 族

 公族とは、公(李熹公、李しゅん公、李鍵公、李ぐう公)、公妃、隠居をした公(李こう公=義親王こう)及びその子、公の長子孫の系統にある者及びその子、並びにその配偶者を指す。

 隠居した場合は「公」の称号は消滅する。公族も王族と同じく殿下の敬称を用いて「李熹公殿下」などといい、隠居した場合は「李こう殿下」のように呼んだ。


李王職

 王公族の家務を掌るため、李王職官制(明治43年皇室令第34号)により、宮内大臣の管理のもと、京城に李王職を置いた。高等官一等の李王職長官以下、次官、事務官、典祀、典医等を置いた。旧大韓帝国の宮内府の後身に当たり、大正時代まで朝鮮人が長官を勤めた。

 旧大韓帝国(朝鮮王朝)歴代皇帝(国王)の記録の制作も李王職が行った。高宗(李太王)薨去の後、全52巻52冊の『高宗実録』および全22巻8冊の『純宗実録』は、篠田治策李王職次官(のち長官)を編纂委員長に昭和2年から編纂が行われ、京城帝大の協力を得て、昭和10年に完成させた。


王公族の特権・礼遇

 王公族には、皇族と同様の以下の特権および礼遇を享けた。ただし、王公族男子は、皇族のように当然ながら皇位を継承する権利(大日本帝国憲法2条、皇室典範1条ないし9条)、摂政に任ぜられる権利(皇室典範20条ないし25条)、皇族会議員たる権利(皇族会議令(明治40年皇室令第1号)皇室典範55条および56条)はない。また、枢密院会議に班列する権利(明治21年5月18日および同19日勅旨)、貴族院議員たる権利(大日本帝国憲法34条、貴族院令(明治22年勅令第11号)1条および2条)はなかった。


王公族の特別義務

 王公族は、皇族と同様の特別な義務を負った(皇族につき戦前の例)。


(参考文献) 井原頼明『増補皇室事典』(冨山房、昭和13年)302頁ないし312頁、406頁ないし409頁。百瀬孝『事典昭和戦前期の日本』(吉川弘文館、平成2年)240頁ないし241頁。


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